『第3次埋蔵文化財白書』(2005年5月20日刊)に掲載された百瀬正恒氏の論文について、(財)京都市埋蔵文化財研究所内日本考古学協会会員有志から2005年11月17日付で内容に対する疑義と、当協会として記述の訂正・撤回を求める文書が理事会宛に提出されました。12月17日開催の理事会で協議し、次のように対応することとしました。
この意見表明に対しては適正に対応する。その際の要点は2点あり、〔1〕当協会刊行物の場合、『日本考古学』では査読制をとり、内容記述の修正を求めることがある。一方、『日本考古学年報』では、時代名称など論題では統一を求めるものの、記述内容については署名者の責任において執筆される。『白書』は査読制をとっていない依頼原稿である。〔2〕『白書』はすでに会員内外に販売されている。指摘された点については判断が分かれる問題であり、しかし重い指摘であるので、意見を次の会報(および協会公式サイト)に掲載し、さらにその次の会報(および協会公式サイト)に百瀬氏の意見を掲載して、両者の意見を読者に提供する。なお、協会公式サイトに掲載するのは、会員外も情報入手できるようにする措置である。
これにより、12月26日付で下記のように回答したところ、「意見表明」が提出されたので、ここに掲載します。
財団法人京都市埋蔵文化財研究所内
日本考古学協会 会員有志 様
拝復
11月17日付け「百瀬正恒氏『白書』掲載文書について」の取り扱いについて、12月17日開催の理事会において検討した結果をお知らせいたします。
当理事会は次のように判断し、措置をとることといたします。
日本考古学協会が刊行したこの出版物に掲載した論文・記事は、査読を経ない記名原稿であり、基本的には各執筆者の責任において論述されたものである。しかし、公正を図る意味から、疑義が提出された場合にはその内容を表明する場を用意し、また当該執筆者がそれに対する意見表明する場も作る必要がある。
そのため、2006年3月上旬発行予定の『会報』No.157に、理事会側から若干の経緯を付した上で、「会員有志」が意見表明する場を提供し、さらに8月上旬発行予定の『会報』No.158で百瀬氏の意見表明の場を用意する。
なお、会報に掲載された記事・データは、基本的には日本考古学協会公式サイト上に公開されることを申し添えます。
この提案を受けいれて頂けるようでしたら、2006年1月末までに原稿を当協会事務局宛に送付願います。また、11月17日文書をそのまま掲載するのであれば、その旨お知らせ願います。
2005年12月26日付 有限責任中間法人日本考古学協会理事会「百瀬正恒氏『白書』掲載文書について(回答)」の主旨に基づき意見表明を提出させていただきます。
財団法人京都市埋蔵文化財研究所の考古学協会会員有志一同は、『第3次埋蔵文化財白書』における「財団法人の社会的責任−京都市埋蔵文化財研究所をめぐって−」という百瀬正恒氏の文章について遺憾の意を表すものである。
まず、財団法人京都市埋蔵文化財研究所がおかれた立場とそれを取り巻く環境について若干の説明をしておきたい。当研究所は昭和51年度に設立され、発足当初は京都市文化観光局文化財保護課(現京都市文化市民局文化財保護課)、京都市埋蔵文化財センター設立後は同センターの行政指導のもと、京都市内の公共・民間の開発を問わず、埋蔵文化財調査に携わってきた。職員は2名の管理職を除けば、全てプロパーであり、その人件費は調査経費で賄うことになっている。
次に京都市内の調査機関と調査件数についてであるが、京都市内の調査の約90%を当研究所で実施してきたが、その他財団法人古代学協会や京都府京都文化博物館をはじめ、大学の調査機関や任意団体、民間会社なども調査を実施している。
最後に京都市内の埋蔵文化財の特性についてであるが、京都市街地は平安京を含め、近世まで都として機能した都市遺跡である。このため、調査面数が非常に多く、同時に出土する遺物量も単位面積あたりの出土量が全国平均の約10倍を数える。その反面、一調査の調査面積は非常に小さく数10m2〜500m2の調査が約半数を占め、100m2以下の調査も多い。
このような背景があることをご承知いただき、百瀬氏の文章に対して誤認の修正と批判に対する見解を加えたい。
まず、1つめは調査経費や報告書刊行数について数的誤りが若干ある。年間100億円を越すような調査をすることはありえないことで、これは単なる誤記と思われる。
2つめは、他財団法人と比較をされていることである。最初にも述べたように、当財団法人は原因者が官民を問わず調査を実施しており、その人件費も全て調査経費で賄うシステムである。同様な形態の財団法人と比較するのであれば意味もあると思われるが、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターは公共事業のみ調査されており、また財団法人向日市埋蔵文化財センターは職員が少数で人件費も一部行政が負担するものであり、当研究所とは違う側面をもっている。また、遺跡の内容も大きく異なるものであり、それらの財団法人と比較をするというのはおのずと無理があると考えられる。
