2009年度の山形大会は10月17日(土)・18日(日)・19日(月)の3日間にわたって、山形市を主会場に開催された。17、18日は市街よりやや山寄りに行った里山の景観に囲まれた東北芸術工科大学を会場としての講演会、研究発表分科会、図書交換会などであり、19日は山形県内の見学会であった。
第一日目の17日は本館2階201講義室で、13時からの公開講演会に始まった。それに先だって、一般社団法人日本考古学協会菊池徹夫会長と山形大会実行委員会の加藤稔大会委員長の挨拶があり、次いで本大会会場を提供された東北芸術工科大学松本哲男学長から「考古学は夢を与えてくれる・・」という激励を含んだ来賓挨拶がなされた。
公開講演は2本あり、始めは東北工科大学田口洋美教授によってなされた。「技術行動系研究と民族考古学」と題して、東北地方に展開するツキノワグマ捕獲のための吊天井型重力式圧殺罠を実例としてとりあげ、この罠が中部地方にまで広がるベースには自然環境への適応のみならず、その技術が受容される地域の社会環境への適応が存在することが例証された。次いでフランス国立科学研究所研究指導部長ジャック ペルグラン氏によって「ヨーロッパにおける石刃剥離」の講演が山中一郎氏の通訳によって行われた。DVDを使っての具体的な剥離技術の再現に、会場の一同は目を皿のようにして見入っていた。
講演会終了後、15時30分より17時30分まで、3つの会場に分かれて併行して分科会が開催された。分科会Ⅰは「石器製作技術と石材」で、会場は本館4階407講義室、分科会Ⅱは「東北縄文社会と生態系史−押出遺跡をめぐる縄文前期研究の新たな枠組み−」で、会場は本館2階201講義室、分科会Ⅲは「霊地・霊場の考古学−山寺立石寺とその周辺−」で、会場は本館4階408講義室であった。山形を代表する遺跡や史跡をとりあげての分科会で、秋季大会の特色がよく現れていた。
講演会、分科会に併行して、本館1階ラウンジにおいて協会各種委員会による以下のようなポスターセッションも催された。
19時からは会場を一転して、JR山形駅に近いホテルキャッスル「万葉の間」において懇親会が催された。協会を代表して菊池会長、開催地を代表して佐藤禎宏大会実行委員長の挨拶ののち、川崎利夫会員の乾杯によって懇親会の幕は開けられた。当日参加者は当初申し込み数を遙かにオーバーし、150名で締め切ったとのことで、その盛況さに会場は熱気に溢れていた。テーブルには当地の銘酒がズラリとならび、新そばといも煮の屋台が出て、「やまがたの味」が堪能できた。屋台の前には順番待ちの列ができ、売り切れも早かったが、実行委員会の心配りに多謝。終盤近く、次回開催地である兵庫県の岡ア正雄氏による次回大会の紹介と決意表明があり、21時過ぎには解散となった。その後、三々五々と二次会に流れた人も多く、新そばやアケビ、きのこ料理に舌鼓を打った人も多かったらしい。
第2日目の18日は9時より、昨日同様の会場を使って3つの分科会が併行して開催され、昼休憩を挟んで、16時頃まで順調に発表、質疑、討論が進行し、解散となった。そのなかにあって、分科会Ⅰ「石器製作技術と石材」では、コメント・質疑を早めて、昨日公開講演をされたジャック ペルグラン氏によるペルグラン石器教室が野外で開催されることになった。山中一郎氏の通訳のもとペルグラン氏による石刃製作実演である。これには130名の人が押し寄せ、氏の実演に目を輝かせて見入っていた。生憎の天気で、小雨模様になってきたので、教室内に場を移して続行されたが、ここにも多数の人が蝟集していた。
この両日の参加者は会員301名、一般341名の合計642名で、成功した大会であった。本大会は公開で行われているが、このような一般の多数の参加は本協会が目指す公益的活動の成果の一つと言えよう。
