日本考古学協会のあゆみ

日本考古学協会の設立

 1945年8月、日本の敗戦より、それまでの皇国史観から脱却し、新たな科学的に歴史を研究することができるようになった。特に、先史時代については、実証的な発掘調査に基づく考古学研究の成果が重要視されることになった。この先駆けとなったのが静岡市登呂遺跡の発掘であった。1947年から本格的に発掘調査が行われ、集落と水田が発見され、弥生時代のムラの全容が明らかになり、考古学的成果は、新しい時代の象徴として、全国的に注目されることになった。そして、この調査に結集した考古学研究者を中心に全国的な考古学研究者の学会組織を作る機運が高まり、1948年4月2日に日本考古学協会が設立された。
 設立から1960年頃の社会的な関心は、本当の日本の歴史、とりわけ古代史の姿を知りたいという願望であり、地中から新たな歴史を掘り出す考古学に対する期待と関心は高かった。設立当時の協会は、まさに社会の要求に応えようとするものであり、1950年には文化財保護法が制定され、遺跡・遺物に対して埋蔵文化財という法律用語が使用されるようになった。
 協会での研究テーマは特別委員会に編成され、登呂遺跡調査(1948)、縄文式文化編年研究(1949)、弥生式土器文化総合研究(1951)、古墳総合研究(1949年)、仏教遺跡調査(1953年)などの特別委員会があった。特に、先史考古学の基礎的な研究課題を解明しようということが主な活動目的であったこと窺かがえる。そして、学問的な目的の特別委員会は1960年代になって、研究目的は深化したテーマに変化し、西北九州総合調査特別委員会(1959年)は縄文時代以前の旧石器文化と、弥生時代の起源を探求するものであった。洞穴遺跡調査特別委員会(1962年)は縄文文化の起源を追求するもの、その成果は『日本の洞穴遺跡』(1967年 平凡社)の報告書として刊行された。
 日本考古学辞典編纂特別委員会が1956年に設置され、考古学を学ぶための辞典として、『日本考古学辞典』(1962年 東京堂出版)が刊行された。この頃の会員は大学に身を置く研究者が中心であり、考古学研究現状特別調査委員会(1949年)設置され、大学持ち回りで『年報』の編纂出版を行っていた。

1960~1970年頃

 この頃、日本の経済発展は各地で大規模な開発事業が推し進められ、多くの遺跡が破壊される事態となった。協会の学会としての運営は大きな転換点を迎え、新たな対応が求められていった。こうした中、名神間高速道路工事対策特別委員会(1958)が設置され、原因者が発掘調査資金を負担する緊急的な調査が実施された。しかし、調査は十分であったとは言えず、この活動については批判的意見もあった。そして、開発事業に対応するために、遺跡分布調査特別委員会(1959)が準備されたが共同実施の体制が整わず、実施されることなく中止された。こうした状況の中で、三殿台遺跡調査特別委員会(1961)が立ち上げられた。神奈川県三殿台遺跡は縄文から古墳時代の集落遺跡で、調査には在京の各大学の考古学専攻学生が参加して実施され、遺跡の大部分は保存された。その後、大規模開発に伴う発掘調査は、この方式で行われることが多くなり、続く加曾利貝塚調査特別委員会(1964)は、形質人類学・古動物学・古植物学・理化学・地理学などの各分野の研究者も参加した学際的な発掘調査となり、調査と併行して保存運動と周知活動を展開したことにより、貝塚は保存された。同じく中世の低湿地遺跡である広島県草戸千軒町遺跡の調査も保存を目的とした特別委員会(1968年)の設置があった。
 しかし、開発に伴う遺跡の破壊は全国的に増大し、こうした問題に対応するため、協会に埋蔵文化財保護対策特別委員会(1965)が設置され、遺跡の保存を求める活動とて発展していった。こうした開発に伴う遺跡の実態を『埋蔵文化財白書』(1971年)として刊行している。同委員会は1971年には埋蔵文化財保護対策委員会に改組され、常置委員会として協会の重要な活動として位置づけられるようになった。

