論文 | 馬淵久夫 | 鉛同位体比からみた三角縁神獣鏡の舶載鏡と仿製鏡 | 1-18 |
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論文 | 蘇 哲 | 隋李和墓石棺画像考 | 19-38 |
論文 | 角田徳幸 | 中国山地における中世鉄生産と近世たたら吹製鉄 | 39-60 |
研究ノート | 奈良拓弥 | 竪穴式石榔の構造と使用石材からみた地域間関係 | 61-80 |
研究ノート | 津野 仁 | 古代弓の系譜と展開 | 81-102 |
研究ノート | 畑中英一 | 天平17年以降の甲賀寺 −近江国分寺との関わりを中心に− | 103-120 |
遺跡報告 | 野原大輔 | 越中国砺波郡における荘園関連遺跡の調査 −久泉遺跡の大溝と建物群について− | 121-135 |
遺跡報告 | 野崎拓司・澄田直敏・後藤法宣 | 城久遺跡群の発掘調査 | 137-146 |
書評 | 和田 哲 | 椚國男著『方格法の渡来と複合形古墳の出現 −古墳時代の成立とは−』 | 147-152 |
書評 | 國下多美樹 | 堀内明博著『日本古代都市史研究 −古代王権の展開と変容−』 |
1980年代から90年代にかけて,筆者は多数の三角縁神獣鏡の鉛同位体比を測定した。これらのデータは断片的に論文,報告書,科研費報告書などのなかに発表されたが,不統一・記載ミスなど,他の研究者の参照に適さない状態になっていた。今回,散乱しているすべてのデータを実験ノートと照合する作業を行い,計169面を精査し京都大学文学部の目録番号(1989)によって同定した。精査された鉛同位体比を型式学による編年と突き合わせた結果,いわゆる舶載鏡と仿製鏡の関係について,いままでに見えなかった新しい事実が判明した。
舶載鏡と仿製鏡の鉛同位体比については,1980年代後半に,その分布図から,両者は部分的に重なるが,大部分は近接する別領域を形成することを公表していた。しかし,それ以上の議論の展開はできなかった。新しい手掛かりは1990年代に研究が進んだ三角縁神獣鏡の編年によって与えられた。筆者はその骨子を学び,鉛同位体比の結果と突き合わせて解析してみた。その結果,予想外の次のような事実が浮かんできた。
《鉛同位体比分布図における舶載鏡と仿製鏡の部分的な重なりの原因は,岸本直文の編年(1989)のなかの陳氏作鏡群にあり,表現⑩→表現⑪⑫⑬→仿製鏡の流れにおいて,舶載鏡とされている表現⑪⑫⑬の鏡が仿製鏡の領域に分布するためである。》
この事実は,常識とされながらも絶対的とは看倣されていなかった舶載鏡・仿製鏡の材質の良否を思い起こさせる。そこで既存の信頼できるデータを調べたところ,材質の良否も,鉛同位体比とまったく一致して,表現⑩と表現⑪⑫⑬の聞に境界のあることがわかった。舶載と仿製という用語には異論があるものの,三角縁神獣鏡が原材料の点で二つに分別できることは確実になった。
そのような舶載鏡から仿製鏡への製作技法の変化には三つのモデルが考えられる。モデルA:新しい銅素材の入手と同時に銅錫配合率を変えて錫量を少なくした。モデルB:舶載三角縁神獣鏡の破片を原料にし,一定量の銅素材を添加するようになった。
手持ちのデータによる検証では,モデルB の可能性が高いように思われる。
1964年10月,中国陜西省三原県陵前鎮双盛村にある隋開皇2(582)年上柱国・徳広郡公李和基から金箔張り画像石棺が発見された。石棺は前・後档,左右側板に,方位に従って四神などの中国の伝統的な図柄が配置され,蓋の上面には半人半鳥の男女日月神および動物の頭や人面の入った連珠円文を刻んでいる。これらは中国風と西域風の異質な図柄を大胆に組み合わせ,青龍と白虎に乗る男神と女神を逆配置し,日月神を伝統的な蛇頭人身の姿と異なる半人半鳥の形とするなど,李和墓石棺画像には大きな特徴があり,北朝系の石棺の中で極めて異例な存在である。
李和基の石棺は『魏書』に記録される豪華な葬具「通身隠起金飾棺」に当たる。隋の初期には,朝廷が北周時代の薄葬伝統を受け継ぎ,官工房で李和のために豪華な「通身隠起金飾棺」を製作したとは考えられない。
