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2011年度栃木大会報告

 日本考古学協会2011年度秋期大会は、10月15日(土)と16日(日)の2日間、栃木市の國學院大學栃木学園教育センターを主会場に開催された。

 ○第1日目は13時から、同センターのレクチャーホールにて開会式が行われた。菊池徹夫会長と海老原郁雄大会実行委員長による開会挨拶ののち、中村幸弘國學院大學栃木短期大学学長による「考古学」の語源にも触れた暖かい歓迎のお言葉をいただいた。続いて、同大学日本史学科の酒寄雅志教授による「東亜考古学会の誕生と活動−渤海国東京城の調査を中心に−」と題した講演会が行われた。昭和8(1933)年の現地調査に始まり、昭和14(1939)年の報告書刊行に至るまでの経緯が、その時代的背景を含めて仔細に講じられた。東京大学保管のガラス乾板による調査風景や記念写真を、『外務省資料』、『駒井和愛調査日誌』(駒井和愛)、『第二回 東京城発掘日誌』(水野清一)といった当時の記録類と照合し、写真の人物同定なども含めて分析的に解説された。これまで知られていなかった調査のエピソードや、二・二六事件が調査の方向性を大きく左右したなどといった政治的背景についても具体的で興味深いご講演をされた。

 引き続き15時10分から、シンポジウムT「石器時代における石材利用の地域相−黒曜石を中心として−」、シンポジウムU「考古学からみた葬送と祭祀」、シンポジウムV「古代社会の生業をめぐる諸問題」の3つのシンポジウムの冒頭を飾る基調講演がそれぞれの会場で行われ、多くの参加者が熱心に聞き入った。初日は16時30分に全ての日程を終了した。

 その後、会場を近くのサンプラザの大ホールへと移し、17時30分から懇親会が始まった。海老原実行委員長、菊池会長の主催者挨拶に続いて、鈴木俊美栃木市長、木村好成國學院大學栃木短期大学理事長、大阿久岩人栃木市議会議員の来賓挨拶があり、ほかに臨席の4名の市議(いずれも國學院大學卒業)の紹介があった。那須の美酒「天鷹」の薦被りが鏡割りされ、橋本澄朗実行副委員長の乾杯の発声を合図として一気に懇親の輪が広がった。余興・福引抽選会は空クジなし。会場は沸きあがった。最後に次期開催地を代表して、春期総会の立正大学の池上悟教授が、秋の福岡大会の西南学院大学の倉洋彰教授がそれぞれ歓迎の挨拶を行い19時30分に閉会した。

 ○第2日目は、9時30分から昨日に引き続いてシンポジウムが行われた。

 シンポジウムT(テーマは前出)では、黒曜石を中心とした石材利用の地域相の具体例が関東から中部地域などが主に発表された。討論では、技術論や産地論などのほか、産地名の統一化や分析データの共有化の課題と必要性が論じられた。

 シンポジウムUでは、縄文時代から古墳時代まで、集団の宗教儀礼のなかで死者がどのように扱われたか、また祖霊視の時代性などが発表された。討論では、縄文時代から5世紀までの再葬習俗の推移を確認するなど、通時代的に葬送儀礼を論じることの重要性が論じられた。

 シンポジウムVでは、古代生業遺物の地域別集成がなされ、その定量的な分析や遺跡の個性に基づいた発表が行われた。討論では、古代の分業のあり方や都市の問題、律令国家と蝦夷との関係などが論じられた。

 これらのシンポジウムでは、テーマ設定がしっかり行われたこともあって、会場を掛け持ちして渡り歩く人がほとんど見られなかった。一つのテーマをじっくりと見通したいとする参加者が多かったように見受けられた。

 ○15日・16日の両日にわたり2階アートギャラリーでは日本考古学協会のポスターセッションが、社会科・歴史教科書等検討委員会「社会科教科書を考える」と埋蔵文化財保護対策委員会「埋蔵文化財の保護は誰の責任でなされるか(2011秋)」が行われた。前者では、来年度の教科書から「縄文時代」が復活することもあって、それに関わる質問などが寄せられた。同時に設けられた「栃木コーナー」では、東日本大震災に関わる國學院大學栃木短期大学日本史学科の文化財レスキューの活動などが紹介された。

