2010年7月30日
私たち有志は、去る6月25日に『日本考古学協会蔵書を海外に放出することに反対する声明』を、協会員435人、非協会員研究者を含む一般市民1,186人の賛同署名とともに日本考古学協会会長宛に提出した。これに対する回答は、私たちからの督促に応じて7月9日に至り、簡略なものが署名提出窓口となった橋口定志のもとに郵送されてきた。その後、日本考古学協会ホームページに7月13日付で『日本考古学協会所蔵図書の一括寄贈について』と題する一文が、理事会名で掲載された。これは私たちの声明に直接向けられたものではないが、内容からみて理事会のこの見解(以下『見解』)を、私たちに対する正式な回答と理解する。
活動開始後、僅か半月足らずのあいだに、上述した人数の署名が集まった。その後も続々と寄せられ、7月29日の時点では協会員510人、一般市民1,424人に達している。この事実に私たち自身が驚き、またこれだけの方々に意思を委ねられた責任の大きさに緊張もする。しかし『見解』を読む限り、日本考古学協会理事会にはこの重みは通じなかったらしい。今回の『見解』にあるのは理事会議決の「正当性」の主張のみであり、そこに全会員の1割を超える反対意思の表明を真摯に受け止めようとする姿勢は、見受けられない。
本当に重要なことは、社会に学問的成果をどう返していくのか、日本考古学協会蔵書がその中でどういう役割を果たすのか、という自らへの問いかけであろう。残念なことに、今回の『見解』には、そのことについて自問した形跡が見当たらない。理事会が自らの議決の意味を省みることもなく、多くの会員の声も黙殺して、ただ自らの決定に固執するだけであった。
繰り返すが、署名者数は最初に協会に提出した時点ですでに総会員数の1割を超えており、誰もが想到する臨時総会開催の要件を満たしている。しかし、私たちはここまであえてそれを求めることをしなかった。なぜなら、それによる協会内部の亀裂と学会としての求心力の低下を恐れるからである。また、マスコミなど協会外部に働きかけることも、思いとどまった。それは、社会問題化する以前に理事会自らが謙虚にその原点に立ち返って欲しかったからである。また、理事会の自浄能力に期待したからでもある。だがこの『見解』に接してみて、私たちの自重、理事会に対する配慮や期待は、意味がなかったといわざるを得ない。
『見解』は矛盾と自己撞着に満ちている。『見解』がいかに強弁しても、社会常識に照らして、蔵書の処置に関する手続きには不備がある。蔵書はあくまでも協会の資産である。それも、多くの協会員の善意が積み上げられた結果の資産である。総会時の説明にあった「たからもの」というような詭弁を弄して、事態を切り抜けようとする姿勢そのものが、まず、問題である。
『見解』には、厳しい社会状況に晒されている日本の考古学と文化財、そして文化財保護行政の中で、日本考古学協会がどういう役割を果たすのか、調査・研究の成果をどう社会に還元するのか、という基本的な問題意識が欠如している。あるのは、理事会決定を強引に押し進める姿勢だけである。私たち研究者は、社会における自らの調査・研究の意義をつねに問いかけ、地域に生きる人々の中に遺跡を地域の誇りうる財産として根付かせる努力を怠ってはなるまい。失われた遺跡の貴重な記録である調査報告書など蔵書いっさいを海外に放出する行為は、社会への還元という学問の責務についての自覚を決定的に欠いている、といわざるを得ない。
2009年春の総会で承認された『日本考古学協会所蔵図書寄贈先募集要項』(以下『募集要項』)では「第4条 受贈者は、すべての人の希望に応じて受贈図書を閲覧などの便宜を図らなければならない。…(以下略)…」「第8条 受贈者として応募する者の資格は、国公立の機関並びにこれに準ずる機関及び団体とする。」とある。この文言のどこに一般会員が「海外」を想起できる部分があるだろうか。そして、この要項に接した一般会員の一体誰が、海外に出て行った協会蔵書を自分たちが利用する状況を想定しうるだろうか。
『見解』は、定款第2条の「自主・民主・平等・互恵・公開」の原則に照らせば「海外」は排除要件にならない、という。ここでも社会常識とは逸脱した見解が示されている。
