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2007年度熊本大会報告

 日本考古学協2007年度秋季大会は、10月20日(土)・21日(日)の両日にわたって秋気爽やかな肥後・熊本の地で開かれた。熊本大会は前回に実施したのが熊本大学に考古学講座が開設されて間もない1976年で、実に32年ぶりの開催とのことである。

 初日は午前から打ち合せや会場設営、ポスターセッション準備等があり、12時から受付を開始した。会員の出足は順調で、一般参加者を合せて465名の参加があった。

 熊本大学黒髪キャンパス工学部2号館、工学部百周年記念館を会場にして、13時から公開講演会、15時30分から二つの分科会「九州系横穴式石室の伝播と拡散」と「列島初期農耕史の新視点」とが、それぞれの会場で開かれた。

 講演会に先立って、西谷正会長のメリハリの利いた開会挨拶と、﨑元達郎熊本大学学長の心のこもった温かい歓迎挨拶とがあった。

 講演会は、甲元眞之熊本大学教授による「環境変化の考古学的検証」がまず行われた。自然科学的手法による各種のデータを示しながら「考古学研究者はあくまでも考古学的事実関係から、考古学的検証をへて帰納できる結論に依拠することが肝要で、考古学研究者はすべからくオーケストラの指揮者たるべきだ」と述べた。

 足立啓二熊本大学教授(東洋史)による「東アジア社会研究の課題と展望」では、サブタイトルに−「共同団体」の問題−と記したように、東アジアには団体型社会と非団体型社会とがあると述べた。そして国家形成期の相違によって、中国では非団体型社会が成立し、日本では団体型社会を形成したと指摘した。

 ひき続いて15時30分から分科会Ⅰ「九州系横穴式石室の伝播と拡散」と分科会Ⅱ「列島初期農耕史の新視点」の二つの分科会が開かれた。どちらも趣旨説明から始まり、海外の研究者を含めた研究発表があり、17時30分には初日の発表を無事に終了した。

 その後、熊本交通センターホテルに会場を移し、懇親会が催された。杉村彰一大会事務局長の乾杯に始まり、馬刺しや有明海の珍味を肴に、地元の日本酒や焼酎を飲みながら議論に花が咲いた。昨秋の愛媛大会でも感じたが、交流、親睦をはかろうとする会員相互の熱意が増して、回を追うごとに参加者が増えているように思えた。ちなみに懇親会の参加者数は176名であった。講演会の団体型社会や分科会の内容についても、講師や発表者を囲んで熱い議論が交わされていた。最後に次期開催地の春季・東海大学と秋季・南山大学とによる挨拶があって盛会裡にお開きとなった。その後も親睦や議論を重ねた会員が、以前よりも多かったと推察する。

 2日目は、8時30分から受付を始め、10時からは図書交換会が開催された。23団体の参加があり、会場はことのほか盛況であった。またポスターセッション会場でも、手直しや展示替えが同時に行われ、展示内容の充実が図られた。

 9時からは、2会場で分科会が再開された。分科会Ⅰ「九州系横穴式石室の伝播と拡散」では、事例報告のあと13時から15時まで海外からの参加者を含めてシンポジウムが開催された。

 分科会Ⅱ「列島初期農耕史の新視点」では、各地の事例報告のあと海外からの発表者を含めて13時30分から15時までシンポジウムが開催された。ただ設定された時間のわりに壇上にあがった発表者が多く、事実関係の確認に時間をとられたので、議論を深めるまでに一工夫があるとなお良かったと思う。

 2日間の会員・一般参加者の総計は519名で、盛会であった。

 今回の熊本大会では20・21日の両日、日本考古学協会各委員会によるポスターセッションが、会場入口周辺の好位置で行われた。埋蔵文化財保護対策委員会による「埋蔵文化財の保護は誰の責任でなされるか−地方公共団体における文化財保護行政の課題−」、研究環境検討委員会「博物館法改正をめぐる諸問題」、高松塚・キトラ古墳問題検討小委員会「高松塚からのメッセージ」、社会科教科書問題検討小委員会「教科書から消えた旧石器・縄文時代の記述−学習指導要領と教科書の変遷−」である。いずれも協会員が解決を迫られ、意見や態度表明を求められている緊急で切実な課題である。

