現代人の利き手の約90%は右であり,とくに左右非対称の作業の時には,主としてその右手が用いられ,左手はその補助的役割を果たす。明らかに手は機能分化している。人類の進化とともに利き手は発達してきたと考えられる。したがって,この利き手の発達,機能分化はいつから始まったのかと問うことは自然である。こうした問題意識からの論考はいくつかあるが,その研究内容は,今まであまり紹介されてこなかった。そこで,主に旧石器時代人の利き手に関する研究を検討してみた。その結果,利き手研究の歴史は意外に古く,多くの重要な視点があることがわかった。同時に,その研究方法にはいくつかの課題が見出された。
それらを統合すると,今後は,次の要件からの検討が必要である。
(1)適切な資料・属性を選択し,その分析結果を的確に表示・図示する。技術形態学的方法を援用しながら,利き手に関する適切な属性の抽出と分析が必要である。(2)道具・対象物と手あるいは身体との相対的位置関係とその変化を把握する。技術形態学的方法に加えて,機能形態学の方法も必要である。(3)利き手を判断する際に,運動学的あるいは解剖学的・人間工学的観点からみて,経済的・効率的かつ安全な動作を基準とする。それらを無視するような動作とその結果物は,分析対象として適当ではない。(4)全体的には,製作使用実験,使用痕研究,民族誌の成果を参考とすることは当然であるが,運動学・解剖学・人間工学的成果の援用が必要である。
上記の条件を満たすならば,資料が増加している現在にあって,十分に利き手を推定することは可能である。この利き手研究は,運動システムを背景とした動作によって残された遺物を研究し,行動学上での位置づけを行う上で重要な役割を担うものであり,当然,他の時代でも無視できない分野であろう。
弥生時代における鉄刀剣は,様々な法量,形態があり,日本列島のなかで時期ごとに偏在性をもって分布している。本稿では,資料が増加した朝鮮半島南部と弥生時代の鉄刀剣とを比較して,生産と流通の様相や墳墓副葬における消費の様相を検討し,その意義を考察した。
まず,日本列島における弥生後期中葉頃〜終末期の長茎・細茎の長剣等は舶載品,短剣は日本列島製が含まれている可能性を追認した。また,分布状況では,弥生後期中葉頃〜終末期の長茎・細茎の長剣・鉄刀は,本州島日本海側に多く分布し,大型墓壌,ガラス製管玉副葬の分布とも重複する。東日本にも長剣が分布するが,短茎で平面梯形状をなすものが多いという地域性があり,中継地を介した流通過程に消費地側の需要が強く反映されていることが窺えた。
墳墓副葬における消費の様相では,棺内副葬の際は被葬者が成年以上男性の場合が多く,弥生終末期の一部の墳墓では幼小児埋葬にもみられるが,稀有な事例である。また,今後の実証研究が必要であるが,鉄刀剣副葬の基本理念の一つとして,「辟邪」が意識されている可能性を考えた。大型墓壌の埋葬墓には鉄刀剣副葬が多く,内訳をみると,舶載の長剣・大刀等がはいるものがある反面,短剣や切先のみの場合もある。
日本列島・朝鮮半島南部の一部上位階層に副葬される長剣・鉄刀等が,日本海を介して日本列島に流通する背後には,環日本海諸地域をめぐる社会状況の情報や集団相互のr政治」関係等も,製品に付帯していたことを示唆している。
今後の課題の1つは,鉄刀剣以外の石製武器・武器形青銅器等も含めて,近接武器ないし武器形製品が,諸地域においてどのように使用され,その背景にどのような歴史的脈絡や意義があったのか比較検討することである。
本稿は,古墳の石室が墳丘のどの位置に構築されるかという墳丘と石室の相関性に注目し,埋葬施設の多様さが顕著にあらわれる日本列島の後期・終末期古墳を主な対象として,その地域性や時間的変化など地域的・時期的特質を論じる。
