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機関誌『日本考古学』第28号

2009.10.10発行 123p ISSN 1340-8488 ISBN 978-4-642-09103-9
論文上峯篤史summary近畿地方における縄文・弥生時代の剥片剥離技術1-22
研究ノート 和佐野 喜久生summary炭化米の粒形質の変異分布と古代日本稲作の起源23-40
研究ノート 富山直人summaryガウランドと鹿谷古墳 −大英博物館所蔵資料の調査から−41-54
研究ノート 川添和暁summary窯業遺跡から出土する調整・使用痕のある陶器片について −東海地域の事例提示と中世山茶碗に関する一検討−55-68
研究ノート 関根達人・佐藤雄生summary出土近世陶磁器からみた蝦夷地の内国化69-88
書評 山浦 清summary高橋健著『日本列島における銛猟の考古学的研究』89-93
書評 時枝 務summary後藤宗俊著『塼仏の来た道−白鳳期仏教受容の様相−』95-99
書評 杉本憲司summary岡村秀典著『中国文明 農業と礼制の考古学』101-106
研究動向 高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会summary高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会報告107-120

近畿地方における縄文・弥生時代の剥片剥離技術

上峯篤史
  • Ⅰ. 剥片剥離技術研究の必要性
  • Ⅱ. 研究史と問題の所在
  • Ⅲ. 接合資料による剥片剥離技術の復原
  • Ⅳ. 属性分析による剥片剥離技術の復原
  • Ⅴ. 剥片剥離技術の復原と諸問題

−論文要旨−

 本稿では,近畿地方の二上山北麓のサヌカイトを対象に,縄文時代から弥生時代における剥片剥離技術を復原した。まず,当該期の接合資料を網羅的に観察し,剥片剥離技術の復原を試みた。次に,時期の異なる3つの石器群を取りあげ,属性分析によって,接合資料の検討結果を補完・検証した。最後にこれら3つの石器群で復原された剥片剥離技術を統計学的に比較し,剥片剥離技術の時期差の有無について検討した。

 検討の結果,当該期の剥片剥離技術は,石核素材の生産工程(第1工程)と,石器の素材剥片を生産する工程(第2工程)に大別できる。剥離作業では,手法Ⅰ(求心状剥離手法)が両工程で盛用される。第2工程ではほかの剥離手法も認められ,手法W(両面剥離手法)が手法Ⅰに次いで多用される。さらに,手法Ⅱ(簡素な打面調整をともなう手法)や手法Ⅲ(打面の作出をともなう手法)も見られる。

 当該期の剥片剥離技術には石核素材の可搬性や,生産される剥片の性質に配慮した技術的な工夫が見られる。こうした剥片剥離技術は,遅くとも縄文時代早期前半に成立していたと思われるが,その後,縄文・弥生時代を通じて変化を見せない。この点から,当該期の剥片剥離技術は,さまざまな石器の素材剥片生産をまかなうことができる,柔軟で汎用性の高い技術であったと評価できる。

 本稿の成果は製作技術研究にとどまるものではなく,多方面への応用が期待される。今後,石材利用や集団の行動パターン,居住形態,製作技術の地域間比較研究などに応用し,石器の実態に則した研究成果を蓄積していかなければならない。

キーワード

  • 対象時代 縄文時代〜弥生時代
  • 対象地域 近畿地方
  • 研究対象 打製石器,石器製作技術,サヌカイト



研究ノート

炭化米の粒形質の変異分布と古代日本稲作の起源

和佐野 喜久生
  • 1. 緒論
  • 2. 材料及び方法
  • 3. 結果及び考察

−論文要旨−

 九州の炭化米粒の粒形変異は4.2mmを境界として短粒系と長粒系の2群に分類されたが,全国資料では粒長4.1mmをピークとする正規分布を示し,粒長は混種による平均化がみられ,全国の粒形変異は短粒系を主とする多様性を示した。日本の水田稲作は縄文晩期に短粒系が最初に伝播した九州北岸域に起源し,全国への伝播は板付遺跡などを含む九州北岸の複数遺跡が関与した。このような九州北岸域への稲作文化の伝来は,朝鮮半島南西岸の松菊里遺跡のイネに十分な粒形変異がみられず,時代もほぼ同じであること,及び中国の江南地方には古代イネの多様性と同時代の歴史的事実背景(呉越の乱)があることから,中国・江南地方から直接伝来したと考えられる。その後,この稲作文化は弥生前期には山陰(主に日本海航路)を経由して近畿まで伝播普及し,中一後期には山陰から北陸に,主に後期には北陸から中部・関東域及び東北東部に伝播した。さらに,九州・筑紫平野には北岸域とは異なる多種多様な長粒系がみられることから,大陸から新たに弥生前一中期に長粒系の稲作文化が直接伝来した。また同域には,中国・焦庄遺跡の炭化米に類似した特異な品種(長大粒種)がみられ,周辺域には徐福の伝承地が存在することから,この長大粒種は「史記」に記載された徐福船団によって伝えられたものであるとした。この長大粒種と徐福伝承地との結びつきは,他に四国の大谷尻,伊勢湾岸の阿弥陀寺と起A(筑紫平野から)及び青森の垂柳(日本海航路)にもみられる。四国の東・南部域には稲作遺跡の時代分布及び粒形変異及び長大粒種を含む長粒系がみられることから,縄文晩期に大陸から直接九州南端を迂回した太平洋航路(黒潮)によって稲作文化が伝来し,さらに弥生前一中期には筑紫平野から徐福船団によって長粒系が伝わったと考えられる。

