日本考古学協会2003年度大会は、2003年10月25日(土)・26日(日)・27日(火)の3日間にわたり、滋賀県立大学で開催された。
第1日目の午前中には、臨時総会が開催された。臨時総会では、有限責任中間法人日本考古学協会定款案、および法人化に伴う出資金返還請求権の譲渡、財産引き継ぎについて審議され、これらが承認されるとともに、有限責任中間法人日本考古学協会の設立が決議された。また、委員定数を変更する委員選挙規定の一部改正案が承認された。また、倫理綱領の基本的な構成についての説明があり、これを『会報』150号に掲載して、会員の意見を聴取することになった。
午後からは、甘粕健会長、西川幸治大会委員長、中島一彦根市長の挨拶のあと、2つの講演が行われた。京都大学教授金田章裕氏による「古代近江と宮都・国府−考古学の成果と歴史地理学−」は、考古学の成果と歴史地理学の関わりを中心にして、近江国府、大津宮、紫香楽宮、恭仁宮、保良宮、禾津頓宮の事例が検討され、考古学と歴史地理学の協業、対話の重要性が述べられた。
次に行われた奈良大学教授水野正好氏による「渡来したひとびととその遺跡」は、近江の渡来系氏族の分布と横穴式石室の構造や竈形代の関係、新堂廃寺と飛鳥寺、西琳寺と南滋賀町廃寺の渡来系氏族との関わり、大和と河内、南葛城と南河内の渡来系氏族の関係、さらに祓に用いられた人面(鬼面)墨描土器と渡来系氏族、墓誌・火葬・踏歌などと渡来人の関わりが論じられ、渡来系氏族の考古学的研究には文献や地名と考古資料を総合的に検討することが必要であるとされた。水野氏の講演は第2日目の研究発表「渡来人の受容と生産組織」の基調講演ともいうべき内容であった。
いずれの講演も大会開催地である近江の考古学の地域性、重要性を物語る興味深いものであった。第1日目の夕刻には、懇親会が開かれた。当地の名産である鮒鮨と地酒が用意され、多くの参加者を集めたなごやかな懇親会であった。
第2日目の研究発表は、近江の考古学に関わる3つのテーマに分かれて行われた。
研究発表1「弥生集落における大型建物・方形区画の出現と展開」は、滋賀県、伯耆、佐賀平野、東海・関東、山陽・四国、近畿、北部九州など各地の様相が報告され、古墳時代の「居館」と大型建物についての報告のあと、討論が行われた。
研究発表2「渡来人の受容と生産組織」は、大和、摂津・河内、山城、播磨、近江、紀伊などの各地の渡来人、古代史からみた渡来人についての報告、また、陶邑と渡来人、吉備、近江の渡来人と鉄生産の報告があり、討論が行われた。
研究発表3「考古学からみた近世城郭の成立」は、近世城郭成立の諸要素として、安土城、石垣、金箔瓦、土器・陶磁器の報告、仙台城、八幡山城、岡山城、土佐、麦島城、倭城など各地域における近世城郭の成立に関する報告のあと、討論が行われた。
第3日目の見学会は、汗ばむような晴天に恵まれて、1.弥生・古墳コース、2.古代官衙コース、3.城郭コースに分かれて実施された。
1.弥生・古墳コースは神郷亀塚古墳、国史跡大岩山古墳群、野洲銅鐸博物館、国史跡伊勢遺跡・下之郷遺跡、守山市立埋蔵文化財センター、2.古代官衙コースは紫香楽宮関連遺跡、滋賀県埋蔵文化財センター、木瓜原遺跡、国史跡近江国庁跡・惣山遺跡、3.城郭コースは特別史跡彦根城跡、上平寺館跡、安土城考古博物館、特別史跡安土城跡、八幡山城跡を見学した。
本大会は、西川幸治大会委員長をはじめ菅谷文則大会副委員長、小笠原好彦大会実行委員長、高橋美久二事務局長ら実行委員会の多くの方々のご尽力によって、周到な準備と充実した大会運営が行われた。あらためて謝意を表する次第である。
(総務担当委員 谷川章雄)九州地方から中部地方の弥生集落において相次いで存在が確認されている大型建物や方形区画は、神殿、祭殿、首長居館などの機能が推定されている。そこから階級社会の萌芽、弥生集落の都市的性格を推定する議論などが現われ、弥生集落論を活性化させてきた。一方、資料の増加とともに、必ずしもそのような推定が妥当でない例なども知られるようになった。これらの遺構は集落内部の構造、およびこれらを持つ集落の地域における位置付けをとおして検討する段階に達したであろう。
今回の研究発表では、第1部において弥生時代中期から古墳時代前期の大型建物・方形区画を有する集落とそれを含む周辺遺跡の動態がわかる良好な例として、近江南部、伯耆、佐賀平野の3地域について発表された。第2部では大型建物と方形区画の歴史的展開をより広い範囲で俯瞰する観点から、関東・東海、近畿、山陽・四国、北部九州の事例が発表された。第1部と第2部は相互補完的である。第3部では古墳時代前期から中期の首長居館が検討された。これをもとに、弥生時代の歴史的結末からの観点より比較検討することができた。以上の発表にもとづいて、およそ1時間半の討論を行った。
