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2014年度伊達大会報告

 2014年度伊達大会は、秋晴れの中、10月11日(土)〜13日(月)の3日間、北海道伊達市のだて歴史の杜カルチャーセンターにて開催された。今回の伊達大会では、北海道全体から考古学研究者が結集して実行委員会が組織され、さらに大会運営では伊達市民ボランティアが多数参加された、これまでにない大会運営組織体制であった。大島直行大会実行委員長のご苦労と本大会への意気込みが察せられた。おかげで地方大会であるにも関わらず264名の参加とともに、分厚い資料集を得ることができた。

 10月11日午後には、髙倉洋彰会長挨拶の後、大島直行大会実行委員長から挨拶があり、本大会の趣旨説明があった。さらに菊谷秀吉伊達市長の挨拶が続いた。その後、2本の講演が行われた。「考古学者 峰山巌 論−貝塚調査とその学際的研究−」と題して、噴火湾の貝塚を中心に考古学研究を推進した峰山巌の功績とその人となりが、その教え子である竹田輝雄会員によって語られた。高校教諭の傍ら噴火湾岸の貝塚調査を行った峰山に対する尊敬の念とその思いが伝わる講演であり、講演時間を越えても話し尽くせない熱演となった。2本目の講演は、北海道アイヌ協会副理事長の阿部ユボ(一司)氏が「先住民族としてのアイヌ−北海道アイヌ協会の活動と国内外の動向−」と題して話された。先住民としてのアイヌの人々の存在を日頃意識していない我々にとって、改めてアイヌの人々の人権保護を訴える講演であり、同時に考古学における現代アイヌ人との関わりを考える必要性を認識できるよい機会となった。

 分科会はともに北海道の縄文時代となった。一つは西本豊弘会員がコーディネーターを務める「貝塚研究の新視点−縄文〜近代の貝塚と集落−」であり、もう一つが小杉康会員のコーディネーターによる「墓とモニュメント−環状列石・盛土遺構・周堤墓−」である。貝塚と墓から北海道の縄文時代を集中的に考えるよい機会となった。

 その後、午後6時からはホテルローヤルに会場を移し、懇親会が開催された。髙倉洋彰会長の挨拶の後、菅原健一伊達市教育長の挨拶、野村崇大会実行委員会顧問の乾杯で始まった。和気藹々の雰囲気で会場は盛り上がり、次回奈良大会開催地として奈良大学の植野浩三准教授の歓迎の挨拶と続いた。最後に、石川日出志副会長の挨拶で締めとなった。

 10月12日は、二つの分科会が第1日以来継続し、併行して終日開催された。「貝塚研究の新視点」では、北海道の貝塚と集落との関係から、貝塚の意味を問う視点が重視されたが、一方では環境変動と貝塚の立地の変化や環境変動・実年代の理化学的分析などが議論された。とりわけ重要と思われることは、北海道において貝塚は縄文時代のみならず、近世あるいは近代まで存続するものであり、アイヌ文化の民族誌と先史考古学の関係性を貝塚研究から繙く試みがなされている。

 「墓とモニュメント」は、近年北海道で発見が相次ぐ環状列石、盛土遺構、周堤墓などの記念碑的建造物から、北海道縄文時代の特質と社会を考えるものであった。特にこのような墓を伴うモニュメントが普及する縄文後期社会が、モニュメントを通して小地域単位で統合していく過程を読み解くコーディネーターの意図の基に、様々な事例とその社会的意味を問う発表がなされた。また、縄文時代の環壕遺構に関してもモニュメントとして捉えようと意図するコーディネーターに対し、会場から多くの疑義と質問・意見が出た。会の最後には討論も行われ、議論が深められたが、一方では会場から異なる意見が出されるなど、盛り上がった分科会となった。

