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一般社団法人日本考古学協会2010年度兵庫大会報告

 2010年度の兵庫大会は10月16日(土) 17日(日)の両日 兵庫県立考古博物館 明石市生涯学習センター及び播磨町中央公民館を会場に開催された。 前日の15日(金)には理事会 16日は臨時総会及び公開講演会 研究発表第 1 分科会さらに17日には研究発表第 2 3 分科会 埋蔵文化財保護対策委員会情報交換会 ポスターセッション及び図書交換会が開かれた。 今次大会は協会蔵書のセインズベリー日本藝術研究所への寄贈問題を巡っての臨時総会が予定されており 当初から緊張した雰囲気の中で始まった。 参加者は両日合せて会員313名 一般参加者407名 合計720名であった。

 臨時総会は明石市生涯学習センターを会場に開催された。 まず 議長団を選任し 直ちに議事に入った。 賛否両論の活発な議論がなされた後 議決に移ったが 今回は重要な議案であり 欠席者については委任状形式でなく 議決権行使書を用いて 理事会案に対する賛否の意思確認を行うこととした。 出席者の投票の後集計され 投票総数2,077票 無効14票 有効投票数2,063票 理事会案賛成922票 理事会案反対1,111票 棄権30票で 理事会案は否決された。 このため 協会蔵書寄贈問題は2010年 1 月の理事会決定以前の状態に戻されることになったが これに対し 議長団より特別委員会等を設置して検討することなどの提言があり 閉会となった。

 次いて公開講演会に移った。 まず 菊池会長の開催挨拶の後 受入れ側を代表して兵庫県立考古博物館館長の石野博信実行委員長より歓迎の挨拶をいただいた。 演者は同じく石野博信氏で 演題は 「邪馬台国時代の居館と古墳」。 石野氏はよどみなく 滔々とした口調で持論を展開されたが 含蓄ある内容で 多くの聴衆は興味深く聴き入っていた。 この日は引き続いて 「『播磨国風土記』 と祭祀」 をテーマとした研究発表第 1 分科会が行われた。 『播磨国風土記』 を 祭祀を切り口に考古学と文献史学の面から掘り下げた興味深い内容で ほぼ満席となった。 また 協会理事会は午前の臨時総会の結果を受けて 臨時総務会を開催し 今後の対応について議論した。

 すべての会務行事の終了後 ホテルキャッスルプラザ 1 階鳳翔の間に会場を移し 懇親会が開催された。 会場いっぱいの盛況で 菊池会長 石野実行委員長の挨拶の後 間壁葭子会員が加わっての 白鷹株式会社から提供された白鷹一斗樽の鏡割りでスタートした。 上野佳也会員らのスピーチの後 懇談に入り 余興でご当地竜山石製ぐい飲みなどの景品を引き当てる会員もいた。 二次会に出かける会員も多く 名物の明石焼も堪能したようだ。

 第 2 日目は 研究発表は二つの会場に分かれて 第 2 分科会が播磨町中央公民館で 「古墳出現過程と銅鏡」 第 3 分科会が兵庫県立考古博物館で 「古墳時代の棺とその歴史的意義」 をテーマに行われた。 いずれもご当地に関連深いテーマだけに関心が高く 両会場とも200名以上の参加者があり 盛況であった。 会場が少し離れていただけに多少の不便が生じたが 両会場間の移動はバスのピストン輸送でこなした。

