九州は旧石器時代終末から縄文時代初頭にかけての変化を考える上で,また,草創期土器編年研究の上で重要な地域である。しかし,研究者ごとに土器資料の新旧を判断する基準が異なるため,近年,九州を含む日本列島西部の草創期土器編年における研究者間の共通認識は崩れつつある。これに対し,本稿では,南九州における雨宮編年を踏襲し,施文手法の違いを時期差と捉えると同時に,遺跡内の地点差や「遺跡の引き算」からより短い編年上の時期幅を抽出することで,編年の時間軸を明確化し,改めて南九州を含めた日本列島西部の草創期土器編年を示すことを目的とする。
南九州の隆起線文土器は【隆起線に押圧が加わる土器→隆起線上に矢羽根状に連続する摘み痕を残す土器】と変化し,その後,口縁部に密に爪形文を配する土器が出現し,南九州の草創期土器は岩本式まで続く。以上の南九州における土器編年との併行関係と前後関係を検討し,日本列島西部の草創期土器編年を組み立てた。日本列島西部の草創期土器編年は概ね5期に区分でき,全体としては,時期が下るにつれて,地域色が顕在化する傾向が認められる。特に本稿V期には,九州と本州との間の繋がりが土器からは伺いにくくなる。
以上の編年作業によって得られた先行研究と異なる知見としては,主に以下の2点が指摘できる。第1には,本州東部方面の「厚手爪形文土器」の影響を受けて,九州で爪形文土器が発生し,南九州を含めて爪形文土器単純期(本稿N期)が認められる点が挙げられる。また,第2には,九州における最初期段階の隆起線文土器の底部形態は平底が主流であると考えられる点が挙げられる。
本稿における土器編年作業は,縄文時代草創期における日本列島東西の併行関係を考える上での足掛かりとなる。また,土器編年が示す細かなタイムスケールは,旧石器時代終末から縄文時代初頭にかけての日本列島史を理解する上で有効であり,多方面の応用と活用が可能である。
これまで江戸時代の人口は,主として人別帳などの文書史料に基づき研究されてきた。しかし人別帳や宗門改帳は残存する数が限られており,過去帳は一般に閲覧が困難である。そうした点に鑑み,本論では近世墓標研究の方向性の一つとして歴史人口学を指向し,その可能性を追求した。
弘前市新寺町寺院街の墓標を調査・検討した結果,墓標は一般に,ある人物の没後17回忌までの間に建てられ,その際には既に亡くなっている人の分も併せて戒名などを刻むことがわかった。一方,これまで墓標の造立年に代わるものとして用いられてきた最新年号に関しては,4基に1基程度,造立年から20年以上の時間差があるものが存在することも判明した。
津軽地方の墓標と過去帳に関して,10年単位と1年単位で,被供養者数の増減を検討した結果,墓標と過去帳の連動性が確かめられた。さらに,墓標に刻まれた被供養者数の増加時期には,「生者の記録」である宗門人別帳で総戸数・総人数が減少・横ばいになっていることから,負の相関関係が確認できた。以上のことから,歴史人口資料としての近世墓標の有効性を証明できた。また,檀那寺をもつ人が死後墓標に名を刻まれる割合は,弘前城下町とその周辺において,18世紀代には2ないし3人に1人ほどであり,1830年代頃には当地域の檀那寺を有する人の大部分が墓標を建てるようになったと推察した。
北海道・九州・四国地方を除く各地の墓標調査事例について,墓標数の増減を10年単位で検討したところ,いくつかのパターンが抽出された。奈良や京都などの畿内では,18世紀前半代には早くも墓標数が急増している。それに対し東日本では,18世紀末から19世紀代に墓標造立数がピークを迎える。東日本の中でも東北地方と関東・北陸・東海地方とでは,やや異なるパターンを示すが,この差異は基本的に墓標が普及する時期のズレと飢瞳による人口変動の違いに起因すると考えられる。今後,九州・四国・中国地方の事例を追加検討することにより,墓標が普及する過程や,ある程度墓標が普及した後の飢瞳や疫病による人的被害をも明らかにできるだろう。
箆状石器という東北地方に分布する石器を取り上げ,その機能を明らかにすることに努めた。箆状石器は形態から命名された石器器種であり,その機能は,土掘り具,あるいは皮加工道具として従来考えられてきた。近年箆状石器の使用痕分析が蓄積され,その機能の一つに皮加工の道具として認識されるようになった。箆状石器の出土する遺跡では掻器が共伴しており,掻器にもやはり皮加工を示す使用痕が確認されている。
本稿では,箆状石器と掻器を顕微鏡で詳細に観察した分析事例を検討した。その結果,箆状石器と掻器は,同じ皮加工道具でありながら操作方法において異なっていることが明らかになった。掻器は刃部を立てたスクレイピングの操作方法であるのに対して,箆状石器は刃部を寝かして削りとるホイットリングの操作方法である。
箆状石器が縄文時代早期に出現することから,縄文文化の初期段階に,皮加工の道具が少なくとも2種類存在し,皮加工の目的に応じて使い分けていた可能性が非常に高いと考えられる。
