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2006年度愛媛大会報告

 日本考古学協会2006年度秋期大会は、11月3日から5日までの3日間、愛媛大学を会場とした研究発表および現地見学会として開催された。愛媛県で本協会の行事が実施されるのは初めてのことだったが、3日・4日の研究発表の延べ参加人数は、協会会員257名、一般238名、合計495名を数え、盛会であった。大会のテーマが瀬戸内海の考古学に特化されていたためか、東日本からの参加者がやや少なかったが、活気のある大会だった。

11月3日(金)

 愛媛大学グリーンホール(共通教育大講義室)での公開講演会から始まった。午前11時30分から受付を開始したが、常連や懐かしい顔が次々に来場され、たちまちホールは満席となり、別室に映像を中継して事無きを得た。

 13時30分から大会を開始し、まず西谷正協会会長の開会挨拶、下條信行大会実行委員長、小松正幸愛媛大学学長の歓迎挨拶があった。

 続いて下條信行大会実行委員長(愛媛大学教授)による公開講演に入った。下條教授による「瀬戸内世界の社会と交通」は、しばしば回廊や通廊などの言葉で九州と近畿を結ぶ文化の通り道として捉えられがちな瀬戸内を、地域的な特性で区分され、特に西部瀬戸内の発展段階を整理されたうえで、固有の文化と社会からなる西部瀬戸内文化圏が形成されていること、九州文化の東方への波及がこの地でいったん咀嚼されたものであることなどを明らかにされた。愛媛大会開催の意義を象徴する講演であった。

 公開講演の後、「特別史跡高松塚古墳の保全・保護を求める再度の声明」、「平城宮跡地下の高速道路通過計画の再考を求める再度の声明」、「学習指導要領の改訂に対する声明」の3つの声明を発表した。

 15時30分からは、早速実質的な討論である分科会に入った。分科会はⅠ「四国・瀬戸内の弥生集落と交通」、Ⅱ「瀬戸内の出現期古墳」、Ⅲ「考古学(文化財)による地域貢献・社会貢献」の3会場に分かれ、いずれも大会2日目の午前中に継続して実施した。

 分科会の開催中に、分科会Ⅲの会場である総合情報メディアホールで、本協会は「埋蔵文化財保護の動向」と「歴史教育と考古学」の2つのポスターセッションを行った。後者は3番目の声明に関するもので、小学6年生の歴史教科書から旧石器時代と縄文時代の記述が消えてしまった現状をアッピールした。

 各分科会が終了した後、18時30分から大学会館パルトで懇親会を行った。220名の参加者があったが、お断りした方もあると聞く。大会に参加した協会会員の延べ人数250名からすると、おそらく8割を超える会員の参加があったと思われるほどの、大盛況だった。

11月4日(土)

 9時から3会場で分科会を再開した。分科会Ⅰは両日ともに田ア博之会員の司会で進行した。四国・瀬戸内の弥生集落を密集型大規模・広域散在型・高地性の3タイプに分けて論じ、分銅形土製品・石器・鉄器を通して集落間の交流の在り方を探った。これら計6名の研究発表を踏まえ、10時55分から12時30分までミニシンポジウムが開かれた。

 分科会Ⅱは村上恭通会員の司会で、瀬戸内の出現期古墳を論じた。こちらは備讃、阿波、安芸・備後、伊予の地域別に出現期古墳の様相が4名から研究発表された。古墳時代前期前半はこれまで考えられていた以上に各地の独自性があり、定型化の始まりは前期後半をまたねばならないこと、さらに地域の特性とそれを越える共通性が、10時30分から12時30分までミニシンポジウムを含めて熱心に討議された。

 分科会Ⅲは岸本雅敏・下條信行両会員の司会のもとで、考古学の活用に関するテーマが論じられた。両日で9本の研究発表があったが、博物館活動に関するものと遺跡整備や地域のコミュニティーへの参画などの地域に密着した活動の実践例が、生き生きと報告された。11時20分から12時30分までミニシンポジウムを開き、論議を重ねた。

