2021年度金沢大会報告

 1年ぶりの地方大会となった2021年度金沢大会は、10月16日(土)・17日(日)の2日間、金沢大学角間キャンパスを会場にオンラインで開催された。少し肌寒くなった北陸らしい空模様であったが、会場には発表者と実行委員会の関係者のみが来場し、無事配信することができた。

 大会の参加者は1日目開会行事・講演会が294名、分科会Ⅳが131名であり、2日目分科会Ⅰが237名、分科会Ⅱが183名、分科会Ⅲが195名、分科会Ⅳが122名と盛況であった。

 今大会は、本来であれば昨年度2020年度に開催する予定であったが、新型コロナウイルス感染症の影響により、1年延期しての開催となった。対面での学会は実現しなかったが、画面越しに多くの参加者と議論することができ、おおいに盛り上がった。その実現のためにご尽力いただいた実行委員長である小嶋芳孝石川考古学研究会会長をはじめとする実行委員会の皆様に改めて感謝の意を表したい。

 開会行事は辻秀人日本考古学協会会長の挨拶の後に、小嶋実行委員長のご挨拶、最後に会場を提供していただいた金沢大学の山崎光悦学長から、来賓挨拶としてビデオメッセージをいただき、2日間にわたる大会がスタートした。引き続き公開講演会が開催され、2本の記念講演が実施された。1本目は小嶋芳孝氏による「古代日本海域における人の移動―渤海・日本航路を中心に―」と題する講演で、渤海と日本との航路について従来の研究史の整理と、渤海使の出発点とされるポシェト湾の現地調査の写真を交えた報告がなされ、航路解明を試みられた。東北アジアにつながる金沢からの発表は、日本と渤海の古代からの繋がりを想起させ、こうした研究が石川県でなされていることは広い世界への玄関口としてふさわしい内容であった。2本目は「中国新石器時代文明の探求」と題して、金沢大学の中村慎一教授より、これまで研究を進められてきた良渚文化の調査報告と二里頭期へのつながりを大きな視点から論じられ、中国文明の形成へと向かう道筋と更なる探求へ向けての意気込みをご講演された。現在、金沢大学で進められている世界の古代文明解明へ向けた幅広い取り組みの一端が披露され、グローバルな視点での考古学研究が展開された。

 その後、分科会Ⅳ「文明と王権」が他の分科会に先立ち開始された。1人目の発表者である吉村作治東日本国際大学総長からビデオによるご発表が行われた。少年の日からの熱い思いから始まり、エジプト考古学との関わり合い、そして現在進行中の太陽の船復元プロジェクトに至る詳細な報告が、先生の優しい語り口で上映された。多くの参加者はビデオ映像に引き込まれ、エジプトでの発掘調査の苦労や、各種発見の喜びを共感することができた。

 2日目は4つの分科会に分かれて、研究発表が進行した。分科会Ⅰは「集落・生業からみた地域集団の適応と変化」と題して縄文時代から古墳時代における石川県を中心とした北陸地域を対象にして、特に集落遺跡の動向や碧玉製品との関係から11本の最新研究が述べられた。分科会Ⅱは「古代日本海域における人の移動―古代の津湊と関連遺跡―」というテーマで、対岸に位置した渤海との関係や石川県を中心とした北陸地域の古代の津湊に関する精力的な調査研究が11本発表された。分科会Ⅲは「石塔から石垣へ―石文化が語る北陸の中近世―」とするテーマで9本の研究発表が行われた。越前の笏谷石や敦賀の花崗岩をはじめとする北陸地域における特徴的な石材の利用方法やその広域流通、また、金沢城の多様な石垣に至る近世の石材利用について、地元ならではの詳細な研究報告が発表された。分科会Ⅳは1日目に続き「文明と王権」と題して、最新の文化財科学の成果やインダス、メソポタミア、エジプト、中国、マヤなど世界各地の古代文明に関する第一線で活躍する研究者が、最新の9本の調査研究報告を行った。

 金沢大会は新型コロナウイルス感染症の影響により、様々な不確定要素があるなかで、実行委員会の強い結束力と多くの方々のご協力で、1年延期しましたが、無事開催することができました。実行委員会の皆様には心から感謝申しあげます。会場では、実行委員会の方々から、何とか多くの方々に金沢へ来ていただきたかったというお話を聞く機会がありました。協会員の皆様におかれましては、新型コロナウイルス感染症が収束した暁には、是非とも石川県へ足を運んでいただき、今回の研究発表で紹介された資料や遺跡の見学を通じて、さらなる石川の考古学への理解を深めていただくとともに、今回味わえなかった数多くの美味しい金沢の幸とお酒を堪能しながら、皆様との交流を深めていただければと思います。オンラインの開催となりましたが、モニター越しのご参加いただいた方々も含め、多くの関係者のご協力に感謝いたします。ありがとうございました。         