 本会場の兵庫県立考古博物館の 1 階メインホールでは@研究環境検討委員会 A社会科歴史教科書等検討委員会 B埋蔵文化財保護対策委員会 C神戸大学 D考古学倶楽部の 5 件のポスターセッションが行われた。 @は 「厳しさを増す研究環境を考える」 をテーマとするもので 資格制度や指定管理者など埋文行政の現状を巡る諸問題 行政改革の中で厳しい状況に直面する博物館のあり方 非常勤職員を巡る諸問題などを取り上げた。 専門職員の年齢構成や退職者後任の不補充などを大きな問題と認識し 考古学と社会との関わりを引き続いてシンポ等を通じて 問題の共有と意見集約を続けることを示した。 Aは2008年 2 月に小学校の学習指導要領が改訂され 6 年生の歴史学習に狩猟採集の項目が加わり 来年度からの教科書はすべて縄文時代が取り上げられることになったものの 旧石器時代の記述には温度差があることを問題視している。 その他 弥生時代や古墳時代の扱いについても各社の教科書を展示することでわかりやすく示した。 Bは香芝市の遺物廃棄問題を取り上げ その対応と対策について紹介している。 CDは受入れ側の展示で 前者は神戸大学が社会貢献の一環として実施している 自然災害からの歴史資料の保全を行う活動を紹介している。 後者は兵庫県立考古博物館のボランティア活動について紹介したものである。 博物館関係者にとっては参考になろう。 地下 1 階ネットワーク広場では恒例の図書交換会が行われ 盛況を呈していた。 また 協会理事会は前日開催の臨時総務会を受けて 午前 9 時から臨時理事会を招集し 今後の対応について協議した。

 埋蔵文化財保護対策委員会は播磨町郷土資料館で情報交換会を開催し 出原恵三氏 (高知) が 「高知城の保存運動とその成果」 をテーマに基調報告を行った。 出原氏は文化財保護には市民運動との連携がいかに重要かを強調されたが 拝聴して それに加えて文化財の保存問題が生じた際 研究者がまず何らかの行動を起こすということの重要性も強く感じた。

 今大会の運営については 兵庫県立考古博物館を主体とする実行委員会の実に用意周到なる準備が功を奏する形で現れていた。 1 年近く前より準備に入り 『大会資料集』 も621頁という 大部なものを用意していただいた。 また 大手前大学史学研究所には 独自に第 2 分科会用に使い勝手のよい 『弥生古墳時代銅鏡出土状況資料集』 を作成配布していただいた。 関係機関及び関係の人々の多大なるご尽力に感謝したい。 実行委員会のご苦労のほどは 大会後の帰途ご一緒した副委員長の櫃本誠一さんにお礼を申し上げたところ 「少し疲れましたわ これから帰って寝ます。」 の言葉にすべてが窺えた。
(総務担当理事 古瀬清秀)

2010年度兵庫大会の概要

 日本考古学協会2010年度大会は 兵庫県明石市と加古郡播磨町において10月16日(土)17日(日)の 2 日間にわたって開催された。 16日は公開講演会と第 1 分科会が明石市生涯学習センター 17日は第 2 分科会が播磨町中央公民館 同日第 3 分科会が兵庫県立考古博物館を会場として行われ 二日間にわたり会員一般参加者あわせて720人の参加があった。

 16日は 10時30分より協会所蔵図書の寄贈先に関する臨時総会が催された。 事態の重要性を鑑み 議事が延長し大会に影響を及ぼすことも懸念されたが 臨時総会は午後からは会場を変更して行われることとなった。 理事会と有志の会ならびに議長団の努力と決断に感謝したい。

 こうして兵庫大会は予定通り16日の13時に開会し 菊池徹夫会長の挨拶に続き 石野博信実行委員長の挨拶があった。 その後 石野博信氏 (兵庫県立考古博物館長) による 「邪馬台国時代の居館と古墳」 と題した公開講演が行われ 2 〜 3 世紀の西日本における祭祀と墓制を総括的に概観した。

 引き続き 3 時より 第 1 分科会 「『播磨国風土記』 と祭祀」 が開催された。 各分科会の概要については 後述する分科会の概要に譲る。

 16日の19時より 西明石のホテルキャッスルプラザにおいて懇親会が催された。 受付では石棺石材として知られる 「竜山石」 のサンプルが参加賞として手渡され 銅鐸等の蒐集で著名な辰馬考古資料館の創設者 辰馬悦蔵翁に由来する 「白鷹」 菰樽の鏡開きからスタートした会は 参加者数123名と盛況を博し 寛いだ雰囲気の中で活発な意見交換がなされた。