「国公立」対象とした時点で、これはあくまでも日本国内の機関を対象にしたものと理解するのが、常識である。海外の機関をも対象可とするという読み取りは、一般論でいってできないはずである。海外機関をも対象に含むというのであれば、募集要項は、少なくとも英字等国際語でWeb等を使い発信されていてしかるべきである。その痕跡はない。募集自体が「平等」に門戸を解放していないのである。
協会蔵書は、理事会の私物ではない。繰り返すが、過去多くの協会員が善意で積み上げてきた資産であり、それを発展的に活用することが理事会の責務である。そして重要なことだが、意志決定へのプロセスは、会員に公開されていなければならない。小委員会の議事録は、1頁だに会員の目に触れていない。あるのは、理事会での決定の記録だけである。「民主・平等・公開」の手続きは、誰も想定していない海外放出という行為を進めたいときに限っては不要になるらしい。
理事会では考古学協会蔵書を海外に出すことで「日本の考古学が国際化される」という認識を持っているらしいが(総会時の理事側の発言などから)、各地の公共系調査組織や地域博物館などが次々と統廃合の危機に瀕している社会情勢にあって、日本考古学協会が果たすべき役割についてこれほど無自覚な考えに接したことはない。
あらためて述べるのもはばかられるが、学会のなすべき「日本の考古学の国際化」というのは、研究成果の発信を海外に行う、研究者相互の交換を活発にする、という次元のものである。蔵書の海外放出とは論理的に整合しないことはいうまでもない。考古学の研究者である理事の方々がそれを知らないとは言わせない。
また、「自主・民主・平等・互恵・公開」の原則を持ち出すのであれば、「すべての人の希望に応じて受贈図書を閲覧などの便宜を図」ることこそがその目指すところであって、「国際化」のために放出先が海外であることは何の説明にもなっていない。
協会蔵書は、学会が保有する研究資産であり、普及・啓発の重要なアイテムである。誰もが自由に閲覧できることを保証することは、必ずしも協会員だけではなく、これから考古学を志す若い人たちにとって重要である。一方的に国際化を叫ぶ理事には、この視点が欠けている。また、セインズベリー日本芸術研究所に寄贈した場合、「すべての人の希望に応じて受贈図書を閲覧などの便宜を図」ることがどう保証されるのかについて、総会においても全く説明がないということ自体、理事会の無責任さを示していると考える。協会は法人格をもっている組織である。資産運営にあたっては、会員に対して真摯であってほしい。その理事会がいまさら、「自主・民主・平等・互恵・公開」を持ち出すとは、笑止である。
なおざりにされてきた事実がある。それは寄贈先とされているセインズベリー日本芸術研究所は、民間基金で運営されている組織だということである。寄贈先の条件を、『募集要綱』第8条には、「国公立の機関並びにこれに準ずる機関及び団体であること」としており、一民間研究所であるセインズベリー日本芸術研究所にはもとより資格がない。この点について、ぜひとも理事会の説明を伺いたい。もちろん「公共機関に準ずる」組織と見なすことができる、と言いたいのであろう。しかし、いかに恣意的に解釈しようとしても、民間企業は公共機関とは決定的に異なる。「準ずる」存在ともなりえない。なぜなら、民間企業は倒産するからである。
企業はその経営が危うくなると、基本的に非営利の活動から撤退する。30年ほど前、関西の商事会社が倒産したとき、世界有数の中国陶磁器コレクションが散逸の危機に瀕した。幸いこれは大阪市が引き取って事なきを得た。他方、関東でも数年前、国内屈指の石油企業を母体とする美術館が、本社の経営悪化にともない収蔵品を数十億円規模で売却した例がある。またこの企業の基金により設立された研究所も極めて厳しい経営状況に陥っていると聞く。母体企業が倒産し、傘下の非営利組織が解散するような状況になれば、外国の発掘調査報告書の行く末などどれほど顧慮されるだろうか。そうなったとき、海外放出を決めた理事会はどう責任を取るつもりか。
