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機関誌『日本考古学』第36号

2013.10.15発行  115p ISSN 1340-8488  ISBN 978-4-642-09332-3
論文 宇垣匡雅 summary 特殊器台・特殊器台形埴輪編年に関する一考察 pp.1--14
論文 藤原 哲 summary 古墳時代中期における軍事組織の一側面 ―島内地下式横穴墓群の分析を中心に― pp.15--36
論文 関川尚功 summary 宮都飛鳥の道路と遺跡 pp.37--58
論文 関根達人 summary 近世石造物からみた蝦夷地の内国化 pp.59--84
研究ノート 禰冝田 佳男 summary 弥生時代の近畿における鉄器製作遺跡 ―「石器から鉄器へ」の再検討の前提として― pp.85--94
遺跡報告 山田尚友 summary 南鴻沼遺跡の発掘調査について pp.95--102
書評 髙田健一 summary 「陵墓限定公開」30周年記念シンポジウム実行委員会編『「陵墓」を考える−陵墓公開運動の30年−』 pp.103--109
論文

特殊器台・特殊器台形埴輪編年に関する一考察

宇垣匡雅

論文要旨

 吉備で出現した特殊器台が数型式にわたる変化をとげ、特殊器台形埴輪を経て円筒埴輪の成立に至ると考えられてきた。しかし、奈良県中山大塚古墳の発掘調査成果から、宮山型特殊器台、特殊器台形埴輪、円筒埴輪の3器種が大和で同時に成立したと考えられるに至っている。小論では、この理解について検討を試みた。

 特殊器台は製作後すぐに墳墓で使用されることが多いが、長期にわたって保有された後に墳墓で用いられる場合がある。中山大塚古墳の特殊器台についても、製作時期が埴輪とは差がある可能性を考えた。

 箸墓古墳および葛本弁天塚古墳からは特殊器台と特殊器台形埴輪が出土しているが、これらは共存するとみてよい。このうち特殊器台は葛本弁天塚型として宮山型から分離できる。これは大和において製作されたものとみられるが、製作には吉備の工人が関与したと考えられ、工人が備中から大和に移動したと推定する。一方、特殊器台形埴輪については胎土の特徴から、備前南部で製作され大和に搬入されたと判断できる。大和では特殊器台の製作が継承されたため特殊器台と特殊器台形埴輪が共存するのに対し、それ以外の地域では備前からもたらされた特殊器台形埴輪のみを伴う古墳が分布することになる。

 一方、西殿塚古墳では特殊器台、特殊器台形埴輪、円筒埴輪が共存するが、これらのうち特殊器台と特殊器台形埴輪は箸墓古墳資料よりも古い特徴をもつ。これらと円筒埴輪の関係が問題であるが、円筒埴輪は追加配列された、あるいは、古く製作された特殊器台および特殊器台形埴輪が用いられたといった、特殊な事情があったと推定した。

 特殊器台と特殊器台形埴輪が用いられる段階をへて円筒埴輪が出現する可能性を考え。特殊器台、特殊器台形埴輪は、吉備西部の備中、東部の備前それぞれの首長層と、大和の首長層の密接かつ複雑な関係を示すものである。

キーワード

pp.1--14

論文

古墳時代中期における軍事組織の一側面 ―島内地下式横穴墓群の分析を中心に―

藤原 哲

論文要旨

 本論文の目的は古墳時代中期における軍事組織の一側面を検討することである。そのための資料として、極めて良好な武器や人骨の出土状況を示す宮崎県島内地下式横穴墓群を取り上げた。

 分析の方法としては、島内地下式横穴墓群の構造や、武器副葬と被葬者との相関関係、墓地と集落との関係などの検討を行うことで、島内地下式横穴墓の造墓集団の復原を試みた。

 一方、南九州における首長墓の変遷を通じて島内地下式横穴墓群の被葬者集団の特徴を考察し、武器を介した古墳時代中期における地域と中央との政治的な関係性に言及した。

 また、既応の研究も参考にしつつ、古墳時代中期における政治構造や軍事組織の輪郭を示し、島内の事例から軍事組織の末端に位置する小集団の具体像を提示した。

 以上の結果から島内地下式横穴墓群の造墓(被葬者)集団としては農耕よりも狩猟採集に生業の重点を置いた集団、若干の階層差が認められるが、全体的には等質的な300人規模以下の共同体であったこと、またこの集団は小規模な鍛冶生産や骨鏃の使用など、武器の一部は自弁が可能であった一方、甲冑や蛇行剣など、複雑な武器は近畿地方などの中央政権と直接・間接的な交流や配布を通じて入手していたと考えた。更に武器の多量さと並んで、殺傷痕跡が残る埋葬人骨の出土が全国的にも多く、実際に何らかの暴力的な活動にも従事した集団であったと推察した。