昨日以来のポスターセッションは続行され、本日は10時〜15時まで本館1階ラウンジで図書交換会が開かれた。
3日目の19日は見学会である。庄内方面、村山方面、置賜方面の3コースに分かれ、一日かけて県内の主要な遺跡や施設で無事研鑽が行われた。
最後になるが会場を提供いただいた東北芸術工科大学、立派な大会を準備して下さった大会実行委員会、(財)山形県埋蔵文化財センター、山形考古学会、山形県立博物館ならびに関係者の皆さんに厚く御礼申し上げます。
日本考古学協会2009年度大会は、2009年10月17日(土)・18日(日)の2日間を東北芸術工科大学キャンパスにおいて研究発表など、翌19日(月)は山形県内の庄内・村山・置賜の3地域において遺跡見学会が実施された。このうち17・18日は、記念講演と3つの分科会に分かれた研究発表が行われ、会員と一般(非会員)を合わせて642人の参加者があった。
第1日目の午後1時から、菊池徹夫会長、加藤稔大会委員長、松本哲男東北芸術工科大学学長の挨拶の後、田口洋美氏によって「技術行動系研究と民族考古学」、フランスのジャック ペルグラン氏によって「ヨーロッパにおける石刃剥離」と題した公開講演会がなされた。
記念講演に続き、午後3時30分から3つの分科会に分かれてシンポジウムが行われた。各分科会のテーマは、分科会Ⅰが「石器製作技術と石材」、分科会Ⅱが「東北縄文社会と生態系史−押出遺跡をめぐる縄文前期研究の新たな枠組み−」、分科会Ⅲが「霊地・霊場の考古学−山寺立石寺とその周辺−」である。各分科会は第2日目の午後4時までなされたが、その概要については後述する。
17日の午後7時から、市内のホテルに会場を移して、懇親会を開催した。150人の参加者があり、地酒のグラスを片手に芋煮や蕎麦などを食べながら、会員の活発な情報交換がなされた。
このほか、埋蔵文化財の保護や資格制度、歴史教科書などに関するポスターセッション、図書交換会も同じ東北芸術工科大学本館の1階ラウンジを会場として実施された。
山形県で日本考古学協会の大会を開催するのは初めてのことで心配もあったが、今回なんとか無事に大会を終了することができた。会場となった東北芸術工科大学のご支援と実行委員の方々のご努力、それに当日の運営を支えてくれた東北芸術工科大学のOBや学生の方々のご協力に、心から感謝を表したい。
1958年、加藤稔氏の越中山A遺跡の調査で、山形県そして東北地方の旧石器研究が始まった。加藤氏はその後も、山形県内の旧石器時代遺跡の調査を精力的に進め、東北の旧石器研究をリードしていった。加藤氏は、特にナイフ形石器の違いに着目してグループピングを行い、それらの間に時間的な差があることを早くから指摘したが、確定的な結論を得るには至らなかった。層位的発掘による石器群の編年確定は極めて困難であったためでもある。
1970年代に入ると接合資料を基にした石器製作技術の研究も始まった。石刃製作の石核調整の有無や工程の差異で技術段階を示そうとした研究は一定の成果をみたが、その後も技術研究の新たな展開はみられなかった。
2006年、J・ペルグラン博士は京都大学での石器製作教室の後、山形を訪れ、主として石刃の接合資料について観察を行い、一つの接合資料における複数の加撃具の存在など、短時間ではあったが多くの示唆的なコメントを残していただいた。個々の石器群に認められる石器製作技術の実態を把握すること、すなわち石器製作をメトードとテクニークという視点で検討することで、技術研究を進めることに期待をいだかせてくれた。J・ペルグラン博士を招聘した山中一郎氏や石器製作教室に参加した会田容弘氏、大場正善氏はその重要性に着目し、その研究の必要性を説いた。今回、山形県内の旧石器時代の石材環境と県内の出土資料について、動作連鎖という視点で石器製作技術の再検討を行い、技術研究の再構築を試みることを分科会Ⅰの目的とした。
