HOME > 機関誌 > 第37号

機関誌『日本考古学』第37号

2014.5.9発行  105p ISSN 1340-8488  ISBN 978-4-642-09337-8
論文 大塚宜明 summary 北海道における旧石器文化のはじまり ―「前半期」石器群の古さ― pp.1--18
論文 河村好光 summary 日本考古学史における自民族認識 pp.19--36
論文 岩橋由季 summary 東北地方における「肥後系」横穴墓の展開とその背景 pp.37--56
論文 眞保昌弘 summary 出土瓦にみる中央集権国家形成期陸奥国支配体制の画期とその側面 pp.57--77
遺跡報告 水澤幸一 summary 城の山古墳の発掘調査 ―日本海沿岸最北の前期古墳の調査― pp.79--93
書評 丹羽佑一 summary 水ノ江和同著『九州縄文文化の研究 −九州からみた縄文文化の枠組み−』を読んで pp.95--99
論文

北海道における旧石器文化のはじまり ―「前半期」石器群の古さ―

大塚宜明

−論文要旨−

 本論では、北海道最古の石器群である旧石器時代「前半期」石器群(細石刃石器群前)の特徴と年代について議論する。北海道の旧石器時代「前半期」石器群は、後期旧石器時代前半期(AT下位石器群)にあたると現在考える研究者が多く、世界的な現生人類の移住拡散という考古学・人類学上の重要な対象となっている。しかし、その編年的位置づけについては諸説あり、見解の一致をみていない。本論では、北海道の旧石器時代「前半期」石器群(「台形様石器」を有する「不定形剥片石器群」を含む)の編年とその位置づけを再考する。それを踏まえた上で、北海道の人類の移住について予察した。

 第一に、本州のAT下位石器群(30,000〜25,000yBP)に特徴的な「台形様石器群」と対比される、「不定形剥片石器群」の石器組成・石器製作技術の検討、および北海道に近接する東北地方のAT下位石器群の比較検討を行った。結果として、「台形様石器」製作技術、石器組成(石斧や錐の有無)から、「不定形剥片石器群」と東北地方のAT下位石器群が共通点をもたないことがあきらかになった。このことは、「不定形剥片石器群」の14C年代測定結果が24,000〜22,000yBPであることから、年代的にも整合する。

 第二に、「不定形剥片石器群」とともに、「前半期」石器群内での時期差と理解されてきた、石器組成が異なる3つの石器群(「削器石器群」、「掻器石器群」、「川西石器群」)を対象に加え検討した。結果、石器組成の偏りや付属施設(礫群や炉跡)の有無を特徴とする「前半期」石器群は、いずれも24,000〜22,000yBPに同時並存した石器群であることが分かった。

 第三に、後続する蘭越石器群と石器組成を比較した。画一的な石器の装備(細石刃・彫器・掻器)を有する蘭越石器群とは対照的に、「前半期」石器群では、蘭越石器群から細石刃を除いた器種が、各石器群で分離してみとめられることを確認した。「前半期」石器群の特徴として、石器組成の偏りや付属施設(礫群や炉跡)の有無を有する石器群が、場所を違え補い合うことで、遊動生活を成り立たせていたと考えた。

 最後に、「前半期」石器群の年代に対応する時期には、本州ではナイフ形石器群が展開し、北海道とは様相を異にすることを確認。北海道最古の石器群である「前半期」石器群の担い手として、本州を経ず大陸から北海道に移住した人類の可能性を指摘した。

キーワード

  • 対象時代 旧石器時代
  • 対象地域 北海道、東北地方
  • 研究対象 「前半期」石器群、AT 下位石器群、石器組成、石器製作技術、14C年代

pp.1--18


論文

日本考古学史における自民族認識

河村好光

−論文要旨−

 明治中期から太平洋戦争期に至る近代日本考古学は、国史の枠外にあった。ただし、日本列島民の履歴、来歴にまで口を閉ざしていたのではない。本論は、八木奘三郎、高橋健自、鳥居龍蔵、濱田耕作、後藤守一の言説を取り上げ、近代考古学の自民族認識、すなわち自らが属する民族集団の由来と形成をめぐる認識の変化を跡づけ、戦後考古学に何がどう受け継がれたかを明らかにする。

 近代日本考古学は、原史時代を自民族生成の時代、それ以前を先住石器時代人が住む先史時代と認識した。民族併存説は、これを地理的勾配に投影し、大陸に由来する日本民族とアイヌに連なる先住石器時代人の長期併存を描いた。朝鮮半島を経て皇室とともに渡来した天孫族が先住石器時代人を同化融合或いは駆逐し、日本民族を形成したことを説明する学説でもあった。

