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機関誌『日本考古学』第19号目次

2005.5.20発行 161p ISSN 1340-8488 ISBN 4-642-09094-0 C3321
論文金子 昭彦summary 階層化社会と亀ヶ岡文化の墓 ー東北地方北部における縄文時代晩期の墓ー1-28
論文梶原 義実summary 国分寺瓦屋と瓦陶兼業窯29-50
論文前川 要summary 中世近江における寺院集落の諸様相51-72
論文吉本 洋子・渡辺 誠summary人面・土偶装飾付深鉢形土器の基礎的研究(追補2)73-94
研究ノート植田 文雄summary 立柱祭祀の史的研究 ー立柱遺構と神樹信仰の淵源をさぐるー95-114
発掘調査概要池 珉周summary 公州丹芝里横穴墓発掘調査概報115-127
発掘調査概要藤井 幸司summary 大日山35号墳の調査成果129-141
発掘調査概要山上 雅弘summary 守護の城,置塩城跡の発掘調査成果について143-153
書評木山 克彦summary 臼杵勲著『鉄器時代の東北アジア』155-158

階層化社会と亀ヶ岡文化の墓−東北地方北部における縄文時代晩期の墓−

金子昭彦
  1. はじめに
  2. 中村大氏への批判
  3. 上尾駮(1)遺跡C地区の評価
  4. 地域ごとの様相
  5. 亀ヶ岡文化の墓制
  6. 階層化社会の墓と言えるか?
  7. おわりに

−論文要旨−

 縄文時代の発展のピークと考えられる亀ヶ岡文化の墓制を検討し,近年言われるように階層化社会へ至っているか確認する。現在この分野で活躍している中村大氏の研究を批判的に継承し(第2〜3節),別の角度から亀ヶ岡文化の墓制を記述し(第4〜5節〔1〕),そのような墓制を生み出した背景について考察し(第5節〔2〕),階層化社会の墓と言えるかを示す(第6節)。

 中村氏への批判は,墓の認定,土坑墓群の認定,階層化社会の読みとりの3点に分けられる。墓の認定は,確からしさの異なる幾つもの認定基準を同等に扱っていることで,筆者は,格差を設けて認定基準のそれぞれに点数を与え,その総合点で,その遺構が墓かどうか判断するという方式を考えた。土坑墓群の認定とは,「近接する時期に形成された一群の土坑に,上記認定基準のいずれかに該当する土坑が含まれる場合には,その土坑群全体を土墳墓群と認定する」というもので,あまりに大雑把な"見なし"ではないか。確実な資料のみに頼っていたら,いつまで経っても解釈に踏み出せないという中村氏の気持ちはわかるが,氏のように確からしさの異なる様々な資料を一括して扱えば,どの程度正しいのか測りかねるし,信じる,信じないの問題になってしまう。解釈の根拠,蓋然性の差を何とか表に出せないか,きめ細かく評価できないかと試みたのが,本稿の"蓋然性"である(第3節)。先ほどの墓の認定方式で,一応5点以上のものを墓とするのに無理はないと考え,墓と見なしたい数×5点を母数とし,実際の点数を合計したものの割合を出し,これを"蓋然性"として示したい。

 拠点集落の墓地の形状を"共同墓地"と"個家別墓地",土坑墓の種類をα(楕円形墓),β(円形墓),7(墓に転用された貯蔵穴)類に分け,拠点集落一拠点集落外の土坑墓の種類の分布を見ると,"共同墓地"一β,α類,"個家別墓地"一7,β類の結びつきが見られ,それぞれ分布を異にすることがわかった。この違いは立地(地形)の違いに基づく二つの居住様式に根ざしているようだ。土坑墓の種類は,α類が理想で,7一→β→αという序列は想定できそうなのだが,それを階層差として捉えようとすると不都合な例外が次々に現れてくる。副葬品についても一元的に解釈できず,亀ヶ岡文化の墓に階層社会の証拠を求めるのが無理なのではないかと判断された。

