削片系また北方系細石刃石器群が北海道本州地域を通して西日本地域まで拡散したという恩原仮説は最も大きな影響を与えている。この仮説を主張した稲田は恩原2遺跡の発堀調査を通して湧別技法の技術類似性,荒屋型彫器の存在,東北地域産の頁岩と推定される石材で作られた削器類,角二山型掻器は東北地域との類似性を指摘した。
しかし,西日本と東日本とを比較するうえで中西部地域の湧別技法があまり確認されていないという問題,日本海沿岸のととろに関連遺跡が確認されていない問題,そして東北の頁岩が恩原遺跡以外の西日本の旧石器遺跡では確認された例がない。
実際に湧別技法が他の技法と比ベて広域的に分布し,技術変異,定義に対しても様々な意見があり,その系統を判断することは単純な問題ではない。韓半島で湧別技法の年代を参考とすれば,恩原遺跡の年代は1.8〜1.5万年以前と考えられる。このような年代は東北で湧別技法が出現する時期より古い。
恩原2遺跡の起源が東日本にあるという主張の内面には湧別技法と関連する遺跡の数が西日本に比べてより多いという点がある。日本と韓半島の削片系細石刃石器群の関係が明確ではないが,日本列島の最西端に位置する遺跡まで北海道ルートの結果で把握することは無理がある。日本内での湧別技法について,北海道ルートを通じて流入された可能性もあるが,西日本の場合は韓半島ルートで流入された可能性が高い。
古代寺院の伽藍には多様なパターンがあるが,その意味はよく知られていない。その一つ,中枢 に塔と東面する金堂を対置する一塔一金堂型式の伽藍配置を観世音寺式伽藍配置とよびならわしている。この観世音寺式伽藍配置は川原寺式伽藍記置の完成形であり,古代における官寺の代表的な形態とする理解が,近年探まっている。筆者等は,この型式の伽藍配置をとる寺院について,その典型例である福岡県観世音寺や宮城県多賀城廃寺をはじめ全国で15例を見出し,検討を加えた。そこでまず,これまでも観世音寺式配置をとる寺院として認識されてきた観世音寺多賀城廃寺などの12寺院を分析し(T〜V章),これまで認識されてきたような官寺であるとともに,それが天智天皇の時代に首都(近江大津京)を仏法により守護し,地方にあっては広域行政組織としての総領(大宰)と一体となって護国にあたる性格を有するととを明らかにした。天智天皇以後もこの性格は維持され,平安時代になると「四天王」を寺号とする寺院にもこの性格が付与されている。このことから観世音寺式伽藍配置をとる寺院は仏法で鎮護国家を果たすことになるが,しかし既知の12寺では万全を期待することはできない。そこで鎮護国家のための東西南北の要地に未確認の観世音寺式伽藍配置の寺院が存在することを想定して,探索した結果新たに薩摩国分寺・秋田城付属寺院堂町前廃寺3 寺院を見出すことができた(W章),これら由検討によって,従来官寺に特徴的な伽藍配置とされてきた観世音寺式伽藍配置が,単なる官寺にとどまらず国家・領土を外敵から仏法によって守護するための装置として機能していたこと,そのために日本列島の東西南北の境界地域にこの型式の伽藍配置の寺院を建立しなければならなかったこと,すなわち鎮護国家のための寺院であったことを明らかにする(V 章)。
更新世最終末の新ドリアス相当期(11,000〜10,200 calBC)の本州北部には,大型両面加工石器 を主体とする石器群が存在する。その集団が保有した特徴的な施設が石器集積遺構である。石器集 積遺構は,デポあるいはキャッシュとして理解されてきたが,その石器組成や石材供給の背景は多 様であり,機能的な性格については個別に確認していく必要がある。
本論では,宮城県野川遺跡出土資料を対象に,石器の機能研究を実施した。その結果, 2 つの士 坑に納められた石器群には,対照的な特徴が認められた。第1土坑は,狩猟と容器製作に関わる道 具箱であり,狩猟によって破損した石鏃や木を削った道具,石鏃素材となる大きさの剥片や石核を 多く含む。第2土坑は,皮革加工に関わる道具箱であり,皮なめしに使われたスクレイパーやへら 状の石器,スクレイパー素材となるサイズの剥片を含む。また2 つの土坑の聞には,衝撃剥離痕 をもつ石鏃がまとまって出土しており,狩猟の成功に続く一連の活動が予想される。このように, 遺跡内の空聞には,狩猟と容器製作に関わる場と皮革加工に関わる場の2 つの側面が浮かび上がった。2 つの士坑は約2.5mの位置に隣接し,意図的に区別して設置された可能性が高い。それぞれの道具箱が区別された理由は,単なる機能的な識別のみでなく,民族学的研究に基づく通文化的傾向によって判断すれば,例えば男女の道具箱を区別するような社会的分業の意味合いも窺うこともできる。