(総務担当理事 田尻義了)

2021年度金沢大会の概要

分科会Ⅰ「集落・生業からみた地域集団の適応と変化」

 本分科会は、小松市八日市地方遺跡の発掘調査成果を踏まえつつ、その前後の時代を含めて、北陸西部の地域集団に視点を据え、地域社会の展開を跡づけるものである。八日市地方遺跡で注目を集めている、磨製石器、玉(ヒスイと碧玉)、木器、鉄器という考古資料に着目しつつ、それら研究の到達点から、古墳時代前期の北陸西部で盛行する碧玉製品生産を見通すことにも狙いがあった。これを、テーマ1「くらしと生業へのまなざし」、テーマ2「弥生時代地域集団の生業と交流」、テーマ3「威信財(碧玉製品)生産と地域集団」の順序で、コーディネーター小林正史・高橋浩二の司会のもと、11名が研究報告し、後半にまとめて質問返答・討議が行われた。

 趣旨説明(河村)では、弥生時代の地域集団どうしの関係を、モノや情報が薄まりながらリレー式に伝わるといった一方向性だけではなく、遠距離交流を含め、還流しながらつながる「循環型連鎖」と特徴づけた。ヒスイ交易を例に挙げ、これが弥生開始期から始まっていることを指摘した。

 テーマ1は、いわば本分科会の基調報告である。松永篤知は、中国新石器時代から日本の縄文時代の生業を概観し、弥生時代への移行を東アジアの視点で論じた。下濱貴子は、詳細な調査データ整理にもとづき、八日市地方遺跡をめぐる論点として、櫛描文以前の生業と交流、ヒスイ勾玉とヒスイ材、八日市地方遺跡の木器製作、環濠集落解体後の鉄器普及や木器生産を挙げた。

 テーマ2は、それら論点について、それぞれ見解が示された。佐藤由紀男は、八日市地方遺跡の集落形成以前の弥生開始期において、北部九州から層灰岩片刃石斧、東北北海道の三面石斧が北陸西部で出土していることを挙げ、構造船を介した北部九州との交流、縄文時代から続く本州島北部、北海道との関係を指摘した。また、木下尚子は、九州で出土する玉類について、弥生時代中期前葉には北陸西部産の極細の碧玉管玉が流入していること、ヒスイ勾玉について、北陸と共通した型式があることから、ヒスイ玉・材の遠隔流通を想定した。鶴来航介は、八日市地方遺跡で豊富に出土する木製品の加工痕跡を丹念に復元し、その技術が非常に高度であることを論じた。林大智は、八日市地方遺跡で出土する鋳造鉄斧柄等を分析し、鉄器導入の実像を明示するとともに、八日市地方遺跡後の集落形成を鉄器の普及、木器製作の分業といった具体的現象とともに描き出した。

 テーマ3では、地域集団と倭王権との関係が問題となった。刀根比呂子は、北陸における玉つくりの研究史を整理しつつ、玉つくりへの鉄器の導入時期を弥生時代後期前半にもとめた。また、腕輪形碧玉製品の内孔刳り貫き実験、碧玉の原産地踏査の成果をまとめた。西田昌弘は、理学・地質学的方法から、考古学用語の碧玉を緑色凝灰岩と碧玉に区別し、原産地踏査の成果をふまえ、それぞれの獲得システムを復元した。景山和也は、金沢平野を中心に、碧玉製品製作遺跡の調査成果を紹介し、当地が碧玉製品の中心的製作地であることを改めて明らかにするとともに、方形の首長居館と玉つくり集団との関係に言及した。中屋克彦は、北陸の碧玉製品副葬古墳をまとめ、その副葬における扱い、点数や種類の違いは、ヤマト王権との関係性が反映しており、製作地との遠近でとらえられるものではないことを明らかにした。河村は、碧玉製品を運ぶ道として、北陸西部から南近江を経由し、大和盆地にいたるルートを追認するとともに、大和盆地に碧玉製品の分配する複数の拠点があることを論じた。加えて、北部九州の倭、幾つもの倭、一つの大きな倭という倭国生成過程のなかで現象を読み解いていく必要性を指摘した。

