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2012年度福岡大会報告

 2012年度大会は2012年10月20日(土)〜22日(月)の3日間、西南学院大学を会場に開催された。なお、前日の19日(金)には理事会を開催した。地元の大会実行委員会は髙倉洋彰西南学院大学教授(当協会副会長)を委員長として、西南学院大学、九州大学、福岡大学と九州考古学会の合同で結成され、準備が進められた。髙倉実行委員長によると、実行委員会の全体的な会合はほとんど必要ないくらいに、阿吽の呼吸で本番を迎えたとのこと、さすがに九州ならではと感心する。この実行委員会には850頁に及ぶ大部な資料集を準備していただいた。大会期間中の総参加人員は1,040名で、会員242名、非会員の研究者を含めた一般の参加者が約800名あった。

 20日は午後1時に大学チャペルを会場に、田中良之日本考古学協会会長、受入れ側のG.W.バークレー西南学院大学学長、髙倉洋彰大会実行委員長の開会挨拶で始まった。田中会長は協会が現在、図書問題、定款の改定、東日本大震災対応、英文ジャーナルの刊行といった大きな課題に直面しているが、それぞれ特別委員会等で解決に向けて鋭意取り組んでおり、次回総会時に一定の成果を示したい旨、表明された。髙倉実行委員長は福岡を中心とする九州は海外交渉の窓口であり、今大会の4分科会のテーマはいずれも、それに関したものとし、講演会も東アジア世界に一体感を持たせるように構成した旨の説明があった。この後直ちに公開講演会に移った。

 講演会は当初、3本立てで構成したが、中国社会科学院考古研究所所長の王巍氏は、最近の日中間の深刻な関係が反映された形で、急遽来日が中止となった。このため、韓国・中部考古学研究所所長金武重氏、西南学院大学教授髙倉洋彰氏の2本立ての講演となったが、両氏には無理をお願いして講演時間延長で乗り切っていただいた。金所長の「原三国時代の鉄器生産と流通」では、最新の調査データを含めた60カットに及ぶパワーポイントのスライドで原三国時代の鉄器生産と流通の問題を語っていただいた。わが国の弥生時代後期に相当する韓国原三国時代の鉄資料のすごさに圧倒される思いであった。髙倉教授の「踏絵の一形態−紙踏絵の紹介と検討−」は、氏が本来弥生時代研究者として知られるだけに、異質の内容であったが、箸の考古学的研究を始め、氏の広範囲に及ぶ研究ぶりを如実に示すものであった。ユーモアたっぷりの話の最後に、考古学を目指す若い人に好奇心を持つことの大切さを強く説く好講演であった。聴衆は約390名で、盛況であった。

 公開講演会の後、大学博物館に移動して、現在開催中の特別展示「キリシタン考古学の世界」を見学した。髙倉教授の講演で取り扱われた紙踏絵も展示中で、日頃接する機会の少ないキリシタン遺物に目を奪われ、中には放映中のイスラエルのキリスト教遺跡関連の1時間番組をしっかり見切った会員もいた。その後、隣接する西南クロスプラザ2階の会場に移動して、恒例の懇親会となった。田中和彦理事と田尻義了実行委員の司会により、田中会長、小山雅亀西南学院大学副学長の挨拶で始まり、いつもながらの和気あいあいとした懇親の場となった。実行委員会によると、思いがけず180名近い参加を得て大盛況となった。その中で、故あって30数年ぶりに大会に参加されたという、乾杯の音頭をとられた小田富士雄福岡大学名誉教授が、「最近の協会はかつての騒然とした時期の状況に似ている。執行部は緊張感を持って運営にあたってほしい」と発せられた一言に気が引き締まる思いであった。会の後、会員は三々五々で天神や中洲に散っていったようである。

 21日は学会主要行事である分科会(シンポジウム)、ポスターセッション等が実施された。分科会は「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」(出席者約200名)、「ミヤケ制・国造制の成立−磐井の乱と6世紀代の諸変革−」(約250名)、「白村江から怡土城まで−7・8世紀の国際緊張関係とその遺跡−」(約70名)、「解明されてきたキリシタンの実像−キリシタン考古学の可能性−」(約60名)の4本立てで、それぞれが九州と大陸との交渉が主テーマであった。いずれも盛況で、600名前後の参加があり、各シンポでは活発な意見交換があった。研究発表の合間には多くの会員が関心のある発表ごとに、大部の資料集を抱えて会場を早足で移動するという、いつもながらの光景が見られた。ポスターセッションは分科会テーマに沿った、最新の興味深い研究内容が展示され、その場での質疑が活発に行われた。当協会の社会科・歴史教科書等検討委員会展示は担当の釼持輝久理事が力を入れ、もっとも広いスペースで比較の教科書も多く並べて、目立つものとなった。埋蔵文化財保護対策委員会ではポスター展示のほか、情報交換会も開催し、福岡県教育委員会文化財保護課の宮地聡一郎氏が「福岡県の埋蔵文化財保護行政の現状と課題」を基調報告した。休憩時間等の図書交換会場では例年のごとく、多くの会員が行き交った。

