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機関誌『日本考古学』第20号

2005.10.20発行 161p ISSN 1340-8488 ISBN 4-642-09095-9 C3321
論文藤山 龍造summary 氷河時代終末期の居住行動論1-23
論文児玉 大成summary 亀ヶ岡文化を中心としたベンガラ生産の復元25-45
論文田中 元浩summary 畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開47-73
論文網 伸也summary 日本における瓦積基壇の成立と展開−畿内を中心として−75-92
論文三宅 俊彦summary10−13世紀の東アジアにおける鉄銭の流通93-110
研究ノート川根 正教・石川 功・植木真吾summary 寛永通宝銅銭の形態的特徴と金属成分分析111-133
遺跡報告山本 暉久・小泉 玲子summary 中屋敷遺跡の発掘調査成果−弥生時代前期の炭化米と土坑群−135-147

氷河時代終末期の居住行動論

藤山龍造
  • Ⅰ 問題の所在
  • Ⅱ 分析対象
  • Ⅲ 遺跡分布の検討
  • Ⅳ 石材構成の検討
  • Ⅴ 居住行動への接近
  • Ⅵ 空間利用をめぐる問題
  • Ⅶ 展望

−論文要旨−

 本稿の目的は,先土器時代から縄文時代への移り変わりについて,居住行動という側面から評価することである。そもそも,こうした問題をめぐっては,"遊動的な先土器時代","定住的な縄文時代"という対立的な図式のもとに議論されることが多い。また,そうした図式のもとでは,居住地の安定性が重視される傾向にある。しかしながら,人々の居住行動を考えるにあたって,"遊動","定住"という二分法は生産的でない。むしろ,そうした枠組みを一旦取り払ったうえで,複数の居住地にわたる移動行動も含めて,居住行動論を展開してゆくことが要請される。

 こうした問題意識のもと,本稿では遺跡分布に主眼をおきつつ,居住行動へと接近を目指した。そして,南関東地域(西半部)を分析対象として検討したところ,隆起線文土器群に先行する段階(Phase1)から隆起線文土器群の段階(Phase2)にかけて,遺跡の分布傾向が大きく変化していることが明らかとなった。また,こうした変化と歩みを合わせるように,石材構成が変化していることも明らかとなった。

 そして,こうした検討を通して,次のような居住行動が描き出された。すなわち,隆起線文土器群に先行する段階(Phase1)では,人々は広域的に往来しながら,生活を営んでいたと予測される(中距離移動型)。これに対して,隆起線文土器群の段階(Phase2)になると,人々は小範囲の巡回を中心としながら,生活を営むようになったと予測されるのである(短距離周回型)。さらに,こうした変化にともなって,自然資源の獲得範囲が縮小化していることも予測された。

 これらの成果を踏まえたうえで,筆者は以下の見通しを示した。すなわち,この時期に落葉広葉樹林が発達するなかで,植物資源の利用が活発化し始める。また,このように移動性に乏しい資源が積極的に開発されることによって,小範囲における集約的な資源利用が可能となる。そして,こうした資源利用の変化を背景として,居住行動の変化が促進されたと予測されるのである。

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亀ヶ岡文化を中心としたベンガラ生産の復元

児玉大成
  • はじめに
  • Ⅰ 北海道〜東北北部における縄文時代の赤色顔料
  • Ⅱ ベンガラの原料
  • Ⅲ ベンガラ付着石器
  • Ⅳ ベンガラ製造用土器
  • Ⅴ ベンガラの生産工程の復元
  • おわりに

−論文要旨−

 ベンガラは,褐鉄鉱または赤鉄鉱から得る方法があり,一部は後期旧石器時代より確立された技術として生産された。

 縄文時代のベンガラ生産は,原料を粉砕,磨り潰されるところまでは理解されているものの,きめ細かく均一的な粒子を得るための調製方法については未解明な部分が多い。

 北海道南部から東北北部に形成される亀ヶ岡文化の遺跡では,赤鉄鉱の出土が目立ち,宇鉄遺跡においては2,300点,約65kgもの赤鉄鉱とベンガラ付着石器や土器が数多く出土している。小稿では,宇鉄遺跡の赤色顔料関連資料の分析と顔料の製造実験を通して実証的なベンガラ生産の復元を試みた。その結果,赤鉄鉱を叩き割りして頁岩部分とコークス状部分とを分離させ,次にコークス状の赤鉄鉱のみを粉砕し,さらに磨り潰したものを水簸による比重選鉱を行い,赤色の懸濁液を土器で煮沸製粉していたことが明らかとなった。