 会員や一般参加者が足を運び、パネルの写真や記事を読み、資料を手に取り説明に耳を傾け、アンケートに応じていただいた。各委員会とも手ごたえをつかむことができた。委員会や理事会でアンケート内容を検討し、今後の活動にさらに活かして行きたいと考えている。将来にわたって日本考古学協会として会報やポスターセッション、公開講演会などを通じ、広く会員の意見を募り積極的に社会的責任を果たしていく所存である。会員諸氏の更なるご支援とご協力をお願いしたい。

 今回の熊本大会は、天候にも恵まれ成功裡に終了した。これはひとえに熊本県下の日本考古学協会会員や熊本大学の教職員、院生・学生諸君で構成された実行委員会の行き届いた心配りと周到な準備の積み重ね、迅速な現場対応のお陰である。甲元眞之委員長をはじめとする実行委員会の方々に重ねて篤く御礼を申し上げます。

(総務担当理事 岡内三眞)

2007年度熊本大会の概要

 日本考古学協会2007年度大会は、10月20日(土)・21日(日)の2日間、熊本大学黒髪キャンパスの2会場(工学部2号館・工学部百周年記念館)で開催され、会員・一般参加者あわせて519人の参加があった。

 20日午後1時、西谷正協会会長ならびに﨑元達郎熊本大学学長の開会挨拶の後、甲元眞之教授(大会実行委員長)、足立啓二熊本大学教授による記念講演が行われた。甲元教授は「環境変化の考古学的検証」において、自然科学的手法を用いて導かれた近年の多彩な研究・調査の結論に対して、考古学研究者はあくまでも考古学的検証を経た結論に依拠すべきことを主張し、豊富な具体例を引いてこれを述べた。足立教授は「東アジア社会研究の課題と展望」において、中国史研究(明清経済構造史)の立場から「共同団体」の問題を通史的に取り上げた。氏はこれを団体型社会と非団体型社会に類型化して、古くから団体型社会が形成された日本と、非団体型社会による専制国家を継続した中国とを比較して、国家形成過程の研究に示唆に富む視点を提示した。公開講演会の終了後、二つの分科会において研究発表を行った(分科会Ⅰ:九州系横穴式石室の伝播と拡散、分科会Ⅱ:列島初期農耕史の新視点)。会場ロビーでは4委員会によるポスターセッション(埋蔵文化財保護対策委員会「埋蔵文化財の保護は誰の責任でなされるか−地方公共団体における文化財保護行政の課題−」など4テーマ)が行われた。午後7時、熊本市中心部にある熊本交通センターホテルにおいて懇親会を開催した。さいわいに満室の参加者を得、寄せられた九州の地酒が会場をめぐる中、会員相互の親睦と情報交換が遅くまで続いた。

 21日は午前9時から午後3時まで、二つの分科会が継続された。これに並行して開かれた図書交換会では、23団体が参加し盛況であった。

 本会は、前回の昭和51年大会から数えて32年ぶりの学会であった。爽やかな秋空のもと、2日間の学術活動が無事終了したことを、実行委員会として何より喜んでいる。大会にあたって作成した資料集は、二つの分科会にかかわる最新のデータ集成と論集であり、ささやかながら渾身の作である。今後の考古学研究の踏み台になることを願って止まない。開催にあたってご尽力いただいた熊本県内の会員の方々ならびに非会員の方々に、紙上を借りて厚くお礼申し上げます。(木下尚子)

分科会Ⅰ「九州系横穴式石室の伝播と拡散」報告

 いったい何をもって「九州系」横穴式石室とするのか。また「九州系」横穴式石室の九州外への伝播は、そして伝播先での変容はどのような意味をもつのか。こうした点の解明を主眼におき、分科会Ⅰでは9人の発表者に韓国から関東までの様相について整理していただいた。これら各報告の詳細については研究発表資料集に譲り、ここでは討論の司会を通じて私が重要であると感じたいくつかについてまとめておきたい。