 見学会は最後の日程となる22日に実施された。今回の見学会は髙倉実行委員長のお考えで、見学予定地の随所(九州国立博多物館【案内:赤司善彦展示課長】・太宰府天満宮神宝館および境内【案内:味酒安則禰宜兼総務部長】・観世音寺宝蔵および境内【案内:石田琳彰住職】・大宰府政庁跡および大宰府展示館【案内:重松敏彦古都大宰府保存協会事務局長】)で参加、離脱が可能な形で組んでいただいた。観世音寺では髙倉実行委員長にそっくりの石田住職の直々の解説で、日本最古の国宝銅鐘を全員で撞く貴重な機会も得た。開始時点で22名の参加があり、途中の増減を経て解散時には14名だったということで、筆者は都合で参加できなかったが、この方式の有効性を感じている。

 当協会の大会は九州では過去に6回開催され、福岡での開催は、前回1990年の九州大学での開催に次いで今大会が2回目となるが、心配された21号台風の影響もなく期間の大半を好天に恵まれ、成功裏に推移したのは、随所で発揮された髙倉実行委員長の怪気炎のおかげかもしれない。委員長を陰ながら支えた実行委員会各位、さらに3大学の学生諸氏の微に入り細を穿ったお世話ぶりに感謝したい。

(総務担当理事 古瀬清秀)

2012年度福岡大会の概要

●第1分科会「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」

 本分科会は、前日の公開講演の金武重(韓国 中部考古学研究所)「原三国時代の鉄器生産と流通」とも連動しているが、弥生時代西日本地域の鉄生産の実態と韓半島における楽浪郡の鉄器生産の実態に迫るシンポジウムであった。

まず司会者の武末純一が、シンポジウムのねらいとして「弥生時代後半期と原三国時代の製鉄・鍛冶遺構の実態と地域性、原料鉄・鉄素材の多様性と生産地、遺構・遺物から推定される技術の地域性、鍛冶工人集団の配置状況と政治権力との関わり、製品・原料鉄・鉄素材の流通状況とそこからうかがわれる弥生時代後半期の東アジア世界の様相、地域社会の変貌などを議論したい」と述べ、基本的なシンポジウムの方向性を示した。

 宮本一夫(九州大学)は、「北部九州の鉄器生産と流通」というテーマで、長崎県壱岐カラカミ遺跡の発掘成果から、北部九州の鍛冶関係遺構には、村上恭通のⅠ〜W類の鍛冶炉以外に韓国勒島遺跡の鍛冶炉などとの比較から、地上式のX類を提唱した。そしてこのX類鍛冶炉では、鍛冶のみならず二次素材などの精錬工程も実施していた可能性を指摘した。さらに、カラカミ遺跡では、鉄素材の一つの可能性のある小型板状鉄製品を加工し、北部九州と半島との中継交易拠点の可能性があり、「銑卸し鉄法による精錬が為されていた可能性があり、精錬工程が弥生時代後半期において既に始まっていた可能性」をも指摘した。

 野島永(広島大学)は、「弥生時代後半期の鉄器文化(近畿・瀬戸内地域)」というテーマで、集落内において鉄器がどのように保有されていたかを分析し、それを類型化し、

 以上3つの類型を行い、鉄器保有A類が一般的となる瀬戸内山陽地域では、鉄器生産主体型鍛冶遺構が目立っており、四国地域東部では鉄器生産併行型の鍛冶遺構が散在し、鉄器保有C類が含まれる。山陰・近畿地方北部の一部は、鉄器保有C類が見られたが、近畿地方北部では鉄器生産従属型の鍛冶遺構があり、山陰地方にも同様な状況の鍛冶遺構が存在する可能性が高いと結論付けた。

 池淵俊一(島根県埋蔵文化財調査センター)は、「山陰の鉄器生産と流通」というテーマで、同地域における鍛冶炉の分析、鉄素材の分析を行った。そして弥生時代中期段階は、鉄資源投入に関する明確な戦略性がまだ見出せない段階。弥生時代後期前葉から中葉段階になると鉄鏃やヤリガンナ等の小型の工具類など小型の鉄製品に集中的に鉄が投入され、後期後葉から終末期にかけては、流入する鉄資源の総量が増加するとともに対象器種が大型の鉄製品にまで拡大すると結論付けている。

