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2008年度愛知大会報告

 日本考古学協会2008年度秋期大会は、11月8日(土)〜10日(月)の3日間にわたり、名古屋市の南山大学名古屋キャンパスを主会場に開催された。初日は13時から、B棟B11教室にて公開講演会が行われ、15時からは3つのシンポジウムが同時進行の形で、それぞれの会場で行われた。

 講演会に先立ち、菊池徹夫会長の開会挨拶と、大塚達朗大会実行委員長および青木清南山大学副学長による暖かい歓迎の挨拶があった。講演会は、山下勝年知多古文化研究会代表による「先苅貝塚の調査と成果について」が行われ、縄文海進の存在を決定づけ、縄文時代の編年論争に終止符を打ったことで著名な先苅貝塚の調査について、当時の秘話や苦労話を交えた話が熱く語られた。

 引き続き15時からは、シンポジウムⅠ「縄文時代晩期の貝塚と社会−東海からの展開−」、シンポジウムⅡ「農耕社会の民族考古学」、シンポジウムⅢ「東海地方の窯業生産−生産構造の解明をめざして−」の3つのシンポジウムが開かれた。いずれも東海地方の考古学的特色を十分加味したテーマであり、いずれの会場も熱心な会員で盛況であった。初日は17時30分に全ての会場が終了した。その後、会場をホテル名古屋ガーデンパレスに移し、19時から懇親会が行われた。菊池会長・大塚実行委員長の挨拶に続き、渡辺誠副会長の乾杯の音頭によって、堰を切ったように会が始まり、あちらこちらで交流や旧交を暖めあう会員の輪ができ上がっていた。その場で作る名古屋名物のきしめんと串カツも好評であった。最後に、次期開催地を代表して、春期総会の早稲田大学からは高橋龍三郎教授が、秋の山形大会では実行委員会の佐藤庄一会員から招聘挨拶があり、お開きとなった。その後の第二次懇親会も盛況であったと漏れ聞いている。

 2日目は、9時に受付を開始し、9時30分から、各会場で昨日のシンポジウムの続きが行われた。各会場とも3部構成の報告と総合討論から構成され、よく練られた運営が図られていた。ただし、発表時間の設定が各会場で少し異なっていたため、会場間を移動しながら話を聞くには、若干の不便があったように思われる。シンポジウムは16時30分に無事終了した。

 また、10時から15時まで、別会場にて図書交換会が行われた。図書交換会会場では、各社による各種調査・整理支援用コンピューター・システムのデモも行われ、交換会とともに盛況であった。

 特筆すべきこととして、今大会では、おそらく初めての試みと思われるコンサートが、昼休みを利用してシンポジウムⅠの会場で行われた。出演したのはシンガーソングライターの「美咲」さんで、美しい歌声が会場いっぱいに響き渡り、しばし至福の時間を過ごすことができた。事前の広報が不足したためか、聴衆がやや少なかったのが残念であった。討論に疲れた頭をしばし休めるのも、良い試みなのではないだろうか。

 なお2日間の参加者は、一般参加者を含め485人で、盛会であった。

 翌10日は、2つの見学会が行われた。1泊2日のAコース「渥美の貝塚をめぐる」は、大会2日目の9日のシンポジウム終了後直ちにバスに乗車して豊橋市に向い、その日は市内のホテルに1泊し、翌日見学を行った。渥美半島の吉胡・伊川津・保美貝塚を見学して昼食をとり、その後フェリーで知多半島にわたるという三河湾一周の贅沢なコースであった。またBコースとして「濃尾平野・庄内川流域の古墳を見る」が、10日に行われた。

 本大会でも8・9日の両日、日本考古学協会の各委員会によるポスターセッションが、会場入り口付近で行われた。埋蔵文化財保護対策委員会による「埋蔵文化財は誰の手で護られるか 2008秋」、今年から常置委員会になった社会科・歴史教科書等検討委員会による「小学校6学年 社会科(歴史)教科書を考える」、研究環境検討委員会による「埋蔵文化財発掘調査資格制度について」である。いずれの問題も喫緊に解決すべき課題であるが、特に「埋蔵文化財発掘調査資格制度」については、今夏から文化庁でも正式に議論が開始され、急速に注目を集めつつある課題となっている。会員の関心も高く、ポスターの前には、常に人だかりができていた。今回のアンケート調査等を踏まえ、さらに会報や公開講演会・シンポジウム等で広く会員諸氏の意見を募り、協会に課せられた社会的責務を果たしていきたいと考えている。さらなるご支援とご協力を、これまでにも増してお願いしたい。