 ○16日14時から16時まで埋蔵文化財保護対策委員会による情報交換会が、サンプラザ2階会議室で行われた。ポスターセッションと連動したテーマを主とし、昨今課題となっている自治体による出土品廃棄(取扱い)問題や、東日本大震災の埋蔵文化財被災等に関する情報交換が行われた。

 ○16日10時から15時まで図書交換会が1階自習室を利用して行われ、いつもながらの盛況さを見せていた。

 ○栃木大会における2日間の参加者は、一般参加者を含め425人で盛会であった。一方、第3日目に予定されていた見学会が、催行最少人員に満たなかったため中止となった。栃木県を代表する魅力的な見学コースが組まれていただけに残念であった。また、東日本大震災の被災県に住む何人かの常連の姿をついに見かけることがなかった。痛恨の寂寥感を覚える時があった。

 ○今回の大会は、第1日目は小雨模様でいくらかの蒸し暑さを感じさせたが、第2日目は一転爽やかな秋晴れとなり心地よい空気が流れた。全体に学会然とした雰囲気が漂う中で成功裡に終了した。このことは偏に会場の提供を頂いた國學院大學栃木短期大学(中村幸弘学長)と栃木大会実行委員会(海老原郁雄実行委員長)の皆様方の用意周到なご準備と円滑な大会運営の賜物であり、ここに厚く御礼を申しあげたい。

(総務担当理事 藤田富士夫)

2011年度栃木大会の概要

●シンポジウム「石器時代における石材利用の地域相−黒曜石を中心として−」

 栃木大会開催にあたって栃木大会実行委員会では、少なからず本県に関わりのある資料を提示し、討論を考えるべきであるという意見がある中で、旧石器時代初頭より石器石材として広域に利用された、栃木県矢板市所在の高原山産黒曜石に関連したシンポジウムTが決定された。さらに、討論の中心に黒曜石を据えるのであれば、基調講演については明治大学黒耀石研究センター長 小野昭先生が最適任者として決定され、協会1日目には「考古学における石材利用研究の諸相」により、諸外国の事例との対比の中で、国内の岩石利用とその研究についてお話があった。

 日本国内においては、既に50箇所を超える黒曜石原産地が判明しており、中でも関東地方においては当該地域を取り巻くように信州、高原山、神津島そして伊豆箱根原産地が存在し、大量の黒曜石が石器石材として持ち込まれている。さらに理化学分析による遺跡出土黒曜石の原産地推定が、最も多く行われている地域としても過言ではなく、そのことを証明するかのごとく資料集には延べ1,142遺跡、80,641点の黒曜石産地推定分析資料を掲載している。

 今回は、これまで同一机上にて議論されたことがない旧石器・縄文さらに弥生時代を含めた石器時代を対象とし、これらの遺跡出土の黒曜石原産地分析から得られる情報をもとに、連続する三時代の黒曜石原産地との関わりはもとより、黒曜石の採取から集落への受給、石器製作・消費に至る過程などの社会の構造的変化を解明することに目標をおいている。

 基調報告は各時代・各地域の石器石材研究を中心とする6名の方にお願いした。この場では紙面が限られているため、発表内容を詳細に紹介することはできないが、700頁からなる資料集を是非ご一読願いたい。発表は旧石器・縄文・弥生の時代順とし、旧石器時代については下総・武蔵野・相模野台地を研究基盤におく国武貞克・島田和高・諏訪間順氏である。三氏はこれまでそれぞれの地域にて重ねてきた多くの研究があり、また資料集内の分析結果を多用すると共に独自の方法により解析を試みている。国武氏は下野−北総回廊内に石材の強い結び付きを示してきたが、新たに他地域に跨る複数の往還を描いた。島田氏はナイフ形石器文化後半期の遺跡残滓による黒曜石%から、遺跡間石器製作構造と社会的境界の有無を証明する。諏訪間氏による石材構成及び黒曜石産地構成の変遷図から反映される問題は多方面にわたり、この作成は研究者すべてが目指すところであろう。

