九州縄文時代前期以降の森林・木材利用システムの変容過程を把握するために,各遺跡出土磨製石斧セットの変異の様相とその通時的な変化を整理した。対象地域は島喚部を除いた九州島内とし,対象時期は前期・中期・中期後葉〜後期前葉・後期中葉・後期後葉〜晩期中葉とした。磨製石斧の器種分類に用いた属性は,サイズ・刃部断面形態・成形・基部形態・刃端部使用痕などである。
結果は以下の通りである。(1)九州縄文時代前期以降の遺跡出土磨製石斧セットには,沿岸部と内陸部といった遺跡間変異が認められ,その通時的変化が把握できる。そのパターンは,その遺跡で製作された木質遺物,遺跡周辺の植生,生業活動などに関連する可能性が高く,生業・居住様式に内包される森林・木材利用の適応過程を反映すると考えられる。(2)前期までは,沿岸部遺跡出土の磨製石斧セットが多様であるのに対し,中期後葉には,沿岸部だけでなく内陸部出土の磨製石斧セットの変異も大きくなる。これは前期の沿岸部中心の生業・居住活動から中期以降徐々に内陸部での生業・居住活動の比率が高まる現象を反映している。(3)また,このような変化は,伐採用石斧が前・中期までの扁平大型石斧から,中期後葉〜後期前葉に東日本系の乳棒状石斧へと変化する現象や後期中葉に九州南部で方柱状ノミ形石斧が普及する現象などと並行して起こっている。
九州縄文時代中期以降の内陸部への居住拡大は,人口増加や中期冷涼湿潤化に伴う沿岸環境の変化などに起因するとともに,積極的な内陸部の資源利用を促したと考えられる。また,そのような生業・居住システムの変容に際して,伐採斧と加工斧の双方に技術レベルでの変化が認められ,九州外からの技術的影響も示唆された。
弥生時代の開始期には,朝鮮半島南部からの文化の伝播によって,土器や石器などの道具だけでなく,生業や葬制にいたるまでの,広範な変革がみられる。そして,その時期には,遠賀川式土器という斉一性の高い土器様式が西日本に広がる。近年,この斉一性の再検討が進み,地域性のあることが指摘されるようになってきた。これは九州北部から東に行くほど,地理的勾配によって,無文土器を起源とする文化が薄れていくという状況のみではなく,在地的な影響力の重要性を指摘している。しかし,この時期の葬制をみた場合,その展開は極めて多様である。地理的勾配と在地的な影響もあるが,それのみでは,葬制の多様性と変化の大きさを説明することは難しい。
そこで本稿では,弥生時代開始期になって現れる副葬品である,朝鮮半島南部の文化に由来する磨製石剣,磨製石鎌,丹塗磨研壺,碧玉管玉に着目した。そして,①副葬習俗の展開における地域差,②土器様式と葬制の広がりの対応状況の有無を明らかとすることを目的とし,西日本各地におけるそれらの副葬品として扱い方,品目ごとの受容の様相を検討した。同時に,各副葬品の展開が,朝鮮半島との直接的な交流を示す部分がある可能性を考慮し,朝鮮半島での副葬品の在り方や地域性についても注意を払った。
そして,これらの検討を行った結果,弥生時代開始期の西日本では,九州北部を経由した文化を一様に受容するだけではなく,それぞれ地域性をもって受容することがわかった。そして,その様相は重層的であり,遠賀川式土器に代表される土器の影響は確かに九州北部から西日本に伝播するが,水稲農耕を中心とした農耕社会が形成され始めたのちは,九州北部を介さず,朝鮮半島南部の文化を各地域が選択して受容すると考えられた。一方,弥生時代前期を境に,九州北部では,石剣・石鎌などの武器副葬こそあまり受容しなかったものの,副葬習俗が一般化し始める。山陰地方では副葬品として管玉を主体的に受容するのみでなく,玉作りも展開させ,原材などの交易がみられるようになる。これらの様相から,弥生時代開始期に形成された地域性は,前期末の青銅器の伝播に伴う変化も加えつつ,弥生社会の副葬品による東西の不均衡や,地域的展開の基盤となると結論づけた。