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国分寺瓦屋と瓦陶兼業窯

梶原義実
  • はじめに
  • 1 瓦陶兼業窯の展開
  • 2 各地における瓦陶兼業窯
  • 3 遠江
  • 4 上野
  • 5 下野
  • 6 佐渡
  • 7 陸奥
  • 8 出羽
  • 9 結論一工人系譜の継続性と瓦陶兼業窯一
  • おわりに

−論文要旨−

 天平13年の国分寺造営勅以降,全国に国分寺が建立されていく。その所用瓦を供給するにあたっては,国司が管理する国分寺瓦屋で瓦生産をおこなっていた。しかし,造営が一段落し,瓦の需要が減少した際に,その瓦屋や製作工人の系譜を維持し続けるか,それともいちど解体し,修造など必要時ごとに他所から工人を招聰する方式をとるかについては,国ごとに様相が異なることが,筆者の研究でわかってきている。本稿では,国分寺瓦屋や,その他国府など官営施設に瓦を供給した瓦屋について,その存廃においては陶器生産との協業が大きな意味をもつと考え,そこから古代の地方における瓦生産の様相全般について論じる。

 各国の国分寺瓦屋などのうち,瓦と陶器を一緒の窯場で焼成する「瓦陶兼業体制」をとる国としては,遠江・武蔵・上野・下野・佐渡・陸奥・出羽などが知られている。これら各国の瓦について,文様および製作技法の両面から分析検討をおこなった結果,一部の国を除いて,創建期から9世紀以降の修造期まで,連綿と変わらない文様系譜や製作技法的特徴を保持し続けていることが判明した。このことから,瓦陶兼業体制をとる国分寺瓦屋において,同一系統の工人集団が継続的に瓦生産に携わっていたということがあきらかになった。

 またその継続状況についても,基本的に一ヶ所の窯で継続的に操業を続ける形態のほか,伝統的窯業生産地を指向し瓦工を移住させる形態や,須恵器生産好適地に遷地する形態など,さまざまであった。さらに,国分寺瓦屋が瓦専業であったと考えられる尾張について,国分寺修造期に工人系譜が断絶することおよび,平安後期には山茶碗の窯に京都からあらたに瓦工を招聰し,国外輸出用の瓦を作らせていることを述べた。それらの諸事象は,9世紀以降の地方の瓦陶兼業窯は,基本的に陶器生産の都合を重視し運営されていることを示す。地方においては,国分寺造営が一段落し瓦の需要が減少した後は,陶器生産に依拠する形でしか,瓦工の維持が不可能だったのであろう。

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中世近江における寺院集落の諸様相

前川要
  • はじめに−目的と方法−
  • 1 敏満寺遺跡の概要と問題の所在
  • 2 中世都市の定義と分析視覚
  • 3 敏満寺遺跡の空間構造と時期変遷
  • 4 他の地域での類例の検討
  • 5 考察
  • 6 結語
  • おわりに−残された課題−

−論文要旨−

 近年,都市史研究の分野では,前近代における日本都市の固有な類型として,古代都城(宮都)と近世城下町が抽出され,これらを現代都市と対峙させ「伝統都市」と位置づけることによって,新たな都市史の再検討がはじまりつつある。本稿では,こうした方法を念頭に置きながらも,都城にも城下町にも包摂されない日本固有の都市類型として,中世の「宗教都市」を具体的な発掘調査事例に基づいて分析しようというものである。そして近江における「湖東型」中世寺院集落一「宗教都市」を,戦国期城下町・織豊系城下町などとならんで近世城下町へと融合・展開する中世都市の一類型として位置づける必要性を主張するものである。

 特に,「都市考古学」という立場に立ち集落の都市性を見ていくという観点から,V.G・チャイルドの10個の都市の定義の要素のうち,3つの要素(人口の集中,役人・工匠など非食料生産者の存在,記念物・公共施設の存在=直線道路)に着目して中世近江の寺院集落の分析をした。その結果,山の山腹から直線道路を計画的に配置し,両側に削平段を連続して形成する一群の特徴ある集落を抽出することができた。これを,「湖東型」中世寺院集落と呼称し,「宗教都市」と捉えた。滋賀県敏満寺遺跡の発掘調査成果を中心に,山岳信仰および寺院とその周辺の集落から展開する様相を4つの段階で捉えた。また,その段階の方向性は直線道路の設定という例外はあるものの,筆者が以前提示した三方向性モデルのうちII−a類に属すると位置づけた。

