2018年度静岡大会報告

 日本考古学協会設立70周年の節目に当たる2018年度大会は、10月20日(土)~22日(月)の3日間、駿河湾を望む静岡大学を会場に開催された。静岡での大会は30年ぶりの開催となった。開催直前には、駿府城の巨大な徳川期天守台跡の下から豊臣系大名の中村一氏によって築かれた天守台石垣や多量の金箔瓦の発見が大きく報じられ、大会の開催に華を添える形となった。
 今大会の実行委員会は、植松章八氏を委員長として静岡県考古学会を中心に組織され、静岡市の共催のもと、静岡大学の後援を得て開催された。事務局長は静岡大学の篠原和大氏が務められた。
 大会期間中の総参加者は約330名で、約250名の会員と、非会員の研究者を含めた約80名の一般参加者の来場があった。大会開催期間中、キャンパスミュージアムでは企画展「静大考古学のあゆみ」が開催され、静岡大学における考古学研究の歴史にふれることができた。
 第1日目(20日)は9時より70周年記念プレナリーセッション「東アジアの中の弥生時代」が開催され、溝口孝司氏(九州大学)のコーディネートによりGary W. Crawford氏(カナダ・トロント大学)、宮本一夫氏(九州大学)、溝口氏、Gina L. Barnes氏(ロンドン大学アジア・アフリカ研究所)により英語での発表と討論が行われた。早い時間からの開催にもかかわらず、会場をほぼ埋め尽くす参加者があり、参加者との質疑応答も交わされた。
 13時からは開会式と公開講演会が開催された。進行は静岡大学で教鞭を執られたこともある滝沢誠理事が務めた。主催者挨拶に立った谷川章雄会長は、日本考古学協会の設立が戦後間もなく行われた静岡市登呂遺跡の調査と密接な関係にあることにふれた上で、70周年目にあたる今大会が歴史的な意義をもつとした。同じく主催者として植松大会実行委員長からの挨拶があり、続いて静岡市観光交流文化局文化財課の岡村渉課長と静岡大学人文社会科学部の日詰一幸学部長より来賓の挨拶があった。
 公開講演会は、3つの分科会のテーマに即した3本の講演があった。佐藤宏之氏(東京大学)の講演「旧石器時代における境界と地域性の形成」は、分科会Ⅰとのつながりで、後期アシュ―リアンのモヴィウス・ラインや、日本列島の旧石器文化に見られる3つの地域性に関する壮大な内容であった。二人目の設楽博己氏(東京大学)は静岡大学の卒業生で、分科会Ⅱとのつながりで、「弥生文化地域研究の黎明」と題し、沼津市ゆかりの考古学者江藤千萬樹による縄文/弥生研究を紹介された。3番目に演台に立たれた仁藤敦史氏(国立歴史民俗博物館)は静岡市の出身で、分科会Ⅲとのつながりで、「欽明期の王権と地域」と題し、ヤマト王権支配機構の発展段階と伊豆を含むスルガ地域の支配の様相と大和王権との関係性について講演された。
 公開講演会に続き16時40分頃より1日目の分科会が開始された。分科会Ⅰは池谷信之氏から趣旨説明があり、「旧石器時代における愛鷹山麓の地域性-はざまを生み出すヒトの営み-」というデーマで開催された。分科会Ⅱは篠原和大氏から趣旨説明があり、「弥生時代における農耕空間の多様性とその境界」というテーマで開催された。分科会Ⅲは田村隆太郎氏から趣旨説明があり、「古墳時代後期後半の東国地域首長の諸相」というテーマで開催された。