 このような煮沸製粉法によるベンガラ生産では,均一的な微粒子粉末を得ることができ,より多量な生産を容易に可能とする。こうした技術を必要とした背景には,亀ヶ岡文化が多様な赤彩遺物を増大させたことと密接に関係するものと考えられる。

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畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開

田中元浩
  • Ⅰ はじめに
  • Ⅱ 検討の目的と方法・前提
  • Ⅲ 庄内甕・布留甕の展開
  • Ⅳ 布留甕の成立と製作集団の動向
  • Ⅴ 精製器種の展開
  • Ⅵ 土器様式の構造と集落間関係の形成
  • Ⅶ おわりに

−論文要旨−

 本稿の目的は,畿内地域での古墳時代初頭土器群の成立と展開を把握し,そのうえで土器様式の構造や地域集団の抽出,地域集団間の関係の強弱を明らかにすることである。

 田中琢氏によって設定された庄内式土器は,当初考えられたような畿内地域通有の土器様式ではなく,その展開や分布に一定の偏在性が認められる。また資料の蓄積が一定程度に達した現在では,庄内式土器,布留式土器といった土器様式は単純な様相を示すものではなく,甕形土器・精製器種に複数の系統が存在することが指摘されつつある。

 以上の視点をもとに本稿では,畿内地域における古墳時代初頭前後に出現する庄内甕・布留甕・精製器種各群といった製作技術を共有する土器群の展開を,共通する時期の構成比率によって検討した。

 こうした分析の結果からは,新たに出現する庄内甕・精製器種B群といった土器群は中河内地域の中田遺跡群でその成立をみるとともに,その後の展開については中河内地域と,纏向遺跡を中心とする大和東南部,摂津・北山城・南山城地域に存在する拠点集落同士の交流をもとに,各地域へ展開していくことが明らかとなった。一方布留甕の成立については,各地域の庄内甕・精製器種B群の展開の中心となった集落において複数の分布の拠点が認められる。また細部の形状や技法等の検討からは,各集落での布留甕には型式的な差異が認められ,こうした違いは前段階の在地での庄内甕製作基盤の有無と山陰地域からの技術的影響の強弱が関係している。

 古墳時代初頭土器群の土器様式の構造については,庄内甕・布留甕・精製器種B群といった各土器群が胎土・展開時期・分布において各地域で複雑なあり方を示す。また,分布する庄内甕の特徴によって分布圏が形成され,さらに分布圏の内部で土器群の展開にみられる拠点集落とその周辺集落との間には,構成比率に中心一周辺関係が形成され多様な範囲や集落間関係が存在することが明らかとなった。

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日本における瓦積基壇の成立と展開−畿内を中心として−

網 伸也
  • Ⅰ 日本の瓦積基壇研究の現状
  • Ⅱ 百済の瓦積基壇との比較
  • Ⅲ 日本における初期瓦積基壇
  • Ⅳ 飛鳥の寺院造営と初期瓦積基壇
  • Ⅴ 結語

−論文要旨−

 日本における瓦積基壇の成立は,大津宮周辺の古代寺院で初期の瓦積基壇建物が検出されていることから,百済滅亡と大津宮遷都が大きな画期になったと考えられる。実際に瓦積基壇建物が検出されている古代寺院の分布をみると,近江から南山背にかけて多く分布しており,大津宮との強い関連を想起させる。しかし,百済での瓦積基壇の展開を再検討し,日本の事例との比較を行なうと多くの相違点が指摘でき,百済滅亡後の渡来系氏族による新しい技術伝播として瓦積基壇の成立を単純に把握することができない。何よりも,ヤマト政権の中心地である飛鳥はもとより大和地域で初期の瓦積基壇建物がいまだ発見されていないのは等閑視できない事実である。

