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前・中期旧石器問題調査研究特別委員会総括報告

捏造事件と考古学研究者

2003年5月24日
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長 小林達雄

1.はじめに

 前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(以下、旧石器問題特別委)は、2001年6月10日に結成以来三ヶ年計画で問題の検証と研究を押し進めてきた。当初の予告通り、約1年間で、ある程度の結論を得るべく努力し、昨年度の日本考古学協会第68回総会において、中間的な報告をおこなった。つまり、それまでに旧石器問題特別委の5つの部会が精力的な検証作業によって到達した見解が、東北旧石器文化研究所の元理事長・藤村新一が関与した旧石器はほとんど学術的根拠のないものと判断される、という極めて遺憾な結論を発表した。

 総会当時の期間中、国指定史跡の座散乱木遺跡の検証発掘が継続中であったため、結論は保留しながらも、やはり検証済みの他遺跡と同様に肯定すべき証拠を得ることは困難であることを予告していた。その後の最終的な結果は、予想を覆すに足る新たな根拠がなく、むしろ座散乱木遺跡についても積極的に否定せざるを得ないことが明らかになった。

 また、引き続き実施された、岩手県ひょうたん穴遺跡、宮城県山田上ノ台遺跡などの検証発掘の結果も、一部の後期旧石器時代の石器を含むものの、それ以前の前・中期旧石器の存在を証明することは出来ず、一連の捏造行為の産物と判断せざるを得ないこととなった。

 一方、こうした検証発掘とは別に、5つの部会で進めてきた作業は、いずれも中間報告での否定的な見解を超える新事実を加えることも出来ず、むしろ改めて藤村関与の遺跡と石器の全ては捏造されたものと判断されるに至った。

 ここに、痛恨の極みとともに、未曾有の不祥事について最終的な報告をおこなう。

2.捏造事件発生の背景

 日本列島における旧石器文化存否問題は、明治後半期にN.G.マンローによる仮説とその実証のための発掘調査の実践に始まる。たしかに、全国各地から多数発見されているゾウやシカなどの化石は、同時代の人類渡来の可能性を十分予想させるものである、という前提には高い蓋然性と正当性が認められる。同様な視点に立って、直良信夫の旧石器研究が続けられた。しかしながら、全国で現在2万5千個所以上の旧石器時代遺跡が知られているにも拘わらず、この二人に代表される先駆者は真正の旧石器の発見の機会を得ることが出来ずに終わった。

 こうして、敗戦後まで日本考古学は、旧石器文化は日本列島にはなかったのだ、という通念に強く支配されてきたのである。ところが、遺跡踏査を続けていた相沢忠洋が、群馬県岩宿遺跡を発見し(1946年)、明治大学考古学研究室の発掘(1949年)によって、初めて旧石器文化の発見とその後の研究の道が拓かれた。

 まさかの旧石器の存在は、多くの研究者や考古学ファンを魅了し、活発な研究が進められた。新発見の遺跡は、直ちに発掘の対象となり、日本考古学における最も活発な研究分野となった。当時の研究は、各地で蓄積されつつあった石器群の型式学的研究と編年に主力がおかれ、やがてある程度の成果をみるに至り、いわば小康状態に入った。換言すれば、一定の研究の到達点は次なる新しい課題の模索を窺いながら試行錯誤の袋小路にとどまっていた。

 1962年大分県丹生遺跡が登場し、それまで発見されていた石器群よりも一段と古い前期旧石器と目される存在が注目され、古代学協会による発掘調査が6次にわたって実施された。しかし、地質学的に年代を裏付ける結果を得ることが出来ずに中断された。

 一方、芹沢長介は佐渡の長木の礫層に包含される資料を検討しながら、やがて独自に旧石器問題の発見に取り組むに至り、まず大分県早水台遺跡の石英製石器の一群を日本列島における前期旧石器(約3万年までを後期旧石器、それ以上古い石器群を前期旧石器と定義)という考えを示した。さらに、ほぼ匹敵する年代の遺跡として、栃木県星野遺跡、群馬県岩宿D地点遺跡などの発掘に取り組み、東北大学の学生を中心に活発な研究活動が展開された。同様な観点から加藤稔による山形県上屋地遺跡をはじめ、島根県出雲地方における碧玉製石器群などが報告された。

