大分県聖嶽洞穴遺跡問題 

 2000年11月5日、毎日新聞が藤村新一による旧石器捏造を大々的に報道し、事件はテレビ・新聞各社が伝え、考古学関係者のみならず、全国に衝撃をあたえることになった。こうした中、2001年1月18日、大分県聖嶽洞窟遺跡の旧石器捏造疑惑が、週刊誌『週刊文春』(文藝春秋社)(以下『文春』)によって報道された。

 問題の聖嶽洞窟遺跡は、1961年9月に当時別府大学の賀川光夫教授によって予備調査が行われ、翌1962年に日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会によって正式調査されたものであった。しかし、報道記事は賀川光夫別府大学名誉教授が捏造に関与した疑いがあると受け取られる内容であった。2001年2月、賀川光夫名誉教授は疑惑に対して学術的に対応するため、九州を代表する考古学研究者17名に出土石器などの検証作業を依頼し、その結果を2001年3月6日、別府大学の会見で公表した。この会見後の3月8日、3回目の『文春』記事は、会見内容に触れることなく疑惑関与を強調した内容であった。翌日3月9日、賀川光夫氏による抗議の自殺という悲劇的な結果を生むに至った。

 聖嶽洞窟遺跡の調査は、日本考古学協会が洞窟調査の一環として行われ、『日本の洞穴遺跡』(日本考古学協会編集1967年・平凡社)に収録されていることから、協会も直ちに疑惑に答える必要があると考え、2001年4月24日委員会内に連絡小委員会を設置した。そして、4月7日には日本考古学協会、九州考古学会、大分県考古学会、別府大学聖嶽問題検討委員会による「聖嶽洞窟問題に関する調査検討委員会」が設置された。

 2001年11月1日、遺族は『文春』の報道姿勢や取材姿勢を不服とし、大分地方裁判所に名誉毀損で提訴し、真相は裁判に委ねることになった。裁判は3年にわたり、2004年7月15日最高裁判所で遺族側の勝訴が確定した。

 2004年12月『日本考古学協会会報』№153には、「『文春』の謝罪文の掲載と聖嶽洞窟遺跡問題について」と題して、次のように触れている。

 現在学問の分野では、雑誌論文の採用・掲載にあたっての査読や大学などで実施されている点検・評価など、客観性をもつ第三者評価が盛んに行われている。聖嶽洞窟遺跡の成果についてそれなりの根拠をもって研究者が疑惑をもつことはあってもかまわない。ただそれを論証するには客観性のあるデータの裏付けが必要である。そして、今回の場合、最高の第三者機関である最高裁によって、捏造疑惑に根拠が認められないことが言明されている。私たちはこの事実を重く受けとめるべきである。 最高裁が非を認めたのは文藝春秋社であるが、記事の端緒となり根拠となったのは研究者の一部にもたれた疑惑である。それは、決してマスコミに伝わるのではなく、まずは学問の場で議論、検証されなければならなかった。その経過を怠ったことが、結果的に痛ましい事態を招いた。いま、考古学は真実を追究する科学なのか、あるいはマスコミともたれ合いながら根拠のあやふやな憶説が横行する疑似科学なのか、社会に問われているのである。

1961年9月
賀川光夫別府大学教授が予備調査を実施し、旧石器を確認する。
1962年10月
八幡一郎東京教育大学教授、小片保新潟大学教授が正式な発掘調査が実施され、黒曜石製の旧石器時代の所産と思われる石器が確認された。また、賀川光夫による発掘速報の刊行、鎌木義昌倉敷考古館長、芹沢長介東北大学助教授によって旧石器と鑑定、小片保教授は人骨を鑑定し、旧石器時代の人骨と鑑定、旧石器時代の人骨に伴って旧石器が発見されたことが1967年の刊行の『日本の洞穴遺跡』に掲載

 

1999年10月
日本人及び日本文化の起源に関する学際的研究」(尾本恵市東京大学名誉教授を総括責任者による文部省科学研究費特定領域研究)聖嶽遺跡の第二次調査を春成秀爾考古学班の責任者による再発掘が行われた。 発掘の結果数点の石器、人骨、獣骨、木炭が出土、1999年の再発掘による人骨は年代側定をした結果、中世の時期の人骨と判定された。(1962年出土の旧石器時代の人骨(頭骨)を直接測定調査したものではない。)

 

2001年1月18日
第1回『週刊文春』(文藝春秋社)報道

 

2001年1月25日
賀川光夫別府大学名誉教授の依頼によって、九州を中心にする考古学研究者の高倉洋彰西南大学教授、田中良之九州大学教授を含む17名に聖嶽遺跡出土遺物の検討を依頼する。

 

2001年2月6日
賀川氏は『週刊文春』編集部長あてに抗議文を送付、『週刊文春』側からの無回答

 