 18時からは大学生協第二食堂に場所を移し懇親会が開かれた。進行は実行委員会の久野正博氏と小澤正人理事が務めた。谷川会長と植松大会実行委員長の挨拶に続き、静岡県考古学会副会長の平野吾郎氏により乾杯が行われた。新鮮な刺身をはじめ、シラスや桜エビのかき揚げなど豊かな駿河湾の恵みを存分に味わいつつ、大いに親睦を深めることができた。会の途中、来春の総会開催地を代表して寺前直人氏(駒澤大学)、来年度の大会開催地を代表して清家章氏(岡山大学)の二人から挨拶があり、近藤英夫副会長の締めの乾杯でお開きとなった。
 2日目(21日)は9時から、昨日に引き続き分科会ごとに報告が行われた後、討論に入った。討論のコーディネーターは、分科会Ⅰは池谷信之氏、分科会Ⅱは田崎博之氏、分科会Ⅲは滝沢誠氏がそれぞれ務め、いずれも活発な議論が交わされた。
 ポスターセッションは、協会主催のものとして、研究環境検討委員会による「埋蔵文化財保護行政に関わる職員を採用する側の意識調査Ⅱ」、社会科・歴史教科書検討委員会による「学校教育と考古学(その1)-各地の教育実践の紹介ほか-」、埋蔵文化財保護対策委員会による「2017年度の埋蔵文化財保護対策委員会の活動」の3本があり、大会開催地からは「静岡県下における考古学研究及び埋蔵文化財調査の成果」と題して、沼津市高尾山古墳の保存問題などが取り上げられた。
 3日目(22日)はエクスカーションが行われた。エクスカーションは当初A・Bの2コースが設定されていたが、静岡・富士・沼津を巡るAコースは参加希望者が少なかったため中止され、静岡市内を巡るBコースのみの実施となった。Bコースは16名の参加を得て、8時30分JR静岡駅南口をバスで出発、登呂遺跡・登呂博物館、駿府城跡天守台発掘調査現場、賤機山古墳、三池平古墳、静岡市埋蔵文化財センター、静岡県埋蔵文化財センターを見学した。登呂遺跡・登呂博物館では平成の再調査により昭和の調査の成果に加えられた修正がわかりやすく解説されていた。また、本協会設立時の「會員申合事項」(会則の原型)なども展示されており、設立70周年にあたる大会のエクスカーションで見られたことは感慨深いものがあった。駿府城跡では徳川家康による築城以前に豊臣方の中村一氏が築いた石垣が検出され、金箔瓦が出土していた。冒頭でも触れたように直前に報道があり、その直後のタイムリーな見学になった。賤機山古墳では普段入れない巨大な横穴式石室の中に入り、刳抜式家形石棺を間近に見学することができた。三池平古墳は丘陵上に築造された5世紀初頭の前方後円墳で、整然と復元整備されていた。清水平野を見下ろし駿河湾を遠望できる雄大な自然の中に立地していることが確認できた。静岡市埋蔵文化財センターは明治の元勲井上馨公の別邸「長者荘」の跡地に建設された施設で、「賤機山古墳展」が行われており、金銅製馬具などの出土遺物を見学することができた。静岡県埋蔵文化財センターでは常設展示を中心に見学した。地域の歴史が出土遺物で分かりやすく解説されていた。一日好天に恵まれ、ほぼ予定どおり16時過ぎにJR静岡駅南口に戻り、終了・解散した。静岡市文化財課小泉祐紀氏や中嶋郁夫理事をはじめとする大会実行委員会のご尽力により充実したエクスカーションになった。