 討議では、チャットによる質問意見もふまえつつ、①北陸西部の独自性と八日市地方遺跡の位置、②碧玉製品の生産の分配および倭王権との関係について意見交換が行われた。八日市地方遺跡について一層理解が深まるとともに、その基盤形成が弥生時代開始期に始まっていること、八日市地方遺跡後も玉つくりが続くこと、鉄器が全面普及する弥生時代後期半ば以降の集落形成が古墳時代前期まで継続的に展開することが確認された。適応と変化を繰り返しながら継続する地域集団の具体像を明らかにしたことが成果といえよう。  

(金沢大会実行委員会 河村好光)

 

分科会Ⅱ「古代日本海域における人の移動―古代の津湊と関連遺跡―」

 北陸地方では、各地の発掘調査で古代の道路遺構が検出され、特に石川県内では奈良時代に平野部の山寄りにあった北陸道が平安時代に海岸寄りに移設されたことが明らかになりつつある。津幡町加茂遺跡など駅家の可能性がある遺跡の検出など、古代の北陸道と枝道に関する調査研究は、1990年代以後から大きく進展している。一方、金沢市の海岸部では土地区画整理事業に伴う発掘調査が1980年代からはじまり、奈良から平安時代の郡津や国府津に関係した遺跡群が検出されている。分科会Ⅱでは、ロシア沿海地方・越後・越中・能登・加賀・越前・若狭における古代の津湊関連遺跡を抽出し、古代の津湊の様相を明らかにすることを目指した。

 【研究報告】 岩井浩人氏が渤海の出航地であるクラスキノ城跡(ロシア)について青山学院大学の調査成果を報告し、ロシア側の調査担当者のゲルマン氏からクラスキノ城跡の遺構変遷について報告があった。その後、川畑誠氏が国府域を含む邑知地溝帯における古代遺跡と陸路・内水面路の関係について報告。中野知幸氏が羽咋市寺家遺跡・シャコデ廃寺の調査成果を紹介し、海路を軸とする交通路における宗教装置について報告。伊藤雅文氏は、金沢市平野部の5~7世紀代の様相を報告し、各地から流入した集団が小規模開発をおこなっていた状況を報告している。出越茂和氏は、金沢市の畝田寺中遺跡の調査成果を中心した古代津湊の様相について報告した。望月精司氏は小松市額見台地における7世紀代のL形カマド敷設住居群の調査から、渡来系集団の他に近江・丹波からの移民集団が居住し、港湾と地域資源、地域間交流に基づく大規模な移民政策を実現して、手工業生産の進展を促していたと報告。春日真実氏は、新潟県内の古代内水面交通に関係する調査事例を報告。杉山大晋氏は、越中国府(富山県高岡市)と周辺の内水面交通に関係した遺跡の調査状況を報告。松葉竜司氏は福井県内の内水面交通に関する遺跡の概要と、敦賀津についての研究状況を報告。鈴木景二氏は、文献史料から北陸の古代交通に関する研究状況を紹介し、気比神宮に伝わる神楽歌を通して敦賀が沿海航路の結節点として重要な役割を担っていたことを報告。

 【討論】 討論では小嶋芳孝と伊藤雅文がコーディネーターを担当し、①6~7世紀の様相(朝鮮半島系遺構・遺物の評価)、②対外交通(対外交流の津湊を考える→渤海船来航地と津湊、宗教施設)、③内水面交通(陸路輸送から海上輸送への転換→8・9世紀の変化、10世紀以後への視点)の三項目について議論をおこなった。伊藤氏は6世紀前後の金沢周辺に各地から小集団が流入した背景として、弥生~古墳時代前期の玉作りにともなうネットワークが6世紀前後まで残存していたことが背景にあると説明。望月氏は、7世紀代に額見台地でL形カマドを持つ渡来系集団の村落が多数造営された背景に、加賀を拠点とする道氏に対抗するヤマト王権の意志があったと説明。対外交通と内水面交通について、最初に岩井氏が渤海船はポシェト湾に船を停泊させて小舟で人とモノを運んだと推定していることを紹介。出越氏は金沢市に所在する戸水C遺跡や畝田寺中遺跡は川津であり、海岸部に外洋船が着岸する港の存在を想定していることを説明。越後、越中、能登、越前、若狭における川津と外洋にでる津湊の様相について、各報告者から補足説明があった。外洋に出る津湊関係の遺跡が確認されているのは金沢市の海岸部だけであり、出越氏の研究は重要な研究の指標になる。

