HOME > 協会について

日本考古学協会50年の歩み

※『日本考古学』第6号(特集 日本考古学の50年)pp.203--204「日本考古学協会50年の歩み」(1998.12)全文

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏をした。昭和一桁の世代であれば、夏休み明けの新学期の教室で、それまで使っていた教科書に墨塗りの作業をさせられたことを思い出すに違いない。とりわけ日本歴史の教科書である『尋常小学国史』、そのなかでも神話で埋めつくされた建国の章は、ほとんど残すところなく墨を塗りつぶすことになったのである。

 その代りに、敗戦は突然に日本考古学を社会の前面に引き出すことになった。日本歴史の第1ぺージに建国神話の神々にかわって、泥くさくて生ぐさい石器時代人が登場しただけでも、それを読む国民、とくに若い世代は驚嘆に似た感動をおぼえた。そして、それに拍車をかけるように、登呂遺跡の発掘のニュースが連日のように新聞紙面を賑わしたのである。

 ところで、登呂遺跡の発見は戦中にさかのぼるが、敗戦後の混乱も一息つき、国民生活もようやく落ち着きをとりもどすと、遺跡を本格的に調査しようという声がおこった。そして、1947年3月に在京の研究者が集まって、登呂遺跡調査会(委員長・今井登志喜東京大学教授)が結成された。委員には、考古学専攻の研究者をはじめ、古代史・建築史・地質学・植物学・農業経済史学などの専門の研究者が委嘱され、その指導のもとに、各大学や研究機関が共同して発掘調査にあたることになった。こうした、かつてない学際的な調査体制が組織されたこともあって、1947年7月13日から9月3日までの約50日間の調査で、弥生時代の水田遺構をはじめて検出するなどの成果をあげることになった。

 この1947年の発掘調査は、登呂遺跡全体からすればわずかな面積にすぎず、本格的な調査が計画されたが、その費用については、今日では考えられないことであるが、国会の協賛による国費の補助があてられることになった。1947年の登呂遺跡調査会による発掘調査は、後藤守一明治大学教授への文部省科学研究費という個人の交付金をもとに実施されたものであるが、国費の補助ということになると、調査主体者として全国的な研究者の参加団体たることが求められた。そこで、登呂遺跡の熱気が冷めない1947年12月に考古学の全国的専門学会設立のための第1回考古学協議会、翌48年1月に第2回考古学協議会が開催され、同年2月には早くも日本考古学協会設立準備委員会の結成へと進んだ。

 こうして、1948年4月に設立総会が開かれて、日本考古学協会の発足をみるとともに、同時に一つの特別委員会を設置した。いうまでもなく登呂遺跡調査特別委員会で、前年の登呂遺跡調査会を発展的に改組して、改めて5年計画で登呂遺跡の発掘調査を実施することになった。そして、翌49年5月に古墳総合研究特別委員会・縄文式文化編年特別委員会・考古学現状調査特別委員会・発掘並びに出土品に関する法規特別委員会、51年4月には弥生式土器文化総合研究特別委員会というように、50年代末の西北九州総合調査特別委員会に至る計11の特別委員会を設置した(詳細は「日本考古学協会設置の特別委員会一覧」を参照)。

 このように、協会は1948年4月の設立から50年代まで、その設立の直接の契機となった登呂遺跡の発掘調査にみられるように、日本考古学界が当面する重要な研究課題について、特別委員会を設置し、協会員および会員外の研究者と共同して研究を推進することになった。これらの特別委員会が、戦後の日本考古学の発展に大きな役割をはたすことになったことはいうまでもない。

 1950年に朝鮮戦争が勃発し、その戦争特需で日本の産業界は復興する。そして、1950年代後半からの「高度経済成長」政策によって、日本は大規模開発時代に突入することになる。その結果、協会をとりまく状況も、大きく変化することになる。それは開発にともなう遺跡の破壊に、考古学研究者はいうまでもないが、その全国組織としての協会も、積極的な対応を迫られることになったのである。

 1958年の総会で平城宮跡の保存と名神高速道路にともなう埋蔵文化財保護の緊急措置の要望を決議し、ただちに名神間高速道路工事対策特別委員会を設置したのも、そうした大規模開発に対応する協会の姿勢を打ち出したものである。しかし、1960年12月の池田内閣による「国民所得倍増計画」以降の開発政策は、ますます遺跡破壊を深刻なものとしていった。それに対して、協会では、1962年に文化財対策小委員会を設置するが、前後して、西で平城宮跡、東で加曾利貝塚という、国民周知の遺跡までが破壊の危機に直面することになる。協会は、平城宮跡の保存運動を契機に組織された文化財保存対策協議会と関西文化財保存協議会など他団体と連携しあいながら運動を展開し、平城宮跡と加曾利貝塚の破壊を止め、遺跡を保存することに成功する。

 この平城宮跡と加曾利貝塚の保存運動が展開されていた1963年に、ついに発掘調査の届出において、学術調査と緊急発掘調査の比率がはじめて逆転し、以後、緊急調査が加速度的に拡大していくことになる。こうした遺跡破壊の危機に直面して、協会は組織的な活動を強化する必要から、1965年に文化財対策小委員会を改組して、埋蔵文化財保護対策特別委員会(埋特委)を設置した。これが1971年に常設の埋蔵文化財保護対策委員会(埋文委)になって、現在に至っている。