 続く縄文時代の大工原豊・池谷信之両氏の発表は、群馬周辺と常総地域とした限定的な地域に的を絞っている。このことは資料集に8万点を超える分析結果が掲載されているものの、現段階の緻密な黒曜石研究に耐え得る資料となると非常に限定されることに由来しよう。例えば東京都では162遺跡9,637点の分析例がある中で、1遺跡50点を数える遺跡は僅かに2割程度、さらにそれらの分析が土器型式や遺構毎に慎重に区分され、産地推定が確実に反映されているとなると数例程度でしかない。分析資料内にあって定型石器以外のフレイク等と出会えることなど皆無に近く、分析遺跡や点数が多いことと実体解明の進捗とはまったく別問題なのである。このような中で大工原・池谷両氏は、研究上必要な地理的・時期的かつ内容的に起点となる遺跡を抽出し、遺跡・遺構・遺物の解明と共に全点分析を実施する手法は、「黒曜石考古学」の規範となるべきものである。

 杉山氏も研究の方向性は先の二人と同一である。弥生時代における千葉・神奈川・静岡、さらに伊豆諸島に存在する太平洋沿岸に分布する遺跡を中心に、黒曜石の入手・獲得・利用形態について信州と神津島の対比の中で考える。特に、中期中葉における神津島産黒曜石の独占的流通と、これを支えるための三宅島への資源獲得を目的とした戦略的渡航は非常に興味ある発表であった。

 討論の時間が短かったことに加え、旧石器・縄文・弥生時代を石器時代という枠組みの中で同一机上に置いたこと、またそれぞれの自然環境や社会構造がまったく異なることや、さらに研究対象となる石器及び石材への評価にも大きな違いがある等、共通する問題点を絞りづらかったことは否めない。黒曜石の産地推定結果を経済活動及び社会構造の解明への手がかりとしたが、考古学的手法を加味した上で解明すべき問題が山積している。そのような中でこの8万点の資料を如何に扱うかであろう。なお、資料集作成にあたり群馬・栃木両県26遺跡966点の分析を、建石徹・二宮修治両氏を中心とする東京学芸大学研究グループにお願いしている。当日の日程には記載されていないが、分析結果にかかわる報告を急遽お願いすることとなった。 (栃木大会実行委員会 芹澤清八)

●シンポジウム「考古学からみた葬送と祭祀」

 シンポジウムUは、大会会場の1・2Fレクチャーホールで開催された。テーマは、「考古学からみた葬送と祭祀」である。本シンポジウムは、大会1日目の國學院大學の笹生衛氏による基調講演「葬送と祭祀をめぐって−古墳時代から古代の様相、『祖(おや)』の観念と集落・墓域の景観−」からはじまった。笹生氏の講演は、古代の文献に記載された「祖」「遠祖」などの系譜意識が、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文時期まで遡ることを、千葉県上総地域の集落変遷から推察した。また「祖」を定期的に饗応する祭祀の伝統を見いだし、その祭祀体系は、古代以降の神祇祭祀にも系譜が続く点を指摘した。次に大会2日目のシンポジウムでは、全体で6本の発表が行われた。まず最初は、國學院大學栃木短期大学の小林青樹氏による趣旨説明で、考古学からみた葬送と祭祀について、今回の討論で問題とすべき点が整理された。続いて同氏による1番目の発表は、「 縄文時代の葬送祭祀と象徴性−弥生時代との比較を念頭に−」であり、縄文中期から弥生時代中期にかけての葬送と祭祀めぐり、祭祀具を再定義するために「象徴媒体」の考え方が提示され、特に再葬と祖先祭祀の問題について検討された。2番目の国立歴史民俗博物館の山田康弘氏による「縄文時代の墓地における祭祀」の発表は、葬送と祭祀の用語や概念上の問題と縄文時代の死生観、さらに遺跡における認識の方法論上の問題を整理した上で、具体的に遺跡での事例を概観され、特に遺体の取り扱い方に関する人類学的所見の有効性が注目された。3番目の東京大学の設楽博己氏による「再葬墓の成立と祭祀 」は、「弥生再葬墓」の定義、起源、そして再葬のシステムと社会および環境との関係性についてまとめられた。4番目の明治大学の石川日出志氏の「再葬墓の終焉と祭祀」は、弥生時代の再葬墓造営時期における再葬墓以外の墓制について整理しつつ、さらに弥生時代後期の三浦半島の海蝕洞窟の再葬墓や、古墳時代の鳥羽山洞窟の再葬墓などから終焉について発表された。5番目の東京学芸大学の日高慎氏による「古墳の葬送儀礼と埴輪 」は、主要な古墳の事例をもとに、「墳丘造営中」「死の確認」「死の決定」「死者の埋葬」「死者の慰撫」に区分し、それぞれの段階で儀礼が行われたことを指摘された。また、埴輪は「死者の埋葬」に伴い樹立されるもので、被葬者の生前における神を祭る儀礼と捉え、飲食供献儀礼を中心とした場面が一般的であるとされた。続いて6番目の発表は、(財)とちぎ未来づくり財団の篠原祐一氏による「古墳と石製葬祭具の祭祀」である。篠原氏は、石製葬祭具の動向を整理し、石製葬祭具のあり方から、葬と祭の内容が一致する点を指摘された。また、大陸的思想の影響を考慮されたなか、廟 (古墳) で行う祖霊祭祀の内容が細分化され、使用する祭具構成も定められ、御廟山古墳段階までには首長祭祀のあり方が整えられたと示唆された。そして、「祖」は「神」と捉えることで同族観念が導入され、特に東国に畿内的な社会構造を定着する施策のひとつとして祭祀が用いられたと考察された。