 鈴木瑞穂((株)九州テクノリサーチ)は、弥生時代に出土する鋳造鉄器と鍛造鉄器に関して、主として反射顕微鏡を用いた金属組織観察調査事例からの調査結果の報告を行った。その結果、鍛造剥片が出土するような本格的な鍛冶技術は弥生時代には存在せず、鉄片をひとつの鉄素材にまとめて再利用するような「沸かしづけ」の技術の出現は古墳時代初頭以降であり、弥生時代の鍛冶技術との間に大きな差があると結論付けている。

 鄭仁盛(韓国・嶺南大学校)は、「楽浪郡の鉄器生産」というテーマで、東京大学に収蔵されている楽浪郡出土鉄器を整理した結果や最近の韓半島における初期鉄器時代の遺跡の発掘調査成果を述べている。その中で、韓半島の中部では、帯方郡が設置される時期を前後して、郡県において在地的な鉄と鉄器生産が行われていたこと。「大河五」銘の鋳造鉄斧は鉄官の設置論にも絡んで、従来韓半島西北地域で生産された鉄斧であるとされていたが、鄭は「前漢前半代に漢の内郡である大河郡の鉄官で製作された鉄器が、辺郡である楽浪郡に供給された」ものであること。そして嶺南地域の鉄(器)生産技術は、すでに楽浪郡の設置前に確立していたことなどを述べた。

 最後に5名のパネリストに前日公開講演を行った金武重が加わり、6名によるシンポジウムが行われた。

 韓国における鉄器生産遺跡の調査が進んでおり種々の問題に関して熱い議論が行われたが、結局北部九州で製作されたであろう長大な鉄戈などの鍛冶技術などに関しては、現状では何ら手掛かりは得られなかった。また、弥生時代の鉄製錬に関しても熊本県阿蘇周辺の弥生時代後期に鉄器を大量に出土する遺跡が、リモナイトの分布地域と一致することなどは事実として指摘できるが、直接両者を結びつけることのできる遺跡はまだ確認できていないなど、今後の研究の方向性はある程度絞ることのできたシンポジウムではなかったかと考えられる。

(福岡大会実行委員会 松井和幸)

●第2分科会「ミヤケ制・国造制の成立―磐井の乱と6世紀代の諸変革−」

 6世紀は、5世紀代に始まった社会の基層構造の変動、具体的には親族構造の変動が、社会的地位や財の継承法の変動を引き起こし、ウヂという新たな政治的・社会的集団の形成を促し、それが王権運営のための職務分掌システムの受け皿となり、また一般民衆の生存財生産における生産単位の増大を引き起こすことによって、やがてヤマト王権内部、王権と地方首長の関係、各地の地方首長の支配圏にまで深刻な影響を引きずり起こし、それが475年の百済・漢城の陥落以後の激烈な半島情勢・国際環境と相まって、中央・地方の支配制度・機構の構築、権力集中への動きが加速した、まさに重要な時期である。

 近年の文献史学界では、ヤマト王権によって、地方支配体制としてのミヤケ制・国造制が整備されるようになった契機を筑紫君磐井の反乱とみる見解が有力となっている。また、ミヤケ制・国造制がすでに始まっていた部民制と深く連動するようになり、いわゆる大化前代の中央の族制的分掌体制、地方支配体制、人的・物的資源の全国的収取システムの構築ができていった。すなわち磐井の乱は、ヤマト王権の全国支配の展開上、重要な意義を持つとみなせる。そこで確立されたシステムが約百年弱機能し、やがて7世紀前半に至って人民の縦割り的細分の弊害、制度の機能不全の進行、権力集中の限界の露呈などによって、また白村江の敗戦後は国際情勢の緊迫化による臨戦的動員体制構築の緊急化などによって根本的原理転換が図られるまでは、曲がりなりにも機能することとなった。そういうシステム形成の契機として磐井の乱は重要であった。

