阪神・淡路大震災時の記憶

理事の杉井です。

人は物事をどんどん忘れてしまいます。
それは、人以外の生物も同じなのでしょうか?

言葉を発し、文字を生み出したときから、人は記憶を後世に伝えようとし始めます。
そして歴史を残そう、歴史に学ぼうとするようになります。

10年前に書いた文章を手直ししたものですが、私の23年前の記憶をここに書き留めておきたいと思います。

 

23年前の今日、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。
前日は月曜日でしたが、成人の日の振り替え休日でお休み。
その翌日の朝5時46分でした。

センター試験が終わった翌々日、、、

大阪府池田市の私の下宿。
テレビが吹っ飛び、本棚が全部崩れ、電話が埋まってしまい、何が起こったのか、それが地震であると理解するまでには少し時間が必要でした。

わけがわからず、とりあえず公衆電話(赤電話)から実家へ連絡をして無事を伝え(まだ電話が通じました・・・)、散乱した本を可能な限り廊下へ運び出しました。
下宿が全壊せず半壊ですんだのが、何よりも救いでした。

阪急電車が止まっていましたので、朝8時頃、自転車で大阪大学へ向かいました。
途中途中の道すがら、崩れ去った住宅やゆがんだ建築途中のビルなどを目にし、ようやくそのころ、被害の大きさをうすうす感じ始めました。

テレビもラジオも、もちろん新聞もなく、何も情報が入っていなかったので、地震の震源地がどこなのかも、まだわかっていませんでした。

大阪大学の文学部棟の前まで来ると、ガス漏れが発生していました。
そして4階の考古学研究室にひとまず上がったのですが、その惨憺たる状況をみて何もできず、同じく顔を出された福永伸哉さんと何とか研究室前の廊下だけは片付けて、でもどうしようもないので下宿へ戻りました。

夕方、ほとんどの店が閉まっているなか、ケンタッキー・フライドチキンだけは店が開いていて、すごく助かったことを鮮明に覚えています。

でも、下宿には恐怖心から1人でいることができず、鉄筋造りのマンションに住む友人のところへ避難させてもらいまいました。

翌日、研究室へ行くと、ほぼ全員が顔を出してくれました。本当にホッとしました。
そして、皆でわき目もふらず、一心に研究室を片付けました。それしかできることがなかったのです。
当時、井ノ内稲荷塚古墳調査の概報を作っていましたが、その入稿前の原稿やトレース図は、倒れたキャビネットとキャビネットの隙間に挟まれ、無事でした。

その夜もやはり下宿へ戻ることができず、友人宅で過ごしました。

震災から3日目、神戸の友人から電話がありました。
なんとか避難できていると・・・このときは、ほんとうに涙がこぼれました。
夜、やはり下宿へ戻ることができず、大阪府柏原市雁多尾畑の実家へ戻りました。

4日目、ようやく研究室の片付けにメドがつきました。
倒れた本棚が内開きのドアを押さえていたので入ることができなかった都出比呂志先生の部屋にも、天窓から何とか侵入して内部を少し片付け、どうにか入室できるようになりました。

5日目の土曜日、私は不動産屋さんをまわりました。
本棚が崩れ、体が本に埋まった半壊の下宿には、恐怖心のため入ることができなかったのです。そのため、新しい部屋を探しました。なるべく丈夫そうな、すぐに入居できる部屋を、、、そしてその日のうちに、空き部屋を見つけ引っ越し先を決めました。

その後、引っ越しが完全に終了したのは、震災からほぼ1ヶ月後。
業者に頼むこともできなかったので、仕事のあと、少しずつ少しずつ、自分で荷物を運びました。
マンションが全壊した神戸の学部時代の友人が、私の住む池田市へ引っ越してきたのもちょうどその頃のことでした。
顔をみて、とてもうれしかったことを昨日のことのように覚えています。

神戸 東遊園地

野島断層