小論は,考古学的物質文化の変化について行われ得る説明/理解に関する論考を展開する。その際,直接的観察が不可能な心的現象ではなく,社会現象として直接的観察可能な最小の基本単位としてのコミュニケーションと,その物質的痕跡に観察・記述の焦点を置き,コミュニケーションの容態とその「環境」=世界との共変動を,物質文化変化の理解/説明の検証可能な因果的モデル化の軸とした。このようにして提示されたモデルの運用性を,弥生Ⅲ〜Ⅳ期の北部九州におこった一般層の甕棺墓地の空間構造の変化の分析を通じて確かめた。そして,その結果を踏まえ,考古学的物質文化の変化に関する既存の研究枠組みについて,批判的検討を行った。そして,弥生時代Ⅲ〜Ⅳ期の北部九州におこった一般層の甕棺墓地の空間構造の変化は,共/協同性をテーマとする葬送コミュニケーションから,個別的系譜関係の確認をテーマとする葬送コミュニケーションへの変化の結果として理解することが可能なこと,また,このようなコミュニケーションの容態の変化が,その他の社会システムの変化に若干遅れることを示し,葬送コミュニケーションという儀礼的コミュニケーションのシステムとしての自律性がこの事態に反映していることを示唆した。結論として,社会的コミュニケーションの容態の分析を軸としたアプローチによって,社会を構成するさまざまな要素間の共変動を偏りなく理解・説明することが可能であることを論じた。
本稿の目的は,尖頭器石器群の性格について,再評価を試みることである。そもそも本石器群では,石材消費も含めて,石器製作のあり方が大きく転換したことが指摘されてきた。この意味で,尖頭器石器群は重要な問題を内包した石器群と評価される。それだけに,先史時代研究のなかで,本石器群の研究に期待される部分は大きい。
こうしたなかで筆者は,尖頭器石器群における道具利用に注目した。つまり,これまで「いかに作られたか」という側面が注視されてきたなかで,「いかに利用されたか」という側面へと視点をシフトした。そして,こうした観点から尖頭器石器群の特徴を把握し,またその位置づけを探ることを目指した。
上記した目的を遂行するにあたって,本稿では尖頭器石器群の道具保有状況を検討した。その結果,本石器群に共通した傾向として,器種構成が単調であり,加工具に乏しいことを確認した。また,これら道具保有状況の検討に加えて,尖頭器自体の機能を再検討した。とくに使用痕,出土状態に注目した結果,それが多機能な道具であることが把握された。つまり,尖頭器は狩猟具,刺突具として利用されるのみならず,加工具的な用途にも用いられていたことが示された。
以上の分析をとおして,尖頭器石器群における道具利用が浮かび上がってきた。すなわち,本石器群では保有器種が種類,量ともに限られるなかで,尖頭器に機能的重心を置いた道具利用が進められている。このように,尖頭器石器群では機能集約的な道具利用が推し進められており,他の石器群とは異なった道具利用戦略を認めることができる。言い換えるのであれば,先史時代のなかでも独特の道具利用を進める石器群として,尖頭器石器群を評価することが可能である。
弥生時代における戦闘はどのようなものであったのか? その様相を具体的に明らかにすることが本論の目的である。こうした問題を検討するため「武器」と「殺傷人骨」を取り上げ,対人殺傷の分類・検討を試みた。
研究の方法としては「殺傷人骨」を主な資料とし,「武器」と「殺傷人骨」との関係から,弥生時代における対人殺傷方法の型式的な分類を行う。
先ず「武器」を至近距離戦用武器(短剣),接近戦用武器(刀剣類),遠距離戦用武器(弓矢)の3種に大別する。これに基づき,対人殺傷方法を,Ⅰ・至近距離武器による殺傷,Ⅱ・接近武器による殺傷,Ⅲ・遠距離武器による殺傷,そしてⅣ・遠・近距離武器の殺傷に区分する。
