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機関誌『日本考古学』第38号

2014年10月10日発行  115p ISSN 1340-8488  ISBN 978-4-642-09338-5
論文 原田 幹 summary 「破土器」の使用痕分析 −良渚文化における石製農具の機能(4) pp.1--17
論文 山本孝文 summary 初源期獅嚙文帯金具にみる製作技術と文様の系統 −長野県須坂市八丁鎧塚2号墳の帯金具から pp.19--32
論文 山崎真治・黒住耐二・大城秀子 summary 沖縄県南城市熱田原貝塚出土貝刃の製作技術 pp.33--46
論文 大庭重信 summary 河内平野南部の弥生時代集落景観と土地利用 pp.47--65
遺跡報告 吉田 稔 summary 長竹遺跡の環状盛土遺構について pp.67--78
遺跡報告 杉山秀宏・桜岡正信・友廣哲也・徳江秀夫 summary 群馬県渋川市金井東裏遺跡の発掘調査概要 pp.79--90
遺跡報告 岡田 諭 summary 福岡県・福原長者原遺跡の調査について pp.91--103
書評 岡村勝行 summary 国立歴史民俗博物館編『被災地の博物館に聞く 東日本大震災と歴史・文化資料』を読んで pp.105--109
論文

「破土器」の使用痕分析 ―良渚文化における石製農具の機能(4)―

原田 幹

−論文要旨−

 本研究は、実験使用痕研究に基づいた分析により、良渚文化の石器の機能を推定し、農耕技術の実態を明らかにしようとする一連の研究のひとつである。

 長江下流域の新石器時代後期良渚文化の「破土器」「石犂」と呼ばれる石器は、主に耕起具としての機能・用途が想定されてきたが、これを疑問視する意見もある。本稿では浙江省・江蘇省・上海市で出土した「破土器」の機能を明らかにするために、金属顕微鏡を用いた使用痕分析を実施した。微小光沢面、線状痕などの使用痕を観察・記録することで、石器の使用部位、着柄・装着方法、操作方法、作業対象物を推定した。

 分析の結果、破土器の使用痕には、@草本植物に関係する微小光沢面が認められる、A光沢面の粗さが表裏で異なる、B使用痕の分布は表裏の広い範囲に及ぶ、C柄部に光沢の空白域が認められる、D刃面では光沢の発達が弱い、E光沢の発達方向及び線状痕の方向は長側縁と平行する、F側縁に顕著な摩滅と線状痕が認められる、といった特徴が得られた。使用痕からは、長側縁に平行する柄に装着され、この柄を長側縁に対し平行に操作し、下辺の刃部で草本植物を切断する機能が推定された。使用痕の一部に、土との接触が想定されるものの、直接土を対象として用いられた耕起具ではなく、草本植物の切断に用いた除草具のような性格の石器ではないかと考えられる。

 また破土器の使用方法について検討するために、操作方法、土壌といった条件を設定し、復元石器による実験を行った。出土石器の使用痕と比較した結果、密集した草本植物を根元で土の中に押し込むようにして切断するものと考えた。

 本分析結果は、破土器を耕起具とするこれまでの見解に見直しをうながすものであり、良渚文化の農耕技術についてあらためて検討する必要がある。

キーワード

  • 対象時代 新石器時代
  • 対象地域 中国、長江下流域、浙江省、江蘇省、上海市
  • 研究対象 良渚文化、破土器、石器使用痕分

pp.1--17


論文

初源期獅嚙文帯金具にみる製作技術と文様の系統 ―長野県須坂市八丁鎧塚2号墳の帯金具から―

山本孝文

−論文要旨−

 日本列島の古墳時代および韓半島の三国時代の古墳から出土する獅嚙文帯金具の分析を通じて両地域の交渉の一端を解明するために、本稿では長野県須坂市の八丁鎧塚古墳群(2号墳)出土の遺物を主に取り上げ、その文様と製作技術の側面から評価と位置付けを試みた。また韓半島の初期資料との比較を通じ、獅嚙文のモチーフに関する様々な可能性を提示した。

 獅嚙文帯金具は、腰帯や馬具、胡籙の帯金具として用いられたと考えられるが、出土例が少ないことから単独で研究の対象になることがなかった。鎧塚2号墳出土品についても韓半島の資料との類似と渡来人との関係が漠然と論じられるのみで、その評価が定まっていたとはいえない。しかし、韓国における発掘調査により同資料の類例が増えつつあり、日韓両地域の資料を同視点から検討することで、その実態に迫ることができる。