 1920年代後半以降、日本人の大陸由来をうすめ、石器時代人を日本人の祖先と認める単系民族説に支持が拡がる。この説は、太平洋戦争期に自民族至上主義をつよめ、近接民族との関連を無視した「一系日本人論」にすすむ。日本人は長く日本列島に住み、そのはじめから日本人であった。この自民族論は、意図を変え戦後に受け継がれた。

 戦後日本考古学は、旧石器時代に始まる考古学上の時代を通じて、間断なく一系的に発展していくものがあり、これを日本人の歴史として叙述することを課題とした。だが、旧石器時代人が土器を使いはじめて縄文人になるという説明はなされていない。のちの民族形成につながる要素が1万年間におよぶ縄文時代のいつ、どこに現れるかという問いに留めるべきだろう。

 明治以来の考古学者が認識してきた自民族は、日本列島民を北、中、南に分けた場合の「中の民」であった。原史時代すなわち古墳時代の民をいい、その文化、領域は、弥生時代以後歴史的に形成される。日本列島における民族形成をこうした観点から再考するとき、朝鮮半島民との近縁性、北東アジア世界との関係の理解が再び問われる。

キーワード

  • 対象時代 旧石器時代〜古墳時代
  • 対象地域 日本
  • 研究対象 日本考古学史、ヒスイ勾玉

pp.19--36


論文

東北地方における「肥後系」横穴墓の展開とその背景

岩橋由季

−論文要旨−

 東北地方東南部の宮城・福島両県で、九州肥後地方との類似が認められる横穴墓が確認されることについてはかねてより議論されてきた。しかし、研究者間の比較基準の不一致による現象の解釈の齟齬や、肥後−東北の資料の類似の程度を加味した分類がされていないことによる段階的な伝播の実態の未解明などの問題があった。本稿では、これらの諸問題を解決しつつ、東北地方東南部に分布する九州肥後地方との類似が認められる「肥後系横穴墓」を分析することで、両地域における横穴墓の構造の類似を生じさせた集団間の情報の伝達について明らかにすることを目的とした。

 まず、多変量解析による横穴墓構造全体の傾向の把握と個々の属性の検討を通して、屍床形態を基準にした肥後系横穴墓の抽出を行った。さらに、それらを肥後型のコの字形屍床との類似度によって6つに分類した。これらはいずれも肥後型そのものと判断できる構造ではなく、東北地方の肥後系横穴墓は肥後から移住した集団によって築造されたものではないと推定された。

 さらに、肥後系横穴墓の時期と分布を検討した結果、7世紀前葉から中葉頃に、浜通り南半地域と鳴瀬川流域とに東北外からの情報の流入があったということ、後者の鳴瀬川流域で造られた肥後系の方がより肥後型に近いこと、これを起点にして隣接地域への肥後系の拡散が起こったことを明らかにした。外部からの情報の流入については、氏族の分布との比較検討から、肥後にも分布する多氏や、関東地方でコの字形屍床を有する横穴墓が分布する地域とも関連する壬生氏などのウジに編成された集団が中央出仕を介して情報を共有したことによると考えた。また、隣接地域への肥後系横穴墓の拡散は、建郡の際に先に郡が成立していたより南の地域との間での集団の移動あるいは移住による情報の共有が背景にあったと推定される。このように、東北地方東南部の肥後系横穴墓は、全国的に広がるウジのネットワークと東北内部の地域のネットワークを通じて展開していったと考えられる。

キーワード

  • 対象地域 東北地方東南部
  • 対象時代 古墳時代後期・古代
  • 研究対象 「肥後系」横穴墓、情報伝達

pp.37--56


論文

出土瓦にみる中央集権国家形成期陸奥国支配体制の画期とその側面

眞保昌弘

−論文要旨−

 陸奥国における中央集権国家の形成期となる8世紀初め支配拠点となる郡衙、寺院の整備に瓦葺が採用される。全国的にも官衙への瓦葺が稀な中、郡衙と共に計画的に造営される寺院に同笵など共通瓦群が用いられる。これは陸奥国府における瓦葺採用に先行して国内一円となる郡段階の施設が、陸奥国支配の中で重要視されたものと考えられる。その瓦群が坂東北部系瓦群であることは、国家による陸奥国経営に関与する坂東諸国の影響がうかがえる。養老4(720)年の蝦夷の乱を契機とする陸奥国支配の転換は「神亀元年体制」と呼ばれ、軍事基盤の強化が図られた。新たに陸奥国府として造営される多賀城では、重弁8葉蓮花文鐙瓦と手描き重弧文宇瓦を創出し、国内でも拠点地域の軍事的施設である城柵をはじめ郡衙、寺院にも採用されることになる。多賀城創建期瓦群は陸奥国北部に創建期瓦窯から直接供給される。南部では、創建期瓦窯での生産に関与した工人によって得た技術を継承した多賀城系瓦群がもたらされる。多賀城系瓦群を採用する福島県関せき和わ久く上かみ町ちょう遺跡などでは、坂東北部系など前代の瓦群と共に認められる。さらに隣接する借かり宿やど廃寺でも共通する瓦群が採用され、陸奥国支配施設の象徴的な存在として継承されることになる。これらのことは、多賀城創建期瓦群と異なる方式でもたらされるものの、同じ施策により展開した可能性が考えられる。また、多賀城系瓦群は、それ以前からの相互関係を下敷きとして常陸国那賀郡正倉にも認められることになる。そして複数の正倉に瓦葺が採用され、総瓦葺や丹塗建物となるほか、郡内諸施設での共通瓦群の存在は、より充実した状況を読み取ることができる。その後、陸奥国隣接地域である下野国などでも郡衙正倉に瓦葺がみられるなど陸奥国支配体制の転換に伴う支配施設への瓦葺は陸奥国のみならず、新たに設置される「坂東」を含めて展開する可能性を指摘する。