 しかしながら、旧石器研究者の間には、それらが人為的な加工品か、自然の営力による剥離痕を有するものか、という事実をめぐって賛否両論相譲ることがなかった。疑義を表明した代表は杉原荘介(1967年)であり、それ以降前期旧石器問題は推進派と否定派あるいは傍観者の対立状態が続くこととなった。

 この膠着状態を打開しようとする研究の取り組みの延長線上に、このたびの前・中期旧石器問題がある。

 つまり、この問題は、少なくとも1975年の石器文化談話会の結成と活発な活動が契機となったのである。純粋に旧石器文化の解明を目的とする若手研究者の団体であり、これがいわゆる捏造事件の直接的な引き金になったことを意味するものでは勿論ない。しかし、この学術団体の活動の最も重要な成果として矢継ぎ早に学界に送り出して来た25年間に及ぶ責任は極めて大きいものと言わざるを得ない。さらに重要問題について文字通り易々諾々として容認を許して来た学界もまた厳しい反省が必要とされる。

 しかも、一方ではこうした研究に対して、小田静夫とC.T.キーリおよび竹岡俊樹や角張淳一らの一部研究者から疑義が提起されていたにも関わらず、学問的論争の場へと止揚出来なかったことは、学界の重大責任として認めなくてはならない。

3.前・中期旧石器問題の発生

 前・中期旧石器問題は、旧石器文化談話会およびその発展的解消の上に成立した(NPO)東北旧石器文化研究所に所属する藤村新一による一連の遺跡捏造行為に関わるものである。

 そして、それによって惹起された問題は考古学界のみにとどまらず、博物館や教科書、その他さまざまな分野に与えた社会的影響がある。

 それ故にこそ、この問題を厳粛なる事実として認識し、今後の新しい展望を見極める決意と実践が必要とされたのである。

 本問題は、長い潜伏期間の末に2000年11月5日の毎日新聞によるスクープで明らかにされた。まさに、それまで蓄積されて来た前・中期旧石器問題の終わりを告げるとともに、新たな課題の始まりを意味するものであった。

 発掘調査中の宮城県上高森遺跡において、藤村が早朝に石器を埋めこむ現場の有様をはっきりとカメラが捉えていた。同時に北海道総進不動坂遺跡の捏造行為を自ら認めた。その時、同席した東北旧石器文化研究所理事長の鎌田俊昭、理事の東北福祉大学梶原洋の2人は、しかし他の遺跡はそうした行為とは無関係であると断言していた。

 しかし、その発言は決して確たる根拠に裏付けられた保証を欠き、むしろその場しのぎの苦哀の言であることを思わせるものがあった。まさに一過性の事件ではなく、予想をはるかに越えた根深い大問題と認識されたのである。

4.前・中期旧石器問題調査研究特別委員会

 学界を揺るがすこの重大な事態の出来に鑑みて、日本考古学協会委員会は2000年12月20日、前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(略称、旧石器問題特別委)準備会を設置し、約6ヶ月の準備期間を経て、翌年6月10日、正式に発足する運びとなった。

 委員長は戸沢充則、副委員長に小林達雄、春成秀爾が選任され、以下の5つの作業部会の構成をとり、各々に部会長が当てられた。なお、2002年6月22日、戸沢委員長は辞任し、同年7月27日、小林が委員長に就任した。

 旧石器問題特別委は、約1年間を目途に一定の結論の見通しを得ることとし、各部会毎に検証作業に着手し、継続された。

 その間、関係自治体や地域研究団体もまた独自に体制を組織するなど、検証が進められた。また、山形県袖原3遺跡や宮城県上高森遺跡や北海道総進不動坂遺跡の検証発掘および関係遺跡の石器観察による検証作業が実施された。そして、何れにおいても旧石器としての肯定的な証拠はなく、おしなべて否定的な判断へと傾いていった。