 日韓の獅嚙文帯金具は、文様の特徴から写実性を帯びたA類と形骸化したB類に大きく分けることができ、両型式の原形は百済の遺跡において見られる。鎧塚2号墳の資料はA類の変形とみることができ、日本列島出土品の中では最初期にあたるものである。また、製作技法に関しては早くから鋳造、打ち出し、彫金の可能性が提示されてきたが、細部にわたる観察の結果によると鋳造品である可能性が高い。獅嚙文帯金具の製作技法は鋳造から打ち出しへの変化が想定され、技術面においても鎧塚2号墳の資料は初期の特徴を備えている。

 文様のモチーフに関しては、従来古墳壁画などに描かれた辟邪との関連が指摘されていたが、加えて本稿では獣面(肉食動物)ないし龍面である可能性を提示した。同時期の遺物には、龍文の冠帽、帯金具、飾履、環頭大刀などがあり、龍文装身具のセットが意識されていた可能性を検討する必要がある。

キーワード

  • 対象地域 長野県・韓半島
  • 対象時代 古墳時代・三国時代
  • 研究対象 獅嚙文帯金具

pp.19--32


論文

沖縄県南城市熱田原貝塚出土貝刃の製作技術

山崎真治・黒住耐二・大城秀子

−論文要旨−

 沖縄の先史遺跡からは、土器や石器だけでなく、貝を利用した道具(貝器)も多数出土している。こうした貝器には実用品と非実用品があるが、そのライフサイクル、特に製作プロセスにおける人為の関与の程度は一般に小さく、考古学的認識が難しい場合も多い。また、これまでの沖縄における貝器研究は、完成品や未成品、破損品の形態分類が中心となっており、製作残滓や加工痕・使用痕等の観察に基づいて、貝器の製作・使用の実際に立ち入った研究事例は少ない。

 本稿で取り扱った貝刃は、沖縄県内の縄文時代から弥生・平安並行時代に属する32遺跡から278点以上が出土しており、これらは石器に替る切削具として製作・使用されていたものと考えられる。しかし、その認定をめぐっては、人為・非人為の認定が難しい場合もあり、認定基準の整備が課題となっていた。そこで、本稿では、沖縄県南城市熱田原貝塚(3次調査)出土の貝刃(オキシジミ・ハマグリ・シレナシジミ製)について、詳しい検討を実施した。

 その結果、熱田原貝塚出土の貝刃18点中7点に、打ち欠き加工に先立って、腹縁内縁部に研磨による平坦面が作出されていることが観察できた。予備的な貝刃の製作実験によれば、腹縁に研磨面を作出した場合では、研磨面を作出しない場合に比べて深い剥離痕の出現頻度が高く、打面(腹縁内縁部)と剥離面のなす角度も鋭角となる場合が多かった。このことから、腹縁の研磨は、打ち欠きのための適切な打角と刃角を確保し、より鋭利な刃部を得るための工夫であった可能性が考えられる。

 こうした研磨面の存在は、これらの貝刃が明確な意図をもって加工・作されていたことを示す証拠であると同時に、従来便宜的な道具と考えられがちであった貝刃の製作に際して、打ち欠き加工に先行して、入念な下準備が行われていたことを示している。このことは、先史時代の沖縄において工程化された製作プロセスを有する貝刃技術が存在したことを物語っている。

 また、熱田原貝塚出土貝刃では、保存状態が良好であったため細部の観察が容易であったが、実際には、経年劣化や発掘時のダメージによって、こうした痕跡が失われてしまう場合も多いと考えられるため、注意深い発掘と研究が必要であることも合わせて指摘しておきたい。

キーワード

  • 対象時代 縄文時代、先史時代
  • 対象地域 琉球列島、沖縄
  • 研究対象 貝器、貝刃、製作技術

pp.33--46


論文

河内平野南部の弥生時代集落景観と土地利用

大庭重信

−論文要旨−

 瓜破台地の縁辺から北側の沖積平野にまたがる河内平野南部は、八尾南・長原・亀井・加美・跡部遺跡などを含む、近畿地方有数の弥生時代遺跡の密集地域である。本稿では長原遺跡の標準層序を基に、層序学・堆積学的手法によって南北5q、東西3.5qの範囲の弥生時代の古地形を復元し、集落の活動領域を居住域・墓域・生産域に区分し、弥生時代前期から後期までの4時期の集落景観の変遷過程を明らかにした。また、対象地域の各時期の集落に伴う水田域の面積と水田利用率を試算し、集落形態と土地利用の関係を検討した。