 翌17日は二つの会場に分散して分科会が催された。 第 2 分科会 「古墳出現過程と銅鏡」 は播磨町中央公民館を会場として また第 3 分科会 「古墳時代の棺とその歴史的意義」 は兵庫県立考古博物館を会場として実施し 研究発表と討論が重ねられた。 約 2 km隔たる二つの会場を結ぶ交通手段として マイクロバスによる往復便を運行し さらにそれぞれの会場で開催される分科会の映像と音声が相互にライブ配信するシステムを導入して 分散開催のデメリットの削減を図るとともに参加会員のストレスを緩和するよう努めた。 兵庫県立考古博物館メインホールでは 研究環境検討委員会の 「『厳しさを増す研究環境を考える』 アンケート結果」 社会科歴史教科書等検討委員会の 「小学校の教科書で教えたい考古学資料−弥生古墳時代−」 埋蔵文化財保護対策委員会の 「埋蔵文化財は誰の責任で護られるか (2010秋)」 のポスターセッションが行われ。 また ネットワーク広場で並行して開催された図書交換会には29団体がエントリーし かつてない活況を呈した。 なお 考古博物館に隣接する播磨町郷土資料館では埋文委情報交換会が開催された。

 これまで兵庫県においては大会が開催されたことはなく 今大会が初めてのものであった。 さらに会場が分散すること また施設が狭隘であることなどの負の条件に加え 臨時総会の同時開催という突発的な事態に直面したにもかかわらず 大きな批判や大過もなく終了できたことは 実行委員会には安堵の念が満ちている。

 無事に大会の運営を果たせた要因は 共催として会場の便を図っていただいた明石市教育委員会 播磨町 兵庫県立考古博物館の支援と協力にあることを明記させていただきたい。 さらには大手前大学 神戸女子大学 兵庫県立考古博物館の教職員や院生学生には実行委員として また大会運営の人的戦力として大いに活躍していただいた。 さらには後援として大会を支えていただき また開催にあたり協力いただいた機関や大勢の関係者に対して 衷心からの感謝を表したい。

 最後に 研究発表に伴い大部の資料集が作成された。 ここでは古墳出現期の銅鏡と各種石棺の全国的集成がなされ 風土記研究も含めた論集が完成した。 これは各分科会の運営とともに資料の作成に携わったそれぞれのコーディネーターとパネラー さらには多くの資料作成者や協力者の尽力の賜物であり 紙上ではあるが 深甚の謝意を表します。 実行委員会は この成果が今後の考古学研究に裨益することを願ってやまない。
(兵庫大会実行委員会:種定淳介)

●第1分科会 「『播磨国風土記』 と祭祀」 (参加者は 一般の方を含め250名であった)

 『播磨国風土記』 に記載のある自然環境 (風土)産業神話渡来伝承などについての考古学的研究としては 武藤誠氏 (「播磨国風土記に見える墳墓造営の記事について」 『関西学院短期大学英文科論叢』 4 1955年) や今里幾次氏 (「播磨国分寺瓦の研究」 『播磨郷土文化協会研究報告』 4 1960年) らによる個別研究 浅田芳朗氏 (「播磨国風土記」 『日本古代文化の探求 風土記』 社会思想社 1975年『播磨国風土記への招待』 柏書房 1981年) や櫃本誠一氏 (同氏編 『風土記の考古学 2 −播磨国風土記−』 同成社 1981年) による総括的研究が挙げられる。 今大会では これらの先行研究で取り上げられた諸側面のうち 「祭祀」に関わる諸問題を取り上げた。 文献史学 (古代史) の研究者も参画し紙上報告を含む 5 つの 『風土記』 を併せ 考古資料を用いた風土記世界の立体的な復元を試みたのである。 この趣旨を最初に櫃本誠一氏 (大手前大学) が説明した。

 つづいて 2 本の研究発表が行われた。 まず 文献史学の立場から 坂江渉氏 (神戸大学) が 「文献史料からみた古代の呪術祭祀」 と題して発表した。 『播磨国風土記』 から復元できる呪術祭祀として @動物 (鹿) と井戸をめぐる呪術祭祀 そしてA境界の祭祀がある。 @については 単なる農民による共同体の祭祀ではなく 族長層が主宰した支配のための勧農儀礼とみる。 Aについては 2 つのタイプに分類する。 第一が 甕や壺を使用する祭り (空洞の器の中に自らの氏神や守護神を招きいれる 「結界の祭儀」 と呼ぶべきもの) である。 もうひとつは 交通を妨害する 「荒ぶる神」 に対する祭りである。 一般集落構成員は 坂 (峠)河川など古代の行路上の境界地に坐す荒ぶる神を鎮め祀ることにより 自らを守る存在に転化してきたと理解する。 特に 揖保郡枚方里 「佐比岡」 を直線的な道路をそらす賽の岡と捉え 通行者による神まつりの場と位置づける。