 渤海側の津湊はクラスキノ城跡があるポシェト湾での様相が明らかにされつつあり、日本では金沢市海岸部の遺跡群が海に繋がる津湊と評価できる。しかし、日本から渤海への出航地だった福良津や出羽への拠点だった加嶋津、古墳時代から沿岸航路や朝鮮半島への拠点だった敦賀津など、文献史料に記載された津湊の考古学的な様相は、今回のセッションでも明らかにできなかった。このため、内水面の川津が外洋の津湊とどのような関係をもっていたのかについても、不明な点が多い現状を確認するにとどまった。課題は多く残されているが、各報告者の詳細な報告によりロシア沿海地方と北陸の古代津湊の様相について研究の現状を知ることができた。

(金沢大会実行委員長 小嶋芳孝)

 

分科会Ⅲ「石塔から石垣へ―石文化が語る北陸の中近世―」

 中世に造立が展開した石塔、近世の幕藩体制下で構築された城郭石垣は、全国規模で考古学研究が進められている。そこで、本分科会では中世後半から近世初期にかけて、北陸地方で展開した石文化の特質を地域の考古学資料から復元し、その特徴を明らかにすることを目指すことを目的に、次の開催趣旨を垣内光次郎氏が述べた。

 中世に造立された五輪塔や板碑などの石塔は、考古学の研究発展により考古資料として比較や分析研究が進展してきたが、生産と流通に関してはいまだ未解明の部分が多い。そこで、越前、加賀、能登、越中に見られる石塔造立の地域様相を俯瞰的に捉え、特徴を探ることを目指している。また、近世初期に拡大する城郭石垣も石文化として捉える。石川県が金沢城の調査・研究を本格化させた2000年頃から城郭の石垣調査が進み、石材採掘、石垣技術、絵図・史料の検証など、総合的な調査が実施されている。北陸地方では、金沢城の石垣調査及び研究を踏まえ、加賀一向一揆が関わった鳥越城跡(白山市)や七尾城跡(七尾市)など、戦国期の城郭石垣を対象に類型化が進められている。さらに、越前の一乗谷朝倉氏遺跡や白山平泉寺跡といった中世の都市遺跡からは、笏谷石でつくられた一石五輪塔や石瓦、石鬼などの石製品出土が多く、石垣も石の土木遺構として再評価されている。福井城跡においても、笏谷石を使用した石垣や石敷などの発見もあり、福井県では笏谷石を日本遺産の構成資産とした調査・研究も進められている。

 北陸では、中世の石塔、戦国期から近世の石垣とも、従前の研究成果を踏まえたうえで、新しい段階を迎えている。中世から近世へと北陸の社会が変化する中で、石文化としてどのように発展・変質したのか皆さんと考えたい。

 分科会の発表については、狭川真一氏は中近世における墓石や石垣など石による作品・商品・材料からみた石工職人の系譜の問題提議をした。赤澤徳明氏は越前・若狭の石材の産出地と石造物の分布状況、阿部来氏は白山平泉寺跡、一乗谷朝倉氏遺跡を中心とした石の土木利用、川畑謙二氏は加賀の石塔及び生活道具類の特徴や時期的様相、大野究氏は能登・越中における石造物の様相と石材からみた時期的な転換について報告した。御嶽貞義氏は北庄城石垣の石材加工の状況や福井城の石垣変遷と石材の様相、堤徹也氏は越前笏谷石製の石鬼・石瓦の特徴と分布、滝川重徳氏は金沢城石垣構築の特徴や構築技術及び石製品・石造物加工との相関関係、向井裕知氏は加賀藩前田家墓所の石塔・石廟の形式や石材変化の考察について報告した。