 分科会とは別に、地方大会であったがポスターセッションが実施された。協会主催の3本のポスターの他、北海道内の市民考古学サークルの活動状況が報告された。伊達市民ボランティアの本大会の運営といい、北海道では市民が考古学に積極的に関わっている状況を知ることができ、昨今話題のパブリックアーケオロジーの実践を学ぶことができた。市民の考古学への参加や先住民アイヌと考古学の問題といい、考古学と現代との関わりが如何に重要であり、それを我々学会としても考え続けねばならないことを改めて思い起こさせる重要な大会となった。さらに北海道の縄文考古学の新しい展開を学ぶことができ、学問的にも充実した学会であった。また、大会において市民グループによる抹茶のサービスもあり、伊達市民の粋なおもてなしを感じられるこれまでにない地方大会であった。

 10月13日には見学会が行われ、噴火湾岸の貝塚遺跡の見学後、Aグループはキウス周堤墓群・千歳市埋蔵文化財センターを見学して千歳空港・札幌駅へ、Bグループは垣ノ島遺跡や函館市縄文文化交流センターの見学後、函館空港・駅へという二つのコースが用意された。二つのコースともに、大会分科会で議論された遺跡であり、実物を見学することでより理解が深まった。特に、発掘中の若生貝塚を見学でき、過去の調査の再発掘から先人の意気込みと新たな問題意識を考えることができた。折からの、台風19号の西日本接近で、西日本の研究者の一部は1日残留せざるを得ないおまけもついて、成功裏に伊達大会は終了した。 (総務担当理事 宮本一夫)

2014年度伊達大会の概要

●分科会T「貝塚研究の新視点−縄文〜近代の貝塚と集落−」

 この分科会は、大会の開催される伊達市に北黄金貝塚等多くの貝塚が存在し、貝塚研究が熱心に行われてきたことからテーマ設定されたものである。まず、分科会の趣旨説明で日本全体の縄文時代の貝塚研究の問題点として、貝塚の性格を考える必要性を述べた。たとえば漁撈キャンプの結果としての貝塚と集落内に見られる貝塚を区別すること等である。そして、キャンプサイトの貝塚は土器などの遺物が少なく、自然貝層として処理される場合があることや、集落からキャンプサイトへの変更もあることを紹介した。集落内貝層では、集落全体を発掘した例が少ないので、集落内の土地利用が分からない場合が多く、集落内貝層の意味がよく分からない場合が多いことを指摘した。しかし、キャンプサイトと本村との関係を考えることは、縄文文化研究では大きなテーマである。

 個別の発表では、まず北海道の貝塚を新たに集成した結果を示し、貝塚分布の特徴を時期ごとに説明いただいた。そこでは、キャンプサイトと集落内貝層との遺物の相違も試論として指摘された。その後、噴火湾沿岸の貝塚研究に焦点を移し、津軽海峡から噴火湾沿岸の貝塚の特徴が紹介された。噴火湾沿岸は縄文時代早期から江戸時代まで貝塚が形成された地域であり、その時代により貝塚の内容が異なり、人間の生活の変化を敏感に示している。そこで、まず大変保存状態のよい北黄金貝塚での研究を紹介いただいたのち、貝層と埋葬との関係などが議論された。その後、続縄文文化と擦文文化の集落と墓の問題点、近世の貝塚の研究状況が報告された。これらは、この地域の貝塚研究の現状を示したものであり、今後、この地域の貝塚研究の出発点となるものである。

 最後の報告は、環境変遷を考える上で貝塚からどのような情報が得られるかという視点で発表をいただいた。その中には、貝殻を直接扱うものから年代測定まで含まれる。北海道では年代測定が不十分であり、環境復元にはさらに多くの年代測定が必要である。その場合、暖流と寒流の流れる北海道では、地域と時代により海洋リザーバー効果が異なっており、海洋リザーバーの問題を避けて通ることはできない。さらに北海道は泥炭の発達する地域であるため、陸水リザーバー効果も考えなければならない。これらは難しいテーマであるが、それを利用すれば当時の人間生活を推測するための手掛かりとすることもできる。これらの問題点を理解していただくために、貝殻を用いた研究2題と年代測定に関する3題の研究成果を発表いただいた。