 こうした検証の内容は、『前・中期旧石器問題の検証』の各論に報告されている通りである。

5.藤村新一との面談

 検証対象の遺跡について、旧石器問題特別委の各部会による検証作業は、あくまでも第三者によるものであり、自ら限界がある。勿論真剣な取り組みによって正体への接近のための方法論を開発するなど相当程度の成果をあげることが出来た。しかし、直接の当事者による説明を抜きには、どうしても越えられない壁があることも事実である。戸沢委員長は、そのための試みを探り、藤村との5回にわたる面談に成功した。

 しかし、藤村は「心身のバランスを崩す、ある病気」の状態にあり、必要十分な時間をかけて疑問点を詳細に糺すことは不可能であった。しかし地道な努力が、その限界を次第に破り、ようやく北海道4,岩手県2,宮城県14,山形県6、福島県2、群馬県3、埼玉県11、の合計42遺跡の捏造を聞き出した。だが、東京都多摩ニュータウンNo.471−B遺跡など、ほかに関与の事実が明白な遺跡については告白遺跡リストから抜けているものが依然として残されているなど、告白内容は完璧なものではなかった。例えば、文化庁調査による藤村関与遺跡は55遺跡である。また、第5作業部会(研究史・方法論)が、石器文化談話会などの記録類の分析から藤村と会員が踏査した遺跡は、遺物発見が不成功に終わったものを含めて58遺跡にのぼり、その全てが網羅されていたわけではない。

 いずれにせよ、捏造工作を告白した遺跡が各部会の検証作業による否定的な見解と合致するものであり、したがって藤村関与遺跡のすべてが学術的資料としては価値のないものと積極的に判断せざるを得ない結果が明らかとなったのである。

 なお、第5部会によれば、藤村関与遺跡が、1972年12月から始められた可能性を否定できないという見解の示されていることは今後の検討課題となる。

6.検証調査の内容

 検証作業は旧石器問題特別委の発足以来2003年5月現在までの2年にわたって継続されてきた。約1年後の昨2002年5月26日、日本考古学協会第68回総会において中間的報告をした。この時点で、藤村関与の遺跡・遺物が全面的に学術資料としての価値は認められる可能性のほとんどないことの判断を示した。

 また、こうした不祥事を内に抱える日本考古学協会は、深い反省とともに、そうした事態を阻止し得ず世間のいろいろな方面に影響を与え、迷惑をかけた責任の一端を自覚し、謝罪した。

 それから、さらに約1年間にわたる検証作業によって、2003年度の日本考古学協会第69回総会を機に、最終的な報告書を刊行し、改めて藤村関与の前・中期旧石器はすべて捏造の産物であり、学術的価値を有しないことをはっきりと結論づけるに至った。

 なお、旧石器問題特別委は、本年度においては3ヶ年計画の最終年度として、検証に関わる課題の整理と今後の展望を検証することとしたい。また、多数の研究者が参加する国際的な学会において、特別なセッションを設け、過去に国際学会で発信して来た前・中期旧石器問題を総括し、訂正と釈明および日本列島の旧石器文化研究の現状を発表する機会を模索中である。

(1)遺跡の検証発掘

 これまでに、福島県一斗内松葉山、山形県袖原3,埼玉県秩父遺跡群、北海道総進不動坂、宮城県上高森、同座散乱木、同山田上ノ台、岩手県ひょうたん穴の各遺跡で検証発掘が行われた。その結果は、全てにおいて、確実な前・中期旧石器時代と判断し得る証拠はなく、むしろ捏造行為を明らかに証拠立てる石器埋めこみ器具の痕跡あるいは地質学的観点からすれば文化層の存在し得ない火砕流中からの出土を装うなどの明白な工作の痕跡などが確認されている。つまり、検証発掘のいずれもが、前・中期旧石器の一切の可能性を否定する結果となった。

(2)石器の検証

 検証対象の石器群には、本来の包含層中の原位置に遺存した状態に反する不自然な資料が高い比率で混在していることが明らかとなった。とくに、1)地表面に浮き出していたがために二次的についたと推定される農機具などによる鉄の線条痕や新しい干渉によるガジリと呼ばれる傷などが有力な判断の手がかりとなることが判明した。2)埋納遺構からの出土とされた石器に、地表の黒土が付着している例があった。3)前・中期旧石器には未発達と考えられている押圧剥離が認められる例が少なからずあった。4)同様に加熱処理をして剥離作業を容易にしようと意図した痕跡をもつ例があった。

