熊本地震の思い出2

熊本地震特別対策委員 美濃口雅朗

 

熊本地震の思い出。私こと、夜9時過ぎに起きた前震の時、パソコン操作をしておりまして…

激しい揺れのなか、とにかくデータを消してはならじとパソコンを抱えて上書き保存をしようと試みましたが、上手くいく筈もなく、誤って「A」を押し続けてしまいました。

「あああああああああああああ・・・・・・・・・・」

図らずも、心の叫びを入力してしまったという、嘘のような本当の話。

 

さて、今回は前回に引き続いて、熊本市中央区横手に所在する妙解寺跡細川家墓所の被災状況のレポートです

 

前回も書きましたが、初代忠利公・同室・2代光尚公の霊屋3基が並ぶ「三つ御廟」は、四脚門や周囲に立ち並ぶ殉死墓などの倒壊はあったものの、3基の霊屋・五輪塔に大きな被害はありませんでした。

次いで隣りの墓域、3代綱利公・4代宣紀公・5代宗孝公・6代重賢公墓がある「四藩主御廟」を見ました。

綱利公・宗孝公墓は、本来あった霊屋が撤去されて濡れ墓となっているものの、初代以降の形態を継いだ大形の五輪塔です。

宣紀公墓は雪見灯籠形(写真1)、重賢公墓は灯籠(写真2)をアレンジしたとみられる形容しがたい形態です。

写真1 宣紀公墓石(地震前)

写真2 重賢公墓石(地震前)

これら異形の墓石は、藩祖忠興公の京都大徳寺高桐院にある本葬墓「欠け灯籠」を意識したものといえます。

忠興公が千利休から譲り受けた灯籠を墓石にしたという「欠け灯籠」(写真3)。

忠興公らしい芸術的センスなのでしょうが、これに倣うことで、本来は継嗣ではなかった彼らが(宣紀は養子、重賢公は前藩主弟)、藩主としての正当性を主張したものとみられます。

写真3 忠興公墓「欠け灯籠」

…といった講釈はともかく、「四藩主御廟」では4基とも被害が認められました。

特に、宣紀公・重賢公墓は大きな被害でした。

宣紀公墓は、灯籠の火袋部が、大きい笠の重さと揺れに耐えられなかったのでしょう、欠折していました(写真4)。

重賢公墓は、不安定な形状のためか、笠・塔身部が崩れ落ち、それがぶつかって周囲の石柵も倒れていました(写真5)。

写真4 宣紀公墓石(地震後)

写真5 重賢公墓石(地震後)

あれ、と思ったのは綱利公・宗孝公墓です(写真6・7)。ともに空風輪が落ちていたのですが、見ると空風輪のホゾ・火輪上面のホゾ穴がありませんでした。ズレ防止のためのノミによる粗い調整が認められたのみ。

そのために空風輪が落ちたのでしょうが、これは中世以来の形態ではありません。

写真6 綱利公墓

写真7 宗孝公墓石

ちなみに、今回の地震を機に妙解寺跡のほかにも城下寺院の倒れた近世五輪塔を見ました。

17世紀前半~中頃のものにはいずれもホゾがありましたが、17世紀後半(延宝期)のものはホゾがあるものと無いものがあって、18世紀以降になるとホゾは認められませんでした。

 

以上から、正徳4年没の綱利公墓・延享4年没の宗孝公墓のホゾの無い形態は、在地製五輪塔の時期性を示す、また、脱中世化した型式と評価されます。

多分、ですが、空風輪が落ちていなかった寛永・慶安期に没した初代・同室・2代の「三つ御廟」五輪塔にはホゾがあるのだろう、そう思っています。

 

今回はこれまで。妙解寺墓所のレポート続けます。