 その結果、T期からW期までは、安定した環境下で広大な可耕地を積極的に開発し、水田域が順調に拡大する時期ととらえられた。T・U期には分散的な居住形態をとり、小規模な労働力で可能な水田適地を分散的に利用していたが、V・W期には集住形態に移行し、集落構成員の労働力を投入した集約的な耕地開発が進められた。W期後半には生産域の拡大により各集落の活動領域が接し合い、各集落の統合意識も高まりをみせた。

 一方、X期前半になると、北部域で河川氾濫が頻発し、環境条件の悪化により耕地開発が停滞した。南部域やそれ以外の地域に耕地を求めた集団移動や人口流出が進み、社会的緊張関係も高まったことが予想される。またX期後半には可耕地がさらに減少するにもかかわらず、耕地開発が再度活発化した。この時期に進行する集落の小規模分散化は、W期までの固定化した集落を核とした労働力集約型の水田開発とは異なり、より効率的な土地利用を志向した結果であると判断される。

 弥生時代を通じてみられる分散や集住といった集落形態の変化は、これまで想定されてきた階層分化や流通経済の変化だけではなく、農業生産と土地利用の方法とも密接に関わっていたことが指摘できる。

キーワード

  • 対象時代 弥生時代
  • 対象地域 近畿地方
  • 研究対象 ジオアーケオロジー、集落、水田

pp.47--65


遺跡報告

長竹遺跡の環状盛土遺構について

吉田 稔

−要旨−

 長竹遺跡は、埼玉県北東部に広がる加須低地の北側にあり、現利根川右岸の自然堤防状に立地する。遺跡は縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡である。加須低地は関東造盆地運動の沈降により形成された低地帯で、現在は河川の作用によって平坦な地形となっているものの、本来は埼玉県南部から群馬県館林まで繋がる台地の一部であったと考えられている。河川の氾濫・浸食をうけなかった場所では、地表下にローム台地が埋没している。

 発掘調査は、国土交通省による利根川堤防強化事業に伴い、2010年度から実施され、現在も継続している。発掘調査の結果、縄文時代後期から晩期に形成された環状盛土遺構が発見された。

 発掘調査の結果、地表下1.5mで埋没ローム台地上に形成された推定外径150m以上の環状盛土遺構が発見された。遺構は、後世の攪乱をほとんど受けず、きわめて良好な状態で保存されていた。調査区内の盛土は小さな窪地を隔てて南と北に分かれるが、このうち南盛土の厚さは最大で約1.8mに及び、後期前葉から晩期中葉にわたる遺構・遺物が重層的に検出された。

 南盛土中から検出された一辺約12mで方形の「大形建物址」1)は全面が焼土で貼床されていた。この「大形建物址」からは祭祀に関わる遺物が多く出土し、後期後葉から晩期前葉まで限定された場所に建て替えが繰り返されたことが判明した。一方、北盛土では長軸を90度異にする長方形の土壙墓が60基検出され、その多くに注口・壺形・鉢形などの小型土器が副葬されていた。

 このように、環状盛土遺構の南側は居住域として、調査を終えた北側の一部は墓域としての性格が明らかとなってきた。また、発見された住居跡は盛土中に重層しており、各時期の住居跡の占地に規制があったことも推察できる。盛土の構築は晩期中葉に終焉を迎えるが、その最終段階に一部の地区をローム質土で封土した痕跡も確認できた。

キーワード

  • 対象時代 縄文時代後期〜晩期
  • 対象地域 埼玉県加須市
  • 研究対象 環状盛土遺構 大形建物址 土壙墓

pp.67--78


遺跡報告

群馬県渋川市金井東裏遺跡の発掘調査概要

杉山秀宏・桜岡正信・友廣哲也・徳江秀夫

−要旨−

 2012年11月に、甲を着装した状態の古墳人骨の発見で一躍全国的な注目を集めた金井東裏遺跡の調査が進捗し、甲着装人骨ばかりでなく、6世紀初頭1)の榛名山の火山災害により被災した乳児骨、幼児骨、首飾りを着装した成人女性の人骨が出土した。また、周辺からは、質の高い遺物が集積された祭祀遺構、畠と竪穴建物、掘立柱建物、平地建物で構成された屋敷地、古墳、道跡など、古墳人を取り巻く環境が明らかになってきた。さらに、出土遺物には朝鮮半島との関連を示すものが散見されると共に出土人骨や甲等の詳細調査によって新たな発見があった。

