本稿の目的は,北陸地方西部域における弥生時代集落の墓域と居住域の検討である。検討の対象とした遺跡は,福井県に所在する府中石田遺跡・吉河遺跡・中角遺跡の3遺跡である。
本稿では,細別された時間幅での墓域と居住域の対応関係の把握を試みた。手順として,最初に,方形周溝墓の出土遺物による時期比定と切り合い・重複関係による前後関係の判断を行った。次に,方形周溝墓の構築順序の把握を行い,方形周溝墓群が必ずしも規則性をもって展開したわけではないことを示した。さらに,自然科学的年代測定が墓域と居住域の時間的併行関係を分析するために必要であることを示した。
本稿の意義は,以下の2点である。まず,方形周溝墓の構築順序の検討により,群構成の背景に単純に集団関係や系譜関係を見出すことが難しいことを示したこと。そして,共時的な遺構の把握の現時点での方法的限界を示したことである。
pp.1--24
古墳時代の埋葬施設を素材に当時の社会について考える時,2つの方向性がある。一つは,階層性の追究,そしてもう一つは,構築技術や形態からみた系譜の追究である。両者は不可分なものであるが,今回は特に後者に力点を置き,九州・山陰・東国の地域間交流の様相について考える。時期的には,律令国家成立前段階の6〜7世紀を扱う。
古墳時代後期における地域色を示すものの一つに,出雲東部の石棺式石室がある。1964(昭和39)年,山本清は,集成と諸要素の検討を通して石棺式石室の起源が九州にあることを明らかにした。九州側からも小田富士雄の発言があり,1987(昭和62)年には,出雲考古学研究会による『石棺式石室の研究』が発刊され,山陰の石棺式石室は九州の要素を取り入れながら独自に展開したとする点で双方の合意を得た,と言える。
本稿は,石棺式石室の諸要素が,肥後から出雲へ,さらに出雲から伯耆へ伝播したとの考えがほぼ定着したなか,下野に展開した石棺式石室も含め,肥後(5例),出雲(34例),伯耆(11例),下野(11例),合計61例の石棺式石室を同一基準で諸要素を比較する方法により,地域の特徴を把握して共通性と独自性を明らかにすることを目的とする。
結果,出雲と肥後・伯耆・下野の二者の間に大きな距離があり,諸要素の特徴から比較的距離の短い肥後・伯耆・下野の間にも,現段階では直接的に影響しあう姿は認められなかった。したがって,石棺式石室の設計や施工を担う個人あるいは集団の移動を伴う相互の直接交流はなかった,と言える。
しかし,4地域の石棺式石室を構成する要素の一つひとつに眼を向けた時,全く無関係にそれぞれが成立したのではなく,各地の実情に合わせて選択的に相互の情報を取り入れた,と考えた。石棺式石室にみる広域地域間の情報交流は,律令国家成立にむけて,人・モノ・情報の動きが活発化した時期の一様相を鮮やかに示している。
pp.25--44
岡山県鬼ノ城の発掘調査成果をもとに,小稿では次のことを述べた。
(1)鬼ノ城の城塁は,外側列石を基準にして直線と折れの平面形で版築・石垣を積み上げたこと,その基準線に平行して内・外の掘立柱列や敷石を設置したこと,令大尺=高麗尺(0.354m)の10尺を城塁延長の基本単位とし,水平距離で計測したこと等により,城塁設計には幾何学的な規格性が貫かれていた。
(2)鬼ノ城の城塁築造過程が,同時に,造営される諸施設の型式学的な崩れの過程でもあったことを,4城門の規模や部材の小型化,門礎加工の崩れ,城塁に対する城門優位の後退等,10項目に分けて追跡した。
(3)鬼ノ城の分析をふまえ,古代山城の築城開始時期編年案を作成した。編年は,まず城塁構造の差異を基準にして23城を4系統に区分し,ついで系統間の共通要素から大枠での時間的同時性を確かめるとともに,山城築造の年代的な範囲が,『日本書紀』天智天皇の山城築造記事および藤原宮西面中門出土の親柱刳込唐居敷を手がかりにして,天智・天武朝を中心とした7世紀後半期にあると判断した。ついで城塁の幾何学的な規格性の崩れと城塁構成諸施設の脱落過程に着目し,山城が系統差を超えて3段階で変遷する経過をたどった。