 そして,特に4つの段階のうちIII期を「湖東型」中世寺院集落の典型の時期と捉え,その形成と展開および他地域への伝播を検討してその歴史的意義を検討した。その結果,この都市計画の技術や思想が,北陸の寺内町や近江の中世城郭やさらには安土城に採用された可能性を指摘した。その成立時期については,佐々木六角氏の観音寺城や京極氏の上平寺城の事例を見ると,武家権力が山上の聖なる地を勢力下において「山上御殿」が成立してくる時期とほぼ一致すると考えた。

 日本都市史においては,中世都市のひとつの類型として,「宗教都市」を挙げることができるが,特に「湖東型」中世寺院集落は,個性ある「宗教都市」の一つとして重要な位置を占める。それは,戦国期城郭へ影響を与えたのみならず近世城下町へ連続する安土城の城郭配置や寺内町吉崎の都市プランに強い影響を与えたことが想定できるからである。

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人面・土偶装飾付深鉢形土器の基礎的研究(追補2)

吉本洋子・渡辺 誠
  1. はじめに
  2. 増加資料数とその内容
  3. 地理的・時期的分布の再検討
  4. 今後の課題

−論文要旨−

 筆者達は1994年刊行の本誌第1号,および1999年の第8号において,人面・土偶装飾付深鉢形土器について集成と追補を行い,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。さらに今回追補2としてその後の増加資料を検討した。

 人面・土偶装飾付深鉢形土器は,1994年までは443例であったが,1999年では601例となり,今回では750例となつた。平均して毎年約30例ずつ増加しているのであるが,1999年と今回の内容を検討すると,増加傾向には大きな変化はみられず,基礎的研究は終了できるようになったと考えられる。分布においては北海道西南部から岐阜県までという範囲に変化はみられないが,その間の秋田県・富山県などの空白地帯が埋まり,落葉広葉樹林帯の分布と一致していることが一段と明確になった。

 時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,前期の例が増加している。後氷期の温暖化が進み,日本列島の現状の森林帯が回復した時期もまた縄文前期である。四季の移り変わりのもっとも顕著な落葉広葉樹林帯と,人面・土偶装飾付土器の分布が一致することは,その機能を考える上できわめて重要である。冬期に弱まった自然の力の回復を,死の代償として豊かさを求める女神像に重ね合わせる,縄文宗教の形成を強く示唆している。基礎的研究の上にこれらの研究を本格化させる段階に入ったと言えるであろう。

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研究ノート

立柱祭祀の史的研究−立柱遺構と神樹信仰の淵源をさぐる−

植田文雄
  • はじめに
  • 1 列島の考古資料
  • 2 世界の立柱と神樹の歴史資料
  • 3 民族誌の立柱と神樹
  • 4 立柱祭祀と神樹の位相
  • 5 まとめと課題

−論文要旨−

 祭祀形態の一つとして,祭場に柱を立てる立柱祭祀が世界各地の民族例に存在する。日本列島では,上・下諏訪大社のr御柱祭」が著名であるが,一般論としてこの起源を縄文時代の木柱列など立柱遺構に求める傾向が強い。しかしこれまで両者の関連について論理的に検証されたことはなく,身近にありながらこの分野の体系的研究は立ち遅れている。また,しばしば縄文時代研究では,環状列石や立石も合わせて太陽運行などに関連をもたせた二至二分論や,ランドスケープ論で説明されることも問題である。そこでまず列島の考古資料の立柱遺構を対象に,分布状況や立地環境から成因動機・特性を考察し,立柱祭祀の分類と系統の提示,およびそれらの展開過程について述べた。考察の結果,列島では三系統の立柱祭祀が存在し,それらが単純に現在まで繋がるものでないことを指摘した。