本論は,弥生時代後期における伊勢湾地方の台付甕の成形方法について議論するものである。伊勢湾地方では,弥生時代中期に台付甕が誕生して以降,時間的,空間的に種々の台付甕が見られる。その中でも,器種が増加し,分布も拡大する弥生時代後期の各種の台付甕の関係を具体的に明らかにするため,台付甕の,台と胴の接合部,胴下半部を中心とした成形方法を検討した。
伊勢湾地方における弥生時代後期の台付甕の台と胴の接合部には,連続成形と断続成形がある。後者は,弥生時代後期になって高杯などの新器種の波及に伴って西日本からもたらされた成形方法であると思われるが,その中には別々に成形した台と胴を組み合わせる方法(別作り組合せ)と,成形後,乾燥させた台の頂部側面から胴部を積上げるもの(側面積上げ)がある。この二種の成形方法の時間的,空間的な分布を検討し,台付甕の成形方法の時間的変化,地理的差異,成形方法と甕の系統との関係を示した。それに基づき,各種の台付甕の相互関係を具体的に論じた。
さらに,台付甕の成形方法を台付壷,高杯などの他の脚台付土器の成形方法と比較した。脚台付土器の成形方法はすべての器種で共通するのが一般的であるが,台付甕の中には同時期の他の脚台付土器とは成形方法が異なるものがあり,器種毎に製作者が異なる場合がある可能性を指摘した。
本論で取り扱った土器の成形方法は,完成品からはうかがえず,また身体の使い方や土器作りの工程と密接に関係するため,容易には模倣できないという特徴をもつ。そのため,その変化や地域差の要因としては土器製作者の交渉が想定される。しかし,同一地域,同一器形の土器が異なる成形方法によっている事例もあることから,土器製作という行為あるいは土器製作者の社会的な位置付けの議論を行うことなく,この土器製作者の交渉から,地域集団間の関係を議論することには慎重であるべきことを主張した。
「竪穴建物」とは,地表面から竪穴を掘り込み,その地下空間を利用する半地下式の建物である。規模は一辺2mから6m程度が過半であるが,中には10mを越す報告もある。その多くは12世紀後半以降に求められ,中世を通じた報告例がある。また日本列島には縄文時代以来,竪穴住居があるが,弥生,古墳時代を経て西日本で7世紀,東日本では10世紀ごろに断絶する。そのため中世の竪穴建物とは直接の系譜関係は想定しづらい。ただ,少数ではあるが北東北地方や博多に11世紀代の報告例もあり,竪穴住居との系譜関係は今後,検討すべき点である。
竪穴建物は,1982年に鎌倉遺跡群で報告されてから広く認知され,その後,列島規模の広範囲で報告される。各地の竪穴建物の構造は,柱によって上屋を支える構造,いわゆる柱穴建ちが主体であるが,それに対して鎌倉遺跡群は,竪穴底面に据えられた土台角材から隅柱や中柱を組み上げ,それにより内部空間を確保する木組構造が主体をなす。
本稿ではこの両者の相違を明確にするために,基本構造により分類をおこなう。これにより,鎌倉遺跡群の建物構造は,列島の中で特徴的な構造である可能性を提示した。そして,より詳細に構造を検討した上で,以下に続く,年代や建て替え状況から都市の土地利用についての考察を行なう。
鎌倉における竪穴建物の年代について,現在まで直接的な研究は見当たらない。筆者は遺構(竪穴建物)の重複から新旧関係を見出し,各遺構に含まれる最新の遺物を下限年代とした上で,重複する遺構群内で変遷を追った。その結果,鎌倉においては13世紀第2四半期ごろに出現し,下限は15世紀代と推測した。
その重複関係に着目すると,竪穴建物は建て替えに際しても大きく場所を変えず,同一の地点で繰り返し構築される。その限界が「区画」を表現するものと考えた。鎌倉の「海浜地区」は区画が存在しないと考えられていたが,検討の結果,可能性を示した。この区画こそが中世都市における土地規制の徴証であり,都市制度下にあったものと推察され,今後は都市論あるいは都市構造論へ発展すべき問題点だと考えられる。
庭鳥塚古墳は大阪府の南部,南河内地域を縦断する石川の左岸に立地する。羽曳野丘陵の東にある中位段丘の東縁に築かれ,古市古墳群の南約1.8kmに位置する単独墳である。閑静な住宅街に隣接する雑木林に保存されて,その存在は一部の研究者が知るのみであったが,平成17年6月の整地工事によって粘土榔が露出する状況となった。