 以上の各発表の後に行われた討論では、縄文から弥生にかけての発表と古墳時代から古代にかけての発表それぞれの問題について検討を行った。そして、今回のシンポジウム全体を通じた議論として、葬送と祭祀の最大の特徴を具体的に示す「遺体の取り扱い方」に議論が集中した。先史においては再葬墓、古墳時代以降についてはモガリが問題となり、いずれも、遺体を象徴的な存在とする点では時代をこえて共通した面が指摘された。同時に、当該社会において象徴的な遺体を操作し、特別なものと位置づける行為の規模がより肥大化する過程を、縄文から古墳への変化のなかで捉えることができた。

(栃木大会実行委員会 小林青樹)

●シンポジウム「古代社会の生業をめぐる諸問題」

 シンポジウムVでは、「古代社会の生業をめぐる諸問題」と題して、講演・研究発表・討論を行った。

 大会1日目の午後には、国際日本文化研究センターの宇野隆夫先生により、「古代社会の生業」と題して基調講演を行い、先生が近年研究されているGISを使って、例として栃木県における生業遺物がまとまって出た遺跡を解析していだいた。生業と地図情報を組み合わせた解析の有効性と今後の展望などの講演であった。

 2日目の午後には、東日本各地の方々の作成された生業遺物の集計結果をもとに、都城と東日本各地方の生業に関する概観の発表を行った。都城では、(財)向日市埋蔵文化財センターの中島信親氏が、主に長岡京の成果をもとに、造営と必要な道具の生産、現業的官司で製品の製造・加工が特徴であることを指摘した。東海地方では、(公財)愛知県埋蔵文化財センターの樋上昇氏が、紡錘具が官衙周辺や上位集落で多いこと、内陸でも土錘が多く出ることや製塩土器などに関して説明した。甲信地方では、長野県立歴史館の原明芳氏が、この地方でのみ出土する苧引金具や諏訪湖周辺での漁労などについて発表した。北陸地方では、(財)新潟県埋蔵文化財調査事業団の春日真実氏が、遺跡の性格による生業具の出土傾向、新潟県的場遺跡が国津に関連し、鮭漁を行っていたことなどを指摘した。関東地方では、(財)とちぎ未来づくり財団の池田敏宏氏が、各種生業具の傾向を概観し、茨城県柏木古墳群の集落のように漁民を統括する層が9世紀代に出現したことなどを報告した。東北地方では、盛岡市教育委員会の八木光則氏が、多賀城周辺の都市的機能や岩手県の三陸沿岸と内陸河川沿岸で漁法に違いがあることなどを発表した。

 各地方の発表の後に、討論を行った。主な論点として、紡織や漁労が地域内でその遺物に偏差があるか、地域内分業の展開や東日本各地の様相から地方間で偏差があるか、各地の報告者に確認を行って、地方間の偏差については文献記載の布・魚の貢納国との比較を行った。また、都城と地方の国府の農業からの分離の程度を比較して、地方都市論をみる一指標を討論した。

(栃木大会実行委員会 津野 仁)