 今回の大会は、少し冷え込む気候ではあったが、成功裡に終了した。これは南山大学をはじめ、愛知学院大学・名古屋大学・愛知県教育委員会・名古屋市教育委員会・(財)瀬戸市文化振興財団等の関係機関および愛知県在住の日本考古学協会会員等で構成された大会実行委員会の周到な準備と当日の心のこもった接遇の賜物である。大塚達朗委員長を始めとする大会実行委員会の皆様に、改めて御礼申し上げたい。(総務担当理事 佐藤宏之)

2008年度愛知大会の概要

 日本考古学協会2008年度大会は、11月8日(土)・9日(日)の2日間を南山大学名古屋キャンパスにおいて、翌10日(日)には渥美半島の貝塚と、濃尾平野・庄内川流域の古墳をめぐる2コースの遺跡見学が実施された。8日・9日は記念講演と3つのシンポジウムが行われ、参加者数は会員・一般参加者を合わせて485名であった。

 大会は8日の午後1時に開会し、菊池徹夫会長の挨拶に続き、大塚達朗実行委員長、そして開催校を代表して青木清南山大学副学長による挨拶があった。その後、山下勝年氏(知多古文化研究会代表)による「先苅貝塚の調査と成果について」と題した記念講演が行われ、今回の大会のメインテーマの一つである東海地方の縄文時代研究の一つの象徴として、先苅貝塚の調査成果に関する総括的な講演がなされた。

 記念講演に続き、3時より3つのシンポジウムがスタートした。今大会では「シンポジウムⅠ 縄文時代晩期の貝塚と社会−東海からの展開−」「シンポジウムⅡ 農耕社会の民族考古学」「シンポジウムⅢ 東海地方の窯業生産−生産構造の解明をめざして−」である。シンポジウムの詳細については、それぞれの報告にゆずることにするが、シンポジウムは初日の夕方から、翌日の夕方まで長時間にわたるものであったにもかかわらず、何れの会場も満席状態で、それぞれのテーマに対する関心の高さがうかがえるものであった。

 8日の午後7時より、場所を名古屋屈指の繁華街・栄に移し、ホテル名古屋ガーデンパレスにおいて懇親会が催された。参加者数144名と、非常に多数の方々にご出席いただき、和やか且つ活発な意見交換がなされていた。

 2日目には、恒例である図書交換会が行われ、今回は47件の申込みを受けた。しかし、近年は、かつてのように図書交換会に人が殺到するようなことが少なくなった状況を反映してか、必ずしも活況を呈しているというわけではなかった。

 ところで、今回の大会では、日本考古学協会の大会では初めてとなるコンサートが、9日の昼休み、メイン会場であるB11教室において開催された。このコンサートは、シンガーソングライターの美咲さんにお願いし、実現したものである。美咲さんの深い歌声が会場を包み込み、80人ほどの聴衆が深い感動を共有できた、素晴らしい時間だったと思う。

 このようにして、2008年愛知大会は幕を閉じた。前回の愛知大会から34年の時を経て、今回無事に大会を終えることができた。まずは、開催校である南山大学に感謝したい。また、この大会を実現できたのは、実行委員会に加わっていただいた名古屋大学、愛知学院大学、愛知県埋蔵文化財センターの方々、シンポジウムのコーディネーターおよび講演者・発表者の方々のご尽力のおかげである。そして、2日間にわたって、犠牲的精神を発揮して運営を支えてくれた南山大学・名古屋大学・愛知学院大学の大学院生・学生の諸君、南山大学OB・OGの諸氏、愛知県埋蔵文化財センターの職員の各位に、併せて感謝いたします。(黒沢 浩)

1.シンポジウムⅠ「縄文時代晩期の貝塚と社会−東海からの展開−」報告

 東海地方は、関東地方や東北地方についで貝塚が多く、100ヶ所を上回る数の貝塚が見出されている。通時的にみると、貝塚数は増加したり減少したりし、早期後半、中期後葉、後期前葉、晩期前葉がその増加期である。なかでも晩期前葉に貝塚の最盛期をむかえる。また、当地方の晩期は、埋葬人骨が全国的にもみても多数検出されている時期である。

