弥生時代における水稲農耕の本格的な導入にともない,イネ科草燃料などを用いて覆いをする土器野焼き方法の導入されたことが,これまでの研究のなかで明らかにされている。この野焼き方法は,時間をかけて温度を上昇させ,安定した火回りで土器を焼くことができる点で,縄文時代の開放的な野焼き方法と異なるだけでなく,水田開発によって切り開かれた環境とうまく適応するという点で優れた野焼き方法であった。では,水田の定着しつつある列島において,この野焼き方法はどのように受容され展開していくのだろうか。本稿では,このような課題について,西日本を中心とした資料を検討し考察をおこなった。
具体的な方法としては土器焼成時に付着する黒斑を観察することで,黒斑の形態によって焼成時の燃料などの土器周辺の状況を解明し,さらに黒斑の有無や位置によって,土器の置き方を推定した。このような視点から検討すると,以下のような結果が浮かび上がってきた。①薪燃料の変化が少なくとも西日本で共通していた可能性の強いこと,②土器設置角度において弥生時代中期にもっとも地域性が強まること,③焼成時の土器設置角度において,弥生時代後期から終末期へと連続する岡山平野に対し,大阪湾沿岸地域においては,後期から続く伝統的な甕と器壁の薄い庄内型甕や布留型甕とでは違いがあり,生産(焼成)の場が異なる可能性があること,④弥生時代後期から積み重ね焼きがはじまり,素朴ではあるが土器生産の効率化への胎動が認められることである。そして,このような変化は,単なる焼成方法の変化にとどまらず,粘土紐積み上げから調整・装飾を経て乾燥にいたるまでの土器製作技術と密接に連動して引き起こされていると考えられるのである。
本稿の目的は,日本列島で出土する筒形銅器の製作技術を復原し,その検討結果をふまえたうえで分布や出土古墳の形態・規模,共伴資料にみる特徴などから,筒形銅器が列島において受容された背景を探ることにある。
まずは,製品に残された鋳張り,湯周り不良,研磨状況などの製作痕跡をもとに,筒形銅器の鋳型構造を復原した。つぎに,目釘穴と透かしのあり方に反映された鋳型構造には,大きく3つの違いが存在することを明らかにした。そして,省力化や製品の仕上がりといった点を考慮したうえで,鋳型構造の差異が時間差を反映している可能性を述べ,これを古墳における筒形銅器の組み合わせと出土古墳の年代から検証した。また,筒形銅器には一定の法量のなかで形態にいくつかの規格が存在することも述べた。
そして,製作技術にかかわる痕跡が韓半島の出土例と一部共通することを確認し,日韓で出土する筒形銅器がおおむね同一の生産体制下でうみだされたものと想定した。さらに,筒形銅器は一定程度の法量を保持しながら,製作の初期には多様なつくりわけがおこなわれ,その後ある程度規格的な生産がすすめられたが,最後にはその規格が崩壊するという生産状況を復原した。
そのうえで,筒形銅器の分布や出土古墳の諸要素を時期ごとに検討し,列島における筒形銅器の分布に明確な中心を特定しにくいこと,出土古墳の形態や規模にばらつきがあることなどを指摘した。そして,筒形銅器の流通が倭王権による分配ではなく,対韓半島交渉を背景とした地域間交流の強化にともなって各地にもたらされたものであると結論づけた。
本論は,建築史学が考古学の姉妹分野として認められることを出発点とし,その重要な側面の一つ,建物を遺物として分析の対象とすることを,イギリスの研究者に習って,「建造物の考古学」と定義する。日本の場合,建造物の考古学を進めるに当たって,重要文化財建造物の修理工事報告書を世界的に水準の高い貴重な資料として指摘し,その中から,1963年発行の「江川家住宅修理工事報告書」を例に取り上げ,それを通して,歴史的建築に関する理解を深める道具としての修理工事報告書のポテンシャルを探る。報告書を日本建築史における江川家住宅の位置付けの学際的な再検討の出発点とする。後に一棟に纏められたが,本来は独立した居室棟と台所棟から構成された江川家住宅は,近世の田舎に残る中世上層武士の住居形態を伝える稀な存在として注目を浴びた建物である。両棟に関する調査成果の再検討,類例との比較及び文献と発掘資料の分析を行った結果,台所棟を17世紀初期建立の酒醸造の釜屋を兼ねた代官屋敷の台所として認めるが,近世初期上層住宅の台所よりも,原型を前史・古代にある伝統的釜屋建築の系譜に求め,分棟型民家の別棟土間作業場と共通する最新技法を利用した極端に大規模な例として解釈する。一方,禅宗方丈,室町将軍御所の会所,大名居館の対面所との類似及びその規模と材質等を考慮し,居室棟を近くの韮山城御殿から移築された建物と推測する。