 次に視点を広げ,人類史の中での立柱祭祀を考究するために,世界の考古・歴史資料を可能な限り収集し,列島と同手法で時間・空間分布や立地環境,形態などの特性について検討した。対象とした範囲はユーラシア大陸全般であるが,古代エジプト,南・北アメリカの状況も触れた。合わせて類似する儀礼として,樹木の聖性を崇拝する神樹信仰をとりあげ,列島と関係の深い古代中国の考古資料と文献資料から,神樹と立柱が同義であったことを指摘した。さらに,近代以前の人類誌に立柱祭祀と神樹信仰の事例を求め,世界的な分布状況や特性を検討し,その普遍性について述べた。そして,これら考古・歴史・民族資料を総括して史的展開過程の三段階を提示し,立柱祭祀の根源に神樹信仰が潜在することも論理的に示すことができた。また,普遍的には死と再生の祭儀が底流しており,列島の縄文系立柱祭祀はその典型であることが理解された。

 新石器時代当初には,生産基盤の森や樹木への崇拝から神樹信仰が生まれ,自然の循環構造に人の死と再生を観想して立柱祭祀がもたれたと考えられる。その後は,各地域の史的展開のなかで各々制度や宗教に組み込まれつつ,目的も形態も多様化したのである。

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発掘調査概要

コンジュタンジリ
公州丹芝里横穴墓群発掘調査概要

ヂ ミンジュ
池 眠周
(能登原孝道・端野晋平訳)
  • Ⅰ 調査概要
  • Ⅱ 遺跡の位置と環境
  • Ⅲ 調査内容
  • Ⅳ 公州丹芝里遺跡横穴墓群の調査意義

−要旨−

 朝鮮半島の公州丹芝里横穴墓遺跡では,23基の横穴墓が群集して発見された。残存状態が非常に良好で構造が明確であり,副葬遺物と被葬者の人骨などが完全に残っている。これは朝鮮半島の横穴墓の構造的特徴と築造時期はもちろん,日本考古学界でこれまで模索されてきた日本列島の横穴墓の起源問題をはじめとする古代韓日関係研究に画期的な資料となる。

 横穴墓の築造時期は副葬された土器類の型式的特徴を通して大まかな年代幅を把握することができるが,蓋杯や三足器などの遺物型式をみると,横穴墓はおよそ百済熊津期前半(5世紀後半)にわたって造営されたものと把握される。

 一方,公州丹芝里横穴墓の構造的特徴は日本列島の初期横穴墓である福岡県行橋市竹並・大分県上ノ原などの北部九州一円に集中して分布している横穴墓と類似する。その時期は5世紀後半〜6世紀前半頃とされており,今まで知られる日本列島の横穴墓の中では朝鮮半島系遺物が副葬される例が少なくない。このような事実はこれまでベールに包まれていた日本列島の横穴墓の起源問題を解明することができる極めて重要な資料となり,今回の丹芝里横穴墓群の存在とともに,横穴墓の百済地域起源の可能性を積極的に検討する契機となるものである。