北朝後期は,西魏・北周と東魏・北斉の対立の中で,突厥に軍事支援を求める北周王朝,宗教と言語の面において突厥と関わりの深いソグド系の上級階層の協力を得るために,皇帝が自らゾロアスター教の神を祭り,イラン・ソグド系の住民を優遇する政策をとり続けた。当時長安城内に住む資金カのあるソグド系の上級階層は,地元の埋葬文化に影響を受けて,中国風の豪華な金箔張り石葬具を製作していた。一方,北周には,長く続けられた権臣政治の影響で,君臣の上下関係と身分格差を反映する埋葬制度が整備できなかったため,李和のような北族出身の貴族も,埋葬制度の不備と朝廷の態度の暖昧さを利用してイラン・ソグド系の人のための葬具工房で石棺を造った。イラン・ソグド系の工房経営者もしくはデザイナーは,青龍・白虎に表れる陰陽思想を十分に理解しないまま,本来伏義と女禍に当たる日月神図にもゾロアスター教の半人半鳥などの要素を混ぜて李和の石棺を完成させたと考えられる。
要するに辛和墓石棺画像を形成した要因は,突厥が強大化する国際情勢,長安の街に広がるイラン・ソグド風の文化,および北周・隋初期の埋葬制度の暖味さに求められる。
近世たたら吹製鉄は,古代から受け継がれてきた在来製鉄の到達点である。製錬工程である高殿炉では,製鉄炉とその地下構造の大規模化,天秤輔の発明による送風力の向上,製鉄炉の上屋である高殿の建設による操業期間の延長などが近世前半に進められ,大いに生産性を高めた。また,これに伴い大量に必要になった原料砂鉄を鉄穴流しにより採取することが始まった他,鉄素材である錬鉄を製造するため大鍛冶場が確立されるなど一連の生産工程も整えられて,鉄の生産量は飛躍的に増大した。17世紀終わりから18世紀初め頃には達成されたと見られるこうした技術革新は,我が国製鉄史上の画期であり,それ以前の生産施設・体制や生産量と比較すれば,大きな飛躍で、あったことは言うまでもない。
このような近世たたら吹製鉄に見られる発展は,一朝一夕に成し遂げられたのではなく,それ以前から積み重ねられてきた製鉄技術の上に達成されたものであった。石見・出雲・安芸・備中北部など,近世たたら吹製鉄が盛行した地域で鉄生産が本格的に行われるようになったのは,古代末から中世初め頃にかけてのことである。これらの地域では,製鉄炉の大形化や防湿・保温施設としての地下構造の強化が行われており,近世たたら吹製鉄の地下構造である本床と小舟へと展開する本床状遺構と小舟状遺構が現われた。製鉄炉地下構造に見られる地域性も,その成立当初から見られ,中世から近世へと引き継がれている。また,大形になった製鉄炉では,銑鉄を中心として多量の鉄が生産されるようになり,これを除津・脱炭するため専用の精錬鍛冶炉も出現した。近世たたら吹製鉄は,高殿炉と大鍛冶場による一連の工程で錬鉄を生産する間接製鋼法的な生産体制であったが,その萌芽は古代末から中世初めには窺えるのである。以上のように見ると,近世たたら吹製鉄の技術は,いずれも中世鉄生産の中で改良が繰り返されてきたものであり,その土台は中世の製鉄技術にあることを明らかにした。
本稿は,古墳時代前期の埋葬施設である竪穴式石榔の分析を通して,畿内地方各地域における古墳相互の闘係から地域間関係の実態解明に迫ろうとするものである。
分析方法としては,竪穴式石榔の基底部構造を分類し,それぞれの分類において使用される石材を検討した。その結果,一定の地域内では特定の構造を特定の石材で構築していることが判明した。そこで,型式・石材・分布の3 つの要素がきわめて有機的に関係する石榔群を「型」として捉えた。次に,型式・石材・分布の要素から各地域の様相を,A類:共通する石材を使用しており, r型』を採用している場合。B 類:共通する石材を使用しているが,型式がばらばらな場合。C類:石材も型式もばらばらの場合。D類.他地域の古墳と「型」を共有する場合の4 つに類型化した。そして, A類における古墳聞の関係から,A類の首長層は相互に密接な関係が認められ1 つの地域的まとまりを形成していると判断できる。この理解を基に,B類は石材を共有する程度の地域的なまとまりを形成していた地域,C類は首長層が個別に存在していた地域,D類は地域を超えても首長層の密接な関係が成立していると理解した。
