HOME > 総会・大会 > 2005年度福島大会報告と総括
日本考古学協会2005年度秋期大会は、10月22日から24日までの3日間にわたって、秋色濃い福島県下で開催された。はじめての福島県における大会開催で、工藤雅樹大会委員長、鈴木啓大会実行委員長のもと、県下協会員の積極的な支援によって盛会裡に実施された。また大会の成功は、福島大学、福島県考古学会の共催、福島県教育委員会、福島市、福島市教育委員会、(財)福島県文化振興事業団の後援、福島大学の教職員、学生諸君の協力によるところが大きい。22日・23日の延べ参加人数は、協会会員363名、一般657名、合計1,020名の多数にのぼり盛況で活気に溢れていた。
福島県文化センター大ホールを会場にして、公開講演会が開かれた。午前11時30分に大ホール入口で受付を開始し、13時から玉川一郎大会事務局長の司会進行で進められた。最初に田村晃一協会会長の挨拶、つづいて鈴木啓大会実行委員長の歓迎挨拶で開幕した。
渡辺誠氏(名古屋大学名誉教授)による「縄文時代の食文化」は、ドングリ類のアク抜きと食べ方、漁撈具からみた水産資源の利用について、韓半島の例とも比較しながら述べられ、縄文の主食と副食の組み合せが明らかにされた。さらに縄文時代の漁撈は、現代にまで引き継がれて水産日本の基礎を形成したと指摘された。民族(俗)例をも示しながら広い視野で展開した講演は、視聴者を釘付けにする壮大で興味深い内容であった。
工藤雅樹氏(福島大学名誉教授)による「白河の関と衣川の関」は、白河、勿来、衣川の関にはじまり、陸奥国の成立と国造制、城柵の設置と移民の導入について述べられた。さらに胆沢鎮守府から防御性集落についてふれ、阿倍氏や清原氏、その後の都市・平泉についても及んだ。まことに気宇壮大で生き生きとした陸奥の古代絵巻を髣髴とさせる内容であった。
ふたつの講演は、ともに長期間にわたる研究実績にもとづく話題豊富な内容で、時間が経つのを忘れさせ、詰めかけた多くの参加者に深い感動と共感を与えた。
講演の余韻がさめやらぬ中、会場をホテルサンルートプラザ福島に移して懇親会が行われた。参加予約者が150名と多く、当日の申し込みを断らざるを得ないほどの盛況であった。萩原三雄協会理事、森幸彦実行委員の司会進行で、薦被り鏡割りのあと穴沢柱大会実行委員会副委員長の乾杯で和やかに開宴した。いつもの立席・ビュッフェスタイルとは異なり10人掛けの円卓自由席で、18時から20時過ぎまで愉しい歓談のひとときを過ごした。最後に次回開催地の紹介があり、来春の総会を5月27・28日に開く会場の東京学芸大学・木下正史会員と、秋の大会を11月3〜5日に開く会場の愛媛大学・下條信行会員から、それぞれ挨拶があった。中締めのあと予定時間を大幅に超過して和やかに懇談が続いたが、やがてそれもお開きとなり、三々五々福島の街に繰り出していった。
昨日に引き続き福島県文化センターを会場にして、研究発表、埋蔵文化財保護対策委員会情報交換会、図書交換会が行われた。埋蔵文化財保護対策委員会情報交換会は文化センター1階、図書交換会は文化センター2階でそれぞれ開かれた。
研究発表は、テーマ別に2会場に分かれ、9時30分にシンポジウム方式で始まり、16時30分に閉会した。
大ホールでのシンポジウムI「複式炉と縄文文化」は、趣旨説明のあと基調報告、テーマ発表、事例研究のあと討論が行われた。野外展示施設での複式炉の燃焼実験などを含む地域に密着した考古学研究の成果が見られる充実した内容であった。最後に渡辺誠会員による温かくも厳しいコメントで締めくくった。
小ホールでのシンポジウムII「7世紀の東日本−変革期の諸相−」は、趣旨説明のあとテーマ発表、総括報告のあと討論が行われ、地元の陸奥は言うに及ばず、関東、北陸地方の事例報告、文献学からの発表を含めて討論が行われ、きわめて熱気溢れかつ盛況であった。
今回のシンポジウムは事前準備が入念に行われれ、大部の資料集が刊行され、当日の進行も手際よく進められた点がつよく印象にのこった。参加者の一人として大変満足している。
遺跡見学会が、紅葉のみちのく路をたどってそれぞれ行われた。Aコースは、参加者不足のためバスによる見学会は中止となった。しかし、大会実行委員会の自家用車対応により、磐梯山慧日寺資料館、会津大塚山古墳、会津若松市内文化財収蔵施設、会津松平家墓所を周遊するコースについて、4名の見学が実現した。Bコースは白河方面で、11名の参加により白河の関、小峰城址、谷地久保古墳、豪族居館、南湖公園を、Cコースは原町方面で、18名の参加により大悲山磨崖仏、原町市立博物館、桜井古墳、製鉄炉保存館、割田遺跡などを参観した。充実したコース設定で、いずれも参加者にとって満足のいく見学会だったとお聞きしている。