 いずれも、縄文時代石器の表面採集品の埋めこみなどの手口を推定させる根拠となるものである。

7.座散乱木の検証発掘

 前・中期旧石器時代遺跡の中で、国指定史跡の宮城県「座散乱木遺跡」は特別な意味を有するものであった。

 第1に、1976年から1981年までの三次にわたる発掘は、前・中期旧石器問題の先駆けとして、それ以降の問題との継続と増殖の原点をなすものである。第2に、岡村道雄の主導による『座散乱木遺跡発掘調査報告書III』(1983)の刊行後、1997年には国史跡として指定された。これによって名実ともに学術的価値の評価が定着し、より一層問題の加速と深化の進行を促す結果につながる契機となった。

 「座散乱木遺跡」は、前・中期旧石器問題における中核であり、この検証はまさに本陣攻略の意味がある。そのため、日本考古学協会が主体となり、文化庁、宮城県教育委員会、岩出山町、宮城県考古学会の協力体制で発掘が計画され、2001年4月26日から6月14日まで実施された。したがって、日本考古学協会第68回総会における旧石器問題特別委の報告では中間的な報告を余儀なくされたのである。

 結局、最終報告は岩出山町において考古学的にも地質学的にも学術的価値がないという明確な判断の発表となった。

 この結果を受けて、文化庁はさらに独自の調査研究を行い、12月9日に国指定史跡の解除がなされた。

8.課題

 前・中期旧石器問題は、誰一人として予想もしなかった、あるいは出来なかった異常な事態である。まさに学問の領域が否定され、蹂りんされたほどの重大な意味をもつ。これを単なる一個人のなせる憎むべき所業と断ずるのは容易であるが、それでは済まない。充分熟慮して今後の新しい展望につなげていく覚悟が必要である。

(1)張本人の責任

 検証の進行とともに、藤村の独り芝居の実態が明らかとなった。このことは動かし難い事実である。石器文化談話会から東北旧石器文化研究所を舞台として共に歩んできた仲間の非憤慷慨は痛いほど理解できる。その手口の巧妙さ、計画性、悪らつな心根など憎みても余りある言葉で、無念を押し殺している。何とも罪な所業に及んだものか。

 しかしながら、この考古学界にあっては、何人の予想をも超えた理不尽な捏造行為は断じて許すべからざるものであり、2001年5月19日、日本考古学協会総会は藤村を退会させる処分を決定した。

 その一方で、藤村は独り孤立していたのではなく、仲間を意識しながら生きていたことを忘れてはならない。彼は仲間の眼を自分に向けて欲しかった、極くありふれた思いが、迷い込ませるに至った初期の精神状態が、そのまま抑止力のきかないままに、ついとり返しのつかないさらなる行動に走らせた可能性を考える。

(2)第一次関係者

 検証を通してみれば、あっけないほど他愛のない仕掛けにだまされていたことは明白な事実である。個人的にも親交を重ねながら、好人物と受けとめていた一人としても、直接いくつもの石器や崖面や発掘現場を共有して来た者はもちろん、多数が前・中期旧石器問題の関係者である。

 関係者のなかでも、とくに時間の共有の度合いや志を確かめ合いながら行動即ち発掘をして来た者は第一次関係者である。しかし信頼を裏切られたという側に立ってだけいることは許されない。このことは図らずも、藤村を永年にわたる捏造行為を中止することなく持続させる暗黙の圧力にもなっていた可能性に思いを致す必要がある。

 石器の検証が始まるや、たちまち黒土の付着やガジリや鉄線条痕の不自然さが暴き出された事実の前に、厳しい反省が必要とされよう。とりわけ、早くから件の石器の産状や石器自体について疑義を表明してきた研究者がいたにもかかわらず、耳を貸さなかった責任は大きい。

 しかしながら、事態の重大さを確認し、自らの責任を明確にし、さらに問題解明のために本特別委に対して全面的に協力され第一次関係者としての責任を果たそうと努力された。

(3)第二次関係者

 前・中期旧石器を実見したり、実見しながらも良くは観察しなかった者も、毫の疑念も抱くことなく認めて来た者も、いずれもはっきりとした関係者としての自覚が要求される。ときには、率先して新発見の意義を評価し、折に触れ吹聴の御先棒をかついで来た経緯を充分に自覚しなければならない。