1970~2000年頃

 1960年代後半から政治・社会体制に反対する学生運動が各大学で顕著となり、考古学を專考する学生からも、埋蔵文化財行政や開発に伴う発掘調査の在り方について大きな反発が生まれた。そして、協会自体が学生の攻撃対象となり、1969年10月には大会会場の平安博物館に、反対派学生が乱入する事件が勃発する。この事件が契機となり、1970年の総会・大会は中止となり、7月には委員が総辞職し、若手会員を中心とした臨時委員会が発足した。臨時委員会は、現在の定款にも踏襲される「自由・民主・平等・互恵・公開」の原則と「社会的責任の遂行に努力する」ことを明文化した会則の改正が行われた。
 1976年には、埋蔵文化財行政担当者の増加とともに会員数が1,000名を数え、会員の社会的ポジションの変化は、協会の運営目的をさらに変化させていった。また、1977年には陵墓問題懇談会も設置され、宮内庁の管轄する陵墓も協会の活動の対象となっていったのである。しかし、公共、民間事業による大規模な発掘調査が拡大する課題は、埋蔵文化財対策委員会によって『第2次埋蔵文化財白書』(1981年)として報告された。また、一方で会員たちの多様な研究成果を発表する機関誌『日本考古学』が1994年に創刊された。
 協会設立50周年を迎えた1998年には会員数が3,300名を超える大きな学会組織となり、協会の研究活動も多様化し、国外を研究対象とする会員も増大した。1999年には国際交流小委員会が設置された。

2000年~2015年頃

 こうした研究活動の拡大によってモラルハザード(倫理観の欠如)を許すことになってしまう。2000年11月、一会員による前・中期旧石器捏造事件が発覚した。捏造は25年間行われており、不正な成果は総会で発表され、多くの共同研究者を欺いたものであった。これらの石器は日本最古の石器として、教科書にも掲載されたため社会的影響は甚大であり、考古学という学問そのものに対しての信頼を大きく失墜させてしまった。
 2001年5月には前・中期旧石器問題調査研究特別委員会が設置され、捏造遺跡の検証発掘、石器の検証調査を実施した。その結果、縄文時代の石器などが故意に埋められたものであることを確認し、最終報告として『前・中期旧石器問題の検証』(2003年)が刊行され、彼の関与した遺跡の使用できないこと、それを引用した文献についても、使用できないことを明示するに至ったのである。この事件の反省から、2006年には会員自ら倫理を律する必要があることを定めた倫理綱領を制定した。
 2009年には、協会の長年の懸案であった法人化が認められ「一般社団法人日本考古学協会」と改称した。協会の社団法人化は、学会として社会的責務を担うために重要な要件であったため、1989年から文部省と折衝してきた経緯があり、2004年の有限責任中間法人を経て一般社団法人となった。
2009年、もう一つの懸案であった「協会所蔵図書」に大きな進展があった。所蔵図書はかって市立市川考古博物館で保管、一般公開していたが、その後、民間倉庫に収納されたままになっていたが、一括で一般公開できる条件で寄贈する方針を決定し寄贈先を公募した。2010年5月には英国セインズベリー日本藝術研究所へ寄贈する議案が総会で承認された。しかし、海外への寄贈に反対とする意見が強く、同年10月の臨時総会で寄贈案は否決される事態となった。この問題に対応するため「協会所蔵図書に係る特別委員会」が設置され、寄贈先を再度公募することになり、2014年には奈良大学図書館へ寄贈することが決定した。創設以来、会員から寄贈された約65,000冊の図書は、長年の方針であった一括管理、一般公開としての道が開かれたことになった。
 協会の新たな社会的責務として浮上してきたのが、大規模災害から文化財の救済・支援であった。1995年には阪神大震災文化財対策特別委員会、2011年には東日本大地震対策特別委員会を設置し、被災文化財の支援活動を実施した。2015年には文化遺産防災ネットワーク推進会議に参画し、学会として関係機関と連携する方針を打ち出している。そして日本考古学協会は2018年には創設70周年を迎える。   


考古学協会のあゆみを年表形式で表示しています。

全年表はこちら