なお今大会時に開催された理事会で、緊急を要する事態のため、特別史跡高松塚古墳の保全・保護を求める声明が検討され、講演会のあと大会会場で発表された。
最後に、今回の福島大会は、会場や懇親会、見学会などで、万端の準備と行き届いた配慮が感じられた。福島という地の利を生かした講演会や研究発表のテーマ設定、北陸、関東、東北各県の協力、バラエテイに富む見学コースと解説などに表れていた。工藤大会委員長、鈴木実行委員長をはじめ玉川事務局長のもとに県内考古学協会員、福島県考古学会員、福島大学教職員や学生で構成された実行委員会、および後援の福島県教育委員会、福島市、福島市教育委員会、(財)福島県文化振興事業団など関係諸機関の各位に、この場を借りて心から感謝申しあげます。誠にありがとうございました。
本シンポジウムは東北南部の縄文時代を代表する遺構である複式炉に注目し、複式炉と集落の消長を自然環境の変化と対応させた総合的な研究を目論んだものである。押山雄三氏による複式炉研究史、その成立から消滅までの期間の理化学的年代測定を藤根久氏・佐々木由香氏・福島大会実行委員会、自然環境の変化を吉川昌伸氏・吉川純子氏、縄文中期後半の集落分布を菅野智則氏、複式炉と中期末集落の様相について福島県を新井達哉氏、宮城県を相原淳一氏、山形県を菅原哲文氏、複式炉を持つ住居構造を坂田由紀子氏、複式炉の燃焼実験を山内幹夫氏に研究発表を依頼した。
環境変化については東北地方南部の地域的特性をできるだけ抽出できるようにした。また、従来土器型式のみで議論されることが多かったが、土器型式の放射性炭素AMS年代測定を行うことで、環境変化と時間的な枠組を共有することができたのは大きな成果である。阿武隈川・北上川流域の中期後半の集落動態を概観した菅野氏は、複式炉の登場する大木9式から10式にかけて住居数が増加し、さらに大規模集落が登場し、集落数も増加するが、後期前半には激減することを実証した。冷涼化の始まる時期に複式炉が登場し、集落規模が拡大する事実は福島・宮城・山形の各県でも追認することができた。また、複式炉期における炉形態の地域性や集落形態及び規模の地域的特性も明らかにされた。口頭発表した地域以外にも資料集には新潟・秋田・岩手・茨城・栃木の複式炉も集成されていることから、当該時期の複式炉の全体像を提示することができた。北上川・阿武隈川中流域で集落は拡大化するとともに、拡散化する傾向が認められることも明らかになった。
複式炉を持つ竪穴住居の構造については、押山氏が研究史で触れ、さらに坂田氏が馬場前遺跡を例にとって詳細かつ具体的検討を行った。柱配置、複式炉の形態、構築方法、焼土の広がりなどの住居を構成する属性を検討することで、複式炉と他の住居内付帯施設との関連を再確認させた。福島県文化財センター白河館『まほろん』に復原された法正尻遺跡66号住居を用いた燃焼実験は展示施設を用いたもので様々な制約があったが、実際に炉を使うことにより、多くの検討しなければならない点があることが再確認できた。この実験は炉の機能を再確認するための作業であり、検証ではない。今後条件面をつめた実験が必要であることが確認されたといってよい。
これらの基調研究発表を基にシンポジウムを行った。複式炉の多様性、縄文中期後半の冷涼化の縄文時代全体での位置づけ、集落動態の地域相の整理、遺跡数の増加と集落規模拡大の背景、和台遺跡における住居数変遷、集落数の増加を回帰性の強い住居の集合体とみなす仮説、各地域の住居以外の集落構成要素のあり方、人口増加を支えた植物質食料資源のあり方、集落の拡散化現象の生存戦略からどのように見るかなどのテーマについて発表者の意見を聞きながら複式炉を持つ縄文集落の動態とその要因について整理を進めていった。最後に、複式炉の起源を握る新潟県の動向について新潟県の阿部昭典氏に会場から発言していただいた。