各発表者の報告内容については発表要旨に譲ることにして、ここでは発表と討論で出された論点の整理と、議論できなかった部分の補足をしながら、全体のまとめとする。弥生集落において大型掘立柱建物が突出した存在として普遍化するのは中期後葉である。大型建物の上屋構造については議論を深められなかったが、柱穴の配置による形式としては、北部九州の屋内棟持柱建物と総柱建物、伯耆の庇付建物、近畿以東の独立棟持柱建物が特徴的である。北部九州では大型建物の周辺から検出される遺構・遺物によって、建物形式ごとの機能差にも言及された。このことは当地の方形区画の展開と深く関連する。集落内外に方形区画を設ける事例は北部九州に著しい。中期後葉に兆しが現われ、後期後半には普遍的な存在にまで展開する。方形環溝に見られる突出部も普遍的に見られ、その兆しは中期初頭(三沢一ノ口)にあると言う。七田はこの由来を中国城塞都市の城に求めた。また、久住は後期のうちに「居館」と「祭祀場」との分離が認められるとし、七田も吉野ヶ里の北内郭と南内郭に相応の機能差を推定する。古墳時代の居館成立を祭儀と日常的営みの空間二元化と見た辰巳の所論に従えば、北部九州では後期段階にすでに先取りしていたことになる。このことは今回の重要な論点であった。また、辰巳が言うように聖俗の空間を一括した範囲を「居館」とするなら、自身も例示したごとく遺跡群全体を居館空間と見なすべきケースが出てくる。吉野ヶ里も同様である。大久保が指摘したこの重要な問題は、辰巳も十分に承知していたところであった。遺構の性格がその形態だけでなく集落全体の構造のなかで検討し概念化を図るという、今回のねらいの重要性と困難さが示された指摘であった。一方、関東・東海では、中期後葉に大型建物が出現し、後期には大型竪穴建物に交代された様子がうかがえるが、以降は辰巳が示した展開へと順調にたどるように見える。問題は後期から古墳時代前期に著しい展開がうかがえない中国・四国と近畿である。森岡は後期により高次の首長(あるいは首長居館)の出現を想定しているようだ。古墳前期中葉に集団再編を想定するM田と、後期後葉の大規模集住拠点の解体と大型建物の建設を同軌現象と見る大久保も、同様の見解と見える。ゆえにこれらの地域では居館遺構が希少となるという次第。北部九州や関東・東海の状況と比較したときに、これら地域の評価は改めて問題となろう。このようななかで、近藤が提示したごとく、近畿にあって近畿・東海の動向と連動しない伊勢遺跡の中核施設の特異さが、改めて浮き彫りにされた。
(伊庭 功)渡来人の存在がいち早く指摘された近江の固有性の分離をもとに、各地域の普遍性(在地系集団)との差異から、渡来人の古代史における技術・知識・思想・社会システムの解明を目指した。方法として、渡来人の存在が考古学的に顕著な地域で、かつ史料においてもクロスチエックの可能な事例をもとに、畿内と吉備を中心とするヤマト政権の成立に最も影響を与えた地域とした。
青柳泰介氏は、大和・葛城山麓の遺跡群の様相をもとに、渡来人と葛城氏の関係などを発表された。田中清美氏は、摂津・河内の渡来人を韓式系土器の出土の様相と河内湖開発について発表された。吉水眞彦氏は、近江の渡来人から、大津渡来人の集住と墓制の特徴・出土遺物の特性を発表された。丸川義弘氏は、山城・太秦地域の群集墳の様相と集落に併せて、山城渡来人の存在の是非を問われた。富山直人氏は、播磨の横穴式石室の特性から渡来系を摘出して、群集墳の様相から渡来人の存在を検証された。黒石哲夫氏は、紀伊・紀ノ川下流の横穴式石室の特性を検討し、通有なものと特異なものを摘出された。
植野浩三氏は、陶邑の開始と出現期の土器の検討から、渡来人工人と生産にみる工人系譜・集落などについて検証され、その特性を発表された。吉備の渡来人と鉄生産として、亀田修一氏は、渡来人の様相とその関連遺物、鉄生産の工人系譜などについて発表された。渡来人の存在の実証的方法。藤居朗氏は、近江の鉄生産と渡来人の解明のため、湖南の製鉄遺跡の様相をもとに生産と集団の系譜、特徴を詳細に説明された。
田中史生氏は、史料からみた渡来人の軌跡とその存在、活躍内容、渡来人の古代史上の役割などを発表された。考古資料との整合性、不整合性、理解の方向性などを発表された。