 13時30分から15時40分までは、3会場の分科会を一堂に会し、「地域社会と考古学の接点を探る」総合討論が、下條信行会員の司会で開かれた。各分科会の司会者から分科会での発表やシンポジウムの内容の報告を受け、活発に論議が戦わされた。考古学の充実・蓄積した成果は、意外なほどに社会に認知されていない。そこに危機感を抱いて分科会Ⅲが設定され、総合討論されたのであり、愛媛大会は考古学の成果をいかにして地域社会に還元するかという点を論じたことで、画期的な大会となった。

11月5日(日)

 大会最終日は、南予コースとしまなみコースの2コースに分かれて、現地見学会が実施された。南予コースは前日に宇和島に移動しての1泊2日のコースで、18名の参加があった。宇和島から松野町の中世河後森城跡、西予市宇和町の伝統的建造物保存地区および笠置峠古墳を見学しながら北上した。笠置峠古墳では地元の皆さんから接待を受けるなど、望外のこともあった。しまなみコースには31名の参加があり、今治市妙見山古墳と村上水軍博物館、大山祇神社・宝物館などを見学している。

 最後になったが、本大会の成功は下條大会実行委員長のもと、愛媛大学、愛媛県考古学会など関係学会に参集された協会会員と非会員が一丸となって果たされた、準備と万端の大会運営によるところが大きい。深まる秋の愛媛での大会に尽くしていただいた地元の行き届いた御厚意に対して、心から御礼申し上げたい。(総務担当理事 髙倉洋彰)

2006年度愛媛大会の概要

 日本考古学協会2006年度大会は、「地域社会と考古学−四国・瀬戸内−」を総合テーマとして、2006年11月3日(金)・4日(土)・5日(日)の3日間にわたり、愛媛大学城北キャンパスで開催され、会員、一般をあわせて495人の参加があった。

 第1日目の午後から、西谷正会長、下條信行実行委員長、小松正幸愛媛大学長の挨拶のあと、下條氏によって「瀬戸内世界の社会と交通」を演題とする公開講演が行われた。下條氏は、縄文時代晩期末〜弥生時代前期の稲作農耕文化の伝播過程、弥生時代中期の大規模集落の成立と構造、弥生時代後期の青銅祭器や器台の展開から出現期前方後円墳の登場を、具体的な資料に基づいて跡付け、瀬戸内における地域圏の成立過程と自立性を説かれた。公開講演会の終了後、「四国・瀬戸内の弥生集落と交通」、「瀬戸内の出現期古墳」、「考古学(文化財)による地域貢献・社会貢献」の3つの分科会に分かれ、瀬戸内・四国の地域社会像の検討、地域と考古学の連携を目指した試みの報告が行われた。各分科会の概要については、後述する分科会の概要に譲る。1日目の夕刻、大学会館に会場を移して、懇親会を開催した。220人もの参加者があり、会員相互の親睦と情報交換が行われた。

 2日目の午前中は、1日目に続いて3つの研究発表分科会を行い、午後から分科会の検討成果を持ち寄って総合討論「地域社会と考古学の接点を探る」を開催した。3日目は、愛媛県南部をめぐるAコース、しまなみ海道のBコースの遺跡見学会を実施した。49人の参加者があり、愛媛の遺跡を育んだ環境を含めた見学会を行うことができたものと考える。

 本大会は、四国では20数年ぶりの開催であった。愛媛県・四国各県の会員だけでなく、多くの非会員の方々から協力を得て、大会運営が可能となった。紙上ではあるが、深甚の謝意を表します。

〈研究発表分科会Ⅰ 四国・瀬戸内の弥生集落と交通〉の概要

 四国・瀬戸内では、この20年間、弥生時代、とくに中期後葉〜後期の集落遺跡の発掘調査が進み、研究成果も蓄積されてきた。今回、分科会Ⅰでは、当該期の集落遺跡の景観や構成などの実態的な観察・分析から出発して、四国・瀬戸内という地域を眺めたとき、どのような地域像を描き出せるかを問うことから議論を出発させた。また、地域を特色づける瀬戸内海という海域が、集落間や地域間を繋ぐ交流とどのような関係をもつものかを考えた。