弥生時代の石器生産・流通論はその開始からその後の変化に分析の視角が集中する一方で,生産・流通出現前段階にある物資の流通との関連性については必ずしも充分な研究がなされているとは言えない。本稿の分析地域とした中部高地(長野・山梨県域)の特に長野盆地南部では弥生中期後葉以後,特定遺跡において労働力を集約化した石器生産と流通と,日本海沿岸地域からの玉類の流通が明瞭である。一方,縄文時代から弥生時代中期後葉の間には黒曜石石材の流通が認められる。それ故,異種の物資流通を比較検討するのに中部高地は格好の地域である。しかし,弥生時代の黒曜石研究では,原産地の利用実態,石材中継集落の有無,原産地遺跡と消費地遺跡の石材流通上の関係等,多くの事柄が未解明であり,石材流通の実態を復元することがまず必要である。それを本稿の目的とした。
分析の結果,①弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,②弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,③弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること,④弥生中期後葉には,屋外石材集積例の欠落,石材の小形化,石材出土量の減少が認められること,⑤弥生中期後葉には原産地遺跡と消費地遺跡の間に石材中継集落が認められないことが判明した。
このように変化の画期の多くは弥生中期後葉に集中し,当該期は原産地での石材採掘活動を含む「集団組織的石材獲得・流通システム」が欠落しているとした。弥生中期後葉の栗林期は水田稲作を基幹生業とする社会変動期であり,大規模集落の形成・遺跡数増加・特定遺跡で労働力を集約した手工業生産にそれは象徴される。そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた。
本稿は弥生時代の谷利用について,発掘調査された事例から検討を行い,これまで想定されてきた谷水田が集落を支える安定的・普遍的な生産耕地ではないこと,及び谷を臨む台地・丘陵上の集落は谷水田を耕作したのではないことを,南関東地域をモデルに論証した。
従来の弥生時代の集落研究では,台地・丘陵上にある集落は,眼下の谷及び河川氾濫原に水田を営んで来たと推論してきた。しかし谷水田についてはその実例は少なく,谷部から水田が確認されない事例もあることから,これまで具体的な検討が行われないままの,いわば「想定としての谷水田」として存在していた。
水稲は連作可能であり,他の穀類と比較して多収穫となる特徴をもつが,水を与えれば育つというほど単純なものではない。水稲には独自の植物的生育条件があり,その生育環境によっては収穫量に変動が起きるのである。特に谷水田のような低水温・過水の環境では,それを克服するためのいくつかの工夫と装置が必要であり,これがなければ不稔の確率が高くなる。弥生時代の谷水田には,こうした工夫や装置が存在しない事例があり,相対的に天水田(谷水田)と灌漸水田では前者の収穫量が極端に低いことが知られていることから見て,谷水田からの安定的な生産量は認めがたい。
さらに,低地部の灌漸水田では生産域と居住域が至近の場所にあるが,谷水田に隣接して集落が存在する事例も確認できることから,谷水田の耕作は,台地・丘陵上に居住する集団が行ったとは限らないことが理解できる。一方台地・集落上の集落構成員は,井戸などの水に関わる谷利用を行っていた事例が確認でき,これが景観上「谷を意識」したと見える集落形態をとる,一つの理由であったと考えた。
本稿の分析によって,特に南関東に顕著な台地・丘陵に集落を構える集団は,谷水田で安定的な生産を上げていなかったことを論証したことによって,他の水田耕地の検証と,水稲以外の生業についての問題が提示された。
本稿はモンゴル国において,文化遺産が地元住民にいかなるものとしてとらえられているかに着目し,今後の有効な文化遺産の保存活用方法を考察することを目的としている。
本調査は,モンゴル国のウブルハンガイ・アイマグ(県)にあるハラホリン・ソム(郡)で行った。ハラホリン・ソムは,2004年に世界文化遺産に登録された「オルホン渓谷の文化的景観」の登録範囲に含まれ,ソム中心部にはモンゴル帝国時代の首都であったカラコルム都市遺跡と16世紀に建立されたチベット仏教寺院エルデネ・ゾー寺院がある。
地元住民を対象とした観察およびインタビューによる調査の結果,住民にとっての文化遺産は文化的価値と経済的価値との両方を有するものであることが明らかとなった。そして文化的価値としては公開を,経済的価値としては観光資源として活用していくことを期待している。しかしながら,現状では文化,経済ともに住民の求める還元が十分に行われていないことを指摘した。
この問題を解決するためには,地域主導の文化遺産保護体制を構築することが有効である。そのためには住民を組織し,景観や民俗文化財といったこれまで住民が保持してきた文化を見直し活用していくことを啓発する必要があり,その際に果たすべき行政,博物館,教育機関の役割についても考察を行った。また,今回の調査地となったハラホリン・ソムには日本の援助により博物館が建設されることが決定しており,この博物館の果たしうる役割の重要性についても言及した。
