論文 | 名久井文明 | 縄紋時代から受け継がれた現代網代組み技術 | 1-20 |
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論文 | 佐久間 正明 | 東国における石製模造品の展開 −刀子形の製作を中心に− | 21-55 |
論文 | 尾谷 雅比古 | 淡輪古墳群に対する保存施策−近代古墳保存行政の成立過程− | 57-78 |
研究ノート | 長友 朋子 | 土器の規格度−弥生時代の土器生産体制の復元にむけて− | 79-96 |
研究ノート | 渡邊 邦雄 | 「律令墓制」の変遷 | 97-114 |
遺跡報告 | 菊池 賢・中村 良幸 | 稲荷神社遺跡の調査概要−方形配石住居跡を中心に− | 115-128 |
遺跡報告 | 小林 修 | 東国における古墳時代祭祀の一形態−宮田諏訪原遺跡1区1号祭祀跡の検証− | 129-144 |
遺跡報告 | 松村 恵司・廣瀬 覚・岡林 孝作・相原 嘉之 | 高松塚古墳の石室解体に伴う発掘調査 | 145-156 |
書評 | 樋泉 岳二 | 松井章著『動物考古学』 | 157-161 |
書評 | 船木 義勝 | 利部修著『出羽の古代土器』 | 163-168 |
わが国における「網代底」の研究は明治時代から始まり,100年余を経た現在も一つの研究分野を形成している。網代底の正体が土器製作時の敷物圧痕であることは早くから知られ,坪井正五郎によって提示された「網代(アジロ)形編み物」の分類とその構造表現方式を利用する方法は,敷物の構造や紋様を分析する際の大きな拠りどころとされてきた。しかし近年,縄紋時代,弥生時代などの諸遺跡から籠類の発見が相次ぎ,各時代の編組技術を直接資料で観察できる機会が増えた。その結果,出土籠類と土器底面の敷物圧痕,それに民俗例という三者の編組技術はそれぞれが無関係に成立したものではないと思えるようになった。この三者を総合的に研究し得る方法が有って然るべきと考えると,従来と違って敷物以外の立体的製品も視野に入れた編組技術の分析が必要になる。そこで網代底研究の根幹とされてきた,坪井による「網代形編み物」の分類やその構造表現方式が,そんな新たな状況に対応できるものか改めて吟味してみた。しかしそれらは民俗資料までも視野に入れた編組技術の分析には耐えられないことが明白となった。そこで別な手掛かりを求めると60有余年前に杉山寿栄男が着眼したように,民俗例の籠作り技術の名称を援用して縄紋時代以来の籠類製作技術を理解する方法が効果的と思われる。そのためには現代民俗例の二大編組技術である「編む」,「組む」の概念を明確にしなければならない。そこで万葉集や記紀,『延喜式』などの記述から,古代以来の籠作り技術やその近縁の技術をたずねると,平面的な薦や賓を作る技術も立体的な籠類を作る技術も総て「編む」と称されてきたことが理解される。その中から「組む」と称すべき技術を分離したうえで「網代組み」,「桝網代組み」,「連続桝網代組み」など真の網代(籧篨)系の技術に着目することにした。その結果,それぞれの製作例が縄紋時代草創期以降,現代までの各時代に列挙し得ることが明らかになった。そのことはこの技術が縄紋時代から現代まで連綿と受け継がれてきたことを意味するものであることを主張した。
古墳時代中期を特徴付ける遺物である石製模造品は,王権の祭祀に関わる貴重な遺物であり,畿内政権と東国との関係を明瞭に映す象徴的な遺物の一つとして位置付けられる。石製模造品の主要品目である刀子形には数多くの情報が含まれ,形態の面での分析は進んでいる。他方,製作という観点からのアプローチは少ないため工具痕の認識一つを取り上げても研究者間で共通理解が得られておらず,研究が停滞している感は否めない。本稿では,上野と下総という二大中心地の資料を中心に,工房跡・古墳・祭祀遺跡出土資料を分析し,表面に残る痕跡から製作工具を推定した。そして側面と表面のそれぞれについて,各部位と工具痕の種類との相関関係から類型化を行い,「精製と粗製」という関係を抽出した。そうして得た相対的な関係に各古墳の年代から検証を加え,「精製と粗製」が時間差によることを明らかにした。