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2013年度長野大会報告

 2013年度大会は2013年10月19日(土)〜21日(月)の3日間、長野市若里市民文化ホール・長野県社会福祉総合センターを会場に開催された。地元の大会実行委員会は会田進(長野県考古学会会長)を委員長として結成された。大会3日間を通しての参加者は1,224名であった。

 第1日目(19日)は13時から、同ホールにて開会式が行われた。田中良之会長と会田進大会実行委員長による開会挨拶ののち、伊藤学司長野県教育長、鷲沢正一長野市長から暖かい歓迎のお言葉をいただいた。ちなみに、長野県で協会大会が開催されるのは1968年(昭和43年度大会)以来45年振りとのことである。

 続いて、長野県の考古学史上のキーパーソンである3人の講演が行われた。まず初めに大塚初重明治大学名誉教授による「信濃大室古墳群とともに60年」と題した講演会が行われた。昭和26(1951)年の後藤守一氏による現地調査に始まり、平成9(1997)年の国史跡指定を経て今日に至るまでの経緯が、仔細に講じられた。続いて、桐原健元長野県文化財保護審議会委員による「縄文農耕論の周辺」が行われた。藤森栄一氏の縄文農耕論がいかに形成されてきたかについて仔細に論じられ、それを引き継いでさらに深化させていくことが必要であると述べられた。3番目の記念講演は、笹澤浩長野県文化財保護審議会委員による「信州弥生文化研究の現状と課題」である。信州の弥生文化の特性について、特に墓制と青銅器の問題を中心に講ぜられた。講演会の参加者は285名であり、会場は熱気につつまれていた。

 引き続き15時30分から、分科会I「信州黒曜石原産地とその利用」、分科会U「長野県における縄文時代中期土器の編年と動態」、分科会V「信州における弥生社会の在り方」、分科会W「5世紀の古墳から文化交流を考える」の4つの分科会が、それぞれの会場で行われた。各分科会においては基調講演が行われ(分科会Vは、上述の記念講演)、多くの参加者が熱心に聞き入った。初日は、16時30分に総ての日程を終了した。

 その後、長野駅前のホテルメトロポリタン長野に移動し、18時30分から懇親会を行った。田中会長、会田大会実行委員長の主催者挨拶に続いて、鷲沢長野市長の来賓挨拶をいただいた。そして桐原健会員の乾杯の発声の後、和やかな懇談の輪が広がった。最後に、次期開催地を代表して、春期総会の日本大学の山本孝文教授と秋の北海道大会の実行委員長大島直行伊達市噴火湾文化研究所長が、それぞれ歓迎の挨拶を行い、20時に閉会した。

 第2日目(20日)は、9時30分から昨日に引き続いて分科会が行われた。

 分科会T「信州黒曜石原産地とその利用」では、県内9名の研究者の発表および小野昭明治大学黒耀石研究センター長の進行でシンポジウムが行われた。霧ヶ峰周辺の火山地質の近年の研究成果からの報告は、中央構造線に隣接する地質的特異性からくる黒曜石の産出状況にふれ、黒曜石原産地の理解を学際的に一歩進めることとなった。これを受けてのシンポジウムでは、産地推定分析の進展に伴い、原産地−原産地直下遺跡−消費地遺跡のモノの動きがより広く、詳細にとらえられるようになってきたこと、またモノの動きにかかわった集団への研究視点も提示され、旧石器時代から縄文時代までの時間的変遷の中で信州黒曜石産地の地域性を明らかにしようとした。

 分科会U「長野県における縄文時代中期土器の編年と動態」では、次のような発表が行われた。藤森栄一氏によって1965年に発表された井戸尻編年を基準として、その後に加わった膨大な資料の研究から、中期を15期区分する長野編年が提唱された。それを基に諏訪や北信など長野県5地域の様相が報告され、周辺各地から強い影響を受けながらも、地域的個性を示す実態が示された。コメントでは、甲府、東海、関東、北陸といった隣接地域の視点から編年全体の問題、狢沢式成立のベース、曽利式のとらえ方、唐草文土器の動態などについて討論が行われた。

 分科会V「信州における弥生社会の在り方」は、笹澤氏の記念講演での問題提起を受けて展開した。まず栗林式土器の編年案が提示され、石器の生産と流通をめぐる問題、柳沢青銅器の評価、さらには大型墓の出現や、大型の弥生集落の問題まで、県内外の研究者7名の研究発表が行われた。その後のシンポジウムでは、栗林式土器のタイムスケールの整備から始まり、拡散分布のエリアの検討、石器・青銅器、造墓と階層性の検証、それを支持し得た農耕定着段階の地域社会の問題へと、さまざまな意見が交換され、実りのある時間を共有した。