 これを受けて 大平茂氏 (兵庫県立考古博物館) は 『播磨国風土記』 記載の神々の説話 (神話) は前代の 「古墳時代」 からつづく伝承を記したものと捉え 播磨地域を中心とする兵庫県下の祭祀遺跡と祭祀遺物の概要を紹介した。 特に 「荒ぶる神」 である佐比岡の祭りに使用された 「佐比」 を農工具の総称と位置づけ 姫路市東前畑遺跡や南あわじ市木戸原遺跡をはじめとする全国の著名な祭祀遺跡からは 鉄や鉄製品がしばしば出土することを指摘した。 播磨では 相生市丸山窯跡加古川市神野大林窯跡からU字形鍬鋤先形や有袋斧形の土製模造品が出土していることも報告した。 いっぽう 井戸祭祀について 車輪石と小型製鏡を出土した明石市藤江別所遺跡に注目し 「地霊の象徴たる水を祀るものが地域を支配できる」 という認識があったと考える。 また 交通路祭祀では駅家 (小犬丸遺跡) 出土の木製馬形模造品は馬自身に付いた穢や鬼を祓うための形代と捉えた。

 シンポジウムは パネラーの 2 人に加え 『常陸国風土記』 の笹生衛氏と 『出雲国風土記』 の平石充氏にご登壇願い コーディネーターの任に櫃本氏が当たった。 櫃本氏は @交通路に関する祭祀 A聖水に関する祭祀 B社神社の成立という 3 つの論点をかかげた。

 まず 大平氏が紹介した遺跡の補足として たつの市小犬丸遺跡調査担当の山下史朗氏と藤江別所遺跡調査担当の稲原昭嘉氏により 出土遺構出土遺物の概要が説明された。

 ついで Bの関連で笹生氏が風土記所載の茨城県鹿島神宮関連遺跡を 平石氏が島根県青木遺跡三井遺跡における神社関連遺構の検出例を報告した。 笹生氏は 露天祭祀の段階における 「神の座す場としての高倉」 の存在を指摘し 幣帛には石製品土製品だけでなく鉄製品も存在することを指摘した。 幣帛は 最新の素材や技術により製作された品々であるとする。 平石氏も 神社関連遺構の周辺からは紡織具や漆器類の出土があり 須恵器窯や瓦窯白炭窯などの工房址も存在することから ここでも神に供献する幣帛を作っていたと示唆する。

 短時間で検討不十分な点は少なからず存在したが 「幣帛からみた古墳祭祀と律令祭祀との関連性」 「水利と地域社会の統治原理」 「神まつり幣帛製作の場における渡来系技術の駆使」 という論点は 古墳時代像をめぐる現今の論争にもつながる。 今後の研究の進展に期待したい。
(兵庫大会実行委員会:魚津知克)

●第2分科会 「古墳出現過程と銅鏡」 (参加者は 一般の方を含め235名であった)

 兵庫県という地域は弥生墳丘墓から前方後円墳を生み出していく上で 一つの指針的な地域であり重要な役割をなしている地域と認識してよいと考えられる。 この20年間で たつの市権現山51号 神戸市西求女塚 たつの市綾部山39号などから重要な銅鏡の出土が相次いだ。 まさに鏡の推移を見ながら 古墳出現過程を論議するには ふさわしい地域である。

 銅鏡研究は日本考古学を紐解くと 1920年の富岡謙蔵氏の研究以来 資料集成と型式分類という基本的な仕事が行われてきた。 この蓄積を元に 銅鏡研究から政治的動向や歴史解明の研究を行った小林行雄氏の1950年代の一連の仕事の影響は大きい。 準備会を立ち上げた2009年は 小林行雄氏の没後20年に当たっており この20年間で新出資料の増加や銅鏡研究の進展は著しいものがあった。 特に庄内式期あるいは庄内式並行期は 古墳出現過程の解明にはなくてはならない重要な時期であり この時期を中心に銅鏡を通じて古墳出現過程の解明に迫ることを この分科会の目的とした。