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発掘調査概要

大日山35号墳の調査成果

藤井幸司
  1. はじめに
  2. 地理的・歴史的環境
  3. 測量調査と確認調査
  4. 出土遺物整理の成果
  5. 墳丘の構造
  6. おわりに

−要旨−

 大日山{だいにちやま}35号墳は和歌山県北部の紀ノ川下流域左岸に位置し,岩橋{いわせ}山塊上に展開する国特別史跡岩橋千塚{いわせせんづか}古墳群内に所在する。古墳群内では,その規模・立地から盟主的古墳のうちの一基として従来から評価されてきた。古墳は,史跡指定地として保護される一方,関西大学作成の墳丘測量図・石室実測図と表採される埴輪片などの資料のみで充分な蓄積がなく,その実態は不明であった。和歌山県では,古墳群の保存と活用を目的として,平成15年度から特別史跡岩橋千塚古墳群保存修理事業を開始し,その事業の一環として大日山35号墳の発掘調査が実施された。その結果,内部主体や外表施設の構成,規模,形態などについて様々な成果を得ることができた。とりわけ,東西くびれ部に造出が付設されることが判明し,そのうち調査を実施した東造出では,円筒埴輪列により囲続{いにょう}された範囲に,多数の埴輪や須恵器が樹立ないしは据付られていたことが判明した。平成16年度に行われた出土遺物整理により形象埴輪には家・蓋・大刀・人物・鳥・馬などが,須恵器には甕・高圷・器台などが存在することが判明した。このうち形象埴輪中には,滑空する姿態を表現した鳥形埴輪,鶴の可能性が高い囁の長い鳥形埴輪,短冊形水平板を備える馬形埴輪の障泥,棟持柱をもつ家形埴輪寄棟部などが認められ,西日本ではその類例は著しく限られるだけでなく,滑空姿態の鳥形埴輪はこれまで出土例はない表現で,非常に珍しい埴輪と考えられる。

 墳丘は3段構成であることが調査により判明したが,それを墳丘3段築成とみなすのか,最下段を墳丘の付帯施設(「基壇」)とみなすのかは,結論をみていない。現段階では今後の調査に期待する点も多々あるが,今回は後者の意見について私論を展開した。岩橋千塚古墳群内の同時期の古墳や近年調査が進展している今城塚古墳との比較検討を通じて,私論の妥当性を主張し,そこから派生する問題についても一部言及した。

 大日山35号墳は,6世紀前半に築造された岩橋千塚古墳群内で最大の可能性がある前方後円墳であり,造出に樹立された埴輪群は西日本でも有数の質・量を兼ね備えるものである。今後,調査および出土遺物の整理が進展し,大日山35号墳の実態がより明らかになれば,より一層古墳における祭祀や地域史などの多数の研究に大きく寄与することが出来るであろう。

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発掘調査概要

守護の城,置塩城跡の発掘調査成果について

山上雅弘
  1. 置塩城跡と置塩の位置
  2. 置塩城跡の特徴
  3. 各曲輪の様相
  4. 屋敷曲輪に構築された庭園群
  5. 豊富な生活遺物
  6. 守護大名の異質性

−要旨−

 置塩城跡は平成10年度に赤松氏城跡として国指定史跡に指定された。これを受けて夢前町教育委員会では現状調査および発掘調査を実施してきた。

 この城跡は通称城山(標高371m)に築城され,播磨守護赤松氏が拠ったことで知られている。通説では赤松政則以後の5代にわたる後期の赤松氏の居城とされ,文明元年(1469)の築城といわれる。城跡の規模は70前後の曲輪を有し,東西600m,南北400mにわたって遺構群が構成されるなど播磨最大を誇っている。城山の地形は詰の丸機能を持った第1-1郭と,根小屋機能を持った第II一1郭を中心とする西側曲輪群の2つの頂部で構成されるが,機能上もこの2つの地区は互いを補完する関係にあった。

 発掘調査によって第I-1郭からは曲輪中央と虎口部に櫓が検出されたが,この2つの櫓の存在は発達した防御施設を示し,この曲輪が詰の丸であったことを証明することとなった。

 一方,西側曲輪群(第II〜V曲輪群)では山頂の第II一1郭を中心として,門構えや礎石建物を有した本格的な屋敷曲輪が多数構築されたことが明らかになった。そして,これらの屋敷曲輪群が戦国時代末期の永禄〜天正年間前半頃(1557〜1581)に集中して構築されたことが判明した。つまり山城が大型化し,本格的な居住施設を伴うのが通説より100年下ることが明らかにされたのである。戦国末期には赤松氏(義祐・則房期)は政治的な力が衰退したといわれるが,城郭構造からはこれと正反対の実態が明らかにされた。この意味で置塩城跡の総合調査・発掘調査は赤松氏研究に新たな視点を投じた。