それぞれの発表は要旨や資料集に述べられているが、J・ペルグラン博士による「DVD解説」は、講演において参加者の目を奪った見事な技術による実験的な石刃製作の補則解説が行われた。趣旨説明を兼ねた「山形の旧石器」では、主として動作連鎖の視点で研究に生かせる石器群の紹介があり、「山形県の珪質頁岩石材環境」では、これまで難しいとされてきた産地同定に、ある程度の手がかりを把握できる方法が提示された。
2日目は「石割りのメトードとテクニーク」と題して、再びJ・ペルグラン博士による黒板を使用した石器技術学についての講義が行われた後、出土資料に基づく石器製作の動作連鎖についての発表が続いた。「越中山K遺跡」、「お仲間林遺跡他の石刃石器群」、「細石刃石器群」、「越中山A,遺跡の石刃・尖頭器石器群」、「日向洞窟西地区の尖頭器石器群」についての分析結果とこの方法による有効性、そして、その見通しについての所見が述べられたが、出土資料と同じ石材を用いた石器製作実験が欠かせないとの指摘もあったし、その技術の向上が課題ともされた。
J・ペルグラン博士には、大会前日の16日に県内出土の多数の石器を観察していただいており、18日に発表された各石器群についてのコメントをいただく予定であったが、それは、むしろ製作実験を披瀝することで理解していただけるとの博士の希望もあり、発表終了後、参加者の了解を得て直ちに屋外での「ペルグラン石器教室」となった。多くの参加者に囲まれたなかで、前日に準備された県内採取の珪質頁岩の母型を使った石刃製作等が行われた。ハードハンマー、ソフトハンマーの直接打撃による石刃剥離、また間接打撃による石刃剥離では、それぞれの技術の違いが剥離された石刃に現れる諸現象についての解説がなされた。途中、天候悪化により会場を室内に移したが、室内では主として多様な剥離具を用いた押圧剥離での石刃、細石刃の剥離実験が時間いっぱいまで続けられた。この間、参加者はその見事な技術に感動を覚えながら観察を続けた。
分科会Ⅰの参加者は常時120名ほどを数えたが、非会員の若い研究者も多く、技術研究に取り組もうとする研究者にとって、出土した剥片・石核の観察には石器製作実験による検証が避けては通れないことを痛感されたに違いない。今回、石器技術学の新たな展開を出土資料の観察をとおして試みたが、課題も多い。しかし、製作実験と出土資料のきめ細かい観察はその基本であろう。今後、動作連鎖という視点での研究が深まることを期待したい。このシンポジウムは、J・ペルグラン博士の招聘、通訳を始めとし、山中一郎京都大学名誉教授の全面的な御協力で実現できたことに改めて感謝申し上げたい。
東北地方の縄文早期では、沿岸部に大集落が営まれる。海産食料資源に極めて強く依存した生活があったようだが、生業全体のなかで植物質食料源が占める割合も、すでに高かったとみられる。こうした生業様式は、前期になり顕在化する。磨石、石皿、大型フラスコ状土坑が多数出土し、集落遺跡の立地が内陸部に及ぶという事実は、加工・貯蔵技術の発達と、内陸部への進出を示唆している。つまり、植物質食料資源の利用に長けた社会が成立したと考えられるのである。その背景には、最温暖期への突入に伴う生態環境の変化と、それに対する適応戦略があったとされる。食料の獲得・利用技術の変化は、定住化と集落規模の拡大を促した可能性が高い。一方、必要以上に装飾性の高い器物が、土器型式の分布域で表される地域圏を大きく超えて頻繁に交換されるようになるのも、前期である。山形県高畠町押出遺跡の彩漆土器(諸磯b式中段階)は、その象徴である。