時間の制約から今後の研究課題に触れることができないままにシンポジウムを終了した。議論のまとめができなかったことは残念である。最後に前日「縄文時代の食文化」の講演をいただいた渡辺誠名古屋大学名誉教授の講評をいただいた。複式炉の機能研究や、縄文時代の植物資源の利用について民俗考古学的研究を続けてこられた渡辺氏には我々の問題設定は物足りなく、的外れな視点であったようである。しかしながら、渡辺氏の仮説が証明された部分もあるし、現在のデータからでは証明できなかったこと、渡辺氏が触れていない詳細な年代と花粉分析に基づいた環境変遷、それに対応する集落動態が明らかになったことなど多くの成果があったはずであると自負している。また、複式炉を土器と同じように扱うことに対する批判も頂戴したが、炉の型式学的分析が、より信頼性の高い集落論を展開するうえでの基礎となることをしめしたシンポジウムだったとも考えている。渡辺氏の指摘には謙虚に受け止めねばならない点が多々あり、その点は今後の研究に生かしてゆきたい。
本シンポジウムは、近年めざましい勢いで調査・研究が積み重ねられている7世紀の東日本に焦点をあて、官衙・寺院、集落、生産などの様相を比較検討することにより、各地域の異同やその歴史的性格を明らかにすることを目的に企画した。これにあたっては、今日の福島県域を中心とする陸奥南部をケーススタディにその考古学的諸相を掘り下げ、そのうえで他地域あるいは他分野の調査研究成果と比較検討する方法をとった。各報告の詳細は発表要旨及びシンポジウム資料集に譲ることとし、ここでは各報告の要旨及び討論の内容を簡単に報告する。
最初に、陸奥南部を対象とする3件の報告を受けた。官衙と寺院にかんする木本元治報告では、評家と寺院が前段階の豪族の本拠地付近に営まれる点で基本的に共通するとの理解が述べられた。居館と集落にかんする横須賀倫達報告では、居館と集落の類型化作業ののちその変遷過程が検討され、6世紀後半と8世紀前半に大画期が認められると結論づけられた。生産にかんする安田稔報告では、評衙を中心とした自給自足的体制がとられた窯業生産と、一国一生産所的な体制が推測される鉄生産とで異なる生産のあり方が指向されたとの理解がしめされた。
つぎに、陸奥南部に隣接する3地域にかんする調査研究成果が報告された。宮城県を中心とする陸奥北部を対象とした村田晃一報告では、おもに関東系土師器と囲郭集落が俎上に乗せられ、前者が律令制の北進にあたって導入された新様式であり、後者が7世紀の宮城県中央部〜北部に特徴的に分布する官衙的性格をもった大規模集落との理解がしめされた。関東を対象とした田中広明報告では、評の成立過程や評家の構造に相違がみられることが調査遺跡や陶硯の分布などから述べられ、さらに土器と大刀鐔を例に関東と陸奥との相互交流の存在が指摘された。越後を中心とする北陸を対象とした春日真実報告では、土器編年、集落、生産などの様相が幅広く取り上げられ、それぞれの消長や画期がしめされた。
最後に、文献史学の側からの特別報告として今泉隆雄報告が行われた。大和政権(律令国家)による政治支配のあり方とその過程が、陸奥南部に中心を置きつつしめされた点が今泉報告の大きな特徴といえ、国造制のあり方や評の設置過程、あるいは人的・物的な役割の面などから、陸奥南部が陸奥国全体を支える重要な位置を占める地域と評価された。締めくくりに述べられた「内なる坂東」という陸奥南部に対する言葉が、今泉報告の結論を端的にしめしている。
引き続き行われた討論は、大きく3つの論点で構成した。1点目は地域区分や時間区分をめぐる問題であり、阿武隈川河口付近を境界に南北の地域で様相が大きく異なることや、7世紀後葉に大きな変化が認められる要素が多いことが確認された。2点目は政治支配上の立評・立国の過程が考古資料にいかに反映されているかという問題であり、立評・立国が7世紀中葉と考えられるのに対し、官衙や寺院のほとんどが7世紀末頃に成立することの意味などについて議論したが、十分な結論を得るにはいたらなかった。一方、古墳や土器などにおいては、6世紀末頃を端緒として大きな変化をみせる点が注目され、その過程の詳細な把握や背景の検討が今後の課題といえる。3点目は各発表のなかで指摘・確認された東日本各地を特徴づける諸問題についてであり、会津地域の評価、このころ各地に現れる大規模集落と囲郭集落の意味、7世紀後葉に開始される鉄生産の系譜や評価、陸奥南部と関東との異同などについて議論をもった。そして、最後に辻秀人理事より討論内容もふまえた全体的なコメントを受け、シンポジウムを締めくくった。
本シンポジウムの成果は、従来、個別に検討されていた各地域・諸テーマを総合的に取り上げて論じ、その結果、一面的な評価が与えられがちだった陸奥南部をはじめとする各地域に、異なる重要な歴史的評価の付与が可能であることをしめした点にあると思われる。もちろん、議論の内容は十分とはいえず、今後各地域での十分な検証作業が不可欠である。最後になるが、各発表者、関係各位、及び参加者のご努力とご協力に、心よりお礼申しあげるしだいである。