 まず、弥生時代中期後葉〜後期における瀬戸内・四国では、平野・盆地のなかで小河川の流域ごとや周辺の丘陵裾の段丘を単位として径2〜5km前後の範囲に複数の集落遺跡が集合する。こうした集落遺跡の集合体を遺跡群と呼ぶこととした。その上で、径数百mの集落域の広がりをもち竪穴式住居や掘立柱建物が密集する密集型大規模集落と、小規模な集落が広域に散在する姿をみせる広域散在型集落を、遺跡の実態から設定し、瀬戸内沿岸の特性の一つとされてきた高地性集落を加えて、研究発表の第1の柱とした。

 密集型大規模集落については、田アが愛媛県松山市の文京遺跡、森下英治氏が香川県善通寺市の旧練兵場遺跡での分析を報告した。集落の景観の上で読み取れる構成単位、出土遺物から構成単位を結びつけ構造化させている紐帯原理などの分析が進められている。分科会Ⅰの最後に設けたミニシンポジウムでは、出原恵三氏による高知県南国市田村遺跡群の実態報告とあわせ、平野のなかに径2〜5kmの範囲に展開する遺跡群が点在し、その中核となる集落類型として密集型大規模集落があることが明らかにできた。また、密集型大規模集落内部では、階層性の萌芽を読み取ることも指摘された。

 広域散在型集落については、伊藤実氏が、広島県の広島湾沿岸・西条盆地、岡山県の足守川下流域での分析を報告した。ミニシンポジウムでは、田畑直彦氏による山口県島田川流域や、中村豊氏による徳島市鮎喰川下流域の集落遺跡の実態が報告された。その結果、広域散在型集落には、弥生時代前期以来の自立的な小規模集落が散在するあり方と、中期後葉〜後期の手工業生産を役割分掌する小規模集落群から構成されるあり方の2者があることを整理できた。また、山本悦世氏は、岡山平野では足守川下流域の広域散在型集落と密集型大規模集落と考えられる百間川遺跡群が併存する可能性を指摘した。今後、岡山平野における集落遺跡の実態把握をより進めることが必要である。

 近藤玲氏は、瀬戸内の高地性集落とされてきた集落遺跡を、比高40m前後から100m未満の丘陵斜面や段丘上に立地するAタイプと、比高100m以上の丘陵や山地の斜面あるいは頂上に立地するBタイプに区分する。徳島県吉野川流域のAタイプの集落遺跡を中心として分析を進め、周防灘北部地域、芸予〜備讃瀬戸地域、播磨灘東部地域に分布する高地性集落と比較した。Aタイプが広域散在型集落のもう一つの類型であることが明らかにできたと考える。

 こうした集落の論議から、四国・瀬戸内の平野・盆地ごとに、相互に独立し固有の性格をもつ多様な地域社会の実態が浮き上がってきた。しかし、平野が近接して発達し、空間的に連続した地理的関係にあるので、まったく異なった性格であったとは考え難い。互いに類似し共通した習慣や生活意識をもっていたと考えられる。それを基盤として、より広い空間での交流関係が形成される可能性が生まれてくる。こうした視点から、梅木謙一氏は、四国・瀬戸内の代表的な遺物である分銅形土製品を分析することで、灘を単位とする基盤交流圏が複数併存する姿を明らかにした。さらに、基盤交流圏をこえて人が移住する交流の実態をも指摘した。さらに、村田裕一氏は、瀬戸内の鉄器化の実態を整理し、背景となった集落間の交流について論議を深めた。とくに、鉄素材として棒状鉄器を入手することで、瀬戸内独自の鉄器の生産が可能になったことを指摘した。

 このように、分科会Ⅰでは、四国・瀬戸内では、単一の地域社会ではなく、灘を単位として分節化された地域社会が形成されていること、それぞれの地域社会の構成は多様であること、背景として東西に加えて瀬戸内の南北を直結する交流による地域社会の形成が進むことが指摘できる。ミニシンポジウムの締めくくりとして、武末純一氏からは、北部九州における弥生集落との比較からの評価、瀬戸内の各地域社会が鉄素材を直接的に韓半島から入手した可能性を検討すべきとのコメントをいただいた。四国・瀬戸内にとどまらず、韓半島をも含め、より広域での交流のなかで当該地域の弥生時代社会の評価が必要となってきている。(田ア博之)

