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2001年度盛岡大会での報告

「旧石器問題」の検証はどこまで進んだか

2001年10月7日
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長 戸沢充則

 特別委員会、委員長の戸沢です。まずはじめに、非常によく計画され、準備された本大会のスケジュールの中に、この特別報告会を割り込ませていただき、大会実行委員会に、大変ご迷惑をおかけしたことと思います。関係者の皆様に心からお礼を申しあげます。ありがとうございました。

検証に向けた全学界的取り組み

 早速、報告に入ります。特別委員会の一般経過報告に関しましては、お手元の冊子の15頁以下(ホームページに掲載済み)を参照していただくことにして、ここでは説明を省略させていただきます。

 ただ、この間の特別委員会の活動をふくめて、昨年末以来のこの問題への取り組みの推移をみますと、全国の研究団体、研究者同士、さらに自治体や関係機関等々、相互の間で、協力、協調の関係が促進され、多くの場面でその成果が目に見えたことは、大変喜ばしいことであり、問題の正しい解決のためには、きわめて大事なことと考えます。

 複数の団体や関係機関が、共同で、あるいは協力してシンポジウムを開いたり、今まで行われた遺跡の再発掘などには、実施主体の自治体の要請に応じて、特別委員会の委員を含む、多くの日本考古学協会員が調査に参画し、協力いたしました。

 また会員諸氏においては、協会委員会の呼びかけに応じて、活動資金の募金に積極的に協力され、270万円以上に上る醵金をいただいております。

 以上、概略を申しあげましたが、特別委員会委員長としては、すべてを併わせて、深く敬意を表すところであります。と同時に、今回の事件で大きく信頼を失した日本考古学の信頼を、一日も早く回復するためには、こうした学会内の結束、関係機関との緊密な協力関係を、ますます強化しなければいけないと痛感いたします。

検証発掘の結果と課題

 次に、これまで行われた、検証のための再発掘調査についてふれておきたいと思います。

 本日は、一斗内松葉山、袖原3、総進不動坂の3遺跡について調査の担当者から直接報告をしていただきました。その内容は繰り返しませんが、今日、報告のなかった東京都多摩ニュータウンNo.471-B遺跡、そして埼玉県秩父の遺跡群の再発掘を伴う検証の経過とその結果は、私達に貴重な体験として記憶され、また改めて、考古学の発掘調査のあり方という点でも、今後に生かすべき反省の素材を提供したものと思います。

 これらの検証調査の結果全体をみれば、検証発掘を一つ進めれば、それだけ疑惑が強まるーわかりやすい表現を使えば、「グレー」の強さが増えることがあっても、「シロ」が新たに加わることは皆無であったという一予想を上回る厳しい現実を知らなければならなかったというのが、現状での認識です。

 また、特に所見を加えるならば、たとえどんなに厳密に再発掘や検証を行っても、「クロ」か、「シロ」か、を100%実証することは、ほとんど不可能ではないかということを、改めて経験することになったという点も、率直に実感します。そのために今後はあらゆる可能な手段を活用して、目標をしぼった検証作業を行い、複合的・総合的に判断できるよう、早急に各作業部会等の活動を進めたいと考えます。

作業部会の活動状況

 次に、作業部会のいままでの活動と、今後の取り組みの方向性について、概要を申しあげます。

○第1作業部会(石器検証)は、9月22・23両日、宮城県考古学会と合同で、藤村氏が昨年段階で捏造を告白した上高森遺跡の石器(展示中)をさらに厳密に検証し、その基礎データに基づいて他の疑惑遺跡のものと比較検証を拡げています。また、同じ検証会で、藤村コレクション、および座散乱木、馬場壇Aの石器などを検証し、それらに多くの疑惑の点が指摘できるという、報道発表をしたことは、周知の通りです。これについての、正式な報告は今後のことと承知しています。

○第2作業部会(遺跡検証)は、今までに行われた再発掘遺跡の視察や観察を独自の立場で、第三者的に公正な立場で行ってきましたが、そのレポートの作成を進めている段階です。そうした疑惑の遺跡の検証と並んで、今後の研究の基礎につながる可能性のある遺跡についての再検討、再評価に向けた作業を進める方向性も、具体的な検討に入っています。

○第3作業部会(自然科学との連携)は、いままで自然科学分野の研究者に依存してきたような自然科学的分析などを、考古学が主体的に構想し、検証のみならず、将来につながる研究の基礎を作るため、関係自然科学関連学会、研究者との検討を近くはじめることになっています。当面、明年度以降の研究基盤を確保するための科研費申請のためのプロジェクトの構想の策定を急ぎます。