 討論は、コーディネーターの垣内光次郎氏、冨田和気夫氏によって、石塔の地域性、石垣構築の広がり、石垣の構築技術と石材加工の3点に絞って進められた。

 まず、「中世後半の石塔と石文化の地域性」では、石塔類の出現時期、石材及び地域の特徴が整理された。加賀は13世紀より地元の凝灰岩で石層塔が生産される。能登は13世紀頃から海岸部にある砂岩(前波石)で石層塔や板碑などを造立する。14世紀後半からは組合五輪塔や加賀型宝塔が本格的に造られるが、戦国期には減少する。越中では、石材により石塔や石臼に地域色が認められる。敦賀では14世紀代に花崗岩、若狭は14世紀中頃より凝灰岩(日引石)で石塔が生産される。越前では13世紀中頃から凝灰岩(笏谷石)の石塔が造られ、16世紀の一乗谷朝倉氏遺跡でも一石五輪塔や石仏、石臼や行火などの生活道具、石鬼や館の棟石など多品種の製品が生産・供給されている。北陸地方の石塔造立は、13世紀の鎌倉前期に始まり、14世紀後半には各石山で組合式石塔や石臼が生産される。なかでも、笏谷石の石工と石屋は、大規模で多様な製品を造り加賀の石工へ影響を及ぼす。16世紀、加賀・能登・越中とも石塔・石仏の製造は衰退するが、越前の笏谷石だけは発展・拡大し、一石五輪塔や石仏が量産化されている。

 続く「中世都市・寺院・城の石垣構築の広がり」では、戦国期の石垣遺構の構築技術に着目した。一乗谷朝倉氏遺跡では、下木戸に大石垣、武家屋敷の塀の基礎に石垣、白山平泉寺坊院跡では石垣、石敷道、水路等を設ける。加賀の鳥越城や九谷A遺跡、能登の七尾城や石動山、越中の松倉城などの城跡や寺院跡の石垣は、土留擁壁的な石積みがみられ、織豊城郭の石垣とは異なる。石の選出や積み勾配など、石材の施工技法が織豊城郭の技術とは異なることから、戦国期の石垣には地域色があり、織豊城郭が有する石垣技術とは分ける必要が確認された。

 最後は「城郭石垣の構築技術と石材加工」として、福井城跡と金沢城跡の石垣を比較・検討した。北庄城段階では、石垣や建物の作事に笏谷石を使用しており、笏谷石の石山においては、中世からの採石技術は継続している一方、石垣構築の積み方や裏込の技術は、一乗谷朝倉氏遺跡の石垣とは異としている。これは、石材の調達は、戦国期に朝倉氏が重用し活躍していた笏谷石の石工が行い、構築は織豊城郭を手がけた外来の技術者が実施したとみられ、石材の調達と施工を分担する石垣普請と理解された。戦国期に発達した越前の石工集団は、近世における城郭普請と作事に欠かせない石材の生産供給を担うまで、大規模な集団が組織的に存在したことが確認された。

 以上から、中世における石塔を造立する石工は、各石山によってその様相に違いのあることが見えてきた。また、戦国期から近世の石垣は、積み方や裏込技術の相違から地元石工、織豊城郭を手がけた外来石工による構築がわかるようになってきた。これまで石垣の調査は、表面からみた積み方が主であったが、今後は発掘調査成果による石垣の内部状況の観察がより必要となり、検証を重ねることで、石工職人の実態が明らかになっていくであろう。

                   (金沢大会実行委員会 田村昌宏)

 

分科会Ⅳ「文明と王権」

 本分科会は、世界各地の古代文明とその王権に関する研究に焦点を当てた。初日の10月16日(土)に代表者の足立拓朗による「趣旨説明」と「エジプト文明における王権」というテーマについての発表があり、10月17日(日)には午前中に「文化財科学と王権」、午後に「世界の古代文明と王権」という2つのテーマの発表があった。

 テーマ1「エジプト文明における王権」では、吉村作治氏による「太陽の船プロジェクトの成果と今後の展望」と題した講演が行われた。前半では日本隊による初のエジプト調査の開始の経緯とこれまでの軌跡について、後半にクフ王の第2の船の部材の取上げと修復作業についての報告と今後の展望が示された。吉村氏は、第1の船は王が神々とともに乗船する船で、第2の船は第1の船の動力船であると指摘した。

