西日本の孔列土器は常に韓半島との関係の中で出現すると理解されてきた。今まで孔列土器を介して無文土器時代前期と縄文晩期中葉が併行すること,孔列土器が北部九州にまず入り,次第に南部九州地方や山陰地方へ拡散すること,西日本の孔列土器は一つの系列であるとされた.
しかし,韓半島無文土器の細分研究とともに,西日本では山陰地方や南部九州の孔列土器の資料が増加し,各地における孔列土器の出現時期の違いが指摘されるに至っている。その中で,西日本の孔列土器の系統差,韓半島と関わる時期や地域の違いがあり,西日本における孔列土器の展開が一律ではない可能性が生じたのである。
本稿ではこれらの状況を踏まえ,孔列土器の集中する北部九州地域,南部九州地方,山陰地方の孔列土器の変遷を検討し,各地での展開を明らかにしようとした.その結果,①孔列土器は山陰地方では原田式古段階に,九州地方では黒川式新段階に出現することが分った。そして,②山陰地方の孔列土器と九州地方の孔列土器は異なる系統であること,③九州地方では南部九州から周辺地域に拡散することが窺えた。④異なる系統の山陰地方と九州地方出土の孔列土器の系譜は,前者は韓半島の東南海岸地域に,後者は湖南地域に求められる可能性が高いと結論づけた。
奈良時代の特殊塔と言われる奈良市頭塔・堺市大野寺土塔・岡山県熊山石積遺構は,いずれも水平方向を強調する階段状ピラミッドの形態を呈して内部空間を持たず,通常の日本での仏塔のイメージとは大きく異なっている.しかし頭塔には数多くの仏像レリーフが配置されるなど,仏教と密接な関係にあることは確かである。本論は,この特殊塔の起源を考察したものである。
仏塔は紀元前3世紀にインドで生まれ,仏像誕生以前の仏教徒にとって中心的な礼拝対象だった。最古のサーンチー塔のように,その形態は半球形を中心とし,周囲を巡る礼拝を前提として築造された。その後仏教の各地への伝播の中で,それぞれの地域で仏塔の形態は多様な姿を見せる。
インドネシアのボロブドゥールは世界最大の仏教遺構と言われ,シャイレンドラ王朝の下で8世紀後半から半世紀以上かけて築かれた.そこに現された多数の仏像やレリーフは,スリランカや東インドで発達した華厳経や密教の要素を示している。
しかしボロブドゥールの階段状ピラミッド形態はインドやスリランカでは見出されず,東南アジアでは最古の例である。だが似たものは,巨石文化の山岳信仰から誕生したインドネシア在来の石積基壇遺構に見ることができる。ボロブドゥールは,それを仏教的に飾りたてた巨大遺構だった。
唐での華厳宗の成立や密教の確立には,東南アジア経由で旅行した僧侶たちが重要な役割を果している。そのため奈良で栄えた華厳宗・密教には,インドネシア在来の山岳信仰が混入した可能性が高い。本論では,その過程で生じたボロブドゥールと頭塔などの類似を検討し,遠距離文化接触の興味深い具体像を明らかにしたい.
古墳時代中期の東日本には,外面調整にタタキ技法を用いた特異な埴輪がみられる.これらは,審窯焼成技法を採用せず,格子タタキ調整を多用する点を特徴とし,所属年代が古墳時代中期中葉に限定されることなどから,初現期の須恵器や朝鮮半島の陶質・軟質土器の技術的影響下に成立したものとされ,生産には朝鮮半島系渡来工人の直接的な関与も想定されている。しかし,今目までの研究は,タタキ調整技法の系譜に関する議論に重点が置かれ,埴輪生産体制とこれに関係した渡来工人の存在形態については,必ずしも十分な追究がなされてきたとはいえない状況にある。
本論では,タタキ調整の埴輪の全資料について観察をおない,同一個体内におけるハケ・ナデといった他の調整技法との共存関係や焼成状態の観察などを基本に,古墳ごとの資料分類作業をおこない,その結果をもとに,各古墳における埴輪の生産・供給体制の特質や,埴輪生産組織と渡来工人の編成,さらに渡来工人と首長層の関係について検討を試みた。
その結果,1)本論で検討対象とした埴輪のタタキ調整は,朝鮮半島の土器製作技術に起源する もので,朝鮮半島において土器製作技術を習得していた人間を媒体として東日本へもたらされた技 法であること,2)各古墳へは複数の生産組織から埴輪が供給されているが,それらのすぺてに埴 輪工人が編成されているわけではないこと,3)埼玉県北西部に集中する3古墳の埴輪には,異種 のタタキ工具が使用されていることから,生産組織にはそれぞれ別個の渡来工人が参加していたと 推定されること,4)一部の生産組織は,渡来工人のみによる単一編成ではなく,従来の埴輪製作 技術をもった工人との協業体制をとっていたこと,5)朝鮮半島系土器の製作技術者の存在が,タ タキ調整の埴輪の生産に直結するわけではなく,彼らの生産活動は,地域の土器・埴輪生産組織の 実情により大きく異なるものであることなどが明らかになった。
本稿は,榛名山噴火軽石災害によって埋没していた津久田甲子塚古墳の調査を通じて,そこから導かれた上野地域における横穴式石室墓制導入期の問題について検討を試みたものである.
津久田甲子塚古墳は,小型円墳ながら火山爆発による軽石によって被覆された状態であったため,保存状態が極めて良好で,赤色顔料による塗彩が鮮やかに施された横穴式石室を埋葬施設とする。石室構造から,上野地域における横穴式石室導入初期段階に位置付けられるものであった.
本稿では,上野地域における横穴式石室墓制導入期の石室構造上の特徴を整理し,火山噴火災害以前における利根川・吾妻川合流地点を中心とした地域(現在の渋川市地域)の古墳築造の様相から,古墳時代後期初頭の横穴式石室墓制への変容に至る地域動向について考察した。
奈良県大和郡山市に所在する
十条条坊遺構の廃絶後,九条大路の南側には羅城が築かれた。羅城は細長い掘立柱構造の建築物であり,内濠と外濠を伴う。今回の調査によって羅城は東一坊大路で途切れていることが確認されたことから,その延長は左京側で530m余りということになる。こうした羅城の構造やその規模は,今回の調査で初めて判明したものである。
次いで,その施行時期や規格について多様な見解があった京南辺条条里(特殊条里)については,今回の調査で水田や畠などの耕作関連遺構が良好な形で検出されたことにより,条坊の廃絶後,その南北1条分(4坪=1500大尺)を5等分したものを1坪(300大尺≒106.4m)としたものであることが判明した.その南限は十条大路南側溝であるが,現在はそこから北へ約70mが京南路東条里(一般条里)によって覆われる形になっている。よって,現状地割の施工順序としては,条坊→特殊条里→一般条里ということになる。
和島誠一氏は資源研(資源科学研究所)の雨漏りがする研究室で,「考古学による日本歴史の叙述」の重要性を熱く語った。ほぼ40年前のこと。本書は待望久しい考古学による古代日本国家形成論であり,その上梓を喜びたい。著者の菱田哲郎氏は専門が古墳時代や7・8世紀代の初期寺院史で,現在京都府立大学準教授である。
本書は,安間拓巳氏が2003年に広島大学へ提出した学位請求論文『日本古代の手工業生産の考古学的研究』を中心に,わが国における古代鉄器生産遺構である鍛冶遺構と鍛冶技術に関する論考をまとめて上梓したものである。