 埋特委と埋文委の活動については、「埋蔵文化財保護対策委員会の活動記録」に譲るが、協会が考古学者の全国組織の立場から遺跡の保護の問題に積極的に発言し、学会としての社会的役割を担うことになったことは、協会50年の歩みのなかでも重要な画期の一つといえる。

 1968年、協会も創立20周年を迎えると、会員数も540名というように、設立時の81名から7倍弱と増大してきた。しかし、組織はといえば、設立当時からはとんど改善されないままにきたことから、協会の運営そのものに不満、あるいは不信が生まれるという、団体が長く続くとありがちな問題が生じてきた。しかも、日米安保条約の改訂を数年後にひかえて、全国的に激しい学生運動がおこり、それは次第に暴力的な手段に訴えるという、いわゆる学園紛争が激化してきた。そうした協会の内外をとりまく情勢が極めて困難な時期に、「協会解体」を叫ぶ学生が介入してきたこともあって、1970年度の総会・大会はすべて中止せざるをえない事態となった。

 この困難な情勢のなかで、協会は1970年10月に臨時委員会を発足させ、協会改革間題小委員会を設置した。そして、翌71年2月から3月にかけて、協会改革のための地区別懇談会を開催するなど、協会は組織をあげて民主的な自己改革を目指した。そして、1971年5月の第37回総会で、「自主・民主・平等・互恵・公開」という基本5原則の立場と、研究者としての「社会的責任の遂行」を明文化した会則の改正が全会一致の決議で成立し、協会は新しいスタートを切ることになった。

 1969年に閣議決定された新全国総合開発計画は、それまでの開発政策が、どちらかといえば拠点開発を志向していたのに対して、それを全国土に及ぼすという、まさに空前の大開発計画であった。それまでも開発側と保護側がしばしば対立するケースがおこっていたのが、それに拍車をかけたのが新全国総合開発計画であった。

 こうした対立を改善するためには、文化財保護法の抜本的改正の必要があるという声が、しだいに大きな世論となってきた。それは文化財保護の運動にかかわってきた研究者や地域住民だけではなく、行政担当者の切実な要求でもあった。例えば1970年8月の近畿2府4県の文化財保護課長担当者会議は、「文化財保護法の改正の必要性とその方向について」の報告をまとめ、72年6月の全国都道府県教育長会議と同教育委員長会議は、連名で法改正の必要と改正点を盛込んだ要望書を文部大臣などに提出した。そこには「発掘の許可制」「原因者負担の明文化」「罰則の強化」など、現在も解決が迫られている重要な課題が掲げられていた。

 協会でも、1971年刊行の『埋蔵文化財自書』の「展望と今後の対策」にまとめてあるように、文化財保護法の改正問題に当初から積極的に取り組み、73年の第39回総会において8項目からなる抜本的改正を求める要望書の提出を決議して、他の学会とも協力しあいながら運動を展開した。しかし、残念ながら抜本的改正は見送られて、開発に対応するための体制の法的整備だけがおこなわれた。

 こうした法的整備に平行して、文化庁は開発にともなう発掘事業の進展に対応する体制をつくる目的で、重点施策として国および地方公共団体に埋蔵文化財センターの建設を促進する方針を決めた。その結果、1975年以降、特に市町村を中心に文化財専門職員の増員がはかられることになった。

 1970年代の後半から協会の会員数が急増するのは、このような文化財専門職員の増員という時代背景と、前述した改革後の開かれた協会運営とがあいまった結果である。そして、今や会員の大半が文化財専門職員である、いわゆる行政内研究者が占めるようになってきている。

 協会創立50周年を迎えた1998年5月の総会で、会員数は3,387名となった。総会および大会における研究発表は、会場を複数会場とせざるをえないほどの件数となり、内容も原始・古代はいうまでもなく、最近の研究動向をふまえて、中世・近世や外国の発表が増えるなどバラエティーに富むものとなっている(詳細は「日本考古学協会総・大会研究発表一覧」を参照)。また、図書交換会の会場は、バーゲンセールの会場並みの混雑で活況を呈している。しかし、こうした表面的な活況とは裏腹に、今日、協会をとりまく情勢は、「日本考古学協会略年表」の解説にあるように、非常に厳しいものがある。

 協会会則の第2条は、自主・民主・平等・互恵・公開の基本5原則にたって、「考古学の発展をはかる」とともに、「考古学者の全国組織として、会員間および関係学会との協力・交流を推進し、積極的に研究条件を改善し、文化財保護など社会的責任の遂行に努力する」ことを謳っている。また、社団法人化にむけての定款試案でも、現会則第2条の精神を引き継いで、第4条で「この法人は、自主・民主・平等・互恵・公開の原則にたって、考古学に関する調査研究を行ない、考古学研究者間及ぴ関係学会との協力・交流を推進し、考古学研究者の研究条件を改善し、文化財保護などの社会的責任遂行に努力し、もって学術・文化の発展に寄与することを目的とする」ことを定めている。

 日本考古学協会50年の歩みのなかで、今日ほど会則にある協会の存立意義を会員一人一人が再確認する必要がある時はないであろうことを訴えて、まとめとしたい。

(日本考古学協会50周年記念出版特別委員会)
※『日本考古学』第6号(特集 日本考古学の50年)pp.203--204「日本考古学協会50年の歩み」(1998.12)をそのまま掲載しました。
 なお、2004年3月から日本考古学協会は有限責任中間法人となりました。