キーワード

  • 対象時代 弥生時代(縄文晩期・古墳時代・中世も含む)
  • 対象地域 日本国内(朝鮮半島及び中国を含む)
  • 研究対象 炭化米



研究ノート

ガウランドと鹿谷古墳 −大英博物館所蔵資料の調査から−

富山直人
  • はじめに
  • 1. 遣物発見からガウランドの実見まで
  • 2. 絵図面とガウランドコレクション
  • 3. 遺物の出土位置の復元
  • 4. 出土遺物について
  • まとめ

−論文要旨−

 ウイリアム・ガウランドの日本における活動は,考古学史上,重要な位置を占める。中でも,前方後円墳の研究と共に,日本のドルメン研究はガウランドの考古学的研究の双璧とされている。そのドルメン研究の中でも重要な位置を占める鹿谷古墳について,その遺物の出土した経緯から,どのようにして,ガウランドが関わっていったのかを,資料に基づいて,正確にたどっていく。そこには,1881(明治14)年というきわめて早い段階での当時の日本の一地方での古墳に関する認識と,ガウランドの接触のありようが浮かび上がってくるのであり,考古学史上名高い鹿谷古墳の調査と出土遺物について,学史上での位置付けを,改めて検証する結果となった。そこには,調査自体にガウランドが関わった痕跡はなく,調査終了後しばらくしてから,遠藤茂平らによる絵図面等の記録をみ,現地を訪れたと考えられる。この絵図面の写しとされるものが現在,京都国立博物舘に所蔵されており,史料の吟味と実際に大英博物舘に保管されている遺物との比較から,鹿谷古墳出土遺物を特定することが可能となった。なお,大英博物舘に収蔵されているガウランドコレクションは,その保管状態の良さから,ガウランドが調査した当時の詳細なメモと共に,現在の考察に耐えうる貴重なデータを提供することが可能である。

 そのメモを活用することによって,現在では失われている,鹿谷古墳の遺物出土位置を,復元することすら可能となるのであり,現在の研究に耐えうる資料としての価値を高めることにもつながる。これら鹿谷古墳出土資料の全貌を報告すると共に,鹿谷古墳に対する若干の評価を行う。

キーワード

  • 対象時代 古墳時代後期
  • 対象地域 京都府亀岡市
  • 研究対象 考古学研究史,鹿谷



研究ノート

窯業遺跡から出土する調整・使用痕のある陶器片について
−東海地域の事例提示と中世山茶碗に関する一検討−

川添和暁
  • 1. はじめに
  • 2. 研究小史
  • 3. 窯跡ごとの事例
  • 4. 使用痕の観察
  • 5. 調整・使用痕のある陶器片の検討
  • 6. 中世山茶碗窯跡から出土する調整・使用痕のある陶器片について
  • 7. おわりに

−論文要旨−

 多量の遺物が出土する窯業遺跡では,土師器鍋など明らかに窯跡外から搬入された資料を除いて,遺物の種類は製品・窯道具・窯構造物片とに分けられる。製品と窯道具は器形の分類による区別が比較的容易であるものの,窯の製品とされる遺物には,実際さまざまな経緯を通じて窯跡に廃棄されていたようで,このことは,二度焼きされているもの,窯構造物の一部になっているものの存在によっても明らかであろう。