 このような近年の研究の進展を踏まえて 関連資料の集成として弥生時代末〜古墳時代初頭の銅鏡出土墳墓 日本出土漢鏡 7 期銅鏡集成 弥生から古墳時代前期にかけての鏡の出土状況集成を行うとともに 最新の三角縁神獣鏡出土地名表を作成し 岸本直文氏 福永伸哉氏 岩本崇氏の編年的な位置関係を対照できるようにした。

 報告は森下章司氏 (大手前大学) が漢鏡 7 期の銅鏡の流入のあり方 及び弥生から古墳まで見通して製鏡生産の発展から古墳出現を考えた。 岩本崇氏 (島根大学) は三角縁神獣鏡研究の現状をまとめた上で 三角縁神獣鏡の分布の変動と古墳出現展開を整理した。 森岡秀人氏 (芦屋市教育委員会) は古墳出現前後の各種青銅器を検討し 地域性 継続性 弥生青銅器との比較を行った。 福永伸哉氏 (大阪大学) は銅鏡が列島規模で政治的な意味をもち 画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の分布のあり方から政治的親疎関係の推移をよみとった。

 討論では弥生系青銅器と古墳青銅器の関係 弥生終末期の銅鏡の政治性 三角縁神獣鏡と前方後円墳の成立と古墳出現過程と銅鏡についてのまとめを行った。

 森岡秀人氏が提唱した弥生系青銅器と古墳青銅器の関係については 製作技術系譜の連続不連続などの製作状況と製鏡製作段階のとらえ方 それぞれの副葬品への採用不採用の理由や破片青銅器の存在状況とその意義や使用状況に階層表示の意義があるかどうか 及び青銅器生産のあり方の検討を行った。

 また 弥生終末期の銅鏡の政治性について 漢鏡 7 期鏡の流入時期と流入契機 漢鏡 7 期鏡の政治性の有無の検討 弥生系青銅器の終焉状況の検討を行った。

 三角縁神獣鏡と前方後円墳の成立に関しては 三角縁神獣鏡の編年の枠組みと製作流入契機 分布の推移とその意味 伝世鏡論の再検討 前方後円墳成立過程と三角縁神獣鏡 古墳時代製鏡の出現時期と意味 三角縁神獣鏡終焉の状況と意味についての討論を行った。

 古墳出現過程と銅鏡を考える上では 鏡だけでは社会の一部しか照らし出されていないので 同時期の多種多様な小形の青銅器製作や それを管理する社会を念頭において総合的に考えていかなければならない。 銅鏡から見れば 三角縁神獣鏡以前の漢鏡 7 期段階に画文帯神獣鏡を最上位とした政治的な統合の画期を認めるとともに 三角縁神獣鏡の副葬の開始段階にも非常に大きな画期があることが認められた。 これはおそらく箸墓古墳の登場と深く関わっていると考えられる。 古墳時代の定義も儀礼威信財記念物という三者がそろった段階で古墳時代とするのか いくつかの要素が整ってきた段階で古墳時代とするのかによっても 鏡の意義付けが変わってくる。

 今回の分科会は 銅鏡を日本列島だけではなく 中国大陸も含めた東アジア的視点で検討するとともに 日本列島内においては鏡のみに限らず 弥生時代後期から古墳時代にかけての多様な青銅器も含めての検討を行った。 「古墳出現過程と銅鏡」 は難しい問題だということを再認識するとともに 今後の研究の方向を提示できたのではないかと考える。
(兵庫大会実行委員会:篠宮 正)

●第3分科会 「古墳時代の棺とその歴史的意義」 (参加者は 一般の方を含め235名であった)