 分科会W「5世紀の古墳から文化交流を考える」。長野県は、史跡信濃大室古墳群に代表されるように、古墳時代の渡来系文化や馬匹文化の痕跡が濃厚に認められる地域である。この分科会では、長野県を中心とする地域発表6本と馬匹文化に関する発表2本ののち、土生田純之氏による東アジア的視野からの総括的発表が行われ、5世紀の文化交流の実態が多角的に論じられた。会場はほぼ満席となり、土生田氏の計らいでプログラムになかった質疑応答の時間も設けられるなど、演壇と会場が一体となった議論が展開された。

 各分科会とも、9時30分から16時まで、熱心な議論が展開され、無事に終了した。2日間の分科会の参加者は、総計858名を数えた。

 ポスターセッションは、19・20日の両日に行われ、実行委員会と日本考古学協会とから、計6つの発表があった。それぞれを列記する。まず、実行委員会から、古代分科会の7つの研究発表、さらに長野県考古学会史分科会による「長野県考古学会の礎を築いた人びと」、および「長野県考古学事情−地域の活動と発掘調査最新情報−」とが掲示された。協会からは、埋蔵文化財保護対策委員会「東日本大震災復興事業に伴う埋蔵文化財調査の現状」、研究環境検討委員会「研究環境検討委員会の活動・2013」、社会科・歴史教科書等検討委員会「中学校の社会科(歴史)教科書の分析」とが掲示された。ポスターセッションの中で、「長野県考古学会の礎を築いた人びと」は、地方大会の特性をあらわす掲示と言えるものであった。今後の大会の範をなすものと思われる。

 20日14時から16時まで埋蔵文化財保護対策委員会による情報交換会が行われた。情報交換会では、大会ごとに各地域の課題を地元の方々に報告を願っている。今回は「長野県における古代官衙遺跡の調査」をテーマに、会田進会員および下平博行会員と、原明芳氏にお話しいただいた。また、今年度の埋文委が抱えている諸課題についても討議が行われた。

 20日10時から15時まで図書交換会が若里市民ホールで開催され、盛況であった。

 第3日目(21日)には、前日の雨も上がり、A「長野市の将軍塚古墳巡り」(20名参加)、B「ナウマンゾウを追って野尻湖へ」(14名参加)およびC「信州黒曜石原産地巡り」(27名参加)の3つのコースで見学会が行われた。中型バス・マイクロバスで通常では行きづらい遺跡や露頭なども見学、初秋の信州を満喫することができた。各コースの見学とも、地元自治体と長野県考古学会の協力を得て、スムースに実施できた。この場を借りて、感謝の意を表したい。

(総務担当理事 近藤英夫)

2013年度長野大会の概要

●分科会T「信州黒曜石原産地とその利用」

 信州産黒曜石は関東・中部地方の石器時代で最も多く利用された石材といえよう。信州産黒曜石の広がりと、黒曜石原産地遺跡群研究の現状を把握することを目的として本分科会が開催された。

 大竹憲昭(長野県埋蔵文化財センター)は、信州黒曜石原産地遺跡研究の学史的な歩みを紹介し、現状の分析を行った。「男女倉技法」「鷹山M型刃器技法」など原産地独特の石器製作技術、1980年代後半の大規模リゾート開発に備えた分布調査による黒曜石の産状と原産地遺跡群立地や特徴などが紹介された。

 高橋康(信州大学)は、黒曜石原産地周辺の地質学的特異性などの火山学的視点からの信州産黒曜石の特徴を発表した。星糞峠の黒曜石は和田峠周辺からの火砕流によってもたらされたとの説明は注目を集めた。

 大竹幸恵(長和町教育委員会)は星糞峠黒曜石原産地遺跡の縄文時代の黒曜石採掘跡の構造や、黒曜石流通の可能性を示した。

 中村由克(野尻湖ナウマンゾウ博物館)は旧石器時代に黒曜石原産地遺跡に持ち込まれた石材産地を紹介した。新潟県産頁岩と長野県北部から新潟県で産出する透閃石岩の広がりから、黒曜石原産地と北とのつながりの可能性を示した。