墳丘と石室の相関性を分析した結果,前期古墳以来の墳丘規模を優先する墳丘優先型,後期古墳からはじまる横穴式石室を優先する石室優先型,墳丘・横穴式石室双方を優先する折衷型の3つに分類することが可能である。
次に,3分類の分布変化から地域的な変容をたどると,墳丘優先型は,後期古墳の段階では前方後円墳築造周縁域を中心に根強く残るが,終末期古墳になると,折衷型および石室優先型の一元的波及によって墳丘優先型が駆逐されていくことが判明した。しかし関東地方以北では,墳丘優先型が根強く残存する地域が多いことが明らかになった。こうしたことから,古墳築造における優先項目は,墳丘規模を第一義におく地域,石室を第一義とする地域など,地域によって古墳築造の特質が異なると考えた。
さらに墳丘規模について検討を加えたが,後期古墳において墳丘長60m前後で墳丘の序列が変わる可能性を指摘した。石室優先型の前方後円墳に前方部を延伸させ,60mという墳丘規模を達成させた事例がみとめられることなどによる。この序列をそのまま終末期古墳に引き継いだ地域が,上野・下野・上総・下総など,関東地方の諸地域であり,西日本を起点とした前方後円墳の終焉という変革を受容しつつも,地域独自の古墳観は崩さなかったことが背景にあると考えた。そして,後期古墳における関東地方や九州地方など,前方後円墳築造周縁域の様相は,畿内地域のそれと大きく異なり,終末期古墳になると,畿内的に変容する地域が増加する一方で,畿内との違いが依然として顕著な地域が存在することを明らかにした。
越前・加賀地域において7世紀は集落再編の画期にあたり,農業生産に適した沖積平野に分布する伝統的集落以外に,扇状地や台地など開発後進地域へ面的に広がる新規開発型の集落群が形成される。伝統的集落が掘立柱建物へ既に転換している時期に,当集落群では竪穴建物主体の集落を形成し,北陸西部では始めて造り付けカマドの付設をみる。
7世紀前半の集落では,6世紀からの伝統的技法を踏襲する煮炊具群で構成されるが,7世紀中頃から8世紀初頭にかけて,新規開発型の集落において近江・丹波などの近畿北部地域または朝鮮半島を故地とする煮炊具群が出現してくる。これら他地域系煮炊具群を人の移住によってもたらされた副産物と位置付け,本稿では移民系煮炊具とした。つまり,新規開発型集落は移民集落と言えるものであり,当集落の移民系煮炊具,竪穴建物様式から,移民の本貫地を探り,どのような移民構成で集落が形成されていったのかを検討した。
その結果,移民系煮炊具の分布から,近江と丹波,そして朝鮮半島を本貫地とする移民が混成した集団ではなく,単一移民系統の集団で構成されていた様子を看取できた。それら集団はまとまった居住領域をもちながら,集落単位,村落単位または郷単位で集住させられていたものとみられる。ただ,異なる移民集団間での相互交流が行われていた可能性も確認できた。
また,加賀地域の台地集落と扇状地集落とを当期の代表的な新規開発型集落と位置づけ,前者を丘陵部手工業生産地帯と一体的に営まれた工人集落兼手工業生産型の集落群,後者を大規模な農業生産振興を図るための農地開発型の集落群と性格づけた。前者の集落群が朝鮮系移民主体で編成されるのに対し,後者は丹波・近江の近畿北部系移民主体で編成される点で,それぞれの開発目的に応じた移民集団の選択が行われていたものと理解した。その管理経営は中央政権一国一郡のもとで支配統括されていたものと予想される。在地首長層が本拠を置く伝統的な集落域を避けて,それまで農地や集落域に適さなかった広域の開発後進地を対象に,先進的技術を保有する移民集団を計画的に配置していく様は,律令初期の中央政権が描く地方支配政策をイメージできよう。