 この歴史的背景として,初期寺院造営において百済から全面的に造営技術を学んだが,百済で一般的であった瓦積基壇については積極的に採用しなかった姿勢を窺うことができる。そこには新しい文化技術を導入しつつも,掘立柱建物および石敷空間を重視する伝統的な宮殿構造に規制され,格式が高く既存の技術体系の中で受け入れやすい石積基壇は採用しても,外来的要素の強い瓦積基壇は認めない取捨選択が働いた結果が見て取れる。そして,日本で瓦積基壇が成立する素地として半世紀にわたる寺院造営技術の発達があり,大津宮遷都という飛鳥の伝統的呪縛から開放された新しい宮都で初めて寺院の基壇外装として瓦積基壇が定着し,近江と大和を結ぶ地域で大津宮周辺寺院とともに従来の大和諸寺院の影響を受けた瓦積基壇が展開したものと考えられる。

 さらに,瓦積基壇の初源は近江地域だけでなく,渡来系氏族が古くから居住した河内石川流域の新堂廃寺とともに,孝徳朝の難波遷都に伴う四天王寺の伽藍整備にも想定できる。難波長柄豊碕宮と想定される前期難波宮は後の朝堂院の原形となる広大な構造をもっており,律令国家成立期の画期的な宮として認識されている。四天王寺では百済との強い関連のもとに扶蘇山廃寺や定林寺と共通した伽藍で整備しており,大津宮と同じく開明的な都の整備の中で瓦積基壇の成立の端緒をみることができるのである。

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10-13世紀の東アジアにおける鉄銭の流通

三宅俊彦
  • はじめに
  • Ⅰ 鉄銭窖蔵の事例
  • Ⅱ 分析
  • Ⅲ 検討
  • おわりに

−論文要旨−

 10-13世紀の東アジアは,銭貨による貨幣経済が非常に発達した時期であり,中国のみならずその周辺の国においても中国の銭貨が流通していた。それらの多くは銅銭であったが,本論では銅銭の流通経済を支えたもうひとつの主役である,鉄銭について考古学的に検討する。

 鉄銭は,銅銭による経済活動に支障が生じた場合,それを補完する目的で,地域を限定して流通させた。そのため,流通した地域が限られ,考古学的にも分布に偏りが見られる。また,鉄銭が行使される目的も,文献史料などから求めることができ,考古資料との比較を行うことが可能である。本論であつかう地域は,中国本土の北宋・南宋だけでなく,北方に興亡した異民族の西夏も含まれる。時代は宋代(北宋・南宋)であり,西夏もこの時期に含まれている。分析の対象となる考古遺物は窖蔵{こうぞう}銭である。窖蔵銭は,人為的に大量の銭貨が埋められたもので,当時の銭貨流通の情況をよく反映していると考えられる。

 I.では,窖蔵銭の事例を概観する。銭貨がどの様な情況で埋められていたか,どれくらいの数量か,などを西夏・北宋・南宋の王朝ごとに見ていく。

 II.では,窖蔵銭の分布・銭種組成・年代について,王朝ごとに分析を行う。これにより,各王朝の窓蔵銭の事例が持つ,特徴と共通点が明らかになるであろう。

 III.では,II.の分析を受け,「鉄銭行使地域の設定」,「各行使地域における流通銭貨の種類」,「窖蔵銭の埋められた理由」について,詳細な検討を加えた。また,文献史料と考古遺物が示す情況との比較を行い,窖蔵銭が文献史料の記載を反映していることを明らかにした。

 10-13世紀における東アジアの鉄銭に関する考古学的研究は,これまでほとんど行われて来ておらず,その流通の様相や歴史的背景の一端を探る本論の試みは,ほとんど初めてのものである。東アジアの貨幣研究の一助になれば幸いである。

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研究ノート

寛永通宝銅銭の形態的特徴と金属成分分析

川根正教・石川功・植木真吾
  • はじめに
  • Ⅰ 研究史
  • Ⅱ 考古資料としての寛永通宝
  • Ⅲ 分析対象資料
  • Ⅳ 様式の形態的特徴
  • Ⅴ 様式の金属成分分析
  • 結語