○第4作業部会(型式学的検討)は、いままでの特にいま問題の前・中期旧石器の型式学的分析の不備を反省し、広い視野にたった方法論の再構築と、当面、疑惑石器の検証のための縄文時代のものをふくむ、ヘラ状石器の分析を進めているところです。

○第5作業部会(研究史・方法論)では、前・中期旧石器をふくむ、日本の旧石器研究の研究史と方法論の整理と総括を行い、今回の事件の背景となった研究体制や社会状況などを洗い出すための、いくつかのテーマを分担して、その作業に入ったところですが、あとで述べる今回の緊急事態を踏まえて、教科書や学校などの歴史教育の混乱に対応する、学会としての責任ある対応、見解を示すための検討を、早急に進めることとして、昨日の特別委で、各部会の協力も得て、そのことに取り組むことにいたしました。

 以上が各部会の活動状況の概況報告ですが、そのそれぞれの成果については、来春の日本考古学協会総会において、各部会から詳細な報告がなされることになろうかと考えています。

藤村新一氏との面談の経過と内容

 さて次に、今年5月以来、5回にわたって、私が藤村新一氏と面談を重ねてきた経緯とその内容について、その概要を報告いたします。

 予め申しあげますが、藤村氏は現在も、「心身のバランスを崩すある病気」で、国内の某病院に入院加療中であります。当人の人権・人格を守るために、そのことに関わる内容については避けて報告することになります。また、報道の皆さんが、そのことについて、今日の私の報告以上のことを追求されること、藤村氏との接近をはかるようなことは、人道上の立場から、厳につつしまれるよう、私からこの場で強く要請しておきたいと存じます。

【面談の様態】

 私と藤村氏との面談は、5月23日、5月30日、7月25日、9月13日、9月26日の5回行われました。面談時間は1時間ないし1時間半の範囲の短時間でした。面談には常に主治医と藤村氏の弁護士が立会い、私からも藤村氏に発言を強要するようなことはなく、特に病状の変化については、主治医の助言と指示を受けながら、細心の注意を払って面談を進めました。そのため、全体として、藤村氏の自由な発言を、こちらで聞き取るという形であり、重要な告白について、こちらで反問、確認するということも十分に行わない状態で今日まで経過しています。

【第1・2回面談】

 第1回(5月23日)、第2回(5月30日)の面談は、昨年末以来の学会等での検証活動の経過や状況を、簡潔に説明した以外では、藤村氏の話を中心に聞き、彼の心を開かせ、私との面談のしやすい雰囲気を作ることに、ほとんどの時間が費やされたといっても過言ではありません。

 しかしその中で、藤村氏は学界や社会、それに一緒に仕事をしてきた仲間たちに、自ら起こしたことの責任を詫び、私(特別委員会)の調査に協力したいということを、2回の面談のたびに明確に述べました。立ち会った主治医も、それは藤村氏の本心として受けとってもいいと思うという助言をされています。

【第3回面談】

 7月25日の第3回面談は、ちょうど袖原3遺跡の再発掘の結果が調査団から発表された直後のことでした。私からもその結果を具体的に説明した後、ノートを手にしてまず、すべてを話したいという心境をるる述べました。そして、袖原3での捏造の証拠を認めた後、藤村氏はノート(あるいはメモ)を手にしながら、秩父の遺跡について、苦悶の表情で、捏造をボソボソと話し始めたのです。しかし極度の緊張のためか、こちらの簡単な質問にも対応できぬ状態になったため、主治医の助言もあって、それ以上の話は進められなくなったのです。

【いわゆる「藤村メモ」】

 その後、8月16日付で、主治医から、「藤村氏が第3回面談で話したかった遺跡名のメモだといって渡されたもの」という趣旨の説明の下に、一枚の手書きのメモが送られてきました。このメモは次回の面談(9月13日)のとき、ワープロに打ちなおされて、さらに数遺跡の追加が加わって、改めて直接、藤村氏から手渡されました。したがって藤村メモというのは、都合2件あるということになります。

【第4回面談】

 第4回(9月13日)の面談は、前回の面談の際の後半の混乱を再現しないよう、予め文書で質問事項を藤村氏に示しておいてから、間をおいて逐次藤村氏の話を、やや時間をかけて聞いた方がよいという主治医の勧告に基づいて、私の方で質問事項を10項目にまとめ、それを直接手渡して、質問内容の趣旨を説明し、それへの回答を要請するという目的の面談でした。