縄文時代の後半期に存在したと考えられる複雑化した社会組織が、近年注目されている。そうした人間関係は前期にまで遡る可能性も指摘されているが、その根拠となる情報はまだ限定的である。だが仮に、複雑化した社会組織が前期に存在したのだとすれば、押出例は奢侈的物資、威信的財物であり、域外(関東)から持ち込まれた器物を用いた儀礼が後代に連なる人間関係を生み出した、とも考えられる。同時期の儀礼祭祀に関連するとみられる事物の大きな変化をあわせみると、その可能性を無下に否定することはできない。
東北縄文前期社会の様相の大枠は以上のように叙述できるが、より具体的な説明ができる局面には至っていない。シンポジウムⅡ『東北縄文社会と生態系史−押出遺跡をめぐる縄文前期研究の新たな枠組み−』は、この問題に取り組むことを目的として企画された。社会面・生業面の構造的変化と環境変動の相関的な把握から、縄文前期とその前後の歴史動態を解明することを目指した。「社会生態学的視点による東北縄文社会の巨視的な位置づけ」→「東北縄文前期社会の全体的把握」→「押出遺跡をめぐる最新研究成果の提示」と、議論の焦点を徐々に絞るための道筋をつけた。各発表は13本の紙上報告をふまえた内容とし、研究成果に厚みをもたせた。
第1部「東北縄文文化研究の新たな枠組み」(1日目)では、まず、発表全体の基本となる生態環境と社会環境の相関関係から縄文時代の構造変動を研究する意義が説かれた。つぎに、最新の古植生データにもとづく縄文時代の生態系史復元が行われた。最後に、大陸側との比較から、縄文時代変動史の位置づけが行われた。これらにより、東北縄文社会の全体像をまず捉えようとした。
第2部「押出遺跡と東北縄文前期の社会」(2日目)では、①資源開発と獲得様式の確立、②居住形態の確立、③集団間の関係構築、④押出遺跡を中心とした山形県における縄文前期社会の様相、という論点をもとに、相互補完的な内容の発表が続けられた。東北6県を対象とした詳細なデータの集成・分析結果の公開とともに、東北縄文前期における環境・生業・居住の全体的把握から、押出遺跡をめぐる最新研究成果の提示へと、議論は進められた。時間的変化を捉えるため、まずは土器編年論を議論しなければならないが、今回は論点を絞るため、これを敢えて議題とはしなかった。ただし、シンポジウム参加者による議論を経て、現状において最も無難と考えられる土器編年案を、事前に準備しておいた。
炭素・窒素同位体比分析による新たな成分分析から、押出例に代表される、クッキー状・パン状炭化物と呼ばれてきた食物に対する従来の捉え方を、根本から変えなくてはならないことが明らかとなった。また、新たな使用痕分析によると、「押出型ポイント」はイネ科植物を切った道具であることが判明した。これは、押出遺跡周辺で先に実施したボーリング調査成果とも整合する結果となった。押出遺跡周辺における戦略的な森林管理の存在も指摘された。東北全体を見渡すと、大木2〜4式期並行期に、細かな時期差・地域差をもちながら、上記①〜③の全点に大きな変化が起きたことも判明した。この直後に形成された押出遺跡の性格は、全体的な変動の過程とともに位置づけられるべきである。今回のシンポジウムでは未解決の問題が多く、検討不十分な項目も残ったが、今後の議論で叩き台となる、前向きな課題を提供することができたと考える。
霊地・霊場を考古学的に検討するシンポジウムは、東北地方では、すでに平成17(2005)年、東北中世考古学会によって行われ、その成果は『中世の霊地・霊場−在地霊場論の課題−』として刊行されている(東北中世考古学会、2006年、高志書院)。今回のシンポジウムでは、その成果を前提として、さらに展開できればと考えている。そのため、今回は山形県を代表する山寺立石寺に焦点を絞って、一般的なアプローチではなく、一つのケース・スタディとして山寺立石寺を取り上げることとした。そうすることで山寺立石寺の現段階での研究状況を把握し、全国に情報を発信しながら、霊地・霊場という場を山寺立石寺を通して考えていく契機づくりができればと考えた。