キーワード

  • 対象地域 陸奥・坂東
  • 対象時代 古代
  • 研究対象 寺院・官衙・瓦

pp.57--77


遺跡報告

城の山古墳の発掘調査 ―日本海沿岸最北の前期古墳の調査―

水澤幸一

−要旨−

 城の山古墳は、新潟県胎内市が中条町時代の1997年から、断続的に確認調査を実施してきた。1997年の1次調査では、墳丘の測量と周辺の2箇所について試掘を実施したが、古墳であることの確証は得られなかった。2005年の2次調査では、墳丘の東西及び墳頂部の調査を実施した結果、赤彩された木棺の痕跡と棺上から大量の土器の出土をみ、古墳であることが確定した。翌2006年の3次調査では、周濠を確認するため西側の田地の確認調査を実施したが、周濠を確認することはできなかった。2010年の4次調査では、埋葬構造を確認すべく墳頂部の調査を開始したが、遺跡の重要性に鑑み、発掘調査指導委員会を立ち上げ、埋葬部分の調査を中断し、旧墳頂面の測量調査と既断面等の再精査を実施した。なおこの際、棺幅が1.5mと非常に広かったため、棺南西部に幅20cmのサブトレンチを設けたところ鉄錆と漆膜片が認められたため、砂を入れて埋め戻した。次いで2010年秋の5次調査では、墳丘構造が未確定であるという委員会の指導で墳丘裾を中心にトレンチ調査を行い、墳丘裾を確認し、ほぼ墳形が確定した。そして2011年の準備期間を経て、2012年の6次調査では、2010年出土棺内遺物のレスキュー調査として埋葬部の調査に着手した。その結果、大方の予想を裏切り、副葬品が2010年の範囲に収まらず、棺内に広く分散していることが想定されたため、途中から全掘に切り替えて、ほぼ棺内全体の調査を実施した。9月の現地説明会までの間に4回の発掘指導委員会の開催、各委員5〜9回の現地指導を仰ぎ、その他各地の古墳時代研究者からご指導をいただきつつ、10月に調査を終えることができた。

 現在は、各種分析を依頼しつつ報告書刊行に向けての整理作業を実施しているところであるが、主な成果についてまとめると、本古墳は前期前半の築造で日本海沿岸最北の前期古墳であり、8.2m長にも及ぶ未盗掘の舟形木棺が納められていた。棺内から翡翠勾玉・舶載盤龍鏡等の装身具、刀剣・弓矢・靫ゆき等の武器類、板状鉄斧等の工具類がセットで出土し、畿内の影響が非常に強く認められることが判明した。

キーワード

  • 対象時代 古墳時代前期
  • 対象地域 北陸北東端
  • 研究対象 前期古墳

pp.79--93


書評

水ノ江和同著『九州縄文文化の研究 −九州からみた縄文文化の枠組み−』を読んで

丹羽佑一

 著者は最終章を次の文言で締め括る。「われわれは日本列島各地の状況を踏まえ総括した新しい縄文文化像を語る必要がある。そろそろ限定的な地域研究から脱却して、地域研究を十分に踏まえた新たな段階の縄文文化研究へ進む時期にさしかかっていることを、我々は肝に銘じておくべきではないであろうか」本書はここから始まったのである。

 厳密に言えば、本書は九州縄文文化の研究の研究である。九州の縄文文化研究がどのようにして始まり、今日に到ったのか、その道のりをたどり、さらなる進展のためには何が、そもそもなんのために必要かを示すものである。そしてそれは、九州以外の各地方の研究にも当てはまる普遍性をもつことから、本書は九州縄文文化を研究する者だけではなく、縄文文化研究者全般の必読の書と考える。

pp.95--99