 東海地方縄文時代のそのような特徴を全国に情報発信しようとするのであれば、貝塚の最盛期をむかえる晩期前葉に議論を集中すべきであり、資料的特質(貝塚と埋葬人骨)に鑑みて、生業と墓制が選択されて当シンポジウムは企画された次第である。具体的には、3部構成となった(第1部 東海地方における縄文晩期の年代と環境、第2部 生業からみた晩期東海の地域社会、第3部 墓制からみた晩期東海の地域社会)。第1部では、絶対年代、文化的環境、東海地方における貝塚の立地環境(遺跡の立地環境としての沖積低地から変更)、東海の貝塚の順で発表が行われた。これらは第2部・第3部の前提的な認識提示の役割をになうもので、とくに、渥美半島の著名な三大貝塚(吉胡・伊川津・保美)を居住地型貝塚と規定し、渥美半島基部に相当する三河湾奥東では牟呂貝塚群(大西貝塚ほか)とよばれる加工場型貝塚があるという図式が提示された。居住地に伴って形成されている一般的な貝塚が居住地型貝塚で、海浜部に形成された貝加工中心の貝塚が加工場型貝塚というわけである。

 第2部では、動物遺体(貝・骨)、狩猟具・漁具、伊勢湾西岸の貝塚について、関東と東海の晩期貝塚の順で発表が行われた。居住地型貝塚と加工場型貝塚について、環境適応・資源開発戦略と社会的背景から論じられる中で、居住地型貝塚が後背地の広がりに限りがあるのに対し、牟呂貝塚群のような加工場型貝塚では背後の広大な内陸域に当該期の遺跡が多数存在していることから、加工場型貝塚とこれらの遺跡との関連が想定された。地域社会間のかかわりをみる重要な論点が提示されたわけだが、狩猟具、漁具の器種・形態・出土数の違いからは、素材の入手・道具製作〜道具廃棄を全うする小地域性の並存・並立というもう一つ重要な論点も提示された。

 他方、このような東海地方の様相を際だたせるために、まず貝塚が希薄な伊勢湾西岸のその要因が検討され、貝塚不在は自然環境面の要因が大としながらも、それのみにもとめることはできず、社会的・文化的要因が関与していた可能性が指摘された。つぎに、関東と東海の貝塚の比較検討では、居住地型貝塚/加工場型貝塚設定の有意性や存立・存続に関する様相と要因の異同などが論じられた。

 第3部では、貝塚遺跡における墓制、貝塚を伴わない遺跡における墓制、事例報告(吉胡貝塚・堀内貝塚・本刈谷貝塚)、墓制からみた晩期東海社会の復元に向けての順で発表が行われた。土器棺墓と土坑墓を中心に、貝塚を伴う遺跡や貝塚を伴わない遺跡それぞれでの在り方について、晩期初頭〜前葉、晩期中葉、晩期後葉に分けて論じられた。加えて、近年に検出された埋葬人骨例が公表された。資料集中の誌上参加のみであるが、着装装身具と副葬品や周辺地域の墓制への言及もあった。

 つまりは、土器棺墓と土坑墓は埋葬されるものに年齢差があったことを示すものとして、晩期の墓制を土器棺墓で構成されるとする従来の想定が東海地方ではあてはまらず、土坑墓を追求する必要と意義が述べられた。また、盤状集積墓の特異性にも議論がおよび、複葬(再葬、二次葬)との関連性を指摘できるが、墓制において主体的なものではないとされた。埋葬人骨に関しては、2C系列の抜歯の人間集団と4I系列の抜歯の人間集団に関して従来とは異なる解釈も披瀝された。さらに、貝塚を伴う遺跡と伴わない遺跡間での墓制の差異はみられない点も強調された。

 総合討論では、生業と墓制において発表された論点にさらに検討が加わったといえよう。生業からの地域性追求では、居住地型貝塚と加工場型貝塚や、東海地方における貝塚の偏在や、道具からうかがえるより小さな地域性などが明示されたといえる。他方、墓制では、生業からうかがえる地域性に対応するものは見出せないと結論づけられた。2C系列の抜歯の人間集団と4I系列の抜歯の人間集団の在り方の解釈に関しては、確定的とはまだいえないかもしれない。