2001年2月18日
賀川氏から依頼された17名による検討会の聖嶽遺跡出土の石器12点についての検討結果、①後期旧石器から縄文時代後期・晩期初頭の石灰が混在、②石器の時期は少なくとも3時期(ナイフ形石器文化期、細石刃文化期、縄文時代後期)、③黒曜石製の石器は佐賀県伊万里市腰岳、長崎県星鹿半島産の二種で前者は縄文時代、後者は旧石器時代に主に使用。 出土石器は14点であったが、その後1970年代後半に2点が紛失、別府大学の発掘した船野遺跡と福岡県垰山遺跡出土の石器が混入、別府大学の聖嶽出土の石器として27点が保管されていた。
2001年3月6日
別府大学で記者会見 聖嶽石器検討委員会座長髙倉洋彰氏が回答
  1. 出土石器12点は全て黒曜石製で、大分県姫島産や阿蘇山系産ではなく、長崎、佐賀両県の西北九州産であった。
  2. 西北九州と大分をつなぐルートの可能性も考えられる。
  3. 西北九州と大分、熊本、宮崎などの遺跡で出土した黒曜石製の石器の分布状況、 時代ごとに調べる必要がある。
考古学発展のために、過去の実績の様々なデ-タを提供し、第三者機関に再検討をゆだね、発掘時点の見解の間違いを率直に認める賀川名誉教授の態度は学者として立派である。 第2部の賀川名誉教授の記者会見 石器の形態に統一性がないことは発掘当初から疑問に思い、報告書でも指摘している。40年前の調査を新たなる現代の目で見直していただいたことを歓迎。石器の一部が縄文時代のものと判明したことは学問の進歩を示すことで喜ばしい。 間違いは許されるが、作り話は許されない。 今回(聖嶽遺跡が)捏造事件と言われたことは、本当に、悔しい。
2001年3月8日
『週刊文春』(3月15日号)発売 見出しに「『聖嶽洞穴遺跡』は別の四遺跡から集められていた」とする記事で、石器の保管に問題があったとされ、賀川名誉教授が捏造犯人であると推測され、学者としての姿勢まで問われた報道であった。
2001年3月9日
自宅の書斎にて抗議の自殺。
2001年3月24日
日本考古学協会の委員会内部に聖嶽洞穴遺跡問題連絡小委員会の設置
2001年3月30日
春成秀爾編『大分県聖嶽洞窟の発掘調査』考古学資料集14の刊行
2001年4月7日
日本考古学協会、九州考古学会、別府大学聖嶽問題検討委員会、大分県考古学会による「聖嶽洞穴遺跡問題に関する調査検討委員会」設置
  • 日本考古学協会、(委員:小林三郎・髙倉洋彰・山田昌久)
  • 九州考古学会(委員:小倉正五・小畑弘己・木﨑康弘・下川達彌・下村智・田中良之・武末純一・萩原博文・本田光子・米倉秀紀)
  • 別府大学聖嶽問題検討委員会(委員:後藤宗俊・利光正文・飯沼賢司・日高絃一郎・秋田清・本田光子ほか数名)
  • 大分県考古学会(委員:木村幾太郎・田中裕介・高島豊・坪根伸也・吉田寛)

聖嶽洞穴遺跡問題に関する調査検討委員会の内容

第1回検討委員会(2001年5月6日 別府大学)

  1. 本田光子委員から出土石器の報告研究論文にみられる出土点数の推移などの報告
  2. 出土石器の検討

第2回検討委員会(2001年7月8日 別府大学)

  1. 春成秀爾編『大分県聖嶽洞窟の発掘調査』2001年の報告書を検討、その結果捏造とされた根拠の妥当性、遺跡判断の妥当性についての疑問点が出された。
  2. 石器出土点数の増減についての検討
  3. 捏造疑惑は研究史的な背景の整理が不十分であったこと。自然科学の諸分析を進める

第3回検討委員会(2001年9月16日 九州大学)

春成報告で一部の石器が縄文後期のものである結論に対して、九州旧石器と縄文時代の石器の区別が難しい点について石器のパテイナの進行度合いによる比較検討、後期旧石器の層位的出土例による編年作業の見直しの必要性が述べられる。

第4回検討委員会(2001年11月24日・25日 大分県聖嶽洞窟現地)

聖嶽洞窟の実地調査

第5回検討委員会(2002年3月3日 九州大学)

別府大学で新たにチャート製の切出形ナイフ形石器が保管されていることがわかり、検討した結果旧石器時代の可能性があり、聖嶽洞窟が後期旧石器時代の遺跡の可能性もある。

第6回検討委員会(2002年4月7日 別府大学)

聖嶽洞穴遺跡の第1次調査報告が未報告であったので、検討するうえで第2次調査の果たす役割がある。

第7回検討委員会(2003年4月13日 九州大学)

新潟大学医学部に保管している人骨の調査報告

検討委員会の調査結果

  1. 聖嶽洞窟遺跡の評価の原点になる第1次調査の報告
  2. 出土石器の多方向からの検討
  3. 捏遺跡に対する現段階の評価
2001年9月15日
大分地方裁判所に提訴
2003年5月15日
大分地方裁判所判決、遺族の勝訴。文藝春秋社は不服で控訴
2003年10月25日
日本考古学協会聖嶽洞穴の調査検討委員会 遺物の出土状況などを『捏造』と断じることは困難とする「聖嶽洞窟遺跡検証報告」の報告書をまとめて公表。
  1. 旧石器と縄文時代の石器のレベル差なく混在することはあり得る。
  2. 石器の分布状況は旧石器時代と縄文時代の石器の分布に一定のまとまりがある。
  3. 石器の剥離技法、パテイナの電子顕微鏡下の観察の結果、旧石器時代と縄文時代の二時期の石器が存在する。
  4. 出土した黒曜石石器は西北九州産であった。
  5. 聖嶽旧石器人の所属時期は不明で、さらなる検討が要された。
  6. 聖嶽洞窟において、中・近世の墓地形成とその後の攪乱によって、全体の遺構、包含層が破壊された可能性がある。
2004年12月
『日本考古学協会会報』№153に、『週刊文春』の謝罪文と「聖嶽洞窟遺跡について」を掲載する。