日本では,これまで埋蔵文化財調査組織が実施した数多くの発掘調査によって,膨大な量の考古資料が蓄積されている。一方,記録保存と称して得られたこうした各種の考古記録に関する情報がどこでどの程度作成され利用・公開されているのか,あるいは誰がそれらを管理・保存し,一般市民はどの程度利用可能なのかといった点については,ほとんど明らかにされていない。本調査は,こうした点を明らかにするために,日本における初の試みとして全国の埋蔵文化財センターを対象とした考古情報に関する実態調査を行なった。調査プロジェクトは,ウェブ内容調査(オンライン),個人および組織アンケート調査(オフライン)の三部から構成される。本論は,本プロジェクトの第二部に相当する個人用調査の結果である。調査は,全国の埋蔵文化財センターおよび相当組織(総計140組織)宛にアンケート用紙を添付した電子メールを送付する方法をとった。同時にアンケート調査専用のウェブサイトを立ち上げ,誰でも自由にアンケート用紙をダウンロードして回答できるようにした。その結果,埋蔵文化財行政における情報蓄積の在り方,その利用や公開の形態,調査員の情報化に対する意識や態度に関して詳細な実態が明らかになった。問題はアンケートの回収率が低く,全国統計までには至らなかった点である。本調査に先行して行なったウェブ調査の結果を比較・検討することによって,日本考古学における情報整備のための基礎的な資料が得られたと考える。さらに情報の精度を高めるためにも,改めて全国的な再調査の必要性を考えている。今後はサンプル・データの偏りを解消すること,博物館学など周辺関連分野における状況との比較検討も必要となる。また欧米で発展しているコンピュータ・情報考古学との関連から,日本考古学の国際的位置を確認することは,緊急の課題である。単に受動的な調査に収束するのではなく,現在の日本考古学の現状を正確に把握して世界の考古学研究と密接に関連し合いながら,現状の問題解決や将来的発展のために能動的な活動を行なうことが必要である。
本稿は西大寺食堂院の発掘調査報告である。西大寺は,奈良時代後半に孝謙太上天皇によって発願された寺院で,平城京右京一条三・四坊に31町という広大な時域をもっていたと伝えられる。食堂院は,その東北部,右京一条三坊八坪に比定される。食堂院は,「西大寺資財流記帳」によると,僧の共食の場である食堂を中心に「殿(盛殿)」「大炊殿」「厨」「甲双倉(校倉)」「倉代」などの建物によって構成されていた。
調査では,奈良時代後半の食堂院に関わる遺構を良好な状態で検出し,主要堂舎や条坊遺構などを確認した。西南部で検出した2棟の礎石建ちの東西棟建物は,それぞれ「殿」「大炊殿」と規模が等しく,同遺構に比定される。また,大炊殿の北には「甲双倉」とみられる建物と,食堂院の北門に相当するであろう門を検出した。これらの成果より,食堂院の位置が確定し,また,区画の中軸上に南から食堂・殿・大炊殿・甲双倉が南北に並ぶ建物配置が復元できる。
食堂院の中心建物の東では,南北に並ぶ埋甕列を確認した。甕は,既往の調査成果と合わせると,東西4基の列が南北に20列,合計80基以上が並んでいたとみられる。食堂院内に貯蔵施設を有していたことを示す遺構である。
また,大炊殿の南東では,平城京最大の井戸を検出した。井戸の埋土からは延暦11年の年紀をもつ木簡や墨書土器・製塩土器などをはじめとする様々な遺物が出土した。木簡からは,西大寺に食材を進上した荘園などや品目などの具体名,西大寺内での食材の分配や管理状況がうかがえ,資料に乏しい古代寺院の実態を解明する新資料を発見した。
2005年度から開始した第4次5ヵ年計画に基づく史跡徳丹城跡の発掘調査は,2006年度,2年目の調査として第65次調査を外郭西門跡内部地区で実施した。当地域は,遺跡が立地する段丘の西縁部に当たり,西方に後背湿地が形成されている。調査は,この湿地環境下における遺構の実態把握を目的に行った。
成果としては,周溝で囲まれた2つの工房施設とそれに付属する複数の建物群からなる工房施設群の存在を明らかにできた。このような遺構構成から成立する工房施設群の確認は徳丹城跡では初めてのことで,これにより西部の湿地環境下が「工房施設域」として利用されていた見通しが出てきたことは,新たな見解である。
この2つの工房施設群に挟まれた空間で井戸跡が発見された。小規模な井戸だったが,枠板を持つ本格的なもので,9世紀第3四半期頃には完全に埋没している状況にあった。底からは到物の「水桶」が出土し,取り上げてみると外面に黒色の漆が塗布されたr木製冑」であることが判った。木製冑の年代観は、井戸が開口し機能していた9世紀前半代と同時期と認識していたが,放射性炭素年代測定(C14)は塗布された漆の暦年代を〔640-690ca1.AD〕と測定した。木製冑の形状・型式・寸法が,古墳時代末期の「鉄製竪矧板鋲留衝角付冑」に共通することを考慮すれば,C14の年代値は極めて調和的といえる。
また,井戸跡の16枚遺存する枠板の中に,r琴」の天板から転用された材が混じっていた。城柵における律令祭祀を示す資料として注目されるが,想像力を働かせれば,蝦夷への饗給で音曲が奏でられていたのかもしれない。