3つめは、調査の多くが京都市街地にある都市遺跡という特性から、小規模な一調査単位では充分な調査報告ができないという側面をもっている。このため、当時(昭和57年)の全職員の会議による総意として、調査後の整理作業を経て、その内容を簡潔にまとめ年次毎に『京都市埋蔵文化財調査概要』に全調査を網羅することにした。刊行後、掲載の全調査資料を公にするということにした。その主旨は最初に刊行された『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要』の序文に、当時の所長であった故杉山信三氏が述べられているとおりである。同時に、重要な調査や地域的にまとまりがつけば、それらの調査を本報告として刊行するというものであり、『平安京右京三条三坊』や『平安宮T』などが複数の調査をまとめ本報告書として刊行した。ただ、発足時から昭和55年度までの調査に対しては全くの未刊もあることは事実で、我々としても真摯に受け止め早急に是正する必要があると認識している。
このような状況が続いたなか、平成13年7月5日付けの京都市からの通知に基づき、業務委託を受けた発掘調査に対しては報告書を「文化財保護法第57条に基づく届出によって提出された調査(発掘調査の許可通知)ごとに作成」することが義務づけされたため、各調査毎に調査概報を刊行することとなり、『京都市埋蔵文化財調査概要』は役目を終えたと認識している。これはあくまで行政指導による変更である。
このように全職員の総意で継続してきた事実を当時在職し、その会議にも出席していた百瀬氏が、その事実を公表せず、批判文を書かれることに対しては、はなはだ遺憾である。
現在、百瀬氏は貴協会の理事であると共に、当財団法人を退職後、民間会社の元で発掘調査や資料整理業務に携わっておられるようである。このような立場にある者が財団法人を名指しで批判するという行為に対しては違和感をおぼえるとともに、直接名指しを受けた我々は当財団法人に対する社会的誤解を招く恐れを強く感じるものである。
最後に貴協会に対しても、『白書』の持つ意味を充分に認識された上で責任を果たされるようお願いするものである。
財団法人京都市埋蔵文化財研究所は昭和51年11月1日に発足した。それは京都市が市内の埋蔵文化財を発掘調査するために設けた機関である。もともと、昭和45年度まではこのような調査は、京都府教育委員会がその調査の都度、指導者を大学その他の関係機関所属の専門家に依頼して行ってきたものであるが、京都市域分を京都市文化観光局に設置されたので市の文化財保護課に担当させることになった。したがって京都市も、府教育委員会が行ってきた調査方法をとって行った。しかし、それまで調査対象として含めなかった平安京とその周辺市域内のすべての遺構をとりあげて調査する方針がたてられたこともあって、5年を過ぎると、従来の方針でまかないきれないことがわかり、その処理にあたるため当研究所を発足させたのである。
ところで、埋蔵文化財の調査は、調査しただけで終るものではない。調査の成果を報告しなければならない。はじめは従来のように詳細に記したものを作成したが、調査件数は次第に数を増し、特別なもの以外は、依頼者の要望に応える程度の内容のものと限定する試みもした。この方法をとっても、結極、一件一件は覚えていても、その地域に於ける全体見通しを立てることも容易ならぬ状態になってきた。
そのことから、年間に地域のどのあたりでどのような成果が得られたかを知ることのできる年報を作成して、調査者自身が知識を整理すると共に、京都においてどのようなものを調査しているのかを必要とする人々に早く役立てるようにすべきだと考えついた。
ところで、京都市が現に行っている調査は、調査を必要とする箇所について、まず試掘を行って、遺構・遺物の存否を知る調査(試掘調査という)と、遺構等の性格を知るために、或る深さを掘り、遺構のひろがりを求める調査(発掘調査という)と、別に、道路等で公共の事業で行われるようなものに関してはその工事について立会っている調査(立会調査という)がある。これらの成果を一括報告すれば大部なものになるので、発掘調査、試掘・立会調査に分けて、その概要を報告することにした。ただ、この形式をとったことは先述のように、京都市域に於ける調査の全般の状況を知るためのものであって、この報告で全部終ったわけではない。個々の重要な遺構については詳細な報告を従来通り刊行することを考えている。
いずれにせよ、調査には関係者各位の絶大な御厚意をうけて行っているもので、その都度に感謝の辞をささげ挨拶を申し上げているのであるが、これを上梓するに当り、改めてその時にはいろいろと御世話になっていることを厚く御礼申し上げる。
昭和58年3月