 兵庫県の古代を特徴づける一つの要素である竜山石は自然科学的分析の成果を受け 石棺材として広く西日本に分布していることが明らかとなっている。 こうした事象を全国的な課題となるよう主要な石棺や木棺について集成し 竜山石製の石棺を含めた古墳時代の棺全体を対象として発表と討論が行われた。 集成された棺は木棺40例 割竹舟形石棺266例 長持形石棺61例 家形石棺1,255例の合計1,622例にのぼり 全国を網羅するものとして初めてである。 主な構成は研究発表者 3 名 資料集における紙面発表者が17名で 当日の発表者以外にも多くの研究者がかかわっている。

 最初に和田晴吾氏 (立命館大学) の趣旨説明があった。 棺を考える際の基礎となるもので 棺を研究することの幅の広さと深さ すなわち棺を 生産と流通 製作技術 技術集団 運搬技術 それらにかかわる政治的社会的状況 及び古墳づくりと当時の死生観 他界観にまで及ぶことのできる素材として位置づけ 特に石棺については残存率が高く 何らかの集団を表象し 生産地と消費地が明確にとらえ得る貴重な資料であることを強調した。

 研究発表は棺の種類によって分けられ 大きくは各棺が中心を占めた時代順で行われた。 まず 岡林孝作氏 (奈良県立橿原考古学研究所) が 「木棺」 について発表した。 氏は遺存状況の良い全国の木棺を分析した結果 木棺の構造と形態は 近畿とその周辺を中心とした地域におけるコウヤマキ材に著しく偏った用材選択と 適材資源の減少に対応した用材利用の変化に強く規定され 消長を遂げたことを明らかにした。

 次に 木恭二氏 (宇土市教育委員会) が家形石棺を除く刳抜式石棺をまとめ 「割竹形石棺舟形石棺」 と題して発表した。 研究史をふまえ 地域的な広がりや 各地域の当該石棺の特徴と地域間交流 さらには変化と画期 製作運搬技術について明らかにし これまで氏がおしすすめてきた研究 及び実験を全国的な視点で広げるものであった。 特に 九州四国の 2 つの事例から石棺の移動は西から東 あるいは南から北であるのに対し 長持形石棺や家形石棺は兵庫から東西の地域へ あるいは奈良から東西南北へと運ばれており 対称的であることを指摘した。

 中村弘氏 (兵庫県立考古博物館) は 「長持形石棺」 について発表した。 これまで 長持形石棺としてまとめられていたものを未定型長持形石棺 長持形石棺 類長持形石棺と分けることで より一層当棺のもつ性格を明らかにし 規格性についても時期別に墳丘規模に照らして明確にした。 また ヤマト政権中心部だけでなく 産地である兵庫県播磨地方に多く分布することから 政権は石棺生産集団を直接掌握していないと考えた。

 「家形石棺」 は和田晴吾氏が発表した。 氏は形態 分布 石材等から 3 つの石棺群に大別し 畿内系家形石棺についてはコウヤマキ製木棺 長持形石棺と分布的に緊密な関係にあり 別の分布上の重なりをみせる割竹形舟形石棺や九州系出雲系家形石棺の分布域と著しい違いがあることを指摘した。 そして 家形石棺のもつ諸問題や家葬との関係についても述べた。

 討論は研究発表者の 1 人である和田晴吾氏を司会として進行し 他の 3 人がパネラーとしてそれに答えるという形で行われ 棺型式ごとに問題点を整理するとともに 各棺型式をまたいで存在する情報の存在についても議論が交わされた。 最後に会場からの発言として 紙面発表者である清家章氏 (高知大学) からのコメントがあった。 棺と棺材の選択や移動について 階層差年齢差 (垂直原理) と婚入職掌政治的交流関係 (水平原理) からなり 首長墳においては 広範囲の首長間交流や政治的関係こそが 棺や棺材の移動する要因であるとした。

 今回の研究発表によって古墳時代の棺がもつ全ての問題点が解決したわけではないが これまでの石棺研究から導かれた一つの到達点を示す貴重な分科会となったことは明らかである。

 なお 今回の研究発表資料集の中で 特に山陽地方の家形石棺集成図に誤りがあった。 編集作業におけるミスであり 担当の亀山行雄氏には一切の責がないことを記し この場を借りてご迷惑をおかけしたことに対し謝罪しておきたい。
(兵庫大会実行委員会:中川 渉)