日本考古学協会2004年度秋期大会は、11月6日から8日までの日程で、秋空澄みわたる広島の地で開催された。広島大会はじつに1959年以来45年ぶりである。河瀬正利実行委員長が初日の公開講演会で「1959年の大会は松崎寿和氏を中心に開催され、次いで行われた1961年の帝釈峡馬渡遺跡と草戸千軒町遺跡の第1回調査が広島考古学の画期となった」と挨拶されたように、今大会は帝釈峡遺跡群と草戸千軒町遺跡の、それ以来の長期に及ぶ調査研究の成果を確かめ、今後を見定めることを企図するものであった。6・7日の延べ参加者は会員216名・一般234名、計450名であった。
第1日目は、平和祈念のシンボル・原爆ドームに隣接する広島県民文化センターホールにおいて公開講演会が行われた。潮見浩氏(広島大学名誉教授)「帝釈峡遺跡群の調査」は、1961年以来の調査によって、豊富な動物遺体などから山間部に定着した狩猟民の姿が明らかになったこと、九州や近畿といった東西との関係だけでなく、隠岐・山陰側や瀬戸内・四国側との南北の関係を重視すべきだと論じた。また、観音堂洞窟25層B出土人骨がいったん旧石器時代人骨と判断されたのち、鹿角と結論された学問的経緯にも触れられた。松下正司氏(比治山大学名誉教授)「草戸千軒町遺跡と博物館」は、芦田川の中洲にある遺跡を河川改修工事に伴って継続的に調査する未経験の取り組みが、建設省と粘り強い交渉を重ね、かつ調査成果を常に市民に速報しつつ行われたことを鮮明にし、その結果、中世考古学という新たな学問分野形成に繋がったと述べ、さらにこの調査が川底に埋もれた遺跡の調査と保護をどのように調整するかを問いかけた文化財行政の大きな実験であったと総括された。2つの調査は時代も調査方式・背景も異なりながら、継続的調査がいかに労の多いものか、しかしいかに稔りの多い、広がりのある成果をもたらすかを実感させるものであった。
このあとメルパルク広島6階で懇親会が催され、約120名が参加した。今夏の台風で名産牡蠣筏 が大被害を受けたと紹介されながら、鯛など瀬戸内海の幸を味わいつつ、懇談が賑やかであった。
第2日目は、東広島市にある広島大学を会場として研究発表と図書交換会・埋文委情報交換会が開催された。研究発表はシンポジウム形式で、「縄文時代の山地域と沿岸域−中国山地の縄文文化−」、「中世における生産・流通・消費−中国地方の中世考古学−」の2つが行われた。縄文シンポは、帝釈峡遺跡群の調査成果を軸として、近年明らかになってきた中国地方縄文世界における山地域と沿岸域との関係を、集落・土器・墓制・生業の観点から読み解こうとするものであった。東日本とは異なる縄文文化の具体像がよく示されたという印象をもつ。中世シンポは、中国山地の鉄・銀生産、備前の陶器生産から瀬戸内海を介した流通、さらに集落・城館における消費に至るまでの全体を鳥瞰する意欲的な試みで、この地域が中世世界を考古学的に総合化するのにじつに魅力的な地域であることを示した。2会場とも常時130人内外の参加者があり、議論を注視していた。
第3日目の遺跡見学会は河瀬正利・竹広文明両氏の案内で、広島駅新幹線口を起点として帝釈峡寄倉岩陰遺跡・東城町立時悠館、安芸高田市・吉田町歴史民俗資料館、豊平町吉川元春館跡、千代田町万徳院跡をめぐる中国山地の奥深さを知るコースで、25名が参加した。寄倉の壮大な岩陰とそれをとりまく紅葉をながめ、毛利元就居城郡山城の防御性を抑えた姿を知り、元就次男吉川元春の館跡・吉川氏万徳院跡の見事に遺存する遺構群に驚く、充実感あふれる内容であった。
なお、今大会時に開催された理事会において、新潟県中越地震による文化財被害に伴う諸活動を支援すべく、理事会内に担当チーム(総務石川、文化財保護担当橋口・佐古・大竹)を設置し、水害被害を含めて今後の対応を検討していくことが決定された。
今回2ヶ所の会場のどこにも行き届いた準備と心配りが感じられた。河瀬実行委員長はじめ古瀬清秀事務局長ならびに広島大学教員・学生スタッフと県内関係者による実行委員会、及び共催の広島大学・広島市教育委員会・東広島市教育委員会に心より感謝申し上げます。