(総務担当理事 関根達人、理事 萩野谷 悟)

2018年度静岡大会の概要

分科会Ⅰ「旧石器時代における愛鷹山麓の地域性-はざまを生み出すヒトの営み-」

 静岡県東部、愛鷹山麓は旧石器時代の研究の後発地域であるものの、層位編年に適した層序と発掘調査の進展により注目を集めるようになった。1995年の静岡県考古学会のシンポジウム『愛鷹・箱根山麓の旧石器時代編年』においてこの地域の体系的な編年が初めて提示され、後期旧石器時代前半期については、日本列島の中で最も細かな時期区分が可能であることが示された。その後20年余りが経過し、その間に新東名建設に関わる発掘調査などで資料が大幅に増加した。こうした状況を踏まえ、新たに蓄積された新資料も含めて編年を再検討するとともに、「境界」という静岡大会の統一テーマに沿って、周辺地域との比較から愛鷹山麓の石器文化の特徴とその形成要因を探るという目的のもと分科会Ⅰは開催された。
 まず池谷信之氏から趣旨説明が行われ、日本列島に文化的境界を設定する上での課題が示されるとともに、愛鷹山麓における先行研究の成果が示され、それらを踏まえた課題が提示された。それに続いて、三好元樹氏から愛鷹・箱根山麓の年代と古環境について報告があった。そこでは14C年代測定値が集成され、愛鷹山麓の後期旧石器時代前半期にあたる各層の年代値が示されるとともに、愛鷹山麓や周辺地域の古環境(古植生)データが集成された。山岡と萩原涼太氏は後期旧石器時代前半期前葉の第1期について報告した。遺跡・文化層・石器集中、石器組成、石器製作技術、石材組成、遺構ごとの項目について第1期の考古資料の内容について検討し、従来の編年研究で指摘された第1期の指標が、資料が増加した現在においても第1期全体の特徴として理解可能であることを指摘した。さらに石器集中や石器点数、黒曜石の利用比率、定形的な石器の内容などの差から、第1期を3つの時期に細分できることを示した。阿部敬氏は後期旧石器時代後葉の第2期について報告した。石器組成や石材組成、石刃技法のあり方などを検討し、石器群の内容の違いから第2期を5つの時期に細分できることを示した。石器組成や石材組成が時期ごとに異なることに加えて、石刃技法の存在がより顕著な時期とそうではない時期が繰り返し出現することを示した。池谷信之氏と前嶋秀張氏は愛鷹山麓の石材環境と石材選択について報告した。石材組成と黒曜石産地の通時的データを示すとともに、斧形石器の素材となる凝灰岩産地の調査結果を示し、愛鷹山麓に残された斧形石器の石材採取地が丹沢層群の酒匂川上流沿いに求められそうだという見解を示した。さらに石材選択と陥穴利用との関りや相模野台地における石材の利用に関するデータも提示し、愛鷹山麓における後期旧石器時代前半期における狩猟採集集団の遊動範囲に関する見通しと課題を示した。富樫孝志氏は、東海地方西部からみた愛鷹山麓の地域性について報告した。岐阜県各務原台地および静岡県磐田原台地の後期旧石器時代遺跡と、愛鷹山麓における石材選択や石器製作技術について比較し、両地域の居住行動と遺跡形成の違いについて論じた。髙屋敷飛鳥氏は関東地方からみた愛鷹山麓の地域性について報告した。相模野台地を中心に、関東地方の剥片剥離技術の変遷や、石材選択、黒曜石の利用について検討し、愛鷹山麓の石器群との比較を行ったうえで両地域の地域性に言及した。また関東地方の遺跡に残される黒曜石を手掛かりに集団の遊動範囲や移動性について議論した。須藤隆司氏は中部高地からみた愛鷹山麓の地域性について報告した。中部地方・静岡県東部・関東地方に残された遺跡で信州産の黒曜石は広く利用されたが、それを利用した集団を、広域に遊動した「信州黒曜石資源共有地域集団」としてとらえ、愛鷹山麓で確認できる考古資料の諸特徴は、その集団の技術の柔軟性や便宜性を示しているという解釈を示した。
 討論は池谷信之氏と前嶋秀張氏を司会として行われた。討論の前半では第1期と第2期の編年研究について、新しく資料が加わったことでどのような進展があったのか議論された。愛鷹山麓では層序に基づいて時間的分解能が極めて高い細分編年を行うことが可能であり、他の地域では捉えられない人間行動の変化を捉えられるという、愛鷹山麓の強みがあらためて認識されることになった。討論の後半では周辺地域との比較を踏まえて、愛鷹山麓の地域性をどのように捉えるのかについて議論が行われるとともに、各時期で当時の集団がどの程度の遊動範囲を持っていたのかにも議論が及んだ。これまで、日本列島の後期石器時代では後半期から地域性が顕在化するとされてきたが、愛鷹山麓とその周辺の前半期資料を検討した結果、程度は異なるものの前半期にも緩やかな地域ごとの違いがあることは確認され、それと当時の集団のどのような行動が結びついているのかを明らかにすることが今後の課題であることが示された。