よって,戦国大名居館建築の唯一の残存例である可能性が強いと指摘する。両建物当初の配置も復元し,寺院における住宅建築と武士住宅の配置との類似から,構成はそれらを意識したと見られるが,発掘遺構の再検討の結果,16世紀の江川家住宅を別棟サービス型よりも,主屋内サービス型の可能性を指摘し,居住形態に継続性が薄いという結論に達する。むしろ16世紀から成功した酒屋であった江川家が,17世紀初期に天領の代官に任命され,住宅の大きな再編を行い,新しく得た権力と企業の繁栄の両方を,建築を通して劇的に表現しようとし,それが継続よりも,前例のイメージを借りた新たな事情の表明として理解すべきと見なす。最後に,発掘と異なり,古建築の調査は資料破壊を伴う必要がないことを指摘し,「建造物の考古学」の基礎資料である歴史的建物を修復する際,エヴィデンスを壊さないアプローチが望ましいと主張する。
縄紋時代以降の遺跡から発見されるトチの「種皮付き子葉」や「剥き身子葉」、および種皮の細、大破片は、当時のトチ利用の実態を理解するための手掛かりが民俗例の中に求められることを示している。民俗例のトチの「あく抜き」方式と,そのために前処理されるトチの態様との間に認められる対応関係に基づくと,遺跡から発掘されるトチ種皮の細片は,トチ利用者が「発酵系」「水晒し系」「はな(澱粉)取り系」の「あく抜き」方式で「あく」を抜いていたことを窺わせる。各方式に用いられる容器の物理的特性に着目すると,「煮る」ことを必要としない各「あく抜き」方式は旧石器時代に開発されていたと推察される。
須恵器と異なり,製作や焼成に関連する遺構の検出が一般的ではない縄文土器や土師器等についても,理化学的なデータを根拠として産地(製作地域)を提示する事は,考古学的に重要な意味を持つ。本報告では,これら非窯業生産物に関する産地推定法を提示した。具体的には,産地推定を実施するための前処理として,土器の胎土から砂粒を分離する「アルカリ溶解法」を,また,アルカリ溶解法によって得られた砂粒に対して,材料素地土の概要を調べる方法として「250μm二分法」を,粒度組成に着目して,粘質土由来の成分と混和材由来の成分を分離・調査するための方法として「φスケール粒度法」をそれぞれ提示した。またこの時に,鉱物の同一起源性は分析電子顕微鏡を利用して,一粒毎の化学組成を調べて検討した。
土器類がどのような単位で生産され,どのような移動を経た後に使用者の手に渡ったかを明らかにする事は,その土器が使用されていた当時の社会の生産関係を論じる上で必須の作業である。そのためには,土器類がどのような場所の原料を使用して作られたかを明らかにする事が必要であり,これが土器類の産地推定が実施されている主要な目的である。しかしながら現在行われている土器類の産地推定研究では,粘質土と混和材の混合物である土器の胎土をそのまま分析しているために,分析値と産地との対応精度が低く,特定の場合にしか成果が上がっていない。
本研究ではこの様な状況を打開し,非窯業生産物にも適用可能なより精度の高い産地推定を実施すると共に,同一試料を複数の研究者が分析しても同様な結果が得られるような客観性のある方法に基づいたデータの蓄積を目的として,冒頭に掲げたような産地推定の新たな方法を提示した。
なお,ここでは方法の提示を主体としたので,具体的な土器の多数分析例は別稿で提示する。
中国古代の玉器である玦に似ていることから玦状耳飾と呼ばれている装身具の主な装着方法には,異なる二説が存在する。ひとつは,従来どおりの,形態と民族誌を根拠にした,耳朶に穿孔した孔にはめ込み,切れ目を下にして垂下させる装着方法である。もうひとつは,切れ目の部分で耳朶を挟み込む方法である。後者に関しては,土肥孝氏が説く,縄文時代の装身は「死者の装身」から「生者の装身」へ移り変わるという体系的理解においても重要な役割を果たしている。
本稿はこの二説のうち,どちらをとるべきか,という問題を検討した。その際の検討方法は,玦状耳飾の土壌出土状態の検討と形態学的検討である。土壌出土状態の検討においては,人骨頭部,または想定される頭部に対する切れ目の方向に着目した。形態学的検討においては,土製玦状耳飾を重要視した。その結果,従来想定されていたとおり,切れ目を下にして垂下させる装着方法が妥当であるとの結論に達した。