その結果から,刀子形の製作工程を復元した。そして,刀子形の製作において,東国という広い範囲で共通する技術的な基盤を有していたことを確認した。そうした共通する技術的な基盤の上で,様々な様相が見て取れた。古墳と特殊祭祀遺跡の精製品は首長層に帰属し,集落・小規模祭祀遺跡の粗製品は一般集落の人々に帰属した,と階層により製品が異なることを確認した。これは畿内でも同様の現象が指摘されており,製作面から両地域の共通性が浮かび上がる。さらに,刀子形以外の特徴的な器物形からは,面的な分布を持つ上野と,点的な分布を示す下野・南武蔵・陸奥という関係が見られた。また,東国の重要な祭祀遺跡である建鉾山祭祀遺跡の構造に触れ,祭祀遺跡成立の背景に三つの関係があることを導いた。
筆者は,近代において考古学という学問の対象である遺跡・遺物が,保存行政という措置によって国家の枠組み(近代天皇制国家)に取り込まれてゆく歴史的過程と,それらが地域社会及ぼした影響について研究をすすめている。すでに古墳保存行政制度の成立過程については,明治維新から史跡名勝天然紀念物保存法が制定された1919年までを大きく3期に画し論じている。本論ではその成立過程における地域の古墳保存の実態として大阪府泉南郡岬町に所在する淡輪古墳群を構成する淡輪ニサンザイ古墳,西陵古墳,西小山古墳をとりあげた。淡輪ミサンザイ古墳は陵墓の宇度墓として治定されるが,その経緯は1期の古墳保存行政を主導した陵墓行政の一例である。また,西陵古墳に対する保存措置は,H期から皿期にかけてあらわれた史蹟という新たな保存施策により進められた。一方,西小山古墳に対する行政措置は,1919年の史蹟名勝天然紀念物保存法制定による皿期における地方行政組織による保存と破壊であった。これらの古墳は,国家の意思の元に選択・選別されたものである。治定や指定などといった行政措置は,近世以来の伝統的な地域社会に国家を強く意識させる要因となった。近代の古墳保存行政では,第一に近代天皇制国家という枠組みに必要不可分な陵墓古墳という国家祭祀の伴う古墳を選別し保存行政を行った。次に陵墓古墳以外の古墳の中から史蹟指定古墳という国家にとって歴史的資源であり威信財,国民教化の教育資源という位置づけられる古墳を選別し保存行政を行った。これらの選別からはずれた古墳に対する行政による保存措置は,1950年の文化財保護法の制定までまたなければならなかった。
社会の複雑化,あるいは政治制度の成熟に伴う器物生産の手工業化は,日本列島だけでなく,多くの地域でみられる事象である。土器生産においてもそれは例外ではなく,ほかの器物と同様に,商品化や流通,政治的統制など,様々な要因で規格化が進められる。この規格化の進展,言い換えれば規格度が器物生産の進展の過程に密接に関わるといえよう。そこで本稿では,広域で画一的な器物生産がおこなわれるようになる古墳時代の前段階の,弥生時代における土器生産の成熟過程を解明することを目的として,土器規格度という観点から考察を行った。まず,土器生産の背景が直接調査できる民族学的事例から土器の規格度と専業度との関連性を検討し,土器の規格度が土器を量産化できる技術の獲得度合いや土器生産量と相関することを確認した。このような成果をふまえつつ,弥生時代の近畿地域の土器を分析し,その規格度の高低について検討を行った。その結果,土器規格度は弥生時代前期にやや高く,中期に低くなり,後期にやや高くなるというように,高低の波を繰り返すが,弥生時代終末期以降,庄内形甕,布留形甕になると飛躍的に高くなることが明らかになった。そこで,この規格度の高低が生じる要因を探るために,製作体系を含めて土器の製作技術を検討すると,技術的側面と規格度が強く関連することを確認した。さらに,土器移動の様相から土器の生産量を推し量ると,土器生産量の増大と規格度が密接に関連することも示された。以上の検討をふまえると,すでに明らかにしたように弥生時代後期半ぱになると量産可能な技術が獲得されるが,弥生時代終末期以降になると一部の製作集団において土器の量産化,集約化がすすむことが理解された。このように,従来庄内形甕を切り取って専業的土器製作が説かれてきたが,古墳時代初頭前後に突発的に専業的な土器製作集団が出現するのではなく,技術面や土器の規格度から土器生産が段階的に量産化を可能とする基盤を形成し,専業化への過程を歩むことが明らかになった。