(静岡大会実行委員会 山岡拓也)

分科会Ⅱ「弥生時代における農耕空間の多様性とその境界」

 1947年の静岡市登呂遺跡の発掘調査を契機として、翌1948年に日本考古学協会が設立された。この発掘調査によって、弥生時代水田の姿が示されたのだが、協会設立40周年の1988年度静岡大会において、「日本における稲作農耕の起源と展開」と題したシンポジウムが開催され、全国の水田跡、農耕具、籾痕土器などの資料を素材として、稲作の開始期や画期、地域差について比較が行われた。それから30年が経ち、さらに水田跡の事例が増えたほか、畑作や縄文農耕の存在が議論されるようになったこと、合わせてレプリカ法による圧痕分析から畑作の検証作業も行われるようになったことで、農耕に関して多角的な分析が行われるようになった。必ずしも全国で斉一的に水田稲作が展開していた訳ではなく、他の栽培植物も組み合わせた複合的な農耕であったと考えられるようになってきており、その農耕の姿の全国的な比較、あるいは水田稲作に偏重する農耕との時期的、地域的境界について検討を行うことが、本会の目的であった。
 篠原和大氏による趣旨説明の後、中山誠二氏から、精力的に進めているレプリカ法による土器の圧痕分析の成果に基づき、日本列島における縄文時代から弥生時代にかけての穀物農耕の波及と定着について基調報告があった。三■秀充氏は、刻目凸帯文期の農耕地の実態が明らかになりつつある愛媛県道後城北遺跡群での研究例を中心に、弥生時代前期以前の畠跡の発掘調査事例とその検証について報告を行った。岡村渉氏からは、篠原氏が近年提示した静岡清水平野の農耕空間変遷モデルについて、静岡県域に対象を広げ、最近の遺構調査例や出土遺物の研究成果を踏まえて検証した状況の報告が行われた。大庭重信氏は、大畦畔で区画された水田の範囲(水田ブロック)、堰と水路を共有する水田の集合(灌漑ユニット)といった概念に加えて灌漑水路の区分から弥生時代水田を分類しており、その変遷から集落集団の変化について読み解く分析手法について基調報告を行った。上條信彦氏からは、水田遺構と畑遺構の調査事例のほかに住居跡の構造、イネの品種の分析成果、農耕関連の石器類の変遷などの総合的な分析から、東北地方における農耕の地域差と共通点、あるいはその変遷についての研究報告があった。岡田憲一氏は、近年広域的に調査を進めている奈良県中西遺跡・秋津遺跡や、大阪府池島・福万寺遺跡などをモデルケースとして、近畿地方の水田の展開について報告を行った。中村豊氏からは、レプリカ法によって導き出されている栽培植物検出の成果を評価し、発掘調査において畠遺構の検出作業を行うことで、稲作を主体としない複合的農耕の検証作業を行う研究について報告があった。
 これらの発表の後、田崎博之氏が討論司会を務め、日本列島における水田稲作農耕を受容する凸帯文期から弥生時代前期の農耕空間の調査例や栽培植物の広域的比較、東日本における本格的稲作農耕の発展以後の比較から、農耕空間の多様性や地域差について議論を行った。討論会の最後に、初日に講師を務めた設楽博己氏から講評を頂いた。全国で比較を行っていくために、同一の視点で発掘調査や理化学分析を行っていく必要があり、その調査方法や考え方の平準化がこれからの発掘調査で求められる。 

(静岡大会実行委員会 小泉祐紀)