(4)以上の分析をふまえ,@鬼ノ城のような幾何学的規格性が明白な山城については中央派遣の築城組織が想定され,とりわけ実務をになった事務官人や現場の工匠あるいは画師等の活躍を推測しうること,A第3・4系統山城の第2段階以降における幾何学的規格性および諸施設の急速な型式学的な崩れは,実戦あるいは軍事訓練で主要な武器であったはずの弓矢の使用の痕跡が山城ではほとんど確認されない現象と対応し,日本の軍事組織に高位専業軍人がいないこと,および日本の軍事的必要に適合していなかったことに起因する可能性があること,B斉明朝以来の宮殿建築様式の模索のなかで,天武朝においては城塁築造技術を活かした大陸的な様式選択の可能性もあったが,最終的には藤原宮造営時に在来の寺院建築様式の導入を基本とする方向がかたまり,軍事政策の後退で7世紀の山城築城が停止するとともに,以後,城塁なき都城が平安京まで続くこととなったこと等について考察した。
pp.45--69
本稿では,沖縄県南城市サキタリ洞遺跡の後期更新世末の年代値(12445±40BP,12475±40BP)が得られた堆積層(第T層上部)より産出した石英標本3点について,それらの標本が人工品,すなわち石器であるかどうかを考古学的に検討した。
サキタリ洞標本は,従来沖縄で石器石材としての利用が知られていない石英を素材としており,日本においても石英製石器に関する技術的な先行研究はほとんどない。この点に鑑み今回は,沖縄県恩納村宇加地産の自然破砕標本と同地より採取した石英原石から実験的に製作した人為破砕標本について,組成,形状(サイズ),割れ方の各項目をデータ化し,サキタリ洞標本と比較検討した。
その結果,サキタリ洞標本には石材,組成,形状(サイズ),割れ方,使用痕,産状の各項目において,人為的石器とみなしうる特徴が認められた。その一方で,点数の希少性,定型的な石器の欠如,叩き石の不在は,サキタリ洞標本を人為とみなす上で消極的要素である。サキタリ洞標本のように標本数が限られ,しかも単純な形態の標本について,人為か非人為かという断定的な判断を下すことは一般に困難である。しかし,今回検討した各項目に基づいて,サキタリ洞標本の位置づけを議論するならば,サキタリ洞標本は人工品,すなわち石器の可能性がより高いと結論づけることができる。
pp.71--85
桜井茶臼山古墳は奈良盆地東南端の桜井市外山に位置する,古墳時代前期前半(3世紀末〜4世紀初)に築造された墳丘長200mの前方後円墳である。1949・50年に発掘調査がおこなわれ,竪穴式石室が完存すること,石室内に木棺が遺存していること,豊かな副葬品をもつことが明らかになり,1973年に国史跡に指定された。第1次の発掘調査から60年が経過した2009年,埋め戻された埋葬施設の詳細を再検討すること,木棺を取り出して保存処理をおこなうことを目的とし,国史跡の現状変更許可と科学研究費補助金を得て,再調査を実施した。
まず,第7次調査では,後円部頂において竪穴式石室周辺の遺構配置を確認した。その結果,竪穴式石室の上部につくられた方形壇裾の外周では,柱を据えた布掘り掘り方と木柱列が検出された。方形壇を取り囲むこの遮蔽施設を「丸太垣」と称した。また,丸太垣の北と東には,石蓋土壙状の施設が位置することがそれぞれ確認された。
続いて,第8次調査では,竪穴式石室の天井石の一部を動かして木棺を取り出すとともに,石室の構造についてその全容を明らかにした。木棺はコウヤマキ製で棺床土を用いて設置されていたことが判明した。
また,いずれの調査においても,盗掘土を精査し,遺棄された遺物の回収をおこなった。その結果,銅鏡片331点,石製品片97点,玉類片15点,鉄製品4点等を検出した。第1・2次調査のものと合わせて銅鏡片を分類したところ,少なくとも81面の鏡があること,三角縁正始元年陳是作同向式神獣鏡が含まれていることなどが判明した。
pp.87--100
福岡市西区に所在する元岡古墳群G−6号墳から2011年9月,紀年銘入り象嵌大刀が出土した。G−6号墳の調査は2011年2月より実施され,遺構・遺物の状況が調査の進行につれて以下のように明らかとなった。
