第15回「令和3年元日 ―徒然なるままに―」 橋本 裕行

 昨年3月末日、35年間勤務した奈良県立橿原考古学研究所を定年退職。4月いっぱいかけて永らく住み続けた高取の庵(奈良県高市郡)を片付けて、5月1日、緊急事態宣言の最中、郷里の横浜に戻りました。その後、いくつかの大学で非常勤講師を勤めるもオンライン授業。本年4月から晴れて対面授業が再開されたものの、新型コロナウイルス感染症第4波を受けて、再びオンライン授業に後戻りしつつあるのは、周知の通りです。

 横浜西北部谷本川流域の郷里は、文豪佐藤春夫の代表作『田園の憂鬱』の舞台でした。私が就職のため横浜を離れた昭和60年頃までは、この小説に描かれた「フェアリ・ランドの丘」の情景が、まだかろうじて残されていました。しかし、大規模な宅地造成によって、今はその面影をたどることもできません。

 現在の小庵は、市ヶ尾横穴古墳群と稲荷前古墳群(いずれも神奈川県史跡)の中間にあります。市ヶ尾横穴古墳群は、昭和30年代初頭、横浜市史編纂事業の一環として和島誠一先生が発掘調査された学史的な遺跡です。また、稲荷前古墳群は、この地域の初期の宅地造成時に発見され、甘粕健先生たちによって発掘調査がなされました。この古墳群では、研究者のみならず地元住民も参加した一大保存運動が展開され、その運動は新聞でも度々報道されました。しかし、残念ながら盟主墳とされる1号墳(全長約50mの前方後円墳)をはじめとする多くの古墳は、記録保存の名のもとに姿を消してしまいました。不幸中の幸いと言うべきか、16号墳は当時南関東地方でも数少ない前方後方墳という評価を受け、16号墳を含む3基の古墳が現在史跡として保存されています。

 大学生の頃、毎年元日には、高校時代の友人数名と稲荷前16号墳に集い、初日の出を拝んだものでした。その頃は、元日に古墳の上に立つ者は、私たち以外皆無でした。

 そして、令和3年1月1日。

 郷里に戻ってから初めての元日。36年ぶりに新年のご来光を拝みに稲荷前16号墳に上ってみると、すでにマスク姿の老若男女が墳丘の上に集っていました。その光景に、正直驚きました。いつの間に、ここが初日の出のスポットになったのだろうか、と。

 初日の出を見るために稲荷前16号墳に集った人々が、この古墳群の歴史的意味をどれだけ深く理解しているかは分かりません。しかし、自分達が住む地域に、かつてその地域を治めた人が葬られた古墳があると言うことは、少なくとも理解されているでしょう。その後も散歩がてら稲荷前古墳群を訪ねてみると、朝夕日中を問わず、多くの人々が散歩をする光景を見かけ、古墳が地域住民の中に溶け込んでいることを感じました。

 そして、思います。私が小学生時代に間接的に体験した、全面保存が叶わなかった稲荷前古墳群の保存運動は、決して無駄ではなかったと。古墳は、地域の歴史を語る・伝える・学ぶための貴重な文化財の一つです。その地域に実存することに大きな意味があります。これからも、一つでも多くの文化財が守られ、後世に伝えられることを切に望みます。

 

稲荷前16号墳上で初日の出を待つ人々