−論文要旨−

 寛永通宝は,江戸時代を通じ数次にわたって鋳造された近世の代表的な銭貨である。文献資料から鋳造年代がある程度判明していること,各時期に鋳造された寛永通宝にはそれぞれ形態的特徴が認められることから,考古学的手法によって分類・編年を行うことにより,遺構や遺物の年代を推定する資料として有効な活用を図ることができる。また,文献史学・経済史学や自然科学などとの学際的研究を行うことによって,流通や銭貨製作の具体的様相を理解することも可能となろう。

 本稿では,千葉県三輪野山道六神遺跡B地点の近世墓から発掘調査によって出土した寛永通宝銅銭を研究対象資料とする。同一時期に鋳造された寛永通宝には様式(style)という概念を,彫母銭を同一とすると考えられる寛永通宝には型(pattern)という概念を与え,寛永期から元文・寛保期までに鋳造された寛永通宝銅銭を文字形態などによってIa様式・Ib様式・IIa様式・IIb様式・IIIa様式・V様式の5様式に大分類し,同時に判明する資料については型分類を合わせて行なった。そして,分類した様式及び型について,計測値による形態的特徴の検討,金属成分分析による元素組成の特徴を検討した。

 その結果,各様式と各型は輪・郭の径及び重量などに固有の形態的特徴をもち,また銅・錫・鉛の主要元素や鉄・砒素・アンチモンなどの微量元素からなる元素組成の特徴も,各様式及び各型に認められることが判明した。

 このことから,各時期に鋳造された寛永通宝の銭貨としての品質的特徴は,該期の鋳造技術の水準や金属生産量と関連しつつ,貨幣経済発展に対応する幕府の銭貨政策を極めて端的に反映していることが明らかになった。

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遺跡報告

中屋敷遺跡の発掘調査成果−弥生時代前期の炭化米と土坑群−

山本暉久・小泉玲子
  • Ⅰ はじめに
  • Ⅱ 地理的・歴史的環境について
  • Ⅲ 調査概要
  • Ⅳ 調査成果
    (1) 弥生時代前期の土坑群
    (2) 炭化米と自然科学分析
  • Ⅴ おわりに

−要旨−

 中屋敷遺跡は,神奈川県足柄上郡大井町に所在し,1934(昭和9)年,道路工事中に土偶形容器 (国指定重要文化財)が出土したことで知られている。土偶形容器内には幼児の骨粉・歯が収納され ていたことから,再葬にかかわる遺物であるとされている。年代については,土偶形容器や出土土 器から縄文時代終末から弥生時代中ごろとされてきた。しかし,遺跡の詳細は不明なまま今日に至 っている。昭和女子大学は,この遺跡の重要性に着目し,南西関東における縄文時代から弥生時代 への変化の様相を明らかにすることを目的として,1999(平成11)年から2004(平成16)年まで計6次 にわたる調査を実施した。その結果,複数の土坑を検出し,そこから弥生時代前期に相当する良好 な一括遺物を確認した。さらに6次調査では,炭化米と炭化アワ・キビなどの雑穀,トチノキの種 実を土器などの遺物と共に同一土層で検出した。また,考古学的調査と併せて各種の自然科学分析 も実施した。樹種同定された炭化米・トチノキをAMS法で放射性炭素年代測定したところ,紀元 前5世紀〜4世紀の結果を得た。炭化材および土器付着物の年代測定の結果もほぼ同様であった。

 検出された土坑の解釈については,土坑の形態や分布状況,遺物の出土状況,覆土等の観察から, 土坑外で生じた様々な不用物を廃棄するために利用された穴であると考えている。ただし,いくつ かの土坑には,もともと貯蔵穴として利用されていた可能性もある。また,土坑間には同時性があ り,当初より複数あったと想定している。

 関東における稲作の導入についてはまだ不明な点が多い。その現状において,米そのものが土器 などの遺物と共に遺構から出土し,年代測定された確実な例として,本遺跡の資料は現在のところ 関東以北で最古級といえる。また,米と共に雑穀やトチノキが確認されたことは,稲作開始期の生 業活動を考える上で貴重な成果と考えている。

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