最後に,地域間関係を検討するとA類地域を中心として首長層の関係が成立していたことを読み取るととができた。以上のことから,畿内地方の首長層は,A類であるオオヤマト古墳群と玉手山古墳群を中心とした関係を形成しており,地域内の関係が密接な首長層ほどより王権中枢に近いと結論付けた。
日本古代の弓については,これまで伝世品や文献史料から検討され,世界にも稀な長弓であることが指摘されてきた。出土弓はほとんど検討対象外であり,出土品を含めてこの定説を再検討した。従来,出土弓の製作技法の検討は全く未着手であったが,削り技法によって,類型的に8技法にまとめられ,弓幹の断面を蒲鉾形にする技法が比較的多く確認できた。合せ弓は平安時代末に出現するというが8・9世紀にも新たに少数確認された.多様な機能をもっ弓の遺跡における祭組遺物との共伴関係を検討すると,弓長100−160cm前後,弓幹表面を全面細条削りするものが祭杷遺物を伴わない場合が多く武器や狩猟具であったと想定することが可能である。
次に,古墳時代からの系譜関係をみると,古墳時代でも弓に長短があり,奈良時代以降の祭把・儀礼用の長弓は古墳時代の儀礼用の弓を継承し,それ以外の弓は武器や狩猟用の弓を継承したと判断された。また中世への継承性については,古代の木弓が外竹弓の弓幹の成形技法に類し,削り技法では断面蒲鉾形にするものが外竹弓に繋がり,主にこの技法が確認できた官街からの系譜,長弓は国家儀礼からの系譜で,これらを複合させて中世の弓ができたと考えた。中世武士出現論に対して,矢(鉄鏃)を含めると,矢は地方発現,弓は主に官衙発現であり,従前の説を再検討した.大陸の弓との関係についても従前から指摘されており,唐の弓の実態を壁画などから考察した。日本との相違では,唐の儀仗は湾月形弓袋に納めた短弓であるが,日本では古墳時代以来の長弓で唐の儀仗弓との関連はなかった。また,角弓も牛筋を合せており,日本では弭の差込み式であり,構造が異なることから,相互の関連は窺えなかった。古代の長弓は古墳時代の首長権継承儀礼の弓を引き継ぐものである。
天平15 (743) 年,近江園甲賀郡紫香楽において大仏造立の詔割出され,甲賀寺において大仏造立事業が開始された.しかし,天平17 (745) 年5月に聖武天皇が紫香楽を発ち,平城宮へと戻り,同年8月には東大寺において大仏造立のための整地割開始されたことから,甲賀寺での事業は頓挫した。
その後も,考古・文献史料から甲賀寺の存在は確認できるものの,等閑視されていた。そこで,近年の考古学的調査によって得られた知見を整理するとともに,近江国分寺との関わりについて論じる。
文献史料からうかがわれる甲賀寺の大仏造営過程の検討から,天平17年5月以前には堂舎はほとんどなく,大仏塑像原形が出来上がっていたのみであることが推測でき,甲賀寺跡と考えられている内裏野丘陵上の伽藍跡は,近江国分寺である可能性が高いと考えた。
また,出土瓦の検討から,金堂については恭仁宮大極殿所用瓦(KM01・KH01)をモチーフにしたもの(内裏野軒丸瓦I型式・軒平瓦I型式)が用いられ,後に瓦笵は山背国分寺へと移動し、そこで塔所用瓦がつくられたことが判明した。その他の堂舎の多くはいわゆる東大寺式瓦の平城宮6235E型に類似する内憂野軒丸瓦II型式が用いられた。この瓦は中房を彫り直しており,新古(II-a型式とII-b型式)が確実にわかるものであるが,古いII-a 型式については講堂周辺から,新しいII-b 型式は中門や回廊から出土していることが確認できた.
内裏野丘陵上田伽藍での発掘調査においては,伽藍跡南半において火災の痕跡を見出すことができ,かつ,復興されることなく廃絶したことが判明した.
以上の点から,天平17年5月以降近江国分寺となり,それが延暦4年に焼亡したが,復興されることなく,某寺に一時的に国分寺機能が移り,その後弘仁11 (820) 年に国昌寺が近江国分寺になったと考えた.