この区分により「殺傷人骨」をいくつかのカテゴリーで分類した結果,「殺傷人骨」に見られる弥生時代の殺傷方法も極めて多岐に及ぶことが明らかにできた。特に弥生時代前半(早期〜中期)は短剣による(背後からの)殺傷や,弓矢による(側・背後からの)殺傷などが多く,数人単位の戦闘が主であると考えた。また,矢合戦や暴力的儀礼(殺人)の可能性も指摘した。
これに対し,弥生時代後半の殺傷人骨には,鉄剣や鉄刀などが想定される鋭利な殺傷痕跡や遠・近距離武器複数の殺傷から「まず矢を射て,最後に剣で止めをさす」といった戦闘が考えられた。また特に,中期末〜後期には1遺跡から大量に殺傷人骨が出土する例が認められた。
以上の結果から,弥生時代の具体的な戦闘は小規模な「奇襲・襲撃・裏切り」や儀礼的な争いなどが中心であり,弥生時代後半,特に中期末〜後期には激しい「集団戦」の比重が高まると想定した。
これらの変化には政治力・動員力の確立や,金属器の流通といった社会的な背景が想定され,弥生時代の戦闘は単なる「戦い」から「戦争」へと移る過渡的な「未開戦」段階にあると評価した。
小稿の目的は,主に北部九州から出土する小形仿製鏡を対象として,従来から述べられてきた一元的な青銅器生産体制に対し新たな方向性を示すことである。
須玖遺跡群において,青銅器生産が行われていたことについては,これまでの調査・研究から明らかにされている。また,青銅器生産が須玖遺跡群を中心として行われ,青銅器の生産と配布を管理する主体が存在したと想定されている。しかしながら,青銅器生産の証拠ともなるべき鋳型は,須玖遺跡群以外の周辺の遺跡からも多数発見されている。それら周辺における青銅器生産と,須玖遺跡群との関係を明らかにすることが,小稿の具体的な目的である。
対象資料として小形仿製鏡を選択したのは,北部九州に存在する数少ない有文の青銅器だからである。文様を持つことから,数多くの属性を取り上げることができ,結果として同笵関係や製作順序などが明らかになるからである。
小稿では,小形仿製鏡の鏡背面文様により鏡群を設定し,それぞれの出土分布を検討した。その結果,鏡群ごとに出土分布に偏りのある時期と,全体がまとまる時期に区分することができた。これらの時期による分布のあり方の違いから,小形仿製鏡の生産と流通の形態について考察した。すなわち,文様が豊富でバリエーションが認められる時期には,鋳型も須玖遺跡群以外から出土し,分散した生産と流通であるとし,画一的で規格性の高い文様の鏡群が製作される時期には,鋳型も須玖遺跡群から出土していることから,集約した生産体制であると結論づけた。このことから青銅器の生産と管理を行う主体が,常に安定していたのではないことが明らかとなった。また,生産量の検討から,終末期の青銅器生産について,集約した生産体制であっても生産量が減少していた可能性が高いとした。
おもに前期古墳から出土する底部穿孔壺は,何を目的に古墳上におかれ,どのような祭祀が行われたのか。小論は底部穿孔壺を用いた古墳祭祀を俎上にあげ,その意味の解釈を試みる。
まず底部穿孔壺祭式の変遷をあとづけ,その原形が底部の打ち欠かれた少数の装飾壺が古墳上におかれるというものであることを明らかにする。次に,東アジアの稲作地帯に分布する農耕儀礼のあり方に着目し,種籾を貯蔵する壺に穀霊が宿るという信仰がさまざまな形で広く分布していることを確認する。そしてこれと同様の思想が弥生時代以降の日本列島にも存在していた可能性を考え,壺が穀霊信仰にもとづく農耕儀礼と密接な関係にある遺物であることを推測する。壺が用いられた葬送祭祀は,これを破砕もしくは穿孔することで壺に宿ると観念された穀霊を後継者へ継承することを目的とし,その被葬者は農耕司祭者としての性格をもっていたのではないかということを指摘する。