 その目的を達して、早々に引き上げるつもりのところ、藤村氏の方から、今日お話したいことがあるといわれて、私にとってはまことに突然、唐突という感じの中で、1981年の座散乱木遺跡のことが語られたのです。10〜15分ほどの話を一応聞きましたが、あまりのことに、私も冷静さを若干失い、ドギマギしましたが、今日渡した質問書にもあるから、次にきたとき、正確に聞きたいということで、その日の面談は終わりました。

【第5回面談】

 そして、現在までのところ、最終にあたる第5回目の面談は、9月26日に行われました。今日からさかのぼって数えてもわずか11日前の、ごく最近のことだという点を、どうぞご記憶ください。

 その日は、前回、2週間前に渡した質問事項の、一つ、二つについて話を聞ければよいという予測で行ったのですが、藤村氏は自分の作ったメモ(文章)を用意して、それを読み上げるという形で、かなり長時間に渡って、10項目全体に渡って、内容の精粗はありますが説明を行いました。

【新聞報道の波紋】

 まことに、衝撃的で重大な告白でした。その聞き取りのこちら側の記録等もある程度整理して、ちょうど、今日の大会の特別報告会等の準備のため設定していた9月29日の本特別委員会総括部会に、この重大な告白の内容を報告し、事後の措置や、大会での報告の仕方などをはかる予定でいたところ、9月29日朝刊でのスクープ報道が流されてしまいました。

 特別委員会としては、委員長名で、こうした混乱を巻き起こす報道に対して、きわめて遺憾であるとの緊急の見解を、報道各社に、即日配信したのですが、そのことを伝えた新聞、テレビ等は私の耳目には全くとまりませんでした。改めて遺憾の意を、今日ここで表明しておきます。

 予想通り、報道をうけて、全国の関係機関、自治体、そして地域住民の皆さんに大変な混乱を引き起こし、多大な迷惑や怒りを引き起こしました。特別委員会に対するお叱りも耳に痛いほど承りました。委員長として、情報管理や委員会運営に甘さがあったことは私の責任であり、会員および今まで協会の検証作業等に全幅のご協力をいただいた全国の関係自治体等の皆様に深くお詫びします。

捏造告白遺跡名の公表

 委員会としてはこの事態をふまえ、藤村氏告白の確認作業が不十分なままで、まことに不本意ながら、この大会直前の1O月5日までに、各道県教育委員会、発掘主体者、関係自治体のすべてに、藤村氏の告白で何らかの形で名が出た遺跡名を、協会および特別委員会の正式文書として、個別に通知を出したことも併わせてご報告しておきます。

 ここで改めて、告白のあった全遺跡名を公表いたします。

公表内容等についての見解

 以上の報告に関係して、学界として、また研究者として、最も重要と思われる、特別委員会および委員長の見解を付言しておきます。

  1. 今のわが国の法体系のもとで「自白は即証拠にならない」また「疑わしきは罰せず」という常識というか、法の精神があります。今回、特別委員会としてやむをえない事情の下に公表した遺跡名は、すべて、いわば自白にとどまるもので、学会として、それらを確実な証拠として提示できるものでないことを確認しておきたいと思います。
  2. そのような認識に立つならば、全学界的に取り組んでいる検証は、これからが本番、正念場として、特別委員会は活動を強化したいと考えます。宮城県考古学会を主体とした上高森の発掘は当面の大きな取り組みだと捉えます。会員の積極的な参画と支援を心からお願いするところです。なお、この際、報道機関においても、協会の意とするところを理解され、冷静な取材、報道を通じて、ご協力くださるよう強く要望します。
  3. 最後に付け加えますが、今日にいたるまでのさまざまな形での検証作業に、特にお名前はあげませんが、今までの前・中期旧石器の発掘に藤村氏と共にもっとも深くかかわった方々から、これまで、学会、その他の検証作業に必要な資料の提供などの点で積極的、献身的ともいえる協力を受けていることを、特にここで申しあげておきます。

 以下は、私の個人的な感想としてお聞き流しいただいて結構ですが、藤村氏もまた、人間同士の関係で、私にとっては検証作業の大切な協力者だったと思っています。

 考古学は、あるいは考古学研究者は、人類数百万年の歴史の研究を通じて、明日のよりよい人類史を展望し、その新しい時代に一つの指針を与える学問的責務を持っています。

 今回の未曾有の学問的危機をはらんだ問題を、みんなで一体となって、社会にも認知される正しい解決をはかり、この事件の反省をバネに21世紀への日本考古学存立の基盤を確固にすることを強く訴えて、私の報告を終わります。