本稿は,奈良時代後半から平安時代初期にかけて存続した,富山県砺波市に所在する久泉遺跡の調査成果について報告したものである。
久泉遺跡は砺波平野東部に位置し,この土地は奈良時代後半に東大寺領荘園が4つ設置されたことで知られる。発掘では,大溝(SD09)と掘立柱建物・竪穴建物で構成される建物群を検出した。大溝は,最大幅10m,最深部1.55mを測る規模をもち,発掘では120mの延長を検出したが,非破壊による地中レーダ探査によって約2kmの流路延長を確認することに成功した。流路は本遺跡から荘園である伊加留岐村比定地の方向に向かっていることが判明した。
建物群は,この大溝の西側に展開するもので掘立柱建物4棟,竪穴建物14棟を数える。掘立柱建物は柱筋の通りや柱の掘り方に造営精度の低さが看取され,竪穴建物と混在するなど集落的要素を有するが,10m前後の桁行規模や計画的な建物配置など官衙的要素も認められる。しかし,地域論的視座に立って,砺波郡内の主要遺跡の建物規模と比較すると本遺跡の掘立柱建物は規模の上で上位に位置付けられることから,官衙的側面として評価できる。
建物群は8世紀後半から9世紀前半の約100年の聞に造営・廃棄されたものであるが,大半が8世紀後半に属するものである。この時期の砺波平野東部では8世紀後半から集落遺跡が出現し,荘園比定地の東側丘陵帯において8世紀中葉以降から栴檀野窯跡群が操業を始めるといった現象がみられるが,考古学的事象と荘園の消長が連動する蓋然性が高いと考えられる。本遺跡はそのような背景の中,これまで開田絵図や文献史料上でしか知り得なかった初期荘園の実態解明に寄与する遺跡であると考えられる。
鹿児島県大島郡喜界町城久に所在する城久遺跡群は,遺跡の総面積が130,000uを超える古代から中世にかけての集落遺跡である。平成14年度から毎年発掘調査が実施され,これまでに約70,000uの本調査が行われた。
おびただしい数の柱穴で構成される掘立柱建物跡は300棟を超え,墓は,火葬墓・再葬墓・木棺墓・土坑墓が合わせて40基以上確認された。この他に,拳大ほどの石灰岩を長さ50m にわたって敷きつめた石敷遺構,15m四方の範囲で鉄津や輔の羽口片とともに確認された20基の鍛冶炉跡など,これまでの南西諸島で、の調査事例で、は他に例を見ない種類や規模の遺構が次々確認されている。また,遺物は中国や朝鮮半島産の陶磁器や本土産の土師器や須恵器,東濃産の灰紬陶器,長崎県産と考えられる滑石製石鍋,徳之島産のカムィヤキなど島外産のものが多くを占め,非在地的な様相が強い。また,古代における奄美地域の在地土器である兼久式土器は,ほとんど出土しない。
遺跡群の中でも山田中西・山田半田・半田口・小ハネ・前畑・大ウフ遺跡(上段)は9〜12世紀頃の遺物が圧倒的多数を占める。これに対し,標高が低く,東シナ海側に面した大ウフ遺跡(下段)や半田遺跡では13〜15世紀頃の遺物出土量が多い。遺跡群は,出土した遺物から9〜15世紀頃までの時間幅が考えられ,遺構・遺物の内容・変遷から3 期に分けて整理している。I期は9〜11世紀前半,II期は11世紀後半〜12世紀,III期は13〜15世紀頃である。
これらの出土遺物の中でも,特に越州窯系青磁の発見は,考古学や文献史学研究者の注目を集めている。古代官街・有力社寺などを中心に出土する傾向にあるこの中国陶磁が,これまでの出土事例の南限であった種子島の蓬か250km南の喜界島で,多数の遺構とともに発見されたためである。
古代から中世にかけて日本の南の境界領域に位置し,文献に姿を見せる「キカイガシマ」については,文献史学からその位置や重要性について論じられてきたが,その具体像が,城久遺跡群の発掘調査成果によって考古学的に明らかにされようとしている。
本書の構成は次のとおりである。
本書は,建築史を専門にする堀内明博氏が輪じた都城の展開と変容に関する論考25篇からなる。うち5篇が新稿である。著者は,これまで京都をフィールドとした古代遺跡の調査に長年携わり続け,古代〜中世の都城闘連遺跡・寺院・城館・町など都市に関わる多数の論文を公表されている。それらは建築史学・考古学的視点による遺構群の評価をもとに文献史学の成果を踏まえて歴史的解釈を加える論文が中心となっている。本書は,これらの研究成果を総括し,一書にまとめたものである。