分科会Ⅲ「古墳時代後期後半の東国地域首長の諸相」

 静岡市賤機山古墳は、昭和24年(1949)に日本考古学協会登呂遺跡調査特別委員会における周辺学術調査として発掘調査が行われ、平成3~7年(1991~1995)には史跡整備に伴う発掘調査が行われた古墳時代後期後半の大型円墳である。畿内系の大型横穴式石室と家形石棺があり、東海地方では突出した内容の副葬品をもつが、近年、後期古墳に関する調査成果の増加や諸研究の進展はめざましい。そこで、この古墳を現在の学問の水準で多角的に評価し、律令国家成立前の王権と地域社会、地域首長の具体像に迫る一つのモデルケースを示すことを目的に本会を開催した。
 当該地域は近畿地方と関東地方の中間にあり、古代において「東国」の西寄りに位置づけられる場合もある。田村の報告では、東海東部における後期古墳の地域性と手工業生産の地域展開との関連を比較検討し、後期後半に大きく展開する駿河の特徴とそこに関係する賤機山古墳の性格を評価した。藤村翔氏は、駿河東部の富士山・愛鷹山南麓地域における古墳・集落跡の多様な調査成果を整理し、当該地の屯倉を中心とした地域開発と奈良時代の郡家に至る系譜的な展開を評価した。
 当該期の首長墓については、前方後円墳の終焉と大型横穴式石室、豊富な副葬品が重要な要素になる。内山敏行氏は、後期大型前方後円墳や甲冑等の多い西毛・下総・下伊那に旧開地から新開地を結ぶゲートウェイを評価する一方、甲冑や装飾武器・馬具の諸特徴から、関東と東海には共通点が多いこと、東三河以東では軍事が上位層の重要な役割であったことを指摘した。太田宏明氏は、首長墓の埋葬施設が代々共通するモデルⅠと共通しないモデルⅡを導き出し、西日本には地域を基盤とするモデルⅠが多いのに対して、東海東部ではモデルⅡが顕著であり、地域間ネットワークを基盤とした首長の可能性を指摘した。高橋照彦氏は、駿河の前方後円墳終焉などの動きは畿内的あり方の波及を示しており、賤機山古墳はその核になりえる存在と評価したうえで、舎人と畿内系石室、有力氏族と墳丘・石室の特徴、国造と大型前方後円墳といった文献史との接点について論じた。
 王権と地域社会、地域首長に関する諸問題は、東海、関東、近畿といった異なるフィールドの研究において検討されている。鈴木一有氏は、個性的な小地域が林立する東海の推移を段階的に整理したうえで、国造制と古墳の対比は統一的方法では難しく、地域ごとのあり方を読み取り歴史年代観と整理する必要を指摘した。賤機山古墳は国造の影響が疑問視される存在とし、その資料分析の展望を示した。若狭徹氏は、後期後半の前方後円墳の枠組を3類型に整理し、関東の特性として経済・軍事基盤を求める中央と地域内競合の著しい在地豪族との互恵関係により多出現象を生み、後の古代碑や古代寺院などから、最後の前方後円墳に始祖的存在として顕彰される初代国造を含む可能性を指摘した。菱田哲郎氏は、西日本の諸例から、後期後半の首長墓のなかに軍事的緊張を背景とした交通路整備との関係性を指摘し、また、群集墳と集落跡、手工業遺跡、用水路などを含めた地域動態をうかび上がらせることで、屯倉と地域社会の変遷が検討できることを示した。
 討論は滝沢誠氏のコーディネートにより、各発表者のほか、分科会の前に講演した仁藤敦史氏から文献史のコメントを得ながら進めた。前半は駿河東部の富士郡中枢域に関して、後期後半の首長墓・群集墳の変化と特徴的な無袖石室の性格、手工業や馬匹生産の開発、渡来人の動き、火山活動の影響と集落動態などの諸要素を関東・西日本の類例も交えながら議論し、稚贄屯倉の問題とその他の屯倉の可能性に関して確認した。後半は賤機山古墳について、立地環境の特徴、石室・石棺や副葬品の年代と特徴、初葬・追葬と石棺の位置の議論にはじまり、畿内・王権色の強い突出した存在であることを確認し、当該地の安倍郡と隣接する有度郡・廬原郡をめぐる地勢と首長墓の状況、大型方墳の偏在と石室形態の共有・継承などについて、文献史の情報も交えて議論した。
 古墳時代後期の社会は、地域性やその境界をふまえながら広域の軍事・経済・交通などの動きが複雑に貫入する。その実態解明に迫るものとなったが、今後も更なる地域資料の分析と検証が必要であることが示された。

(静岡大会実行委員会 田村隆太郎)