「デジタル化」「IT化」に関連しても若干触れておきたい。このこと自体は大いに進められるべきであろう。だがこれに関して『見解』では、かつて私たち「有志」のなかの一人がIT化を申し出た際、作業に必須の背表紙をはずす行為を、「趣旨に反する」として退けた、とある。彼はこのとき「裁断」「断裁」という言葉を使っているが、表現はどうあれ、そして場所はどこであれ、IT化を高速スキャニングで行なうには、背表紙を切り離すことなくしては不可能である。理事会の考えは、それが日本では許されず、イギリスでならかまわない、というのであろうか。ただし私たち有志は、反対声明の中で「裁断」「断裁」とは一言も発言していない(余談ながら、上記の者も現在はその認識を撤回している)。私たちが発言していない内容を、わざわざ書き記している理事会の意図が、私たちに対する悪意のある印象操作であることは明らかであろう。
今回の理事会議決に至る経緯について、『見解』は手続き上の不備はない、と言いたいらしい。しかし、これには重大な疑念がある。
いったいこれだけの量の図書の受け入れに関して(当初は8万冊とも言っていた)、日本のどこの公共機関であれ、大学・研究機関であれ、5月の協会総会時の『募集要項』制定から10月末日までの5ヶ月間(より正確には、『会報』167号に「募集期間 2009年8月1日(土)〜10月31日(土)」と明記されている3ヶ月間)で決定する、などということが可能だろうか。組織内で検討課題として取り上げられて議論の俎上にのせられ、決定に至るまでにはどこでも一定の期間は必要ではないか。それとも理事諸氏の所属する組織では可能ということなのであろうか。こんな短期間の条件で、「応募がない」とするのは、そもそも最初から公募する意思があったのかどうかさえ怪しいといわざるを得ない。
奇妙なことに、同年7月13日付『読売大阪』夕刊には、募集期間前であるにも関わらず「現状では受け入れを承諾する国内の機関はないため、海外の大学や研究機関を含めて受け入れ先を探す。」という日本考古学協会のコメントが掲載されているのである。
推測するに、セインズベリー日本芸術研究所が2007年2月、2009年1月と公募前に2回も受贈の意思表示をしていたからこそ(『見解』C)、わずか3ヶ月の公募期間で充分と踏んだのではないか。それゆえ、『会報』167号にあるように(6頁)、2009年5月の総会時に会場から発せられた「選定できない場合は廃止なのか」という質問に対して、理事の一人が、公募発表以前にも関わらず「それまでには決められる」という断定的な回答ができたのであろう。初めから仕組まれていたのではないか。
私たちは協会蔵書を国家的財産と考える(法的な意味で「財産」「資産」であるか否かといった次元のことではない)。それを譲渡するに当たって、この程度の手続きで済むと思っているのだろうか。公募したというが、協会ホームページや『会報』に掲載しただけに過ぎない。あるいはこれも、セインズベリー日本芸術研究所への寄贈が既定のことであったからではないか。
理事会の認識を質しておきたいことがある。行政機関が刊行図書を寄贈するときは、関係部署の決裁を必要とする。日本考古学協会を寄贈先に加えるにあたり、行政職員の多くは「将来的に日本考古学協会が考古学文献センターを作るために集めている」といった内容のことを決裁書類に記しているに違いない(さもなければ許可されないだろう)。海外放出という結果になれば、日本考古学協会は彼ら行政職員に嘘をつかせたことになる。あなたがたは彼らにどう説明させるつもりなのか。彼らの立場を擁護する覚悟はあるのか。
そして、そのような形で目的的に集められた「図書」は、財産以外の何者でもないだろう。理事会の「協会蔵書は流動資産にはあたらない」という認識はあくまでも「会計上」のことであり、「たからもの」ではあるが「定款にいう財産」ではないという奇妙な論理の根拠にはならないのである。
私たちは、あらためて協会蔵書の海外放出に反対することを宣言する。それは信じがたい愚行であり、日本考古学協会の存在意義を揺るがす行為である。放出を決めた理事会の議決は無効であり、したがってセインズベリー日本芸術研究所との「覚書」も成立しない。
これだけの人数の協会員と市民の声をなお無視して海外放出を進めようとするのは、理事会の暴走以外の何ものでもない。放出に賛成した理事の名は、日本考古学と文化・文化財保護行政に取り返しのつかない不利益をもたらした者として、末代まで広く記憶されるであろう。今こそ理事会は立ち止まり、みずからの行為がいかに重大な結果をもたらすか、見つめ直すべきである。
最後にいくつか要求しておきたい。