 ともあれ、本シンポジウムは、生業レベルでの地域性および地域間関係や道具レベルでの小地域性などが提示でき、埋葬人骨と墓制にかかわる各種分析においても方向性が明確化できたと考える。(大塚達朗)

2.シンポジウムⅡ「農耕社会の民族考古学」報告

(1)シンポジウムの趣旨

 日本の考古学研究者の間でも民族考古学(エスノアーケオロジー)には一定の認識が生まれ、考古学者が自ら民族誌的調査を行うことは珍しくないのが現状である。その適応例は狩猟や漁労が対象であっても、民族考古学的な調査は今日的な状況では農耕社会で行われることが多い。しかるに考古学で農耕社会内の他の生業、つまり漁労や狩猟を扱っていても、それは消えゆく運命でなければ専業化のような脈絡で捉えられることが多い。一方、東南アジアの稲作社会での水田漁撈システムや農民による狩猟活動などを見ると、多様な生計手段をシステムとして認識することが必要だと思われる。さらに世帯内、集落内分業、そしてスケジューリングの問題が重要な側面として浮かび上がる。

 次に土器や機織り、鍛冶など「もの作り」の問題がある。しかしそれは単に技法の追究にとどまらず社会的行為であると認識するのが肝要である。同時に人間の身体の社会的形成から、種々のレベルの意志決定のヒエラルキーの見極め、さらに社会間の関係(交易、分配)との関係性で生産を捉える必要がある。すなわち社会に埋め込まれた生産活動という視点である。

 本研究会の趣旨は、考古学が主流を占めるシンポジウムの中に、アクセントをつけるための民族考古学的な発表を加える、つまり「お口直し」式の民族考古学ではない。シンポジウムでは、できるだけ考古学者と民族考古学者がペアーでテーマをつきあわせながら行った。実際は発表者の1.5倍からなる参加者の研究会を南山大学で事前に3回行った。発表者あるいは発表希望者全員を時間の関係で全員パネリストにできなかったので、その欠を補うために「土器の民族考古学:土器生産の社会的脈絡」という紙面参加の付録を作った。

 さらに考古学、民族考古学双方の概念が最初からずれていたのでは不毛である。そのために試みとして用語解説を付録としてつけてみた。これも『何々辞典』のような権威あるものを目指したのではなく、主に日本考古学からの概念規定と民族学からの概念規定を併記した。もし両者の間に重大な齟齬があれば、新たな共同作業あるいは概念規定の再考が必要となろう。そのようなたたき台としての役割が果たせればと考えたのである。

(2)シンポジウムの概要

 個々の発表内容は要録を見ていただくとして、次のような問題が提起された。

①社会に埋め込まれた生業あるいは生産活動

 稲作農耕社会といえども本源的に存在するであろう種々の畑作、漁撈あるいは狩猟の問題は第1部のパネリストの多くから何らかの形で提起された。篠原は小規模畑作システムの存在可能性を示唆、山崎は水田自体がひとつの独特エコシステムの形成(例 水田漁撈)となる可能性を動物遺存体の分析から指摘、辻は生計戦略の社会的選択、あるいは他集団との関係性による選択の事例を提供した。また細谷は生計あるいは食品への価値付けと社会的選択について米倉の分析から示した。

②社会と連結するモノ作り

 連携する視点は第2部からも提供された。神野は鍛冶に関して、異なった技術とその複合形に関して社会的選択現象を提示したが、これは可能性として東村の行っている機織り伝統への議論に連動する。また大西は機織りにおける社会的選択、あるいは制度としての機織りシステム、さらに身体形成まで含めて社会的プロセスであることを示した。

 メラネシアの民族例では交易に行くこと自体が材料調達活動を兼ねることが多いのであるが、生計(生存)手段としての交易あるいは交易用材料調達としての狩猟・漁撈を山崎が動物遺存体の分析から指摘している。同じ集落でも異なった範囲と、異なった形式による交易、あるいは重ね描き(palimspsest)としての考古学的「交易」現象については馬場や石黒の論考が掘り下げている。また土器生産が社会的活動であることは、交易ないし流通と技法が密接に関わっていることを論じた長友論考でも明らかにされた。