〈研究発表分科会Ⅱ 瀬戸内の出現期古墳〉の概要

 古墳時代開始期、環瀬戸内の多様な墓制を対象とし、地域ごとにその特質の検討と整理を行い、弥生時代終末期から古墳時代前期における墓制の画期と背景を明らかにすることを目的として分科会Ⅱを設定した。

 もとより本地域においては、弥生墳丘墓や出現期の前方後円墳については議論が活発である。今回は、まず吉備・讃岐、阿波、安芸、伊予という地域的枠組みで各報告者が検討し、その成果をもとに同じ俎上で議論しようと試みた。

 まず村上が趣旨説明を行い、瀬戸内の地理的環境や交通環境を説明したうえで、瀬戸内の東西、南北で共通/相違する様相について概述した。

 最も資料数の多い吉備・讃岐を担当した大久保徹也氏は、近藤義郎氏の言説にまで掘り下げ、前方後円墳の成立に関するメカニズムそのものについて論じた。楯築墳丘墓にはじまる弥生墳丘墓の動向と前方後円墳の展開とを対比する手法は斬新であり、環瀬戸内にとどまらない視角を提供した。

 阿波を担当した栗林誠治氏は弥生時代の墓制である積石塚から検討をはじめ、讃岐地域との関連を視野に入れて前方後円墳の成立を論じた。こうした前方後円墳以外の墳丘の存在を示し、複雑な墓制の展開を環瀬戸内圏外者に印象づけたように思う。また可視領域の手法は古墳と交通域・生活域との関係に対する理解をたすけ、阿波という地域理解を促した。

 古瀬清秀氏による安芸・備後地域の報告では、西願寺型に代表される弥生墳墓を有する安芸地域と弥生墳墓が顕著ではない備後地域とが対照的であり、それを前史とした出現期古墳の様相が論じられた。安芸と備後を比較すると細部では差異が大きいものの、二重口縁加飾壺の採用や鉄製武器形副葬品などは両地域に共通し、古墳出現期の様相として捉えられるようである。

 中・東部瀬戸内とは異なり弥生墓制が発達しない伊予地域については、柴田昌児氏が担当した。数は少ないものの、その取り扱いが曖昧であった資料を丹念に検討し、東予、中予、南予各地域の様相が整理され、地域差が明確となった意義は大きい。また、立地、墳丘構造、集落との位置関係など、きわめて多様である点が指摘された。

 各報告を受けて開催したミニシンポジウムでは、各地の墓制を通覧した場合、古墳時代開始期にではなく、むしろ前期後半(中葉)に墓制の大きな画期が見いだせることが確認された。また、あわせて検討した集落構造、物流、手工業生産の変遷と比較すると、吉備・讃岐、阿波地域においてはその画期と墓制のそれとが符合しそうだという展望が示された。これに対し、安芸・備後、伊予では集落や手工業生産(製塩)の画期が古墳時代開始期に認められそうであり、備讃・阿波とは異なる可能性が指摘された。なお、ミニシンポジウムには、近畿の橋本輝彦氏、九州の田中裕介氏がパネリストに加わった。伊予で問題とした「纒向型前方後円墳」の解釈をめぐっては橋本氏のレクチャーがあり、「纒向型」に対する慎重な取り扱いが喚起された。田中氏は前方後円墳、前方後方墳、そしてその他の墓制が錯綜する様相を整理し、九州における「纒向型」の問題点について論じた。

 分科会を準備段階から通覧すると、瀬戸内における出現期古墳の地域的多様性については当初の目的を達成できたと思う。ただし、増野晋次氏が資料提示した西の長門・周防地域や東の播磨地域のように、対象地域の東西についての検討は不十分であった。とくに副葬品に関しては個別の整理を十分にインテグレイトできなかった部分がある。