本稿では「律令墓制」という用語の概念規定の整理を試み,墳墓に具現された政治性が脱却していく過程そのものを「律令墓制」と意義づけるという結論に達した。そして,フェルナン・ブローデルの示した概念を援用し,墓制が政治性を有した時代の成立と発展,終焉という「長期持続」の中に「律令墓制」を位置づけた。さらに,当該時期の墳墓の様相をもとに,成立期(8世紀前半),完成期(8世紀中葉),変質期(8世紀後半),再編期(9世紀前半),解体期(9世紀中葉以降)という5つの「景況」に区分し,具体的な変容過程を示した。古墳に替わる新たな墓制の創出を目ざした律令政府によって,須恵器編年飛鳥V期の僧道照火葬を皮切りに,官人層を中心に火葬が広く流布することとなった(成立期)。平城H期には伝統的な高塚墳墓が造営されなくなり,「律令墓制」のスタンダードとしての火葬墓が完成する(完成期)。聖武帝の崩御によって,視覚効果を伴う儀礼としての役割を期待された葬送儀礼は,対新羅関係の悪化と唐風文化の積極的な受容という律令政府の意向によって土葬に回帰した可能性が高い。しかし,律令官人層は依然として火葬墓に葬られており,厚葬化の進展と階層性の復活という転機となった(変質期)。さて,桓武天皇によって新しい祖先祭祀のあり方が志向されると,中央氏族は墓制によって社会的立場を体現する道を見出し,土葬墓をスタンダードとする墓制が畿内各所で展開した。まさに,王宮が「模範的中心」となって,国家と国民の「モデル」となり,社会のさまざまなレベルを通して,「モデルとコピー」という関係が生まれたのである(再編期)。このような墓制の動きも,文献史学において政治・社会・文化の大きな転換期とされる承和の変以降は大きく様変わりすることとなった。天皇の存在が官人機構から遊離し,一部貴族による特権集団の中心としての存在へと倭小化されると,当該時期の政治体制の変質の中で,墓制そのものが社会において果たす役割は大きく後退していき,『延喜式』の編纂をもって名実ともに「律令墓制」は終わりを告げることになる(解体期)。
稲荷神社遺跡は,早池峰山の麓の町,岩手県花巻市大迫町に所在する。花巻市教育委員会は,個人住宅の建設に伴い2007年6月から12月まで,約900uの発掘調査を行った。この調査で一辺が3〜4m前後の四角形に川原石が並べられた遺構群を検出した。調査を進めるなかで,これらが縄文時代後期中葉の加曽利B1〜B3式併行期の遺構であることが判明し,「方形配石住居」と名称を付すことにした。本稿では,稲荷神社遺跡の調査概要と「方形配石住居」について具体的に報告する。特に方形配石住居は,共通項や構造的特徴をまとめてみた。北東北で縄文時代後期中葉の「方形配石住居」はめずらしい形態の遺構といえる。当地方における該期の遺構形態の一つとして,今後認知されねばならないものである。さらに,過去に配石として扱われてきた遺構のなかにも類似したものが含まれていないとも限らず,見直しの必要が生じてきたといえよう。ところで,このような遺構が出現する背景を考えてみるに,関東地方の縄文時代中期のいわゆる「敷石住居」などの影響は今後検討していかなければならない。類似する遺構の検出例が北東北では僅少であるにしても,この種の遺構が唐突に出現したとも思われず,類例が豊富な関東地方から徐々に伝播してきた可能性を追究していく必要があると考えている。この際,伝播に伴う地域的変容(≒地域的独自性)や北からの影響といったことも考えていかなけれぱならないのだろう。例えば,本文中で述べるように,稲荷神社遺跡の「方形配石住居」の張り出し部は「敷石住居」のそれとは部位を異にするなどの特徴がみられる。
