2019年度岡山大会報告

 2019年度岡山大会は、10月26日(土)・27日(日)の2日間、岡山市の岡山大学にて開催された。岡山県での大会は32年ぶりの開催となった。2日間とも晴天に恵まれ、330名の参加を得た。大会実行委員会からは研究発表資料集が刊行されている。

 初日である10月26日には、13時から公開講演会が開催された。はじめに主催者を代表して谷川章雄会長が挨拶し、実行委員会に感謝を述べるとともに、自身が前回の岡山大会に参加したことに触れながら、岡山県の考古学研究が日本の考古学研究を牽引していったことに言及し、今回の大会も実りあるものであることを確信していると述べた。次いで清家章大会実行委員長(岡山大学)から挨拶があり、参加者への歓迎の言葉を述べるとともに、今回の大会の方針として、実行委員会については岡山県の考古学研究者を結集する「オール岡山」とすること、テーマは岡山県らしいものとすることの2点にしたことが紹介された。最後に来賓として岡山大学の槇野博史学長から丁寧な歓迎のご挨拶をいただいた。槇野学長は岡山大学のビジョンを紹介され考古学研究もその一翼を担っていることに言及されるともに、自身も古墳の写真を撮影するのが趣味であると体験を交えて話され、会場は和やかな雰囲気に包まれた。槇野学長はその後の講演も最後まで聴講された。

 講演は2本が用意された。一人目の宇垣匡雅氏(岡山県立博物館)は「楯築墳丘墓の諸要素―墳形・墳頂施設と祭祀―」との題目で講演された。宇垣氏は楯築墳丘墓の発掘調査に参加された経験をもとに楯築墳丘墓の墳形や墳頂部の施設について検討するとともに、そこから楯築墳丘墓の位置づけについて、さらに古墳時代の始まりについての考察を行った。二人目の亀田修一氏(岡山理科大学)は「古代吉備の対外交流―5・6世紀を中心に―」との題目で講演された。亀田氏は朝鮮半島の考古学についての幅広い知見をもとに、岡山県内の調査資料から吉備と朝鮮半島の交流について検討し、さらに文献資料も参照して、吉備と大和の関係についても言及された。両氏とも岡山県の資料を詳細に検討することをもとに、それを列島や東アジアの歴史へと視点を拡げられた講演となっており、地域の考古学研究の重要さとその可能性を認識させるものとなった。

 公開講演会は近藤英夫副会長の挨拶で閉会し、分科会に移った。

 分科会Ⅰは「環境変化と生業からみた社会変動」をテーマに富岡直人氏(岡山理科大学)・山口雄治氏(岡山大学)をコーディネーターに、縄文時代後期から弥生時代前期にかけての環境変化と社会の変動について議論が行われた。この分科会は翌27日にも引続き行われたが、前半では古気候学・人類学・植物考古学の研究者から環境変化と生業についての最新の成果が、後半では環境や生業の変化からどう社会変動を明らかにするかについて報告がなされ、最後にパネルディスカッションで活発な討論が行われた。本分科会では、理化学的な分析手法の進展によって、環境変化と社会変動を明らかにする成果が期待できることが示された。

 分科会Ⅱは尾上元規氏(岡山県古代吉備文化財センター)・鈴木一有氏(浜松市文化財課)をコーディネーターに、「古墳時代中期の巨大古墳」をテーマとして設けられた。この分科会では、最新の調査・研究結果をもとに、古墳時代中期の巨大古墳が造営された詳細な時期や墳丘規格、さらにはその背景や被葬者像について報告と議論が行われた。この分科会も翌27日にかけて開催され、畿内・九州・岡山・兵庫・四国・関東といった各地域から巨大古墳についての報告がなされ、それをもとに議論がなされた。

 分科会終了後の18時からは岡山大学生協ピーチユニオンにおいて、懇親会が開催された。会は谷川会長・清家実行委員長挨拶の後、福本明氏(岡山商科大学)による前回の岡山大会の思い出を含んだスピーチと乾杯で始まり、地元の特産を含む料理と岡山各地の日本酒を楽しみながら、和やかに進み、親睦が深められた。会の終盤では、来年度の金沢大会実行委員会を代表して、副実行委員長の河村好光氏から歓迎の挨拶があった。最後に矢島國雄副会長の挨拶で締めとなった。