墳丘・周溝については,墳丘西側と古墳前面,古墳南東側に周溝と墓道が残る。墳丘東側では周溝は確認できないが,わずかに残る段造成によって墳丘の位置を推定できる。墳丘の規模は直径約18mとみられる。
石室は両袖式単室の横穴式石室である。主軸方位はほぼ南北で南側に開口する。玄室壁面は奥壁1段,側壁2段の石積みで,大型の石材で積み上げられている。
出土遺物のうち,最も注目されるものが有銘鉄製大刀で,玄室床面で出土した。X線撮影の結果,刀の峰の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は練カ)の19文字が確認できた。字は象嵌で,刀を作製した干支と作製時の状況が記されている。「庚寅」年は西暦570年とみられる。
その他,閉塞部上面から青銅製大型鈴1点が出土し,羨道・墓道から鉄鏃・鉄矛が出土した。玄室・羨道内から出土した須恵器の年代は7世紀前半から7世紀中頃とみられる。
G−6号墳が築造された糸島半島では7〜8世紀にかけて大規模な製鉄が行われたことがこれまでの調査で判明しており,この直前の時期に当時外交・防衛の最前線であった糸島地域でこのような銘文をもつ大刀を副葬する古墳が作られたことについて,検討すべき課題は極めて大きく,今後論議を要することになろう。
pp.101--110
御殿前遺跡は,武蔵野台地北東端部に立地し,旧石器時代から近世にいたる複合遺跡である。特に,飛鳥時代から平安時代にかけて造営された「武蔵国豊島郡衙跡」が著名である。現在までに周辺の遺跡も合わせ,70地点以上の調査成果が蓄積され,郡庁院・正倉院とも,豊富な資料を基に8世紀以降の郡衙の精密な復元プランが提示できることが特色である。また,律令体制開始(大宝律令施行)以前にあたる7世紀後半の評衙の郡庁域と正倉域が確認されていることも注目される成果である。
2010〜2011年に調査した第31地点は,豊島郡衙正倉院のなかでも北西側にあたる。調査の結果,豊島郡衙(評衙)に新たな知見をもたらす7世紀後半〜9世紀の掘立柱建物址や竪穴建物址,区画溝址が複数発見された。
これまでの評衙正倉域は御殿前遺跡の中でも一部のみの確認であった。しかし,本調査地点で,掘立柱建物址や区画溝址が検出され,より広範囲に正倉が造営されていた事が判明した。加えて竪穴建物と掘立柱建物との計画的な造営が確認でき,評衙段階で既に正倉の永続的かつ集中的な管理が行われていたことが認められた。郡衙段階である8世紀以降では掘立柱建物址が東西に列を成して3列分確認された。これまでの郡衙正倉院は,方形の囲繞溝内に,正倉が東西と北に一定間隔で「コの字型」に配列され,中央北側に法倉が造営されると推定されていた。新発見の2列目は屋,3列目は大型の正倉と,列ごとに建物の性格に差異があり,多様な建物で正倉院が構成されることが判明した。また,これらの建物群は「コの字型」配置の正倉列が衰退する中で建造が開始されるなど,正倉院のより具体的な建物の変遷と配置構造が捉えられるようになったことは重要な成果である。
pp.111--122
本書は,日本列島における弥生時代から律令国家成立期における紡織具の構造・用法,その系譜について紐解き,最終的には律令国家における紡織体制に言及した画期的な考察である。人間生活にとって不可欠な「衣・食・住」のなかで,「衣」は遺構にはほとんどあらわれないものといってよく,遺物からの考察が主となる。したがって部材から構成される機織具などがバラバラになって出土するとその復元は容易ではない。それを丁寧に読み解いていったのが本書の特徴といえる。著者の東村純子氏は,卒業論文の紡錘の研究から始まり,近年数多くの紡織に関わる論文を発表している。その内容は遺跡出土木製品の分析を礎としたものであり,地道な積み上げによる説得力のある論考から,すでに研究者間では注目され一目おかれるものであった。本書に収められた論考をみると,体系的な研究がなされており,当初から長期的な展望に立った研究が進められていることに気づかされる。本書は既出の論考を軸に構成し直し,新たな考察を加えたもので,京都大学に提出された博士学位論文が骨子となっている。
pp.123--128