 テーマ2「文化財科学と王権」では、世界各地の古代文明における考古資料の自然科学的分析の成果が示された。覚張隆史は、古人骨のDNA分析の方法論を解説し、これまでの古代文明と王権を対象とした事例について報告があった。古人骨のDNA分析による王権の研究については、代表的な研究としては2010年代の古代エジプトの王族のDNA研究があるが、この時期に分析されたPCR法に基づくDNA配列決定法には現代人由来のDNA汚染などの潜在的なリスクがあるために、データ信頼性に疑義があるという。覚張氏は、PCR法に代る分析方法として、次世代シーケンシング法を紹介し、これにより古代DNAのビッグデータ解析の時代が到来したという。この研究領域は、「古代ゲノム解析」・「パレオゲノミックス」と呼ばれ、古代文明における感染症の研究例についても紹介された。佐々木由香は、国内で出土した布や縄紐などの繊維製品について素材ごとに植物考古学的な研究成果を整理し、古代王権へのアプローチを探った。特に古墳時代以降に近畿地方や関東地方でアサ果実や果実圧痕の出土例が目立つことから、栽培と布の生産体制が地域ごとに強化された可能性が指摘された。宮田佳樹は、脂質分析を中心とする土器残存有機物分析方法と器種器形分類とススコゲ使用痕観察を組み合わせた古食性アプローチの実例を紹介し、「蘇」を例として王権顕示食の分析の可能性について解説した。阿部善也・四角隆二は、3~7世紀にかけて西アジア世界において主流であったガラス製品「サーサーン・ガラス」に着目し、主にXRFによる化学組成分析の結果から、その生産、利用、流通の実態について考察した。発表者らは国内外の博物館に収蔵されているサーサーン・ガラスを分析し、その結果を先行研究のデータと比較した結果、ユーフラテス以西からの搬入品(ローマ・ガラス)を除けば、メソポタミア内の複数の都市遺跡から出土したガラス容器と、伝イラン北部由来のガラス容器に分けられることを明らかにした。そして伝イラン北部由来の資料の中には、ローマ・ビザンツ帝国からの搬入品に2次的加飾を施したと思われる製品が存在することを指摘した。これにより、サーサーン・ガラスは、サーサーン朝内の様々な地域の影響の中で生産され、流通し、利用されていたことを明らかにした。

 テーマ3「世界の古代文明と王権」では、王権あるいは権力に関するさまざまな考古学的研究の発表があった。上杉彰紀は、インダス文明の特質を整理し、都市社会を支えた「権力」あるいは「社会基盤」について検討した。上杉氏は、工芸品を検討し、広域的に共有された様式が存在し、様式を実体化するための技術が共有され、分散的・多元的な生産・流通体制によって特徴づけられていたとする。そして、これらを支えたのは都市と都市間のネットワークであるとした。小泉龍人は、前4~3千年紀のメソポタミアの神と王の関係、支配の正当化について試論を示した。小泉氏は、メソポタミアでは、河川に沿って必ず神殿のある都市が建設され、神殿は神により王の支配の正当化を演じる空間であったとした。そして、神と王の関係については、主に図像資料を駆使し、前4千年紀後半では王と神がほぼ同じ位置づけであったが、徐々に神が王に対して優越し、前3千年紀後半のアッカド王朝では最高神による領域支配の承認と王の神格化に加えて「市民」を意識し、ウル第3王朝では「社会正義」を意識したと指摘した。河合望は、ツタンカーメン王墓出土の所謂「第2の国王の二輪馬車」に天蓋が装着されていたことを証明し、天蓋付きの二輪馬車が王権シンボルとして戦闘ではなく王のパレードや儀式に使用され、王を太陽神の化身として示威する装置であった可能性を指摘した。久保田慎二は、王権の視点を組み込みながら、中国の二里頭遺跡から出土したイネが利用された背景について土器、人骨の炭素・窒素安定同位体比分析から検討し、イネの消費者は一握りの階層上位者であることを指摘した。そして、二里頭文化において二里頭文化のみで大量のイネが出土することは、他の奢侈品と同様に生産や流通、そしてその存在自体の価値が二里頭政権によりコントロールされたことを示すとした。中村誠一は、金沢大学が長年調査してきたマヤ文明のコパン遺跡の出土資料から、コパン王朝史で不明の多い前半部、特に古典期王朝の開始時期と創始者の同定に関する従来の学説の問題点を指摘し、当該遺跡における王朝初期の建造物群の放射性炭素年代測定の結果、これまでコパン王朝の創始と考えられていた426/427年より古い4世紀以前の建造物であることを示唆し、さらなる調査によって古典期王朝の創始年とその発展プロセスを解明する予定であると報告した。

 討論は小高敬寛氏のコーディネートにより、各発表者の他、初日に公開講演で発表された中村慎一氏に参加いただき、進められた。ほとんどが個別の発表内容の質問とその返答に終始したが、今後世界各地の古代文明に共通する普遍的なテーマに焦点を当て、研究を進めていく方向性も示唆された。          

(金沢大会実行委員会 河合 望)