 大会2日目の27日には、分科会・ポスターセッション・図書交換会・埋文委情報交換会が開催された。

 分科会では前日に引続き分科会Ⅰ・分科会Ⅱが開催されたほか、新たに分科会Ⅲが開催された。分科会Ⅲは「ジェンダー考古学の現在」をテーマに、松本直子氏(岡山大学)・光本順氏(岡山大学)をコーディネーターとして開催された。コーディネーターは冒頭で、この分科会は日本語で行われるジェンダー考古学についての初めてのセッションであり、世界的にはジェンダー考古学が一定の地位を占めているにもかかわらず、現在の日本ではジェンダー考古学の地位が定まっていないとの認識のもとに、この分科会を設けたと開催趣旨を説明した。分科会では5つの報告を基に、日本におけるジェンダー考古学の方向性や可能性について熱心な意見交換が行われた。

 ポスターセッションでは協会設置の常設委員会からは研究環境検討委員会「埋蔵文化財保護行政における後継者育成の現状と課題(提言に向けて)」、社会科・歴史教科書等検討委員会「学校教育と考古学(その3)―各地の教育実践の紹介ほか―」、埋蔵文化財保護対策委員会「2018年度の埋蔵文化財保護対策委員会の活動」が、また埋蔵文化財保護対策委員会中国地区連絡会からは「中国地区連絡会の活動」として、それぞれ報告が行われた。

 なおこの日には岡山大学考古資料展示室も公開され、実際の遺物を見ながら、岡山大学が行ってきた発掘調査や研究の成果を見学することができた。

 今回の大会は「オール岡山」の実行委員会により、周到な準備のもとで運営され、参加者には大きな成果が実感できるものとなった。これも会場を提供していただいた岡山大学のご支援と、大会実行委員会のご尽力によりものであり、厚く御礼申し上げたい。   

(総務担当理事 小澤正人)

2019年度岡山大会の概要

分科会Ⅰ「環境変化と生業からみた社会変動」

 富岡直人、山口雄治が本セッションの趣旨説明として、当該期の気候変動は4.3kaと2.8kaの寒冷化が存在すること、環境と社会の変化についての議論には、環境考古学データ類の検証が欠かせず、グローバルな総合研究とミクロな地域研究が両輪のように関連しあう必要があることを述べた。

 古気候学、同位体化学を研究されている中塚武氏より「樹木年輪の安定同位体比からみた西日本の環境変動」と題し、西日本を中心とした気候変動と社会の関連について述べて頂いた。既存の古気候データとの比較も新たに報告され、過去の環境考古学データの検証の重要性も指摘された。人類学・同位体化学・考古学の総合的研究に取り組まれている米田穣氏らにより「骨の化学分析からみた食性の変化」と題して、食性、人口動態の背景、生業変化について発表頂いた。山陽地方での新データも提示され、縄文時代晩期になると陸上資源を消費するヒトが増加すること等が指摘された。植物考古学に取り組まれている那須浩郎氏には、「植物利用の変遷」と題し、栽培植物であるダイズ・アズキ・ヒエ・イネ等の変遷、伝播、栽培環境、隣接地域の状況等について発表頂いた。突帯文期に稲作・雑穀農耕が入ること、イネは焼畑などではなく湿地を利用した湿田等が想定されることが指摘された。

 続けて、西日本各地での遺跡調査成果や地学・地形学・地質学との学際研究の成果を踏まえ、社会変動について論じて頂いた。ここからの発表は、昨年度の静岡大会において確認された「農耕空間の多様性の背景には各地における環境の差異が考えられる」とした内容を更に深く掘り下げる試みとしても位置づけられる。田﨑博之氏は「北部九州~瀬戸内沿岸における縄文時代後期~弥生時代前期の堆積環境と遺跡の展開」と題し、堆積環境と遺跡の展開について報告し、出土遺物によって環境変化の時期を読み取り、それを遺跡の展開と関連付けて社会変動について論じられた。山本悦世氏は「岡山平野における沖積平野形成過程と遺跡動態」と題し、岡山平野の形成と遺跡動態について報告し、ボーリング調査の分析から平野の拡大や縮小、河川活動の活発化などを読み取り、縄文時代後期の貝塚形成や、晩期以降の堅果類やイネ利用といった生業の変化と社会変動について論じられた。井上智博氏は「大阪平野における縄文時代後期から弥生時代前期の地形変化と遺跡動態」と題し、地形変化と遺跡動態について報告し、池島・福万寺遺跡を例とした微地形レベルにおける遺跡形成と人間活動の関係を論じられた。