羽曳野市教育委員会では,緊急調査を実施するとともに実態が不明な古墳に対して保存と活用を目的とした範囲確認調査を実施したのである。その結果,遺存する粘土榔はまったく盗掘を受けておらず,副葬品など埋葬当初の状況であることが判明した。さらに,墳形や規模,外部施設などについても成果を得ることができた。
墳丘は全長約50mの前方後方墳で,3.7mの高さをもつ後方部や前方部は盛土によって構成されている。埋葬施設は組合式木棺を安置した粘土榔が後方部の中央で1基確認された。
副葬品から古墳時代前期中葉から後葉に築造されたと考えられる庭鳥塚古墳は,河内の大王の墓域である古市古墳群よりも先行する古墳である。副葬品に舶載の三角縁神獣鏡を保有し,かつ2本の筒形銅器をもつ。銅鎌54本,鉄鎌126本さらに籠手の出土は被葬者の性格を物語る。
来年度から実施される墳丘の調査により前方後方墳の実態がより一層明らかにされ,古墳研究や南河内地域史などに大きく寄与することができるであろう。
極楽寺ヒビキ遺跡は奈良盆地南西部,金剛山の東麓に所在する。周辺では古墳時代中期から後期にかけての工房や倉庫群,大壁建物等を含む集落が営まれていたことが発掘調査によって明らかにされている。また,北東約3kmには南葛城地域最大の前方後円墳である宮山古墳が位置しており,文献上では葛城氏と深い関わりをもつ地域として重要視されている。
県営圃場整備事業にともなう2004年度の調査で,古墳時代中期前半の濠による区画と大型掘立柱建物をはじめとする遺構を確認した。
大型掘立柱建物は区画内の西側にある。身舎部分が2x2間で,四面に5x5間の縁が付き,さらに西と南の二面に6間分の柵が巡る。身舎には板状の柱が用いられていた。この建物は,柵に平行する南北約25m,東西約50mの掘立柱塀に囲まれる。これらの諸施設は濠によって区画されていた。濠の幅は約13mあり,深さは約2mあったと考えられる。斜面には葺石が施されていた。この区画へは堤を渡って出入りしていたと考えられ,現状で確認できる堤は幅約8m,長さ約12mで,南に向けてハの字状に広がる。
遺物は少量ながら濠内,なかでも渡り堤が取り付く部分から集中して出土した。土器は須恵器に比べ土師器が多く,供膳具である高杯が目立つ。また,濠の埋土からは須恵器が出土しているのに対し,渡り堤と調査区西側の盛土内から出土した土器は土師器の高杯が中心で,須恵器は含まれない。
この大型建物を含めた区画は,出土遺物が少ないことや土器の主体を高杯が占めることから日常生活の場とは考えにくい。また,身舎部分に板状の柱を使用している例は少なく,建物の構造や性格を考える上で重要な成果である。これらのことから,大型建物を含めた区画は一般的な住まいというより祭儀や政務をおこなった公的な性格をもつ施設と考えられる。葛城地域における有力豪族の実像に迫る上で,きわめて重要な遺跡といえる。
中世大友城下町跡は戦国時代「府内」と呼ばれた瀬戸内海の西端部の別府湾に注ぐ大分川の左岸の自然堤防上に立地する中世都市である。近年この「府内」が大分駅周辺総合整備事業に伴い大規模な発掘調査が実施されている。その結果,これまで古絵図からの復元や,文献史料で知られていた「府内」について,さらに都市構造や変遷・性格などが明らかになりつつあることを報告した。発掘調査にあたっては,考古学的な時間軸を明確にするために,「府内」から出土する土師質土器の編年作業を行った。その結果,14世紀初頭から16世紀末まで約300年間にわたる大まかな編年案を提示することが出来,「府内」各所での遺構の時期の並行関係をとらえることが可能になった。