九州系横穴式石室の定義

 まず9人の発表者のあいだで一致したのは、石室構造に着目する限りにおいては、九州の横穴式石室を「九州型」として1つの型式にくくることは不可能であるという点である。

 しかし、九州の横穴式石室全体を大きくまとめる要素がないのかといえばそうではない。藏冨士寛さんが明確に指摘したように、玄室そのものが棺の役割を果たしているという点にこそ九州の横穴式石室の特質がある。つまり、近畿地方中央部(以下、畿内)の横穴式石室では、遺体は玄室とは別作りの明確な蓋をもつ棺に納められるのに対し、九州では玄室内に造り付けられた蓋のない施設に遺体が安置されるのみであるということだ。そして、九州では遺体を外界と画す必要性から玄門部での閉塞が行われ、そのため玄門施設がとくに発達することになる。「九州系」横穴式石室とは、このような特質を有するものなのである。

 したがって、九州系横穴式石室をその構造から認識しようとすれば、上記の遺体安置方式を実現するうえで必要不可欠な構造要素にまず注目すべきである。これは従来から行われてきたことであるが、あえて整理すれば、遺体安置空間である玄室とそれ以外を明確に区別するための構造、たとえば框石や梱石、玄門立柱など、そして「開かれた棺」に関連する構造、たとえば石障や屍床仕切り石、石屋形などとまとめることができよう。

横穴式石室におさめられる棺や遺体の状態

 九州系横穴式石室を以上のようにとらえると、九州外の九州系横穴式石室を検討する際にもっとも重要となってくるのは、その構造以上にそこで用いられた棺の形態ということになろう。九州外の九州系横穴式石室の棺は「開かれた棺」なのか、一方、畿内型横穴式石室の棺は「閉ざされた棺」なのか。討論ではこのことについてもっと議論すべきであったが、釘を用いた木棺の有無に話題が偏った点は司会の不手際として詫びざるを得ない。しかし、朝鮮半島南部地域の九州系横穴式石室では伝統的な在地の棺が用いられていること、TK43型式期以前において畿内以外では釘を用いた木棺が普遍的でないことは明確に示されたと思う。なお、当日の議論の流れから、私は日本列島における九州外の九州系横穴式石室の棺はおもに「開かれた棺」であるとの印象をもったが、これについては発表者各位からのご指摘を待ちたい。

横穴式石室出現以前の棺の形態と使われ方 では、なぜ九州では横穴式石室の玄室そのものが遺体安置施設となったのか。これについても藏冨士寛さんが明確に見解を示された。すなわち、九州では、横穴式石室採用以前においても、1つの空間(この場合は棺)に多数の埋葬を行うことが一般的であり、その埋葬方式を受け継いだからこそ横穴式石室の玄室が1つの埋葬空間としてあつかわれるようになったのだと。この指摘の妥当性は、九州には複数遺体の埋葬が行われた箱式石棺が普遍的に存在していることからもうかがわれよう。

 これが正しいとすれば、次に問題とすべきは、九州系横穴式石室が伝播する以前の九州外における棺の形態とその使われ方である。九州外の九州系横穴式石室の棺が「開かれた棺」であるのだとすれば、それはどこから来たのか。在地の伝統なのか、あるいは九州系横穴式石室の伝播とともにもたらされたのか。討論ではこのことにまで議論をおよぼすことができなかった。

横穴式石室のみで議論することの限界

 以上のように考えるならば、横穴式石室の伝播・普及の問題はひとりそれのみの問題でないことは明らかである。今後、石棺墓や横穴墓など他のすべての埋葬施設を総合した議論のなかに横穴式石室を位置付ける試みが各地でなされなければならない。横穴式石室のみにしぼった議論では限界がある。討論の司会をしながら、あらためてこのことを強く感じた次第である。

九州にいち早く横穴式石室が出現・普及した理由

 九州系横穴式石室の存在意義を考えるうえでは、なぜいち早く九州に横穴式石室が出現し普及したのかの説明を避けて通るわけにはいかないであろう。また、熊本県地域以南になぜ横穴式石室が普及しなかったのか、そして、畿内型横穴式石室が出現するまでなぜ全国的な横穴式石室の普及がなされないのかについての説明もなされなければならない。こうした点についての議論を果たせないまま討論を終了することになったが、今後に期したいと思う。

 多くの課題を残したままの終了となってしまったが、30才代の若手研究者をそろえての分科会を開催することができ、率直な意見の交換が活発に行われたことは、今後の古墳研究の進展にとって資するところ少なしとはしない。そして「古墳って、なにかおもしろそうですね」との言葉をまだ考古学を学びはじめて間のない学部2年生から聞けたのは大いにうれしいことであった。