 谷和隆(長野県埋蔵文化財センター)は関東・中部地方の黒曜石産地推定の集成から、信州産黒曜石の広がりを示した。

 須藤隆司(佐久市教育委員会)は旧石器時代の原産地と消費地の黒曜石製小型石槍の分析から、信州黒曜石原産地がいくつもの遊動集団の共通遊動領域であった可能性を示した。

 堤隆(御代田町教育委員会)は産地分析結果からみえる原石持ち出しと、細石刃製作の破損リスクの低さから、旧石器時代細石刃期の信州産黒曜石原産地に狩猟民が集う状況はなかったとした。

 宮坂清(下諏訪町教育委員会)と山科哲(茅野市尖石縄文考古館)は縄文時代中期の黒曜石集積事例の分析を行い、原産地近くは小型に破砕する原石が、遠くには大型で良質な原石が集積される傾向を示した。

 最後に、小野昭(明治大学)をコーディネーター、各発表者をパネラーとするシンポジウムが行われた。信州の黒曜石の地質学的特徴、信州産黒曜石の広がり、信州黒曜石原産地遺跡群、信州産黒曜石が社会に及ぼした影響などがテーマとされ、信州黒曜石原産地の特徴が確認された。

(長野大会実行委員会 谷 和隆)

●分科会U「長野県における縄文時代中期土器の編年と動態」

 分科会Uは長野県社会福祉総合センターの講堂で、長野県全域の縄文時代中期の編年と動態を題材に7本の報告と総合討論を行った。

 まず大会1日目には、司会の宮崎朝雄氏から長野県を7つの地域・15期に区分した縄文時代中期の編年対照表が提示された。綿田弘実氏はそれら時期別の土器群の分布様態を解説、現代の方言区分との類似性も指摘し、土器型式が極めて多様かつ推移の激しい列島の土器文化の十字路としての本県の特徴が把握された。

 大会2日目は6地域からそれぞれ1名の発表者が立ち、基軸になる土器と他地域からの搬入品やその模倣品について報告した。まず守矢昌文氏は圧倒的な資料数を誇る諏訪地域について唐草文系土器の問題など井戸尻編年の課題を紹介し、前葉における東海系、中葉狢沢・新道式期の下伊那・東北信系、後葉の加曾利E・曽利系など各地からの土器の吹きだまりとしての諏訪地域の特異性と、それらを整理する方法としての施文具観察の結果を提示した。伊那谷は上伊那を小池孝氏、下伊那を坂井勇雄氏が分担した。在地後葉期の長胴キャリパー形土器や親田式との関係以外は主に中信・諏訪地域との関係で捉えられる上伊那に対し、下伊那型櫛形文土器、細隆線文土器など特異な在地土器を生み出し、東海地域との関係性が強い下伊那地域との違いが強調された。中信地域の島田哲男氏は、分水嶺をはさむ水系の差が土器の動態に大きく関与すると指摘し、新保・新崎式や大木式、栃倉式系土器と、平出V類A土器や東海系土器等の動向を紹介した。東信地域は藤森英二氏が、阿玉台式等の流入を受けつつ、北信地域を含む曲隆線文土器の伝統の上に中葉の焼町式土器、後葉の郷土式土器など独自色の強い土器群が生成・発信される様相を論じた。北信地域は水沢が前葉からの通時的な新潟県南部や北陸との強い影響関係、栃倉式の生成と他地域への情報発信、大木式土器の模倣などを解説した。総合討論では、東海・山梨・群馬・新潟の4地域からのコメンテーター、纐纈・今福・山口・寺ア4氏と会場の研究者が参画し、成果と課題がより鮮明に指摘された。

 今回、研究史上初めて広大な県内全域の縄文中期土器を俯瞰した結果、それぞれ外縁地域の土器の受容、地域の核になる在地土器の生成と他地域への発信が通時的に頻発する点がより鮮明に描き出された。その背景には、太平洋・日本海側、西日本と東日本をつなぐ要衝に位置し、かつ本州最大の黒曜石原産地を控えた、人や物の動きの連鎖が看取されよう。本分科会を定点に、今後は編年区分幅や外来系土器の具体的な流入経路、変容土器の生成過程や土器名称など、指摘された多くの課題とともに、次の研究へと繋げていきたい。

(長野大会実行委員会 水沢教子)

●分科会V「信州における弥生社会の在り方」

 栗林式土器の成立には北陸地方小松式土器の影響が強く認められ、2つから3つに段階区分されている。現状では3段階区分とするのが趨勢で、概ね近畿地方のV様式〜W様式に相当する。特に成立期からの口縁部横ナデとハケ整形に特徴がみられる。