(総務担当:石川日出志)日本考古学協会2004年度大会は、2004年11月6日(土)・7日(日)・8日(月)の3日間にわたり、広島県民文化センターならびに広島大学で開催された。
第1日目の午後からは田村晃一会長、河瀬正利大会実行委員長、岸田裕之広島大学大学院文学研究科長、黒川浩明広島市教育長の挨拶のあと、広島大学名誉教授潮見浩氏、比治山大学名誉教授松下正司氏による講演が行われた。会員、一般市民合わせて二百数十人の参加があった。
潮見氏は「帝釈峡遺跡群の調査」と題し、1961(昭和36)年の発見後、40年以上に亘って発掘調査されている帝釈峡遺跡群について、発見に至る経緯や調査の展開、個々の遺跡や出土遺物から見た遺跡群の意義を解説された。さらに最後に、幻と消えた帝釈観音堂洞窟遺跡の後期旧石器時代人骨の発見とその後の顛末を語られた。多くの方が初めて耳にする事柄であったと思う。次に松下氏は「草戸千軒町遺跡と博物館」と題し、先の帝釈峡遺跡群と同様、調査開始以来40年以上となる草戸千軒町遺跡の発見からその発掘の経過、その成果を啓発する博物館建設までの経緯を語られた。わが国の中世、近世考古学研究の先駆けとなった遺跡の調査研究活動は多くの人々の熱意に支えられ、国と地方の行政を動かし、ついには県立歴史博物館建設に至った。氏はそのレールを敷かれた一人だけに、一層感無量の思いをお持ちであろう。
講演会終了後、メルパルク広島に会場を移し、懇親会を開催した。100名以上が参加し、和気あいあいの雰囲気の中で約2時間、会員相互の親睦や情報交換が行われた。
第2日目は会場を東広島市の広島大学に移し、「縄文時代の山地域と沿岸域−中国山地の縄文文化−」、「中世における生産・流通・消費−中国地方の中世考古学−」というテーマで2会場に分れて、計12名の研究発表がなされた。会員、一般市民合わせて約350名の参加があった。
まず、前者では宮本一夫・竹広文明両氏が司会者となって、東西約400kmに細長く延びる地形が特徴の中国地方において、縄文時代において中央の山地域とその両側に位置する瀬戸内海、日本海側との関係がいかなるものであったかを、中越利夫・角田徳幸・幸泉満夫・山田康弘・山本悦世・松井章の各氏が、土器・墓制・集落・生業などの様々な視点から探った。中国山地に位置する帝釈峡遺跡群が定住集落であったのか、それとも定期的な移住集落であったのかに端を発するが、縄文時代の山地域と沿岸域をめぐる関係は、地域性に則した生業活動の差が現出する場面もあるが、基本的に大きな差異は見られないという見解が提示された。むしろ、山地と沿岸という二項対立的にみるより、生態学、民族学的な一体的理解のアプローチの必要性が指摘された。
後者の研究発表では村上恭通・岩本正二両氏の司会で、松井和幸・遠藤浩巳・乗岡実・谷若倫郎・鈴木康之・小都隆の各氏が、中国地方における中世社会の生産・流通・消費活動について持論を展開した。中国地方の中世社会を象徴する鉄・銀・備前焼・海賊衆・草戸を中心にしたそれらの物資の流通と消費の問題点を解題の中心に据えた。筆者はかつて岸田裕之氏に、瀬戸内の物流の中心という草戸千軒町遺跡を今にたとえるならば、「のぞみ」の停まる新幹線駅だったのか、「ひかり」あるいは「こだま」程度の停車駅だったのかと聞かれたことがあった。今回の内容で答えが出せたのかどうかは分からないが、それぞれ聞き応えのある論が展開されたと思う。
第3日目は広島県北部の山間地を中心に設定した「帝釈峡遺跡群と中世城館」をめぐる見学会を実施した。約30名の参加があり、帝釈峡では紅葉と国史跡寄倉岩陰遺跡、新設された資料館「時悠館」に迎えられ、40年ぶりの再訪を楽しんだ会員もいた。この他、中世毛利氏の本貫地吉田郡山城、整備中の吉川元春城館などを見学した。
本大会は実に45年ぶりの広島開催であった。多くの関連諸機関、個人の協力を得て、大会運営が可能となった。紙上ではあるが、深甚の謝意を表します。
(大会事務局長 古瀬清秀)