 しかしながら、環瀬戸内にとどまらない古墳出現に関する視点を、墓制の検討から、そして墓制と集落・生産・物流との相互関係から発信できたのではないかと考える。ミニシンポジウムの後半において、会場の井川史子氏(カナダ)から、前方後円墳の出現に関する既往の定説と本分科会における到達点とに大きな違いがあるという好意的な意見が提起された。こういった反応がそのことを端的に表しているといえよう。(村上恭通)

〈研究発表分科会Ⅲ 考古学(文化財)による地域貢献・社会貢献〉の概要

 公共工事の抑制、市町村合併、指定管理者制度の制定、国土の大改造とその一方の、地方分権法、景観法の制定、環境保護思想の普及などは表裏をなして、よくも悪くも考古環境を激変させている。そのなかにあって、遺跡観やその取り扱い、あるいは博物館・資料館のあり方も大きく転機を迎え、従来とは異なった観点からの模索が各地において試行ないし実行されている。そうしたなかから、今回、福島県白河館まほろん(製鉄実験と市民参加)、兵庫県稲美町の播州葡萄園の史跡と町づくり、九州国立博物館の学芸員とボランティアのコラボレートによるIPM活動、兵庫県立考古博物館(仮称)のひとづくり、まちづくりの考古学、鳥取県妻木晩田遺跡の遺跡の整備と活用、愛媛県西予市岩木地区の住民・考古学徒・行政の三位一体による里づくり、琉球大による第二次大戦時の沖縄県南風原陸軍病院壕群の調査と活用、松江市田和山遺跡の保存と整備利活用における考古学者の役割、山陰を事例とした遺跡の保存利活用の推進と市民の役割の9本の発表があった。

 こうしたテーマでの大会は今回がはじめてであることが示すように、取り組み始めてからの日時は浅く、試行錯誤の感が強い。したがって、整合的なテーマ設定での討議とはいかず、個々の工夫、課題が開陳される例が多いのであるが、それだけに具体性に富み、溢れる臨場感を共有することができた。

 そのなかで幾つかの方向性が明確に見えてきている。

 一つは、考古遺産(遺跡・遺物)を単なる歴史上の記念物にとどめるのではなく、「地域資源」、「地域公共財」と位置づけ、これを基盤として地域の力を開花させようとする指向性である。地域基盤を分母とするから、地域の構成者である住民参加、地域創り、景観創り、環境回復あるいは創造へと広がっていくのである。そして地域の観点でとらえる限り遺跡の存在が単なる点に押し込まれることはなく、良好な環境の確保へと衝動し周辺自然環境へと限りなく関心は広がる。それは遺跡を起爆としての点から面への伸張であり、やがてそれが里山創り、里地創りなどの地域創りへと拡散していく。

 まほろんの該地様式の古代箱形炉による鉄づくりは、まさに市民との協同による成果であり、稲美町例は近代葡萄園遺跡を核とする、同町に広がるため池や疎水関連近代建築をからめた広域な景観創りを目指すものである。兵庫県立考古博は歴史遺産は地域資源の理念のもと住民主体、住民主役で歴史遺産を保護しようと、そのための「ひとづくり」、「まちづくり」に邁進している。妻木晩田遺跡は広大な遺跡を、人の歴史と自然の両面から整備と利活用を図り、これから市民とともに地域創りに入ろうとしている。愛媛県岩木地区は三位一体による遺跡を核とする里山創りを目指している。九国博は博物館の社会的地域的責任として自然共生市民協同によってIPM活動を敢行し、琉球大は陸軍病院壕の調査によって南風原町の戦争罰を伝える教育に貢献している。和田山例は保存を巡って敵対的であった行政と市民・考古学者が整備利活用にあたっては協同的関係となるなど、漸進的あり方を示した。そして山陰事例からは、遺跡を保護すること自体を自己目的化するのではなく、「持続的にどう楽しい場にするか」がもっとも大事だと、当たり前であるが、実に重要な指摘がなされた。

 活動ケースは多岐であるが、地域資源・景観・環境・住民参加・地域創り・快適空間の創造などがキーワードといえる。これらに理会し、地域のプロデューサー、プランナーとしてどう地域に貢献できるか、それがこれからの考古学徒の進むべき道の一つであるようだ。(下條信行)