全国の縄紋時代以降の諸遺跡から果皮が除かれたクリ,「どんぐり」類が発掘されることがある。 それら堅果類の表面に残された特徴から,果皮は人為的に除かれたことが判る。クリの場合には果 皮が除かれた子葉の表面に深い皺が認められる。これはクリが果皮を除かれる前に十分に乾燥され 収縮した痕跡である。果皮の内部で子葉が収縮したために果皮との間に隙間ができた。その後どの ようにして中の実を取りだしたか,参考になるのは乾燥させてから備蓄したクリを食べる民俗例で ある。それによると杵で掲いて果皮を破り,取りだした実を搗栗と呼んで煮て食べた。
同様のことは「どんぐり」についても言うことができる。「どんぐり」をよく乾燥させて備蓄し,食 べる時に杵で搗いて果皮を除く民俗例がある。遺跡から果皮が除かれた状態で発見される「どんぐ り」も,そのようにして果皮が除かれたものであろう。
縄紋時代の人々が「搗く」という行為を行っていた証拠の一つは,「どんぐり」の「へそ」である。 「へそ」は「どんぐり」が殻斗とつながっていた部分だが,十分に乾燥された「どんぐり」を搗いた時に 果皮から分離する性質がある「へそ」が,草創期から晩期までの各時期の遺跡から発見されるのであ る。そして少数だが,縄紋時代の竪杵も発見されている。
出土遺物だけを見るとクリや「どんぐり」を乾燥させて備蓄し利用する文化は縄紋時代の初期から 平安時代まで継続したように見える。しかし民俗例を併せて考えると,この文化は現代まで途切れ ることなく受け継がれているのである。民俗例では乾燥堅果類を備蓄する場所は炉上空間だが,そ のことも縄紋時代以来受け継がれてきたことが考えられる。炉上空間は乾燥食料を備蓄するための 重要な空間として草創期以降途切れることなく確保され続けてきたものと思われる。
本稿の目的は,古墳時代の須恵器生産がどのような組織形態でおこなわれたのか,製作者集団の 実態をもとに明らかにしようとするものである。従来,須恵器生産組織については,とくに文献史 学の立場からは,『日本書紀』に記載のある「陶部」とのかかわりが論じられる一方で,それに対する 批判もあった。
このことは,須恵器製作者集団がどのような構成員からなり,須恵器生産がどの程度専業化され たものであったのかという問題とも関係するものである。具体的には,須恵器製作者集団が,群集 墳や横穴墓の被葬者集団,つまりは集落における経営単位となる家族集団とどのような関係をもつ のか明らかにすることによって,この議論の一端に貢献できるものと考えている。
本稿では,以上の問題を検討するにあたって,宗像市須恵須賀浦遺跡を事例として用いている。 当遺跡は須恵器窯跡の操業停止後,横穴墓が窯跡に占地上の制約を受けながら築かれており,窯跡 と横穴墓の単位が整合性をもつということが指摘されてきた。そこで,実際に遺構の変遷および各 時期の分布状況をもとに,その形成過程について明らかにし,グルーピングをおこない集団単位を 把握することによって検討を試みたのである。
結果として,たしかに窯と横穴墓は整合性をもち,それらの集団単位が一致するということが明 らかになった。すなわち,1基を操業するに当たり2,3程度の家族が携わっており,それら複数 家族をもって窯の操業単位を構成すると考えられた。また,窯の操業単位の増加および墓域の拡大 は傍系親族の分節運動に対応すると考えられた。
そして,律令期の戸籍と比較すると,窯の操業単位は郷戸規模であり,横穴墓の小群は房戸規模 の単位であると考えられた。以上をもとにして,須恵器製作者集団の実態は,複数の世帯から構成 された律令期の郷戸に相当する規模の家族集団,つまり従来いわれてきた世帯共同体を操業単位と して経営をおこない,その単位は世代を経て増加するとともに,世襲的に技術の伝達がおこなわれ, 半農半工ではあるが専門的に須恵器生産をおこなう集団であったといえる。
8世紀初頭に厳格な造墓規制を伴って完成した律令墓制は「火葬」をスタンダードとして採用し, 古墳時代と同様,大和の優位の下で展開する。その後,8世紀末葉の長岡・平安遷都によって政治 の舞台が山城地域に移ると,旧来の仏教色を脱却した新しい葬送思想に基づく墓制が木棺墓を中心 に花開くことになる。
本稿では,土葬と火葬という葬法の違いが社会構造の上で一定の意味を持ち,特定の葬法が特権 的葬法として社会的立場と結びつくことを律令墓制と位置付けたが,9世紀後半になると,各地域 の共同体レベルで葬送儀礼の地域色が顕在化し,社会的次元における儀礼の共有化は志向されなく なったのである。ここに,律令墓制はその歴史上の役割を終えたと判断したが,本稿では以上の検 討を行うために,各墳墓から出土した副葬品の様相を手がかりとした。
木棺墓の導入以降,須恵器瓶子や黒色土器,漆製品,玉類などの副葬品は木棺墓と火葬墓では厳 密な使い分けが行われており,両者の間には他界観を含め明確な区別が存在したことがわかった。 そして,9世紀を通じて,律令貴族を中心とする特権階層はきわめて政治的な墓制として木棺墓を 造営したのである。特に,9世紀中葉以降は氏族集団の系譜意識や親族原理の大きな転換期であり, 墳墓の立地から見れば,大和各所の古墳の存在を意識した木棺墓の造営が続くことになる。