基調報告として、入間田宣夫氏に「奥羽の霊地・霊場と山寺立石寺」と題して、東北地方のもう一つの霊場である松島との比較を通して山寺立石寺の性格を提示していただいた。さらに近世の『山寺状』という史料の絵図をもとに山寺山内の空間構成を明確に読み解いていただいた。その空間構成の読み解きを通して霊場としての山寺の性格に迫る内容であった。個別報告として、須藤英之氏には「山寺立石寺の調査」として、これまでの発掘調査を中心としてまとめていただき、考古学的な成果を提示していただいた。かつて行われた根本中堂の発掘調査成果と入定窟の調査について詳細に紹介するとともに、近年の調査についても触れられた。
長坂一郎氏には「仏像から見た立石寺」として、仏像をめぐる近年の調査成果を提示していただいた。その調査では9世紀後半に遡る毘沙門天像の存在が明らかにされ、さらに、岩手県・宮城県など東北に残る仏像のオリジナルである可能性が指摘された。時枝務氏には「山寺立石寺の金工資料」として、記年銘のある金工資料を中心に検討していただいた。そこでは有名な「立石倉印」が平安前期に位置づけられる点や鉄鉢の生産地など、新しい指摘がたくさんなされた。また、如法経所碑については、そこがまさに聖なる場所であることを明示する機能を持っていたと指摘された。川崎利夫氏には「立石寺とその周辺の石造文化財」として、立石寺だけでなく周辺地区にも数多く残っている石造文化財の様相をまとめていただいた。山寺立石寺には多くの板碑などの石造文化財が残っており、その内容を紹介していただき、特に千手院地区については、山寺の草創を巡って重要な位置を占めている点を指摘いただいた。
高桑登氏には「上の寺遺跡の発掘調査」として、近年発掘調査が進んでいる慈恩寺の調査成果を報告いただき、山形県内の宗教センターの一つ慈恩寺の調査を提示いただいた。慈恩寺も古代に開創した寺院で、県内ではまとまった形での貴重な調査事例である。さらに山寺との比較を意識した指摘をいただいた。山口博之氏には「山寺立石寺の景観と霊場」として、山寺立石寺を取り巻く宗教的な環境、景観からアプローチをしていただいた。その上で、本シンポジウムのテーマである、山寺立石寺が霊場になっていくプロセスについて、大きく4期に分けた時期区分を提示していただいた。
以上、雑駁な紹介で報告者の意図を正確に反映していないところもあるかもしれないが、簡単な内容紹介としてご容赦いただきたい。なお、研究発表資料集には、山形県内の霊場的な遺跡の調査事例を収録している。ぜひ参照いただきたい。
総合討論では、冒頭で会場からの質問に事実関係を中心に各報告者から回答していただき、その後に今回のテーマに移った。はじめに山寺立石寺の創始についてであるが、貞観2(860)年との伝えがあるものの、その信憑性はこれまであまり評価されてこなかった。しかし、今回の報告では9世紀後半に遡る仏像の存在や「立石倉印」の評価をしていただき、開創時期についてあらためて検討していく視点が提示された。また、霊地・霊場としての山寺についても、従来の板碑や五輪塔といった石造物の存在から捉える視点に対して、如法経所碑の存在を見直すことで新たな視点が提供された。意外と時間が少なく、今回は主に以上の二点を中心に話が進んだ。本来は近世初め頃まで話が行く予定であったが、そこまで行くことができなかった。これについては今後の課題である。 会場の参加者からも多くのご指摘を頂戴し、また報告者からの新視点がたくさん提起されたことにより、山寺の理解にあたって多くの示唆を与えていただいた。このシンポジウムによって、これまであまり実像がわからなかった山寺立石寺の現状が把握され、新たな研究に進展するきかっけとなれば幸いである。