 これらの発表の後、富岡と山口が司会となり討論を行った。まず、資料集の紙上発表とした内容について、中村豊氏に「四国東部地域における縄文および弥生前期の遺跡動態と地形環境」、濱田竜彦氏には「鳥取平野における環境変化と遺跡の動態」の報告を頂いた。その後、会場から寄せられた質問・意見カードを参考に議論を展開し、安定同位体比の適用範囲や分析資料のサンプリング法等について質疑応答が活発に行われた。その後、環境変化の時期・内容について各分野・地域横断的な議論がなされた。その中で、環境変化の同時性や、社会変動の異質さ等が指摘された。さらに環境と生業の変化について討論がなされ、環境決定論的モデルではなく、植生や食性の変化を考慮し、遺跡動態や人間活動の変化を構造的に考えることの重要性が確認された。

 主に西日本の話題を中心としたが、発表者の研究内容に応じてグローバルな環境変化や日本列島域での人類社会の変動にも論及し、最終段階のパネルディスカッションで相互比較を通して総合的に環境変化と社会について議論をした。一方で、縄文時代後期のマメ栽培とその農耕空間、稲作の受容と開始期の環境、そしてそれらを通じた社会の変化についての横断的議論は今後の大きな課題となった。討論の最後には、宮本一夫氏から講評を頂き、盛会のうちに本セッションを終了した。

               (岡山大会実行委員会 富岡直人・山口雄治)

分科会Ⅱ「古墳時代中期の巨大古墳」

 古墳時代中期には、古市・百舌鳥古墳群を頂点とする大型前方後円墳が日本列島各地に出現した。このたび大会開催地となった岡山においても、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳という巨大中期古墳の存在がよく知られている。地方の古墳としては破格の規模をもつこれらの古墳は古くから注目され、築造時期や性格、被葬者像などをめぐって厚い研究の蓄積がある。今世紀に入って20年ほどの新たな動きとして、それまでほとんどなされてこなかった精細な墳丘測量や、外周部及び陪塚の発掘調査が行われており、各古墳がもつ情報の量と精度は大きく向上した。地域における埴輪の編年研究等の進展とあわせ、「吉備の三大古墳」研究は新たな局面を迎えている。

 列島各地における巨大古墳の出現は、在地の首長系譜の脈絡から考えることの難しい場合が多く「唐突」であるといわれる。その出現背景については、特に倭王権との関係が強調される一方、地域の自立的な側面が指摘される場合もある。このような問題意識のもと、本分科会では岡山に加えて各地の大型古墳を取り上げ、比較検討を行った。原田昌浩氏が大阪府古市・百舌鳥古墳群、重藤輝行氏が宮崎県西都原古墳群(男狭穂塚・女狭穂塚古墳)を中心とした九州南部の大型古墳、安川満氏が岡山県造山・作山・両宮山古墳、岸本道昭氏が兵庫県壇場山古墳、西本沙織氏が徳島県渋野丸山古墳、深澤敦仁氏が群馬県太田天神山古墳を担当し、研究報告を行った。いずれの古墳も出土遺物や内部構造の情報が断片的であるが、主に墳丘形態や埴輪を手がかりとして、編年的位置づけ、地域における首長墓系列などが整理された。

 討論は、コーディネーターの鈴木一有氏と尾上が司会を担当した。1)各地の巨大古墳はどのように出現したか、2)巨大古墳の出現背景をどう考えるか、3)巨大古墳の築造後、各地の状況はどのように変化したか、などを論点とした。1)では、地域最大規模墳の築造時期を比較し、5~6期(集成編年)の幅の中でややばらつきがある状況が確認された。従来、吉備(造山古墳)だけがやや遅れ6期に出現するとの見方も強かったが、男狭穂塚・女狭穂塚古墳や太田天神山古墳も6期に降る可能性が考えられるという。また、各古墳が備える墳丘・埴輪などの特徴において、畿内の王墓群と共通する要素が整えられる過程を比較した場合、吉備や播磨では前段階の古墳からほぼ整備され(金蔵山古墳、玉丘古墳など)畿内の王墓群と同調する変化をみせるのに対し、九州や四国などでは最大規模墳の段階で飛躍的に整うようであり、地域差がうかがわれた。2)では、地域における結合、統合等の側面も指摘されながら、規模の隔絶性や畿内色の濃さなどから倭王権との強い関係を考える意見が多かった。3)では、最大規模墳築造後の各地域の状況として、a)墳丘規模を縮小しながらも盟主的前方後円墳が継続する、b)前方後円墳が途絶する、c)中小規模の前方後円墳が林立する、などが認められ多様な状況がうかがえた。aのパターンになる吉備は、「畿内政権創設メンバーの一翼」(安川氏)として王権との強い関係を維持、継続したと考えられ、そのような地域だからこそ地方で最大の前方後円墳を築き得たといえるのかもしれない。討論の最後には、公開講演を行った亀田修一氏から講評をいただいた。