紀寺{きでら}(小山{こやま}廃寺)は大和の飛鳥に建てられた7世紀後半の古代寺院で,小字キテラにあることから紀氏が造営した寺院とされている。『続日本紀』には紀寺の奴婢{ぬひ}を解放する記事があり,これによると天智朝に飛鳥に建てられていたことがわかる。
この寺院に葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は紀寺式軒丸瓦とも呼ばれ,畿内では山背{やましろ}の古代寺院に顕著に葺かれ,さらに地方寺院にも多く採用されている。しかし,近年の研究ではこの瓦当文様が地方寺院まで分布すること,また紀寺に藤原宮から軒丸瓦の瓦当笵が移されていることなどから,紀氏の寺院ではなく,官寺の高市大寺{たかいちだいじ}とする考えがだされている。
一方,紀寺は1973年(昭和48)以降,数回にわたって調査され,藤原京の条坊に伽藍中軸線をあわせて建立されていることが判明した。このことは藤原京の条坊施工が開始した天武5年(676)以前には遡れない可能性が高く,紀氏が建てた寺院とはみなしにくくなった。
紀寺式の雷文縁{らいもんえん}複弁八葉蓮華文軒丸瓦のうち,最古式のものは山背の大おお宅やけ}廃寺に葺かれ,紀寺と大宅廃寺は少なからず関連をもつ寺院であったとみなされる。この大宅廃寺の軒平瓦の一つである偏行忍冬唐草文の瓦当笵は,後に藤原宮の瓦窯に移動しており,この寺院を藤原氏の寺院とみなす考えがだされている。また平城京に建てられた興福寺の同笵軒瓦が出土する飛鳥の久米寺も藤原宮に軒瓦を供給しており,二つの藤原氏の寺院が藤原宮の屋瓦生産に深く関与している。大宅廃寺と関連をもつ紀寺(小山廃寺)に藤原宮の瓦窯から瓦当笵が移されたのは,この寺院も藤原氏ときわめて関連が深いものであったと推測する。そして,この性格を考えるには,紀寺(小山廃寺)が岸俊男説の藤原京左京八条二坊,本薬師寺{もとやくしじ}が右京八条三坊にほぼ対称の位置に建立された背景を検討する必要がある。また,創建瓦として葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は,持統天皇の乳部の氏寺に葺かれた瓦当文様を祖形にして創出されたものと思われる。
古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。
東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。
9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との間では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。
このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国―本州エミシ―北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
能登半島には鎌倉で確認される「やぐら」と類似した中世石窟が分布する。本稿の目的は,それらの集成を行いつつ「やぐら」と比較検討し,その発生を促した歴史的要因の考察にある。
能登半島では,横穴墓の再利用や可能性のあるものを含めると、5ヶ所において石窟が確認される。造営の時期は,14世紀第2四半期から15世紀代で,“都市鎌倉”が隆盛する時期の遺構はなく,我が国における石窟造営の末期になり造られている。
構造においては「やぐら」との相違は認められず,両者が極めて類似する遺構と判断されたが,内部施設及び埋葬施設を分析すると,同規模の「やぐら」に比べて石窟内施設の充実や外側入口上部の妻入り屋根形に代表される装飾性が明らかとなった。