(杉井 健)

分科会Ⅱ「列島初期農耕史の新視点」報告

 「日本列島における農耕の始まりはいつか?」、この問題にアプローチするために、農耕(栽培)の基礎資料である「種子」に焦点を絞ったシンポジウムを企画した。これまでに蓄積された資料を集成し、最近成果が著しい「圧痕レプリカ」資料などとの比較を行い、現時点での縄文農耕に関する研究の到達点を整理し、今後の指針を模索することが本分科会の主課題であった。

 この課題に応えるため、事前に日本列島の縄文時代〜弥生時代前期の植物種子を集成し、該当する時期の朝鮮半島・ロシア極東の資料も比較資料としてリストアップした。その結果、2,813件、965文献がリストアップされ、地名表としてPDFファイル(CD収録)で公開した。おそらく、このような植物遺体に関する全国的かつ網羅的な集成作業は今回が初めてであり、資料的価値はきわめて高いものと思われる。地名表の制作に係わった発表者および協力者に敬意を表したい。

 本分科会は熊本大学工学部百周年記念館で開催された。参加者は連日200名を超え、数日前の縄文時代中期のダイズ圧痕発見の報道(山梨県酒呑場遺跡)の影響を受けてか、非常に活況であった。

 研究発表は、朝鮮半島・ロシア極東地方・中国山東半島と、日本列島(8ブロックに分ける)で行われた。前者では全体的な当該期の栽培植物構成と農法、後者では各地域における最古の栽培植物の種類と構成・弥生時代前期への展開・推定される農法に焦点を絞り、発表がなされた。また、これらを総合的に検討した東アジア的観点からの栽培穀物と農法の問題についての発表があった。

 討論では、まず、日本と周辺地域を含めた各作物の栽培化の時期について個別的に検討がなされた。未だ若干の問題は含んでいるが、①アサ・エゴマ(シソ属)・ゴボウ/アブラナ属・ヒョウタン(外来種)・ヒエ(在来種)、それらに最近発見されたダイズが加わるグループ、②イネ・オオムギ・アワ(外来種)などのグループの二者に分類が可能であり、前者が縄文前・中期の栽培植物、後者が縄文後期以降の栽培植物と定義できる。前者では、縄文時代中期までダイズの栽培化の時期が遡ることから、今後はアズキを含めたマメ科種子の栽培化の時期や系統の問題が焦点となろう。

 次に、後者に関する栽培植物の伝播ルートが検討された。その結果、山東半島のイネ・麦類・雑穀複合農耕は、年代的同時性に微妙な問題はあるものの、朝鮮半島の無文土器時代の作物組成および縄文時代後期後半以降の九州地方の穀物構成と対比できることがほぼ明らかになった。しかし、その伝播ルートについては遼東半島経由説と韓国中西部直接伝播説に意見が分かれた。また、無文土器時代の作物と考えられるモモ・アサ・ヒョウタンなどは、朝鮮半島にそれ以前には存在せず、日本列島での出現時期との間に齟齬の認められることが明らかになった。これは、おそらく朝鮮半島における遺跡(特に低湿地遺跡)調査事例の少なさに起因するのではないかと思われる。さらに、これに先立つ時期、アワやキビを主体とした櫛文土器中期段階の華北型雑穀栽培が、縄文時代後期以前に遡って日本列島に入ってきているのではないかという点が今後の焦点となってきた。

 最後に古民族植物学的方法に関して、コンタミネーションやサンプリング法の問題が議論され、考古学者が同方法に熟知した上で意識的に試料採取などの作業にかかわること、同定法に関してもマニュアル化の必要性のあることが提起された。

 総括では、宇田津徹朗氏(宮崎大学農学部)から、イネ・ムギ類・雑穀類の種子としての保存性の違い(生物的要件)から種子管理の問題(社会的要件)が派生するとする重要な指摘があった。今後、考古学者は種子を単に遺物として扱うだけでなく、その生態についても熟知し、今後は農学や栽培学なども学ぶべきであろう。その意味でも、今回の分科会は、遺跡出土の栽培植物の重要性について考古学研究者が認識した貴重な機会であり、植物考古学的研究の定点となるべきシンポジウムであった。

(小畑弘己)