 各曲輪の中で第II一1郭などの中心的な曲輪はすべて通路2から入る構造であるが,これらの曲輪は庭園の構築や石築地の敷設など格式の高さが確認された。また,通路2は東西両端に虎口状の地形が伴っており,他の曲輪群に対して閉じた構造を持ち,主郭曲輪群ともいうべき空間を作り出していた。このことから西側曲輪群は第II一1曲輪を中心として主郭曲輪群・さらに下位の曲輪群へと階層別に序列が確認され,この場所が守護の格式や儀礼を示す場所であったことを明らかにした。

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書評

臼杵勲著『鉄器時代の東北アジア』

木山克彦

1 はじめに−本書の構成−

 本書の対象地域は,中国北東部(黒龍江省,吉林省)からロシア極東地域,東北朝鮮,オホーック海沿岸地域,モンゴル等を含めた広大な範囲に及んでいる。また,表題は鉄器時代となっているが,それ以前の新石器時代から12世紀代頃までが対象とされており,時間的にも長大な範囲が取り扱われている。当該地域は,現在でこそ比較的自由に往来することができ,日本人研究者による現地調査も可能となっているが,政治的な情勢から,多くの地域では,文献の入手すら容易でない時期もあった。著者である臼杵勲氏は,このような研究状況の困難な時代から,多くの文献を渉猟し,現在に至るまで精力的に当該地域の資料の実見,調査を行ってきた研究者の一人である。本書は,氏の学位請求論文に加筆修正したものとあり,氏の丹念な研究活動を積み重ねた結果といえよう。また本書には,氏のこれまでの研究成果に加えて,当該地域の諸文化の概要や各々の検討課題が盛り込まれており,本書を通読し正確に把握する事によって,通時的な研究状況を知り得る内容となっている。

 時間的・空間的に長大な本書の研究分野を網羅し,その内容を十分に咀囎できているとは言えない浅学の評者であるが,氏も述べている通り,日本人研究者にとっては馴染み深いとは言えない当該地域に対して,数少ない考古学的様相やその研究状況を知り得る本書の重要性を鑑み,簡潔ではあるが若干の解説とともに紹介する事としたい。

 本書は,全6章から成っている。以下,各章の内容について順に紹介する。尚,第6章一総括一は各章の内容を纏めた章であり,重複する部分も多いので割愛させていただく。

2 本書の内容と評価

(1)第1章極東の自然と先史文化の展開

 本章ではまず,最終氷期以後,現在まで続く東北アジアの自然環境を概観し,当該地域が,一般的なイメージとは異なり,豊富な生物資源量を包含している事を強調している。そして,土器出現期以降,新石器時代から青銅器時代を経て鉄器時代に至るまでの各地域の文化,類型の概要を整理し,各地域における文化の系統性とその変化を時期毎に纏めている。その上で,アムール流域の様相が一部不明ではあるものの,青銅器時代に形成された地域圏が大筋では鉄器時代に引き継がれていく事を指摘している。

(2)第2章「東夷」世界の展開一初期鉄器時代一

 本章は,初期鉄器時代(紀元前1千年期〜後1千年期前半頃)に関する章である。氏は,初期鉄器時代を前期と後期とに分けている。前期(紀元前8世紀頃〜後1世紀頃)は,青銅器時代に形成された地域圏が引き継がれた時期であり,後期(後1世紀頃〜後5世紀頃)は,この地域文化圏が再編成され,分布域に変動が見られる時期とみなしている。本章では,初期鉄器時代の文化や類型の概要を述べながら年代的に整理を行い,極東全体での考古学的な地域区分や編年の枠組みを設定している。また,氏は,土器を中心とした文化要素に基づいて,個々の文化や類型について,時間的な連続性を有する「系統」と同時期における共通性を持つ「群」に分けて整理し,前期から後期にかけての分布域の変動について述べている。そして,紀元前後頃以降に中国正史に現れる諸集団と考古学的文化や「系統」,「群」との対比を行なっている。

 第1章,第2章ではともに,各時期の文化,類型が網羅的に取り上げられており,当該期の研究状況が把握できる内容となっている。特に,第2章における「系統」と「群」の整理は,当該地域の考古学的状況に対する理解を促進させるものといえよう。これは,文化や類型を史書の諸集団,言語族と安易に結び付ける図式が散見された(以下略)