その結果,土肥氏のモデルに替わる,装身の性格の変化についての考察が求められることとなった。石製玦状耳飾の地理的分布は東アジア全般におよび,装着者の性別は男女ともみられることが一般的なようである。後続する土製玦状耳飾は,東日本領域に地理的分布が狭まる。土製玦状耳飾を媒介して,石製玦状耳飾から変化したと考えられる土製栓状耳飾は,引き続き東日本領域に地理的分布が制約され,装着者の性別は,共伴人骨および人面装飾付深鉢形土器にみられる耳飾表現との一致から,女性と考えられる。これらのことから,玦状耳飾は一貫して「生者の装身」具であり,その性格は男女とも用いるものから,人面装飾付深鉢形土器が顕著に示す,シャーマン的存在であ る女性の装身具として,土製玦状耳飾を介して変化していくと想定した。
本稿は,物資や情報が分配される状況を分析することで,古墳時代後期における畿内政権と地域社会の関係を明らかにすることを目的としている。このために,古墳時代後期の畿内政権が管理と流通を掌握していた可能性が指摘されている金銅装馬具と畿内型石室構築技術を採り上げ,分析を行なった。
資料を分析する際には,まず物資と情報の送り手である政権を構成した支配者層の墳墓を採り上げた。そして,支配者層の墳墓で採用された金銅装馬具や畿内型石室が一定の期間をおいて新しい意匠や構造に変化している点に注目した。意匠と構造の変化を把握することで,各時期において支配者層が標準的に採用している金銅装馬具と畿内型石室を抽出した。その後,物資や1青報の受け手である地域首長層や群集墳被葬者層の墳墓から出土した金銅装馬具と埋葬施設の変化を整理して,支配者層でみられた状況と相互比較した。比較の結果,支配者層で標準的に採用されているものと同時期に,同意匠・同構造の金銅装馬具と埋葬施設を保有できた古墳の被葬者は,中央の物資や情報を円滑な流通のもと入手できる立場にいた人物と評価した。そして,このような古墳が,地理的・階層的にどのような勾配をもって分布しているのか検討を行なった。そして,このような古墳が密に分布する地域は,畿内政権と強く紐帯していた地域として評価した。
栃木県北部の矢板市等に所在する高原山は黒曜石産地として知られており,高原山産黒曜石は関東地方の旧石器時代の石器石材として多用されていることが分かってきている。関東平野部の遺跡出土のデータからは,高原山に旧石器時代の原産地遺跡の存在が予測されるものの,これまで旧石器時代の原産地遺跡については全く知られておらず,黒曜石原石の産出状況もまた明確でなかった。このため筆者らは,高原山中において黒曜石原石の産状と旧石器時代の原産地遺跡の探索を行ったところ,高原山山頂付近の主稜線上において,良質な黒曜石の分布を確認し,原石分布と重なるようにして立地する旧石器時代の大規模な遺跡群を発見した。遺跡の状態を確認したところ,主稜線直下の斜面上に遺物包含層が風雨で侵食されて露出している箇所が6箇所確認された。これらの地点からは明確に後期旧石器時代の石器が採取されている。細石刃核は関東平野部のものと同様に小口面から剥離されたものが多い。復元すると10cmを超える大型の石槍の未製品は,関東平野部で検出されているものよりも一回り大型のサイズのものも採取されており製作遺跡としての性格を表わしている。長さ5cm程度の小型の石槍も平野部のものと比べると加工も粗く幅や厚みなどのサイズも大きい。角錐状石器は平野部のものと比べると約2倍程度のサイズであり,切出し形のナイフ形石器はほぼ同程度のサイズである。他に掻器は平野部のものと比べると刃部再生が進んでいない。この他に台形石器や端部整形刃器も採取されている。したがってこの遺跡は後期旧石器時代の初頭から終末に至る全時期の黒曜石採取地点であった可能性が考えられる。
高原山の基盤は黒曜石の産出層よりもはるかに古い新第三紀の地層から構成されるが,この基盤層の一部の火砕性堆積層中からは良質な火砕泥岩1)が産出し,これが関東地方各地の旧石器に多用されていることは,筆者らの調査で既に明らかにされている。関東地方東部とくに下野地域から房総半島に至る古鬼怒川沿いの地域の旧石器時代各時期の石器石材を検討すると,石刃製のナイフ形石器や石槍には,これら高原山に産出する火砕泥岩が主体的に利用されていることから,高原山は恒常的な回帰地点であったと推定されている。したがって高原山における黒曜石原産地遺跡は,単に黒曜石の採取地点という評価に止まらず,このような関東地方東部の領域形成の観点から評価されなくてはならない。今後行われる高原山黒曜石原産地遺跡群の発掘調査は,関東平野部の各消費遺跡から復元された居住行動モデルを検証し得るデータが得られるよう,厳密な調査戦略に基づいて実施される必要がある。