 本稿では,近年多く確認されつつある,調整および使用痕のある陶器片について取り上げる。陶器類の転用は,時期・時代および地域,さらには遺跡の性格に関わりなく広く起こりうる現象であり,なにも窯業遺跡に限った事例ではないが,窯業遺跡では製品の失敗品による転用事例が多く,その存在が他の資料の中に埋没化しやすい傾向にある。東海地域の窯業遺跡においても,古墳時代から近世期の窯跡まで,広く調整・使用痕のある陶器片の存在を確認することができた。その中で,中世山茶碗窯においては窯焼成後の調整に用いたと考えられる特徴的な使用痕を有する事例がまとまって存在しており,山茶碗の生産において,少なくともある一時期には,広く失敗品の転用が行われた可能性を指摘した。この転用の様相は,これまで知られていた集落(消費)遺跡での加工円盤の様相とは著しく異なることを指摘し,このような窯業遺跡と集落遺跡での転用の相違を指摘することで,山茶碗が有する当時の社会での役割を解明し得る可能性を提示し,今後の課題とした。

キーワード

  • 対象時代 古墳時代〜近世(特に中世)
  • 対象地域 尾張・西三河地域
  • 研究対象 窯業遺跡,転用,調整・使用痕のある陶器片,山茶碗



研究ノート

出土近世陶磁器からみた蝦夷地の内国化

関根達人・佐藤雄生
  • 1.研究の目的と問題の所在
  • 2.研究の方法
  • 3.時期毎の様相
  • 4.幕末蝦夷地3点セット
  • 5.考察
  • 6.結語

−論文要旨−

 近世考古学のめざましい進展は,近世史研究に少なからぬ知見をもたらした。しかしそのなかで出土近世陶磁器の分野に限れば,未だ陶磁史研究の枠組みに留まっており,近世史研究に貢献するような状況に到達しているとは言い難い。本論では,近世国家の境界領域である北海道・サハリン・千島列島から出土する近世陶磁器の分析を通して,蝦夷地への和人の進出状況や和人とアイヌとの関係の変化を読み解き,激動する極東アジアの世界情勢の中で,蝦夷地が経済的・習俗的に内国化されていく過程を論じる。

 蝦夷地における近世陶磁器の出土量は,19世舵前半まで一貫して「西高東低」で推移する。陶磁器の分析から,経済的・習俗的に内国化が進む時期は東西蝦夷地で異なり,西蝦夷地において早く進行することや,東蝦夷地では,シヤクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いといった和人とアイヌ民族との抗争が,物資の流通にも大きく影響していることが確かめられた。西蝦夷地では,海産物を求める和人の進出が移住をともなう形で進み,それに連動して主たる交易場がセタナイ(17世紀)からヨイチ(18世紀以降)へと変化する。一方,東蝦夷地では,18世紀末以前には和人が移住した形跡はほとんど認められず,和人の本格的な進出は,日本とロシアとの間で国境を巡る問題が顕在化する19世紀代に入る。蝦夷地で陶磁器流通の「東西格差」が解消するのは,19世紀中葉であり,元々陶磁器を使う習慣のあった本州からの移住者が急激に増えたことと,アイヌ民族が陶磁器を受容するようになったことが,その背景にある。

 北海道から出土する19世舵中葉の陶磁器は,膾皿・徳利・中牽に著しく偏っており,それらを本論では「幕末蝦夷地3点セット」と呼ぶ。このうち徳利と中甕は本来的には北前船で酒や味噌・塩を運ぶ際の容器であり,肥前系磁器の膾皿は,労働者の食事に相応しい碗と皿の両方の機能を兼ね備えた安価な食器であった。それらは,本州から労働者として移住してきた和人とともに,漁場などで和人に混じり半ば強制的に働かされていたアイヌの人々も使用していたと考えられる。「幕末蝦夷地3点セット」は,結果的にアイヌの伝統的な食文化に多大な影響を与え,和人への同化を促進させたと推察する。

キーワード

  • 対象時代 近世
  • 対象地域 北海道・サハリン・千島列島
  • 研究対象 近世陶磁器,北方史



書評

高橋健著『日本列島における銛猟の考古学的研究』

山浦 清

はじめに

 本書は高橋健氏が公表されてきた銛頭に関する諸論文を一書に纏められたものである。その際,新たな論考を加えると共に,既刊論文については一部書き直し,あるいは大幅な増補を行い,また発表後の批判に対する反論等も加えられ,面目を一新する内容となっている。銛頭については評者(2004c)も以前から関心を持ち,拙著を公刊したことがある。ここに書評という形で本書を紹介するとともに,その問題点,今後の銛頭研究の課題を指摘してみたい。

 ただ日本考古学界では縄文時代を別として,弥生時代以降の研究では北海道島を除くと「銛猟」すなわち銛を使用しての漁携活動についは残念ながら関心を集める分野ではない。さらに考古資料としての銛頭自体に関心を持つ研究者も決して多いわけではない。そこで当書評では理解を容易にするため図を掲載させて頂くこととし,また研究史を追い易いよう,やや詳細に文献を示すこととした。もちろん近年では埋蔵文化財研究会(2007)による漁撈関係資料の集成もなされ「海人」への関心も高まってきているかと推測する。本誌における書評が,そうした研究の推進に棹を差すこととなれば幸いである)。