また,古絵図には「府内」を南北に貫く街路が四本描かれているが,これを東から,第1南北街路・第2南北街路と順に名づけ発掘調査した。大分川沿いにある第1南北街路は上市町・下市町・工座町の名称が示すように,発掘調査でも街路に沿って短冊形の地割が確認され,商工業者が居住する地域であることが裏付けられた。第2南北街路は,大友館や萬寿寺沿いに「府内」を貫く最主要街路である。この街路の大友館東側や萬寿寺西側については,町屋の状況を示す古文書も残されている。発掘調査では,その町屋の実像だけでなく,成立までの経過も明らかにすることが出来た。第4南北街路は,「府内」の西端の街路であるが,古絵図には街路西側にダイウス堂と記載された場所があり,キリシタン施設が想定されていた。発掘調査の結果,小児墓やキリシタン墓を含む13基の墓が検出され,宣教師たちが報告した墓地の南端にあたる可能性が強いと想定している。「府内」からは,多量の貿易陶磁器が出土する。特に,第1南北街路と第2南北街路を結ぶ横小路町で検出された遺構からは,中国・朝鮮のみでなく,タイ・ミャンマー・べトナムなど東南アジアの陶磁器が集中的に出土し,中国南部と直接関わる人物の存在が指摘されている。
また,キリシタンの活動に関連する遺物としてメダイがある。ヴェロニカのメダイ以外は,「府内」の第2南北街路と名ヶ小路との交差点部で検出された礎石建物付近で,分銅と共に製作された可能性が強いと考えられる。
このように,16世紀後半の「府内」は海外との結びつきの強い特異な中世都市として存在する。残された史料も,古絵図,古文書,宣教師たちの報告など多彩であるが,これに考古資料が加わり,「府内」の実像がより立体的に明らかにされようとしている。
この書評では,「民族誌の分析がどのようにして考古資料の解釈に役立ちうるか」に焦点を置いて本書の意義を検討したい。
1.本書の概要と特徴
本書は,1994年から2004年に渡って継続的に行われたロシア極東地域の民族考古学的調査の成果をまとめたものである。本書の構成は,アムール川流域(第1・2章),サマギールを代表とするゴリン川流域(3〜5章),ウデヘを代表とするシホテ・アリニ山地(6〜9章),という3地域の各々について生業と居住形態を分析した後,集落配置(10章),先史時代の食料基盤(11章),シカ猟(12章)という各論が展開され,最後に「民族誌資料の考古資料への適用」という点から研究成果が総括されている。このように,本書は9章までの各章において各調査地の調査成果を丁寧に報告している点で,貴重な民族誌でもある。本書の調査・分析方法の特徴として以下の点があげられる。
第1は,文化生態学の方法を用い,生業と居住形態(セトルメントシステム)に焦点をあてている点である。本書は1998年に刊行された『ロシア狩猟文化誌』(佐藤宏之編)の続編である。前著では生業(狩猟技術など)に重点が置かれたのに対し,本書では生業研究が住居・集落研究と統合されることにより新たな成果が提示されている。
文化生態学では,歴史主義アプローチのように多数の属性を網羅的に扱うのではなく,「文化間の共通性や違いを説明する上で最も重要と思われる核属性に焦点を当てること」が特徴である・具体的には,セトルメントシステムや人口密度などの人口特性,分業などの生業集団構成,テリトリー使用権などの生産手段などが「核属性」と呼ばれ,生業技術や特徴的環境と共に,文化の統合レベル(バンド社会,部族社会,チーフダム,など)といった最も基本レベルの特徴に重要な影響を与えいる文化要139書評谷口康浩著『環状集落と縄文社会構造』山本暉久はじめに
谷口康浩氏がこれまで精力的に行ってきた縄文時代集落にかかわる一連の研究が一書としてまとめられた。この『環状集落と縄文社会構造』(2005.3,学生社刊,303頁)は,その書名のとおり,縄文時代集落のとくに環状集落の研究を通じて,縄文社会構造の解明に迫るという意欲的な著作である。
刊行から1年以上経過後に,このような書評を著すのは,いささか時機を失した感があるが,縄文時代集落研究における,ひとつの今日的到達点を示すものと評価されるので,本書を読んだ評者なりの感想をまじえた書評をあえてまとめさせていただいた。著者にはご寛恕を乞う次第である。