 今回取り上げられた地域は、中期に大型古墳を築いた数多くの地域のうち、ごく一部にすぎない。今後さらに網羅的な比較研究が必要と考えられるが、巨大古墳の出現をめぐる問題、課題について、本分科会で一定の整理がなされたのではないかと思う。

 (岡山大会分科会Ⅱコーディネーター 尾上元規)

 

分科会Ⅲ「ジェンダー考古学の現在」

 地方大会の分科会は、当地の考古資料から導かれるテーマを主として設定されることが多いが、本分科会は、日本で、日本語で行われるセッションとしては初めてジェンダーに焦点を当てたものである。本分科会は10月27日(日)の一日間で行い、5本の報告の後、ディスカッションを行った。

 コーディネーターを代表して松本直子が趣旨説明を行い、これまでの研究の全体的歩みについて説明するとともに、ジェンダーという言葉を使うことの意義について述べた。性に関する規範、行動、世界観などは、人間社会の根幹を形成しているため、そこを問い直すジェンダーの視点は時代や社会に対する見方を根本的に変えるラディカルさを持っており、そのことが文化史的考古学を主流とする日本考古学で受け入れられにくい理由の一つではないか、と指摘した。

 最初の報告である五十嵐由里子「人骨から推定する縄文・弥生時代の出生率と寿命」では、骨盤に残る出産痕から推定される出生率と寿命についての最新の研究成果が報告された。北海道縄文社会については出生率が高く、女性の寿命が短いのに対し、九州弥生社会では出生率が低く、女性の寿命が長い傾向にあることを示した。続く舟橋京子「抜歯風習からみた親族集団とジェンダー」は、抜歯による集団区分が、東日本縄文社会では親族ソダリティーであるのに対し、西日本縄文社会ではジェンダーを軸とする非親族ソダリティーであるとし、その違いは系譜意識の強弱にあるとする解釈を示した。菱田淳子「考古資料からさぐる女性労働」は、縄文時代~古代にかけての女性労働のあり方を長期的に示しつつ、現在のジェンダー観に縛られたバイアスのために女性に関わる分野の注目度や価値付けが低い傾向が続いていることを指摘した。内田純子「中国先秦時代のジェンダー構造」は、労働について「生命維持活動」と「社会活動」に区分した上で、本来は男女が共同して行っていた生命維持活動が、都市の形成と社会の階層化に伴って労働対価を求める男性が生命維持活動から離脱したことで女性の役割となっていく過程を中国先秦時代の分析を通じて明らかにした。最後の報告である光本順「弥生・古墳時代の身体表現と異性装」は、異性装という観点から、弥生・古墳時代の男女区分を見直す視点を示しつつ、異性装的身体表現のあり方について議論した。

 ディスカッションでは、1)出産・寿命・親族構造、2)性役割分業、3)ジェンダー・カテゴリーの実態、4)女性の研究環境について議論した。1)に関して、五十嵐氏と内田氏による日本と中国の状況を比較検討した。古代中国では女性の多産による寿命の短さが指摘され、そのことも女性の階層の低さに関わると理解されたが、弥生社会では逆に女性の寿命が長い傾向がある。この点が九州弥生社会のジェンダー関係に与えた影響を検討することも今後の課題となった。2)については、内田氏が提起する労働区分と階層化の関係を軸に、日本の性役割分業の中身と比較した。都市化とさまざまな社会的分業の進展がジェンダー関係に与える影響について、女性、男性それぞれの中に生じる多様性についても検討が必要である。3)については、男/女以外のジェンダー・カテゴリーを持つ文化についても言及されるとともに、ジェンダー規範と個人の行動は必ずしも一致しないという可能性についても、婦好など考古学的な事例に触れつつ議論した。4)に関し、日本の女性考古学者の割合が諸外国と比べて著しく低く、東アジアの中国や台湾と比較しても低いという状況や、博物館展示に現代のジェンダー観が投影されていることの問題点等について議論した。学問的にも女性にとって魅力のある研究を展開すること、博物館展示にもそれをいかすことを積極的に行うことなどが提言された。

 閉会に際した佐々木憲一・協会理事による挨拶では、こうした研究を英語でも海外に示すことの必要性が示された。参加者数が他の分科会に比べて少なめな印象もあった本分科会であるが、それも研究の現状として受けとめ、活発な研究活動を今後も継続する重要性を共有した分科会となった。

 (岡山大会実行委員会 松本直子・光本 順)