書評

後藤宗俊著『塼仏の来た道−白鳳期仏教受容の様相−』

時枝 務

 本書は,大分県宇佐市に所在する虚空蔵寺跡出土の塼仏のルーツを追いかけ,アジアにおける仏教の展開を考古学の立場から考察した研究書である。

 本書は,「はじめに」「プロローグ−宇佐虚空蔵寺跡・塼仏の発見−」「第一章 長安のせん仏と三蔵法師玄そう」「第二章 白鳳期の仏教受容と塼仏」「第三章 塼仏の寺・宇佐虚空蔵寺跡の考古学」「第四章 豊前の僧法蓮−その人と仏教」「第五章 僧法蓮と宇佐の古代寺院」「エピローグ 塼仏の来た道−その終点の祈りの風景−」「付章 求法の旅人たち」「あとがき」から構成され,巻末に「参考文献」「収録図版一覧」「索引(人名/地名・寺社名)」を付している。

 「はじめに」では,本書の目的について「『塼仏の来た道』を丹念にたどることによって,はるかインド・中国から日本へ,そしてさらに九州の宇佐へという,古代仏教の伝播と受容の諸相をあきらかにすること,そして仏教の伝播ということにかかわった有名・無名の僧たちの,信仰と人間像の一面を描き出すこと,それが本書のテーマである」(iii頁)と明言する。単に塼仏が伝播した事実を考証するのではなく,それに携わった僧侶の信仰や人間像に迫ることを目的に掲げているところに本書の類書にない特色があることを著者自ら宣言しているのである。

書評

岡村秀典著『中国文明 農業と礼制の考古学』

杉本憲司

 最近の岡村氏による研究は,日本における中国考古学研究の最先端を,いやそれどころか中国をふくめて世界の学界をリードするものがみられる。ここで取り上げる『中国文明 農業と礼制の考古学』は氏のそのような最近の研究を,多くの関心をもつ読者に読みやすくまとめあげたもので,考古学という狭いものでなく広義の歴史学における中国古代史研究の書といえるものである。

 この書の内容をまず目次から見ておこう。

からなるもので,以下少し紹介を兼ねて感じるところを述べてみたい。

 “はじめに”において,著者は簡単にいままでの関係ある学史を述べ,「今も中国でさかんな『古史研究』としての文化史考古学でなく,ウィットフオーゲルの着目した農業生産や社会的分業,宮崎市定や松丸道雄らが唱えた都市国家論や邑制国家論,張光直の都市文明論を批判的に継承しながら,前三千年紀から前二千年紀にいたる中国文明の形成プロセスを,最新の考古資料にもとづいて論じ」たもので,キーワードとして下部構造の「生業」と「生活」,上部構造の「王権」と「礼制」,その全体を包括する「社会」と「国家」をおいているという。

研究動向

高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会報告

高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会
  • 1. はじめに
  • 2. 石槨解体に至る経緯
  • 3. 石槨解体に関する日本考古学協会の取り組み
  • 4. 石槨解体に対する協会員の声
  • 5. 将来への展望
  • 6. まとめ

−要旨−

 高松塚古墳壁画は,1972(昭和47)年に発見され,その後の保存施設の建設等を経て,国の管理の下発掘調査当時の状況で保存されてきたと考えられていた。ところが,2004年に刊行された『国宝・高松塚古墳壁画』によって壁画の劣化が一般に周知されるとともにその後のカビの大量発生等を受け,解体修理の方針が打ち立てられた。現在,高松塚古墳は,解体修理に伴う発掘調査を経て,壁画の恒久的保存修復作業が行われている。一方,キトラ古墳は,1983(昭和58)年に壁画の存在が確認され,その後現地保存のための処置が施されたが,高松塚古墳と同様にカビの発生を抑制することが困難で,かつ漆喰の剥離が顕著であったことから,壁画の剥ぎ取り作業が実施された。

 この二つの壁画の取り扱いに対して,日本考古学協会は高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会を組織し,協会の総・大会時に二度にわたる声明及びポスターセッションを行うとともに,会員諸氏から広く意見を求めるためのアンケート調査を実施した。

 本論は,高松塚・キトラ両古墳の壁画発見から石槨解体または壁画剥ぎ取りに至る経過を辿り,そこに至るまでの問題点を整理するとともに,今後第三の壁画古墳+が発見された際に如何に対処すべきか,それに対する将来の展望をとりまとめたものである。

キーワード

  • 対象時代 飛鳥時代
  • 対象地域 日本(近畿)
  • 研究対象 終末期古墳