造営者については,石窟の分布が密教系寺院及び禅宗系寺院(臨済禅)の勢力地に位置する傾向があり,「やぐら」と石窟は基本的に同一の遺構であることからも律宗系あるいは臨済禅の人々の関与が想定できる。全体に造営数は少なく葬送観念を共有する集団の存在を暗示しており,特に臨済宗が教線をはる富山県氷見市周辺にまとまりをみせることは示唆的である。
能登半島における石窟造営の歴史的要因を見通すと,この地域における石窟が主として鎌倉幕府崩壊後にみられることから,真言宗勢力が弱まり,禅宗(曹洞宗),更には浄土真宗の影響が浸透していく状況で,律宗や臨済禅などの南宋文化を引き継いだ人々の教線の強化,あるいは新たな展開を模索した結果であり,津・浦を媒体とする広域的な交通路を背景に,鎌倉地域で隆盛した「やぐら」の葬制を基調として成立したと考えた。そして,「やぐら」が寺院と密接な関係にあり総合的な宗教空間を構成するのに対して,能登半島では装飾性と機能を充実させることで石窟毎に一つの宗教的空間の創出を意図したところに,この地域における中世石窟の様相がうかがわれる。
先史時代研究のなかで,通事的な多様性のみならず,共時的な多様性までをも優劣関係のもとに評価してしまう価値観は,たとえ顕在的ではないとしてもいまなお息づいている可能性が高い。こうした評価軸のなかでは,決して積極的な位置づけがあたえられることがない地域は必ず存在しており,そうした歴史を偏見や差別,一方的な価値観の押しつけを排しながら,いかにして取り扱ってゆくべきかはいまだ解決していない大きな課題といえる。ここでは,「非文明」の評価をめぐる問題を作法としてまとめ,「文明」研究とはことなる注意点についての覚書きとした。
「非文明」をとりあつかう際の姿勢としてまず指摘されるのは,一国史の枠組みを対象化し,それとの距離のとりかたに慎重になることである。さらに,「文明」中心の歴史叙述のなかで常識化してきた,「文明」にとって都合がよい論理に疑問を呈してゆく批判的な態度も必要である。こうした姿勢がないかぎり,「文明」を中心とした価値観のなかに埋もれた「非文明」の正当な歴史的価値を引き出すことは非常に難しくなってしまう。
つづいて,「非文明」を扱う際の手法として指摘されるのは,物質文化の定性的な側面のみならず定量的な側面にも十分な配慮を行うこと,さらに,モノの系統性に引きずられた解釈をおこなうのではなく,実用的機能・社会的機能をふくめて,それぞれの時期・地域で機能・用途論的な分析をともなっていることである。これらは「文明」についてもあてはまるが,「非文明」では両者への十分な配慮を怠ると誤った判断を誘発しやすいという点で重要な意味を持っている。
巣山古墳は,奈良盆地西部に出現する古墳時代中期初頭の大型前方後円墳として知られ,馬見{うまみ}丘陵に築造された古墳群の盟主墳として注目されてきた。法的保護は戦前から始まり,昭和2年に史跡に指定され,昭和27年には特別史跡に指定されている。古墳の実態については近年まで本格的な調査も行われず,わずかに採取された埴輪類のほかには有用な資料もなかった。
広陵町教育委員会では墳丘及び外堤の公有化を行い,現状保存に努めてきたが,周濠が灌漑用溜池として利用されているため,墳丘と外堤の裾が浸食され,墳丘第一段の埴輪列が露出した状況に至っていた。このため,平成12年度から環境整備と発掘調査を継続して行っている。その結果,墳丘,外堤,周濠について,その形状や,規模など様々な成果が得られた。墳丘完成に伴う祭祀,外堤上に靫形木製品を立て結界を張るなどの祭祀行為が確認された。前方部から周濠へ張り出す出島の上面には聖域を強調する石英の白石が敷き詰められ,祭儀場を区画する柵形埴輪で結界を張り,盾形埴輪でさらに聖域を明示し悪霊への恫喝{どうかつ},慰撫{いぶ}を行う。二重・三重に張られた結界の中には,様々な四面開放の家形埴輪が配置され,それらを取り囲むように威儀具である蓋{きぬがさ}形埴輪が置かれ,導水の祭りを表現した囲かこみ形がた}埴輪が備えられていた。これらは被葬者が神霊となって住む常世{とこよ}の世界を,広く人々に見せるための仕掛けであったと考えられる。