渡来人の存在形態と検証方法から、亀田氏の検証方法により各地渡来人の様相の補足説明から、討論に入った。韓式系土器と開発・大壁建物の様相、石室・紀伊の様相,山城の様相などを議題とし、共通性を討論した。
渡来人と生産組織の様相として、陶邑の開始と定型化、渡来集落の存否、吉備の渡来系遺物と渡来人集落の具体例、鉄生産と渡来系工人の系譜などの討論を行った。今回の研究会は、渡来人の存在検証と視点から、技術と生産の問題を考えた。最後に大橋氏が、文献史学・考古学の立場と、今後の方向性を探られた。
(花田勝広)天正四年(1576)、織田信長の築いた安土城はそれまでの戦国期城郭とは一線を画する城郭として位置付けすることが可能である。すなわち高石垣、瓦、礎石建物という3つの要素を持つ城郭の出現である。こうした構造は豊臣秀吉に忠実に受け継がれ、以後の近世城郭へ大きな影響を与えた。特に織田、豊臣段階の城郭を織豊系城郭と呼び、統一政権のシンボルとして全国へ波及していく。
従来の城郭研究は独特な研究法である縄張り研究が主流を占めていたが、織豊系城郭では遺構、遺物による考古学的な分析が可能であり、特に近年発掘調査が全国的に実施されており、今回その成立過程を全国レベルで考えてみたい。
岩橋氏は近世城郭の初源に位置付けられる安土城について門・櫓・塀は瓦葺き、礎石建物を多用し、虎口形態は簡単で、石垣の様相が多様であることから、安土城が定型化していないことを明らかにした。加藤氏は石垣の出現と展開について戦国期の石垣・石積み、信長段階の石垣、秀吉段階の石垣、慶長の石垣に分類し、秀吉政権が磐石となった段階で全国に政治的シンボルとして石垣の城が普及したとする。中村氏は金箔瓦について主としてプロデューサーの面から検討を加え、安土城で出現する金箔瓦は信長の意思を受けて狩野永徳がその具体的な構想にあたり、その指導のもと永徳工房の箔押し職人が制作にあたったとした。さらに土器・陶磁器については森島氏が京都の年代観の見直しによって大坂城との齟齬が解消されることを主張した。また、京都系の土師器皿が17世紀に終焉する現象が、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって急速に萎んだことによるとした。
こうした総論を踏まえたうえで、列島各地の織豊系城郭の発掘調査事例の発表があった。金森氏は仙台城の発掘調査で、本丸北壁の石垣がIII期にわたる石垣変遷が検出されたことを報告した。I期が慶長五年(1600)、伊達政宗によって築かれた石垣で、II、III期はそれ以後地震で崩壊したのちに積み直されたものである。奈良氏は天正十三年(1585)に築かれた豊臣秀次の居城八幡山城の調査で山麓の居館部から礎石建物が検出され、大量の瓦が出土したことを報告した。特に沢潟紋道具瓦が出土していることからこの地が秀次の居館であったことは確実である。乗岡氏は岡山城の調査で、本丸中の段が16世紀末から17世紀第2四半期初めのわずか40年のあいだでV期7段階にわたる拡張を明らかにし、近世初頭の城郭が激しく改造されていることも立証した。一方、瓦については当初播磨の瓦工人によっていたものが、城下に編成された瓦工人の製品へと変化することも注目される。松田氏は土佐における近世城郭の成立について岡豊城で礎石建物、瓦の導入が認められるが、本格的な高石垣が出現するのは長宗我部氏が豊臣大名となった天正十五〜十六年頃に構築された大高坂(高知)城からであるとする。出土した桐紋軒丸瓦もこれを補強している。また、浦戸築城に豊臣傘下の石工などが派遣されている可能性を示唆し、それは文禄・慶長の役に備える築城であったとする。山内氏は麦島城跡の調査でII期の石垣が検出され、古い方が天正十六年(1588)小西行長によって築かれた石垣で、九州における初期織豊系城郭であることを指摘した。出土遺物のなかに滴水瓦があるが、「隆慶二年」「萬暦十二年」銘があり、国内で生産されたものではなく、文禄・慶長の役によって朝鮮半島から持ち運ばれたものであることも判明した。黒田氏は文禄・慶長の役で朝鮮半島南岸に築かれた日本軍の城、倭城について、近年の発掘調査を総括した。特に林浪浦城、亀浦城では外郭の居館部が調査され、掘立柱建物などが検出されている。また、壬辰山城は秀吉の御座所を兼ねた伝えの城の可能性がある。
これらの発表を受けて、近世城郭の成立と展開についてシンポジウムを行った。
最後に、今回の研究発表を終えて、城郭研究にとって考古学が担う役割がますます重要なものであることを改めて認識することができた。
(中井 均)