しかし,9世紀中葉を契機に仏教的葬送儀礼が社会に浸透していく中で,仏教的他界観も広く受 け入れられるようになり,9世紀後半には副葬品から判断する限り,両者の区別が曖昧になること もわかった。ただ,律令貴族の死穢意識は根強いものがあり,仏教的他界観を伴った新しい葬送儀 礼観が木棺墓において完成するのは10世紀に入る頃までずれ込んだ。そして,これ以降,葬法の選 択は造墓者側の主体性に委ねられることとなり,経済力を有する裕福な階層なら自由に造墓をなし 得るという新しい墓制が誕生したのである。
弥生時代の鐸形土製品は,銅鐸や小銅鐸を粘土で表現したものとされ,九州北部から近畿,東海 地方にかけて分布している。鐸形土製品には,文様がみられないもののほか,流水文や袈裟犀文, 横帯文など銅鐸の文様を写したものや,絵画や象徴的な記号を刻んだ例がある。
小文は,絵画や記号のある鐸形土製品に共通する「人物」「戎」「x」について絵画土器や青銅器の意 匠と比較し,その意義について考察するものである。
まず「人物」は,戎などの武器と楯を手にしている場合が多い。武装した人物とは,実際の戦闘と いうよりは穀霊と交感する際の装いであり,稲作にかかわる祭祀に不可欠の役割が与えられていた ことを示している。
二つめの「戎」は,もともと刃部を直角にちかい角度で柄に装着し,殺傷する機能をもっていた。 弥生人が,「戎」の鉤状の形態に特別なイメージをいだいていたことは,原始絵画に描かれた武器の ほとんどが「戎」であることからも推測される。
さいごの「x」は,絵画というより記号に近い表現である。筆者は,武器をもつ人物の逆三角形の 上半身を延長すると,交叉部分は「x」となることから「戎をもつ人物」の象徴的な表現ととらえた。 近畿や山陰地方の土器絵画や大阪湾型銅戎の鋳型,出雲の銅剣の茎や銅鐸の鉦にも「x」表現はみら れる。このほか瀬戸内の平形銅剣や九州北部の銅戎の内にも「x」を鋳出したものがある。
「人物」「戎」「x」,これら三種の表現は,単独ではなく密接に関連しあっていたようだ。戎に柄を 装着した鉤状の形態に辟邪,穀霊と交感する戎を手にした人物に豊饒という主題を見出すなら,鐸 形土製品には,銅鐸や武器形青銅器に通じる意義が付加されていたと考えられる。しかも集落域や 水辺に近い遺構で出土する点では,小銅鐸の出土状況と共通している。したがって鐸形土製品は, いわば水利灌漸施設を共有する規模の集団を対象とする祭祀のアイテムといえるようだ。
鐸形土製品に描かれた絵画や記号は,弥生中期後葉から後期前葉にかけての西日本に点在する表 現である。弥生人は,地域ごとに固有の墓制や土器様式を保持しながらも,豊饒や辟邪にまつわる 精神世界を共有していたのである。
本稿では,韓国大通寺跡から出土した「大通寺式」軒丸瓦の成立と展開,日本への影響を検討した。 その結果,「大通寺式」軒丸瓦は中国南朝梁から新たに導入された瓦当文様,製作技術によって成立 したもので,成立の直接的な契機を熊津期末の大通寺の創建にあったと推定した。また,洒泄遷都 にともなう仏教寺院をはじめとした諸施設の造営を契機に,再び南朝梁の造瓦技術が導入されたと 判断した。
南朝梁を起源とする造瓦技術によって生産された「大通寺式」軒丸瓦は,その後,百済において中 心的な瓦当文様,製作技術として展開する。そして,その影響は日本など周辺諸国にも波及するこ とになる。日本で最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺の造営に際して,日本の要請を受けて百済 から派遣された瓦工集団,すなわち,「日本書紀』に記される瓦博士の一派も「大通寺式」(金徳里系) 軒丸瓦を生産していた瓦工と考えられる。
南朝梁から百済に新たな造瓦技術が伝えられ,その技術が百済の瓦博士によって日本に伝えられ るまで約半世紀。「大通寺式」軒丸瓦の成立と展開の過程を通じ,中国南朝系造瓦技術の伝播の様相 の一端を垣間見ることができると考えられる。
本稿は,群馬県勢多郡赤城村
昨年10月,日中共同調査のために訪れた漸江省文物考 古研究所で,刊行されたばかりの発掘報告書の寄贈を受 けた。『河姆渡新石器時代遺趾考古発掘報告』(漸江 文省物考古研究所編,文物出版社2003年8月)であった。 河姆渡遺跡は評者にとって中国考古学研究の出発点とも いえる遺跡である。いったいどんな報告書ができあがっ たのだろう・その晩ホテルヘ戻ると,夜が更けるの も忘れてそのページを繰った。そこにはこれまでに目に したことのない数多くの実測図や写真が収められてお り,また,発掘調査終了後の25年間に蓄積された研究成 果が盛り込まれていた。昨年は河姆渡遺跡発見30周年, 河姆渡文化博物館開館10周年という記念すべき年に当た る。その年にこの報告書が刊行されたことは我々中国考 古学研究に従事する者にとって一大慶事というべきであ ろう。(以下略)