 古墳時代中期における軍事組織のあり方として、中期畿内政権は島内のような専門性の高い地方の武装集団を点的に組み込んでいくことにより、全国的な軍事組織を整備していったと評価した。

キーワード

pp.15--36

論文

宮都飛鳥の道路と遺跡

関川尚功

論文要旨

 奈良県の飛鳥地域では宮都や寺院・古墳を始めとする遺跡が集中して営まれ、これらを有機的に結んでいたのが古代飛鳥の道路である。飛鳥を総合的に理解するには、道路を基軸に検討を行うことが適していよう。まず「竹田道」は飛鳥寺の北限を画し、崇峻天皇倉梯宮・忍阪の舒明陵などの重要地域を結ぶ道路である。「飛鳥斜向道路」は飛鳥中央部を斜めにかつ直線的に貫く唯一の道路で、阿倍山田道と紀路を結ぶ。「飛鳥横大路」も下ツ道・飛鳥斜向道路から飛鳥宮に至る直線道路である。「三道・横大路」については、等間隔設定された三道がそれぞれ箸墓古墳、飛鳥寺、見瀬丸山古墳に接して通過しているという事実があり、それには意味がある。その設定は上ツ道と中ツ道相互で微調整された上で下ツ道・丸山古墳が築かれた。また中ツ道は、その延長が正しく飛鳥寺の西の寺域を画し、飛鳥宮の内郭西を通るため、延長線は通過していたようである。三道・横大路の成立時期は丸山古墳の築造時期から7世紀のはじめと推定される。その契機は隋との国交開始で、そのモデルは古代中国の大道であろう。飛鳥寺付近は道路が集中し、古くから要衝の地であったことが、ここに飛鳥寺が建立された主な理由である。そして飛鳥寺の造営は飛鳥時代の実質的な始まりであり、宮室を誘引し、飛鳥宮の北の守りの位置にもある。また飛鳥宮についてはこれまでの比定案には疑問点が多いためその根拠を述べた。飛鳥浄御原宮以前の宮殿については、現状では未だ不明なところが多い。飛鳥宮の立地は主要交通路から離れた狭隘なところにあり、しかも飛鳥寺・川原寺などに守られているという、防御主体にまとめられた変則的な宮殿であることが特徴といえ、他の宮殿との単純比較はできない。そして飛鳥という地域自体が前後の時代にみられないほど遺跡が凝縮されているという特色があり、それが後の京につながる。そして飛鳥時代を通じて常に対抗的位置関係にあった唐王朝との接触の段階過程が、結果的に律令国家への道程でもあった。

キーワード

pp.37--58

論文

近世石造物からみた蝦夷地の内国化

関根達人

論文要旨

 江戸時代に「蝦夷地」と呼ばれた北海道・サハリン(樺太)・クリル(千島)の歴史は、和人と北方民族との関わりのなかで形成された。しかし近年の北方史研究は、従来のアイヌ史観への反動から、自然と共生し豊かな精神世界を構築したアイヌ民族、あるいは交易民としてのアイヌ民族の姿が強調されるあまり、和人の蝦夷地進出の実態が見えにくい状況にある。

 本州に比べ近世文書が格段に少ない北海道、そのなかでもさらに史料が限られる「蝦夷地」では近世石造物の資料的価値は高い。本論では、近世石造物を通して蝦夷地への和人進出の実態を明らかにし、蝦夷地が経済的・文化的・政治的に内国化される過程を論じた。

 蝦夷地で確認した近世石造物は、墓標が西蝦夷地22箇所68基、東蝦夷地20箇所94基、墓標以外の石造物が西蝦夷地42箇所68基、東蝦夷地29箇所48基の合計278基である。これら石造物の造立者や墓標の被供養者は全て和人であった。

 近世石造物の在り方は、西蝦夷地と東蝦夷地で大きく異なっていることが判明した。すなわち、西蝦夷地では寺社奉納物が多く、場所によっては18世紀代から建立されているのに対して、東蝦夷地では墓標は多いものの寺社奉納物は少なく、18世紀代に遡るものは極めて稀である。また、東蝦夷地では和人地に近い地域から順次東へと石造物の造立地域が拡大するのに対して、西蝦夷地では和人地との距離に関係なく地域ごとに石造物の造立時期が異なる現象がみられた。こうした現象は東蝦夷地への和人の進出が主として18世紀末以降の対ロシア政策に伴う政治的理由によるものであるのに対して、西蝦夷地はそれ以前から漁場の開発が活発で、場所請負関係者の出入りが頻繁であったために生じたと考えられた。石造物から見る限り、東蝦夷地への民間人の進出が活発化するのは、1830年代以降とみられる。