胎土に黒色物質を持つ縄文時代中期の土偶を,新潟県十日町市幅上遺跡で発見した。このような黒色物質が土偶胎土に含まれる例は見たことがなく,軟X線とX線CT画像による含有状態の観察,蛍光X線分析,安定同位体分析による材質分析,さらに放射性炭素年代測定を実施し,その由来について分析を行った。
分析の結果,①黒色物質は胎土全体に均質に含まれていると推測でき,素地土の中に練りこまれていたと考えられる。②黒色物質は炭化物である。炭素・窒素安定同位体比では,C3植物の樹木,種実などに相当する値を示しており,C3植物あるいは,C3植物を食料とする草食動物の肉に由来する炭化残存物であると考えられる。③黒色物質の放射性炭素年代は,土偶の型式学的分類に基づく編年によって与えられた年代と調和した値を示し,それゆえ,自然堆積粘土に元来含まれていたとは考えにくいことがわかった。
素地製作時の黒色物質の状態については,X線CTによる断面画像に黒色物質の大きさほどの空洞が観察されないこと,加熱時の収縮率が高い生の物質を焼成にした際に推測される,素地土と黒色物質との間の隙間がほとんどなく,よく密着していることから,炭化物を混入したものと考えられる。最も大きい含有物であるこの炭化物が製作途中で気付かれないことは考えにくく,しかも,含有物が土偶の胎土全体に均質に混じっている状況は,製作者の何らかの意図があったことを想定させる。
祭祀・儀礼の道具とされる土偶は,カタチのみならず素材の選定や調整にまで目配りすることで様式化される観念技術(小林1997)の所産であることを,異物が含まれる土偶や,民俗・民族例を参照することで傍証するとともに,本土偶の胎土に含まれている炭化物についても,このような工程の中にあった可能性を考えた。
奈良県明日香村にあるキトラ古墳は,高松塚と並ぶ大陸的な壁画古墳であり,慎重な調査と保護が進められてきた。壁画は剥離が進んでおり,石室内で現状保存することは不可能で,取り外して保存処置を行うこととなった。その前段階の作業を兼ねて2004年に石室内の発掘を行い,石室構造の細部が判明し,最先端の技術を用いた豪華な副葬品が出土する等,多くの成果を上げた。
墳丘は版築による二段築成の円墳で,石室の南側には墳丘を開削した墓道が付く。墓道床面に,閉塞石を搬入する時に使用した丸太を敷設したコロのレール痕跡(道板痕跡)を確認した。石室は,二上山産の溶結凝灰岩製の分厚い切石材を組み合わせて構築する。石材には朱の割付線が残っており,精巧な加工方法が推測できる。石室の内面は,閉塞石以外を組み立てたのち,目地を埋め,さらに全面に漆喰を塗り,壁画を描く。
石室内の調査は,空調施設等を完備した仮設覆屋内で,壁画の保護に万全の措置をした上で発掘をした。石室内には,盗掘時に破壊された漆塗り木棺の漆片堆積層が一面に広がる。遺物は原位置に残らないと判断され,堆積層をブロックに切り分け,方位と位置を記録し,コンテナにそのまま入れて石室外に搬出した。出土遺物には,金銅製鎧座金具や銅製六花形釘隠といった木棺の金具,號珀玉等の玉類,銀装大刀,鉄製刀装具,人骨および歯牙などがある。木棺の飾金具は高松塚古墳のものとは意匠に違いがある。また,象嵌のある刀装具は類例がなく,その象嵌技術も注目される。歯牙は咬耗の度合いが著しく,骨と歯は熟年ないしそれ以上の年齢の男性1体分と鑑定された。
壁画は,歪みがきわめて少ない合成画像であるフォトマップ作成を行った。これは実測図に代わりえる高精度なものである。また,壁画取り外し作業の過程で十二支午像の壁画を確認した。
墓道と石室の基本的なありかたは,他の終末期古墳とほほ同じである。コロのレール痕跡は高松塚古墳や石のカラト古墳にもあり,石室の石積みはマルコ山古墳に似るが相違点もある。底石の石室床面部分は周囲より一段高く削り出しており,石のカラト古墳と類似することがわかった。