 石斧の流通は、火山岩を使用した蛤刃石斧及び扁平片刃石斧の生産が長野市榎田遺跡で行われている。原石の分割から敲打成形段階までが行われ、研磨整形段階は榎田遺跡から10q南東に位置する長野市松原遺跡で行われた可能性が高い。そこから100q圏内の栗林式分布圏には100%近い割合で榎田産とみられる石斧完成品が流通するが、その範囲を越えると率は下がり、遠隔地では200q近い所まで分布する。管玉の流入も佐渡をはじめ北陸圏内から栗林式分布圏内にもたらされたといえる。

 青銅器では、中野市柳沢遺跡より銅戈と銅鐸が一括出土し、それらが栗林式分布圏に将来される同時期性と異時期性について2つの意見がある。銅鐸型式が銅戈型式よりも若干古いとの見方が論点にある。銅戈8本のうち、7本が近畿型で1本が九州型であり、日本海ルートでの流入が示唆された。また、柳沢遺跡発見の1号墓の位置づけをめぐり、複数の礫床木棺墓中の中心埋葬の在り方が栗林式期では異質である点が再認識され、時期的には近畿地方より古くなる可能性が指摘された。

 近畿地方では人口の密集・集住が階層性を生むとの理解もあるとされた。弥生集落では、栗林式の集落占地が丘陵上や扇状地扇頂部から河川の後背湿地や扇状地の扇央部に移動し、大きな集落が形成される点が強調され、大きな集落は必ずしも単一な構造ではない点が指摘された。

 最後に弥生文化に関するテーマとして、西日本では「弥生集落に関する〜」などを付けるが、「近畿W様式期の〜」とは言わない。したがって東日本の弥生文化も「栗林式期〜」との表題はやめてもよいのではないか、という意見が出された。中部山岳地域の弥生文化も西日本と同一俎上で議論できる時代が来たといえるか。

(長野大会実行委員会 町田勝則)

●分科会W「5世紀の古墳から文化交流を考える」

 長野県内の5世紀代の大きな特徴は、県内北域である善光寺平の大室古墳群の事例を代表とする「積石塚古墳と合掌形石室」であり、また県内南域である下伊那地域での「馬の殉葬」である。

 風間栄一氏の「長野県北部の様相」や渋谷恵美子氏の「長野県南部の様相」では、長野県内の近年の調査事例を踏まえ、これまでの調査研究の成果と課題を的確にまとめあげたものであった。

 若狭徹氏の「群馬県の様相」、宮澤公雄氏の「山梨県の様相」、鈴木一有氏の「東海地方の様相」、小黒智久氏の「北陸地方の様相」では、5世紀代を中心に4世紀代や6世紀代の状況も踏まえ、積石塚古墳の事例や集落内の出土資料から、新たな文化交流としての渡来系文化や渡来人の可否が検証され、これまで漠然としていたシナノの周辺地域の文化交流について、最新の様相を知る機会となった。

 また騎馬文化に関わる報告では、桃ア祐輔氏が「古墳殉葬馬再論」と題し、近年増加した九州地方の馬の殉葬事例や馬具研究の最新成果が報告され、その歴史的意義と馬匹生産との関連について論じた。続く宮代栄一氏の「長野県出土の5〜6世紀の馬具」では、長野県内の馬具について、特に北信地域では他地域と異なった馬具の地域性があり、馬具の伝播や在地製作の可能性を示唆するとともに、飯綱社古墳や鳥羽山洞窟遺跡出土馬具の年代がさらに古くなる可能性を指摘した。

 最後の土生田純之氏の「半島の積石塚と列島の古墳」では、朝鮮半島でのソウル市石村洞古墳群の整備前の積石塚や鬱稜島積石塚の貴重な写真資料が紹介された後、朝鮮半島(漆谷多富洞古墳群他)〜西日本(福岡県相島積石群他)〜東日本の積石塚や積石塚古墳の特徴を示しながら、今後の積石塚古墳研究の方向性や可能性を示した。

 今回の分科会W「5世紀の古墳から文化交流を考える」の開催は、上記の方々に執筆・発表していただいた結果、長野県内の積石塚古墳・合掌形石室・馬の殉葬に限らず、5世紀代から6世紀代にかけての古墳時代社会の変革期を考える上で貴重な報告であった。

(長野大会実行委員会 西山克己)