 つまり、研究者の一部は、世間一般の考古学に関心をもつ人々に対して、積極的に紹介の役を果たして来たことは再三再四にとどまらない。少なくとも筆者をはじめ、第二次関係者としての意味を正しく認識する必要がある。

(4)対極者

 前・中期旧石器に当初より疑問点を発していた小田静夫、C.T.キーリ並びに最近になって否定的意見を発表し、周囲の研究者にシグナルを送り続けていた竹岡俊樹、角張淳一、馬場悠男らは改めて評価されなければならない。

 こうした幾度にもわたる警鐘にも拘わらず効を奏しなかったのは、明らかに囲りの研究者の怠慢と力不足である。その一方で、賛同派の眼を覚ますことに性急なあまり、文章など公に発信する際に表現が激しすぎたのが逆効果に働いたことも事実と思われる。そうした場合には、人間は思い通りには客観視出来ないばかりか、内容の吟味の前に拒絶反応を起こすことさえある。

 個人的事情を超えた人間としての性のしからしむるところである。

(5)行政関係の課題

 本問題については、文化財を管轄する行政の対応の課題がある。有体に言えば、ことの重大さの意識に欠けるところはなかったのか。事件発覚後の埼玉県当局の迅速な対応と、宮城県や文化庁の初動対応の仕方との間には、大きな差があったことを、戸沢前委員長は指摘している。少なくとも、相応の責任の自覚に基づく、より迅速な具体的対応措置が期待されたところであった。

 もっともその後、座散乱木遺跡ほかの検証発掘・実現のために文化庁をはじめとする関係自治体は改めて積極的に取り組み、問題解明に成果をあげたことは銘記すべきである。

 また文化庁は今後の旧石器時代遺跡の史跡指定に際しては、特別に調査研究委員会を設けるなど慎重な対応をとることになったのは評価されよう。

9.おわりに

 前・中期旧石器問題は、日本考古学界が初めて経験する衝撃的な事件であった。とくに考古学が自らの力で問題の所在を突きとめたのではなく、まさに毎日新聞のスクープによって眼を醒まされるまで太平の夢の中にいたという事実は重ねて大汚点となった。通常は考古学に関わる問題を逆に正しく発信すべき側に立つべきであったし、その危険な状態は2000年7月の段階で、インターネット上に具体的に論じられていたのに、真向から取り組む姿勢を欠いたことを、まず反省しなくてはならない。

 その理由について、石器研究の基礎的な学力に問題があったことも確かな事実である。さらに重ねて、10万年単位で次々と古くなる遺跡がタイムマシーンのレールに乗った状況を思わせるほどに発見され続けて来たことの異常さすら許してしまっていた。それにしても世界的観点からみても、極めて重大な人類史に関わる遺跡に対する取り組みが慎重さを欠き、捏造を見逃してしまうほどの杜撰な発掘がまかり通ったことも悔やまれてならない。

 こうした点は、明らかに日本考古学の信用を失わせるものであり、改めて厳しく戒めなくてはならない。

 しかしながら、旧石器問題特別委の検証は、後追いしながらも問題の所在を正しく認識し、いまや毫のあいまいさもなく、当該石器群と遺跡の全てが学術的には根拠のないものであったことについて断定を下すことが出来た。そこに至る方法論も獲得し、有効に実績をあげることが出来た。今後さらにそれを深化させていくことによって、石器認識をより確固たるものとすることを期待し得る。

 なお、日本考古学界における未曾有の不祥事を学界の強い閉鎖性との関連性に由来すると考える向きもある。しかし、とくに考古学界に固有の性質ではなく、学問する個人間の特殊性あるいは一回性の事情が絡んだケースとして理解される場合も少なくない。たとえそうした傾向が若干みられるとしても、すでに今日の学界全体の空気は大幅に開放的であることは確かな事実であり、そうした弊害は急速に解消されてゆくであろうことを確信するものである。