キーワード

  • 対象時代 古墳時代
  • 対象地域 群馬県渋川市
  • 研究対象 火山災害 小札甲 古墳人

pp.79--90


遺跡報告

福岡県・福原長者原遺跡の調査について

岡田 諭

−要旨−

 福岡県行橋市に所在する福原長者原遺跡は、既往の調査から奈良時代の大規模官衙の存在が想定された遺跡である。今回の発掘調査では官衙政庁を構成する遺構群の在り方が確認された。

 遺構群は囲繞施設の位置関係や埋没状況から3時期に区分される。すなわち、T期が1号大溝、2号掘立柱建物跡(推定)、U期が回廊状遺構、2号大溝、1・3号掘立柱建物跡、南門跡、東門跡、V期が柵(あるいは掘立柱塀)、南門跡、東門跡である。4号掘立柱建物跡、竪穴建物跡、鋳造関連遺構や井戸は時期不明である。

 出土遺物は、須恵器、土師器、円面硯、転用硯、平瓦、鉄滓などであり、出土総量は少ないが、8世紀前半のものが大勢を占める。墨書土器・木簡など文字資料は出土していない。

 また囲繞施設の位置関係を検討した結果、各時期の政庁東西幅がほぼ判明した。T期は約128m、U期は回廊状遺構が117.758m、2号大溝で約150mである。V期は2号大溝が機能していれば、U期と同規模である。

 当遺跡の政庁の性格を考える上で、重要な視点はU・V期の門の形式と政庁の規模である。九州では国府級官衙の南門に八脚門が、郡衙には四脚門が採用されているが、U・V期の南門はともに八脚門である。また、国庁の規模は一般的に1町(約109m)四方、郡庁の規模は半町四方程度であるといわれているが、当遺跡の政庁規模は1町を優に超えている。従って、当遺跡で確認された政庁跡は8世紀代の豊前国府跡の有力な候補地と言える。

 しかし政庁の南北幅の確定、正殿の位置・規模・構造などの解明、周辺官衙の存在、官道との接続、文字資料の出土などの課題が存在する。また、当遺跡から約2q南にある平安時代の国府である県指定史跡豊前国府跡とは時期的に隔たりがあり、今後両者の関係を明らかにする必要がある。

 以上をまとめると、当遺跡の政庁跡は初期豊前国府の可能性があり、かつ、地方官衙の成立や発展を考える上で重要な遺跡であると言える。

キーワード

  • 対象時代 奈良時代
  • 対象地域 福岡県行橋市
  • 研究対象 古代官衙

pp.91--103


書評

国立歴史民俗博物館編『被災地の博物館に聞く 東日本大震災と歴史・文化資料』を読んで

岡村勝行

 本書は、2011年7月30日、国立歴史民俗博物館で開催された特別集会「被災地の博物館に聞く」をもとに作成された報告集である。東日本大震災から4ヶ月余りしか経ておらず、その内容は地震・津波の全般的な被害状況に加え、被災地の博物館に何が起こったのか、被災資料をどのように救出し、保存作業に取り組んだのか、現場での一挙一動、感情、苦悩を生々しく伝える。

 自らも被災しながら、生活の復旧・復興、文化財の救済に献身的に取り組まれた方々の活動、それを収めた本書を評する資格、能力は筆者にはない。さらにすでに発刊から2年、震災から3年以上が経過し、本格的な修復作業に重心を移しつつある現在において、本書にどのように向き合えばいいものか、正直、逡巡した。

 しかし、その後の国を中心とする文化財レスキューや資料ネット、各館の活動やその報告をみると、本書に収められた適切な初期の活動が今に続く救済作業の基盤となり、提言の主要な柱として結実していることがわかる。

 被災地ではいまだ傷跡癒えず、復興のまっただ中にある一方で、震災の風化は急速に進んでいる。本書の紹介を通じ、今一度、震災の記憶、現場の感覚を呼び起こし、現在、未来に継承すべきものは何か、確認を試みたい。

pp.105--109