野川遺跡の石器には,使用痕以外に,石器を運搬した際に生じたと推測される微小剥離痕や光沢,摩滅が認められた。この痕跡については,復元的に実験を行い,運搬痕跡の把握に努めた。また,土坑には袋に入った状態で納められたことが指摘されていたが,本論では,袋に石器を入れて振動を加える実験を行い,裏付けをとった。その結果,石器を袋に入れ,さらに一定度以上の振動を加えた後に,土坑に納められた可能性が高いことが推測できた。このような一連の分析を通して,遺跡に至るまでの石器のライフヒストリーを含め,遺跡内での作業空間の構造が石器の機能的解釈を通して理解され,それぞれの石器集積遺構の性格や遺跡の役割について,窺い知るととができた。
多賀城市市川橋遺跡は,第2 次陸奥国府・特別史跡多賀城跡の城外に位置する多賀城跡関連遺跡である。平成19年度発掘調査では, SE6770井戸跡最下段の井戸枠に転用されて,保存のよい辛櫃が出土した。この辛櫃は被蓋・底板・脚が取り外されていたが,脚の取り付け痕跡から各面中央に脚の付く白木造四脚形式辛櫃と判明した。
古代遺跡出土の古櫃は全国で12例と少ない。本例以外はすべて西日本からの出土例で,東日本で初めての出土例となる。井戸跡裏込出土土器が9世紀第2四半期頃のものであり,多賀城跡は神亀元年(724) に創建されたので,井戸枠に転用されたとの辛櫃の製作年代は,8世紀前葉頃〜9世紀第2四半期頃の間と考えられる。
各面中央に脚の付く四脚形式辛櫃は,年輪年代で1166年と測定された正倉院南倉74古櫃第174号と12世紀以降の絵画史料で知られていた。本例はこれらよりも300年程古く,同形式最古の辛櫃となった。本例は,脚付きの辛櫃が古代の四脚形式辛櫃から中世の六脚形式唐櫃へと変遷する過程において,中世の唐櫃が囚脚形式の半唐櫃(荷唐植)と六脚形式の長唐橿とに形式分化する前の,過渡的な形式の四脚形式辛櫃とみることができる。稀少な出土例であるばかりではなく,古代の辛櫃から中世の唐櫃への変遷を知る意味でも貴重な例となった。
材質はヒノキで,古代においてこの櫃を製作できるほど大径木のヒノキは東北地方で生育しなかった。辛櫃は西海道・坂東以北諸国を除く6 道30箇国の郡家の官営工房で造極丁(橿工人の径丁)により製作され,中央に貢納されていた.これら辛櫃貢納国や中央の官営工房で造櫃丁によって製作された辛櫃が陸奥国府多賀城まで運ばれた可能性が高い。
宮城県多賀城跡調査研究所では多賀城跡の調査研究と併行して,関連する城柵官街遺跡と生産遺跡の調査を行っており,近年は多賀城第T期(724〜762)の瓦を焼成した宮城県北部の大崎地方に偏在する窯跡群を対象に調査している。本稿は平成19年から開始した日の出山窯跡群の調査について,F地点西斜面地区の成果を中心に報告するものである。
日の出山窯跡群は加美郡色麻町の中心部から約4km南東の通称「日の出山」周辺の丘陵上に位置する。古くから多賀城第T期の瓦・須恵器を生産した窯跡群として大崎市下伊場野窯跡群,木戸窯跡群,大吉山瓦窯跡とともに知られており,それらの窯跡群で焼成された製品は多賀城跡をはじめ,色麻町一の関遺跡,加美町城生柵跡・菜切谷廃寺跡・東山官街遺跡,大崎市名生館官街遺跡などの城柵・官街・寺院等にも供給されたことが明らかになっている。現在,日の出山窯跡群の窯跡はA〜Fの6 地点が捉えられておりF地点は窯跡群中央の北から南に延びる丘陵上に立地する。
調査の結果,丘陵の西斜面では窯跡,工房とみられる竪穴住居跡,粘土採掘坑跡,作業域とみられる平場跡などを検出し,その場所における窯場の範囲,規模,遺構の構成と分布,各遺構の概要,年代など, 窯場の全容がほぼ捉えられた。それは100m 四方にも満たない小規模な窯場ではあるが,粘土の採集から製品の成形と焼成, 不良品の廃棄に至るまでの各過程の遺構で構成されており,場の使い分け方も明確である。窯場のあり方が具体的に知られる例として, 本窯跡群の中でも貴重な地区であることが判明した。焼成された瓦の内容・年代も明らかで,多賀城の第T期でも天平10年(738)前後頃の平瓦を中心に焼成していた窯場として位置づけられる。