巣山古墳は,大王の墓域が佐紀から河内へ移動する古墳時代中期初頭に築かれた前方後円墳であり,今後の調査並びに埴輪の整理が進捗{しんちょく}し,巣山古墳の実態が明らかになれば,古墳祭祀を考究する上で極めて重要な資料となる。
飛鳥地域には謎の石造物と呼ばれる飛鳥石(石英閃緑岩)の彫刻加工石材が多く存在する。この中のひとつに「酒船石」がある。その用途・製作時期についても謎のままであるが,平成4年度にこの石造物のある丘の中腹で,奈良県天理市近郊で採石される凝灰岩質細粒砂岩切石で構築された石垣が発見された。遺跡が飛鳥宮の東方に位置し,天理市で採石される石材で石垣を構築していることから,『日本書紀』斉明2年是歳条に記載のある「宮の東の山に石を累ねて垣とす」,あるいは「両槻宮」に該当する遺跡として注目を浴びた。その後の調査でこの石垣は丘陵を取り巻くように700m以上にも及ぶことか判明してきた。さらに平成11年度には北側の谷底から亀形石槽を含む導水施設が見つかり,遺跡が7世紀から9世紀まで存続していたことがわかり,その性格についても重要な示唆を示すものとなった。
これまで12年間,25次にわたる調査によって,遺跡は4つの地域に区分が可能である。これらは遺跡の範囲確認調査として実施してきたが,各地域によってその性格等が判明してきた。
丘陵上の石垣はその構造からみて,防御施設よりも視覚を意識した構造であり,その中心に酒船石がある。築造時期は明言できないが,斉明朝として問題はなく,石垣の倒壊時期は天武朝の白鳳南海地震と推定できる。さらに丘陵西斜面の列石はその後改修されていることも判明した。
北部地域では遺構の変遷が明らかとなり,斉明朝に造営され,その後天武朝に大規模な改修を経て,平安時代まで存続する。亀形石槽を含む導水施設は,その構造や立地から祭祀色が強く,斉明から持統朝にかけての天皇祭祀を実践した遺跡であると考えられる。
一方,東部地域では,飛鳥東垣内遺跡で検出していた運河の上流部分を確認した。これまでの調査を検討すると,酒船石の丘陵東側から香具山の西側までのルートが復元でき,斉明2年是歳条にある狂心渠と対比されることになった。また,西部地域では7世紀後半から8世紀にかけての石組溝を検出し,飛鳥盆地東側の水を北へと流す基幹排水路と推定された。また,同時に出土した大量の木簡群から周辺に飛鳥宮の官衙が推定されるようになった。
これらのことから酒船石遺跡は丘陵上及び北部地域が一体となって構成されており,『日本書紀』にも記される斉明朝に築造され,天武・持統朝まで継続的に使用された,天皇祭祀に関わる遺跡と考えられる。また,東部地域はこの遺跡に砂岩石材を運搬するための運河「狂心渠」を中心とした遺構群である。さらに西部地域は一部で丘陵部に関わる遺構もみられるが,主に飛鳥宮の官衙地区のひとつと推定できる。いずれにしても酒船石遺跡は律令制成立前後の天皇祭祀に関わる巨大な遺跡であり,律令国家形成過程における天皇祭祀の形態を研究する上でも重要である。