本稿は,古墳時代における榛名山の噴火爆発に伴う火山堆積物(テフラ)によって被覆されていた祭祀遺構の調査を通じて,古墳時代祭祀の実態について検討を試みたものである。古墳時代における榛名山噴火では,群馬県榛名山東南麓から赤城山西北麓を中心とした地域一帯が,壊滅的な大災害に見舞われている。宮田諏訪原遺跡も災害遺跡のひとつで,テフラによって被覆された状態であったため,保存状態が極めて良好で,古墳時代に行われた祭祀時の痕跡がプライマリーな状態で検出された。特に1区1号祭祀跡では,6世紀初頭の噴火による榛名渋川火山灰(Hr-FA)直下から,剣形・有孔円板・臼玉などの石製模造品,甕・壷・増・小形甕・高圷・圷などの日常什器である土師器,手捏土器や須恵器高圷,鉄鎌・刀子・鋤先・鎌といった鉄製の武器・農工具,玉類,そして青銅製の小形鏡を祭具とした祭祀の痕跡が見つかっている。本稿では,出土状態の検討から1区1号祭祀跡の祭祀単位の抽出を行い,その分類整理を通じてその性格に関する考察を試みた。
国宝高松塚古墳壁画およびその保存環境の劣化が深刻な事態を迎え,石室を解体して壁画の保存修理を行うことが,平成17年6月27目開催の国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会で決まった。これを受けて,石室解体に伴う発掘調査を,文化庁の委託を受けた奈良文化財研究所が,奈良県立橿原考古学研究所,明目香村教育委員会と共同で実施した。発掘調査は,石室を解体可能な状態に露出させることを最終目的に,石室の細部構造や墳丘の築成方法を明らかにし,さらに壁画保存環境の劣化原因の究明を調査課題とした。平成18年10月2目から11ヶ月に及ぶ発掘調査の結果,基盤面の造成から石室構築,墳丘築成に至る古墳の築造工程や築造方法を解明することができた。中でも版築層に敷設されたムシロ状編物,凝灰岩粉末の撒布,揚棒痕跡などから,終末期古墳特有の版築の施工法が明らかになり,石室石材に穿たれた挺子穴や割付用の朱線,床石加工時の水準杭など,当時の土木技術に関する新たな知見も得ることができた。また,壁画の保存環境の劣化原因に関する調査では,巨大地震による墳丘の地割れが墳丘内を縦横に走り,基盤の地山面にまで到達することを確認し,壁画発見当時から知られていた天井石や床石の亀裂,石室の変形が地震による損傷と理解できるようになった。地割れは石室を中心に発生し,石室背面の版築と石材の間に間隙を生じており,そこに様々な虫が棲息するとともに,カビやゲルなどが繁殖し,目に見えないところで壁画の保存環境の劣化が進行していた事実が明らかになった。石室を構成する凝灰岩切石16石は,無事に取り上げられ,現在,仮設修理施設で保存修理作業が行われている。劣化原因究明のための高松塚古墳壁画劣化原因調査検討会や,約10年に及ぶ保存修理作業後に石室を現地に戻すための古墳壁画保存活用検討会も新たに発足した。文化財保護のあり方や壁画古墳の保存と活用をめぐり,考古学界からも広範な意見が求められているといえよう。
2008年2月,松井章著『動物考古学』が京都大学学術出版会より刊行された。前書き7頁+本文312頁に及ぶ大部である。著者の松井章氏は,東北大学で縄文貝塚から出土する動物遺体の研究を専攻し,氏のライフワークとなるサケ・マス利用の研究などに取り組まれた。また,学生時代から海外調査に参加し,欧米の動物考古学の潮流を日本に紹介するなど,1970年代後半以降における目本の動物考古学の新たな流れを主導してきた研究者の一人である。以後も現在に至るまで,堪能な語学力を生かして国際学会や海外調査にも多数参加し,目本考古学界きっての国際派として活躍されている。1982年に奈良国立文化財研究所に就職後は,それまで研究が不十分であった古代以降の牛馬利用,南西諸島でのイノシシの飼育・家畜化の問題,湿地性貝塚の滋賀県粟津湖底遺跡や佐賀県東名遺跡の調査指導など,新たな研究領域の開拓に意欲的に取り組まれている。
著者利部修氏は秋田県埋蔵文化財センターに勤務しながら,これまで関わってきた遺跡とその出土資料について研究論文を発表されてきた。今回これらのなかから古代出羽国の在地色の強い土師器と出羽・陸奥両国の広域性に富む須恵器などの土器論を中心に据え,さらに瓦の論文1編を加え上梓されたものである。収載された18編の論文は平成3年から平成19年までの16年間に発表されたもので,第1章から第5章までの論文は章名と節名に関わる論文ではあるが,当初から本書一書を体系的に書かれたものではない。したがって本書の構成順ではなく,評者の構成をもって主な内容の紹介とする。