③社会変化や階層化の多様な道筋

 交易や流通が生産のみならず、社会的な関係性と密着していることを石村がオセアニアの民族事例から提起した。とくに威信財の流通は階層性と関わるが、階層性の道筋の多様性、近隣地域においてさえ異なった道筋がありえたのではという指摘が弥生時代では提起されている。結果として統一国家が生まれても、それが包摂する下位集団の動向は同じとは限らないことは若林が関西の集落遺跡事例を中心に論じている。

 また階層化の指標とされる墓制であるが、縄文時代も弥生時代も多様、さらに「多様」のあり方自体に質的な差異があることを宮越が指摘している。一方、墓制とは一見保守的あるいは宗教観念という重々しい現象であると考えがちだが、意外に臨機応変というか現実的な変化をする場合がある。墓制は社会の反映というより各集団が死語の世界をどのように観念していたかが鍵であることは、角南が台湾原住民の事例から明確化した。

 以上、本総括ではセッションの発表原稿の意義について論じてみた。上の総括は考古学と民族考古学の報告を区別せずに書いているが、これは意図的なのである。とういうのは今回のセッションを通じて、両者の問題意識は接近してきているのではと感じる次第だからである。われわれが共に求めるのは社会的行為としての生産や流通活動、また社会システムの成立や変化であり、この意味で日本に於いても考古学と民族(考古)学には共通の切り口が見え始めているように思われる。(後藤 明)

3.シンポジウムⅢ「東海地方の窯業生産−生産構造の解明をめざして−」報告

 従来の土器・陶磁器生産に関するシンポジウムでは、古代(古墳時代含む)・中世・近世といった「時代」ごとに区分した上で、各窯業地の生産技術や生産器種の編年に重点を置き、それらを全国的に比較・検討することによって、各時代における生産内容や地域性、技術系譜を明らかにするという方法が主流であった。しかし、窯業地は「時代」を超えて存在しており、各窯業地の盛衰(消長)は必ずしも「時代」区分と一致するものではないため、逆にそのことによって、各窯業地における生産画期の設定や生産構造の変化といった通時的な研究を阻害してきた感があった。

 そこで、今回のシンポジウムでは、「時代」という枠を外すとともに、東海地方の主要な窯業地における生産実態を通観しつつ、各窯業地の生産の画期を求めるとともに、埴輪・屋瓦・土器など他の窯業部門との関係から、窯業生産を可能ならしめた生産構造を検討することによって、日本社会における窯業生産の位置付けを解明することを目的とした。

 発表では、その前提作業として各発表者にそれぞれの編年観に基づき、各窯業地の時期別の窯跡分布図を作成していただいた。これによって、各窯業地の生産の画期はもとより、東海地方全般にわたる窯業生産の画期が明らかにされ、生産構造を解明するにあたっての共通認識とすることができた。まずは各発表者の努力に敬意を表したい。ところで、生産構造を検討するにあたっては、①窯場における生産形態、②工人集団の存在形態や生産組織、③管掌者を含めた経営形態など様々な議論が必要となる。このうち、③の窯業生産の管掌者については積極的な発言が相次いだが、窯跡分布や遺構構成によって分析可能な①の窯場における生産形態、②の工人集団の存在形態や生産組織に関する議論は比較的低調であった。なお、管掌者の問題については、製品の出土分布(流通)の検討を併行して進めていく必要があることを改めて痛感した。

 総合討論では、古尾谷知浩氏(名古屋大学)から7世紀から8世紀の箆書須恵器について、高橋照彦氏(大阪大学)から9世紀から10世紀の緑釉・灰釉陶器生産について、飯村均氏(福島県文化振興事業団)から12世紀から13世紀の東北地方の瓷器系中世窯について、笹本正浩氏(信州大学)から文献史学の立場から考古学の調査・研究成果についての貴重なコメントをいただいた。記して謝意を申し上げるものである。

 最後に、今回のシンポジウムでは、取り上げた範囲が5世紀から19世紀までと長期にわたり、議論の内容が多岐におよぶことから、やや消化不良の内容となってしまった感がある。しかし、窯業生産における生産構造の検討は緒に就いたばかりであり、今回は、その前提となる分布図等の基礎的な資料提示がなされ、発表者を含めたシンポジウム参加者がそれを共有しえたことが最大の成果であったと思っている。今後の窯業史研究の進展に期待したい。(藤澤良祐)