郡山遺跡は,宮城県仙台市太白区郡山の地にあり,東北地方で最古の官衙,寺院跡である。それらの存在は,同時代の記録である日本書紀や続日本紀には記されていない。土器や瓦が出土したことは大正末年以降に報告されるようになるが,昭和54年に発掘調査が実施されてからその実態が徐々に明らかになってきた。仙台市教育委員会では,昭和55年から国庫補助事業により継続的な発掘調査を進め,7世紀中頃からのⅠ期官衙と,それを建替えたⅡ期官衙,さらに郡山廃寺の調査を行なってきた。その内容は多賀城が造られる以前の日本列島北部の在り方を解き明かすに足るものであった。とりわけ方四町Ⅱ期官衙の中心に位置する石組池や石敷遺構は,当時の宮が置かれていた飛鳥地方との直接的な繋がりがなくては存在しえず,蝦夷への服属儀礼や饗宴が現地でも行なわれていたことを想起させる。また周辺の南方官衙や寺院東方建物群,西方建物群を含めたⅡ期官衙全体の配置や,多賀城廃寺との伽藍や軒丸瓦の類似性からは多賀城創建以前の陸奥国府として考えざるをえない内容となっている。本稿は調査が25年を経過したことを機に,その内容の概略を述べたものである。
城館跡はどのようにして古代から中世へ推移したのか,また古代から連綿と中世に展開していくのか,という問題は城館跡研究において常に取り上げられてきた。
ここで紹介する陣が峯城跡は近世に会津藩が編さんした『新編会津風土記』にも記載されており,二重に巡る大きな堀跡や越後城氏にまつわる伝承などにより比較的古くから知られていた。しかし,その実態については,ほとんど調査も行われず永らく不明な状態であった。
近年,ここから多数の貿易陶磁器を採集したことにより重要性が再認識され,本城跡を後世に残す目的で会津坂下町教育委員会は平成14年度から継続して範囲内容確認調査を行っている。調査の結果,本城跡は大きな濠をもち,主殿と考えられる大型掘立柱建物跡や多量の貿易陶磁器・青銅製錘・和鏡などの検出により,ここが12世紀代の会津蜷河荘における拠点的遺跡ではないかと類推された。これまでの研究では,大きな堀を持つ城館跡の多くは軍事的緊張関係の大変強かった東北地方北部地域を中心に分布している。今回この北部地域以外からの発見により,分布域が南端部にまで及んでいることが明らかとなった。しかし,この南部地域でこのように大きな堀を巡らす城館の必要性やその目的については全く不明であり,今後の大きな検討課題である。
また,文献資料により12世紀代の会津坂下町周辺地域は摂関家領の蜷河荘であることが判明している。そして,ほぼ同時期に建立された薬王寺遺跡などの存在から京風文化を巧みに取り入れていることが確認され,そこには摂関家領を介した京都との強い結びつきが考えられた。
また,『玉葉』に記載されている「藍津之城」を「陣が峯城跡」に比定する考えもあり,今後は文献史料や地元に残る伝承も交えこのような城館跡の系譜や荘園内での機能を考古学的に研究しなければならないと考える。
本城跡の解明は単に地域的城館跡の研究にとどまらず,中世移行期の城館跡を考えるうえで大変重要な意味をもつことであろう。
1 迅速な報告書刊行
平成12年(2000年)度から4年にわたって調査が行われた滋賀県神崎郡能登川町の神郷亀塚古墳発掘調査報告書が,調査最終年度内の3月18日に筆者のもとに送られてきた。
現地での発掘調査終了が前年の11月末であるから,わずか3ヶ月半にして,4年間の調査の詳細な報告とともに,今後の墳丘墓や古墳研究あるいは古墳時代研究の基礎となり展望をも示す論考を加えて執筆・刊行が行われた。その早さのみならず,内容を知るにつけ,この遺跡の調査と報告書の刊行は,偉業でもあると感じるようになった。
神郷亀塚古墳は,前方後円墳成立前夜に築かれた全長約38mの前方後方墳あるいは前方後方形墳丘墓の一つであるが,平野部に高さ3.8mもの盛土による墳丘を残す近江唯一のもので,内部主体として発見された2基の木槨などと共に,列島での前方後円墳出現を考える上で不可欠な遺跡となりつつある。
ここでは発掘調査報告書の書評を通じて,一連の発掘事業と遺跡の意義について触れてみたい。(以下略)