 松前・西蝦夷地の幕領化に先行し東蝦夷地の直轄地化が急がれたのは、西蝦夷地が既に和人の経済的・文化的進出により実質的に内国化された状態であったのに対して、東蝦夷地は未だ和人の進出が遅れており、ロシアの南下政策の前に短期間で内国化を実現するには、政治的手法しかなかったためと推測した。蝦夷地の政治的内国化については、墓標の分析を通して、1800年代と1860年代に大きく進展しており、東蝦夷地は幕府(箱館奉行所)主導で、西蝦夷地は幕府の命を受けた東北諸藩が大きな役割を果たしたと推測した。

キーワード

pp.59--84

研究ノート

弥生時代の近畿における鉄器製作遺跡 ―「石器から鉄器へ」の再検討の前提として―

禰冝田 佳男

要旨

 小文は、現在、評価の分かれている、「近畿の弥生時代の鉄器化」を再検討するための手段として、近畿における鉄器製作遺構の可能性のある遺跡を抽出することを目的とする。

 まず、中国において鉄器製作遺構とされているいくつかの遺跡の状況をみたうえで、近畿における事例を検討する。そして、そこから鉄器製作に係る要素として、@竪穴建物の床面に焼土のある建物が検出される遺跡、A石製鍛冶具の可能性のある遺物が出土する遺跡、B不明鉄製品として報告されたもののなかに鉄素材や鉄板を切断したときに出る鉄板が出土する遺跡、Cフイゴの羽口の一部と考えられる焼けた粘土塊が出土する遺跡は、鉄器製作遺跡である可能性があると考えた。

 こうした点を踏まえた上で、近畿一円のこれまでの発掘調査報告書を再検討することで、丹後から紀伊地域までの13遺跡で鉄器製作をおこなっていた可能性があると考えた。従来のように鉄器の普及によって石器が消滅するという鉄器普及論については再検討が必要で、石器、鉄器、石器組成から推測される「見えざる鉄器」、鉄器製作遺跡の様相を総合的に検討し、今後は「新たな見えざる鉄器」論により、鉄器の普及を展開していく必要性を述べた。

 畿内における弥生時代鉄器は、生活必需品として機能したことが特徴で、近畿は近畿で鉄器の位置づけをする必要がある。現状では鉄器の出土量は少ないが、先に指摘した指標が鉄器製作遺跡であると認められるのであれば、近畿各地で鉄器製作遺構が存在することになり、弥生時代後期の鉄器の普及について、石器や鉄器の様相、石器組成、鉄器製作遺跡のありr方から、再検討する必要性を指摘した。

キーワード

pp.85--94

遺跡報告

南鴻沼遺跡の発掘調査について

山田尚友

要旨

 南鴻沼遺跡は、さいたま市中央区大戸1丁目、南区鹿手袋に広がる鴻沼低地に立地する遺跡である。2011年11月から2013年3月にかけて、さいたま市遺跡調査会により、さいたま都市計画道路本太道場線の建設工事に伴う事前調査として実施したものである。特に縄文時代ではこの地域の歴史を考察する上で重要な資料が見つかった。

 遺構では縄文時代後期の水場遺構が2基発見された。これは台地の縁辺で発見されたもので縄文3つに割れたクルミが入った土坑が1カ所発見されている。このほかに縄文時代晩期の加工木・自然木集中地点と、トチノキ・クリ集中地点が発見されている。

 遺物では、縄文時代前期から晩期にかけて埋没した堆積層から多量の木材が出土した縄文時代中期中葉(勝坂式期)・後期(称名寺式期〜加曽利B式期)・晩期安行3c〜3d式期では特に自然木や加工木が多く出土しており、それらにクルミ属・ヒシ属・トチノキなどの堅果類や獣骨などの自然遺物も出土した。

 加工木では、杭、板などが出土し、木製品では加工途中の容器、漆塗りの容器、櫂状製品、櫂状未成品などのほか、丸木舟3艘(うち1艘は加工途中)なども出土した。漆塗りの製品では、容器類のほか飾り弓1点、櫛3点も出土している。また編組製品が2点出土した。

 土器では、縄文時代前期から晩期・弥生時代後期から古墳時代前期・古墳時代後期・平安時代の土器が出土している。特に、縄文時代中期・後期・晩期の土器の中には漆塗りのものも出土している。石器では石皿、打製石斧・磨製石斧、石鏃などが出土している。中でも石鏃では矢柄の付着しているものが2点出土している。また、かき傷のある漆の原木も出土した。

キーワード

pp.95--102

書評

「陵墓限定公開」30周年記念シンポジウム実行委員会編『「陵墓」を考える−陵墓公開運動の30年−』

髙田健一

本書の構成と内容

 本書は、「陵墓」公開運動に取り組んできた考古学・歴史学の諸学会2)が、その運動が30周年を迎えることを記念し、開催した二つのシンポジウムの記録集である。すなわち、『陵墓公開運動の三〇年?佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに?』(2009年5月17日、キャンパスプラザ京都)と『陵墓公開運動三〇年の総括と展望』(2009年11月23日、駒澤大学)の二つのシンポジウムである。

pp.103--109