 このように、貝塚研究の分科会は噴火湾地域での研究の現状と、今後、研究を進める上での問題点を議論した。協会当日に配布された研究発表要旨と、別に作られた資料集も参考にしていただき、日本の他の地域での研究に参考となれば幸いである。 (伊達大会実行委員会 西本豊弘)

●分科会U「墓とモニュメント−環状列石・盛土遺構・周堤墓−」

 北海道では、日本における近代考古学の開始とともに忍路環状列石やキウス周堤墓群の存在が注目を集め、また戦後の早い時期には駒井和愛による音江をはじめとする多くの環状列石が集中的に調査研究された地域である。その後、それらの巨大遺構ないし遺跡は縄文文化に属することが判明した。また、近年では集落の跡地に大規模な盛土遺構が存在する事例が多く知られるようになり、意図的に造られた構築物か定住生活の単なる累積的な痕跡なのかをめぐって、検討・議論が盛んに行われている。本大会では、このような研究動向をふまえて、縄文文化を特徴づける定住生活との関わりにおいて、特に集落経営と墓地造営との関連に注意しながら、表題にあるように大規模遺構をモニュメントとして捉えられるか否かの検討を試み、縄文文化におけるその存在の歴史的な意義を検討した。

 これらの大規模遺構と呼べるものが出現してくるのは縄文文化のかなり早い段階までさかのぼるが、その数と規模において顕著に現れてくるのは縄文後期である。そこで第一の課題として縄文後期に至るまでの墓・墓地の沿革を整理した(藤原秀樹)。また、大規模遺構が盛行する縄文後期をはさみ、それ以降大規模遺構の存在はあまり目立たなくなるが、その時期の様相を墓・墓地の沿革として整理した(土肥研晶)。そして縄文後期の前半の環状列石(高橋毅:鷲ノ木遺跡)と後半の周堤墓(坂口隆:キウス周堤墓群)とを取り扱った。盛土遺構に関しては、それぞれの遺跡の開始時期にさかのぼり、そこからの形成過程の中でいかなる造形的な展開を示すかを検討した(福田裕二:垣ノ島遺跡・福井純一:館崎遺跡・富永勝也:館野遺跡・佐藤智雄:石倉貝塚・阿部明義:キウス4遺跡)。また、北海道では縄文中期の大規模遺構として、環壕遺構の存在が知られている。他の地域に例を見ないもので、北海道においても2例が発見されているだけである。その性格・機能に関してはさまざまな見解が示され、いまだ確定的な結論にいたっていない。これを現状でモニュメントとして評価するのには課題も多いが、今後の同種の遺構の発見にも備えるために、ここで取り扱うこととした。発表において、現在調査中の島松Bチャシ址(恵庭市)の調査速報が紹介され、それが縄文中期の環壕遺構であることが報告された(高橋理)。環壕遺構は遺存状態が良好であるならば、現地表面にも地形の凹凸として現れうる大規模なものである。これまでの発見例の少なさの一因として、今日それらをアイヌ文化期特有の「チャシ」として誤認している危険性や、さらにアイヌ文化期においてそれらが実際に「チャシ」として改築されてしまった可能性も考慮に入れて、今後の調査を試みる必要が確認された。最後に、以上の発表を総括して「文化制度としての縄文モニュメント」と題する発表があった(小杉康)。

 討論では3つのテーマ、「大規模記念物の意図的な造形性について」、「大規模記念物の象徴性の維持・持続について」、「環壕遺構はモニュメントか」について議論された。全体として、温暖湿潤な中緯度森林帯の海浜環境で、狩猟・漁撈・採集を生業とする定住生活をおくったのが縄文文化であるという従来の定義に、権力や階級とは結びつかない大規模記念物を構築したという特徴を新たに加える必要性が議論された。  (伊達大会実行委員会 小杉 康)