 その磐井の乱については、すでにさまざまな研究会や研究書、シンポジウムで論じられてきたが、磐井の乱を挟んで雄略朝から欽明朝にかけての政治的・社会的変動を、ヤマト王権による九州支配の展開の側面と、在地首長の側の連合関係の形成やその変転の側面とを総合し、考古学・文献史学双方の成果をつき合わせて究明する必要性は、いささかも減じてはいない。そこで、当分科会では、このテーマの検討に最も適任の文献史学者2名・考古学者3名で磐井の乱と九州を舞台とする6世紀代の諸変革を明らかにすることを目論んだ。文献史学者には、ミヤケ制・国造制など王権の地方支配機構研究の現状と課題、磐井の乱後のヤマト王権による九州支配の展開状況に関する古代史学の研究成果をご披露頂いた。考古学者には、考古学資料の詳細な通時的・共時的動態分析を、北部九州各地の在地首長やヤマト王権の権力構築や支配機構形成の解明と連動させて遂行して頂く。具体的には、古墳やその副葬品などの考古学資料から、九州各地の在地首長やその支配領域の磐井の乱前後の動向、および、ヤマト王権の支配の進展の実態を詳細に解明頂いた。各研究発表の概要は以下のようである。

 奈良女子大学・研究院人文科学系教授の舘野和己氏には「ミヤケ制の研究の現在」と題して発表頂いた。舘野氏はかつてミヤケの基本を、農業経営あるいは水田経理の拠点とみるのが主流だったミヤケ論を、ヤマト王権の政治的軍事的拠点とみる方向へ転換され、その後の研究の流れを構築された。今回はミヤケの本質、ミヤケと国造、ミヤケと田地の関係、筑紫君磐井の乱とミヤケについて持論を展開された。

 福岡教育大学の亀井輝一郎氏には「ヤマト王権の九州支配」と題してご発表頂いた。亀井氏はかねて「磐井の乱の前後」・「ヤマト王権の九州支配と豊国」などの論文で、磐井の乱前後の北部九州への王権の支配の浸透について考察されてきた。今回は、ヤマト王権と九州、ミヤケと九州支配、筑紫大宰の出現と九州、古代山城と九州統治について、九州と畿内との交通の確保を中心に論じられた。

 九州大学の辻田淳一郎氏には、青銅鏡を中心とした遺物論や古墳の内部構造などの遺構論に基づき「雄略朝から磐井の乱に至る諸変動」と題してご発表頂いた。5世紀後葉から6世紀前葉における中央政権の変動、5世紀後葉から6世紀代の北部九州における諸変革を詳細に跡付け、「継体朝」期の諸変革の意義を明らかにされた。

 ミヤケの考古学的研究については、個別ミヤケの位置決定論、機能論とからむ生産遺跡との関係、首長や社会諸集団の動向との関係など論ずべきことは多岐に渡るため、かねて「九州の屯倉研究入門」という論文で精力的な考察をされた福岡大学の桃ア祐輔氏に「九州の屯倉研究序説」と題して発表頂いた。今回は、考古学的なミヤケ認定の方法、北部九州のミヤケの実態について、考古学的情報を総動員して研究の到達点を披露された。

 また、博多湾・玄界灘沿岸には王権の支配拠点遺跡が展開しており、発掘調査によって様相がかなり判明している全国的にも貴重な遺跡群があるが、「那津の口の大型建物群について」「福岡平野の6〜7世紀の建物群の様相について」などの論文ですでに検討を深めてこられた福岡市経済観光文化局の菅波正人氏には、「博多湾岸のミヤケ関連遺跡」と題してご発表頂き、それら遺跡の最新の成果に基づき、王権の地方支配拠点の成立や展開について追究頂いた。

 そのうえで、13時50分からのシンポジウムでは、以上の古代史学・考古学の成果を突き合わせ、現在における研究の到達点と今後の課題を明らかにした。

 また、博多湾・玄界灘沿岸の重要遺跡については、以下のポスターセッションで成果を発表した。

 福岡市経済観光文化局・森本幹彦氏「比恵・那珂遺跡群と有田遺跡群の諸問題」。古賀市教育委員会・甲斐孝司氏「鹿部田渕遺跡の諸問題」。九州大学総合研究博物館・岩永省三「糟屋屯倉中核施設所在地の可能性」。

(福岡大会実行委員会 岩永省三)

●第3分科会「白村江から怡土城まで―7・8世紀の国際緊張関係とその遺跡―」

 第3分科会は、2日目に大会会場2号館3階301教室において、報告とシンポジウムを行った。まず、司会の赤司善彦氏から研究発表要旨に従って趣旨説明があった。その後、報告に移った。寺井誠報告では、難波と筑紫の朝鮮半島からの土器搬入のあり方を検討し、7世紀後半になると搬入された土器が出土する地域が、難波では難波から飛鳥へ、筑紫では早良平野から福岡平野・大宰府へと変化することを報告した。

 次に岡寺良報告では、大宰府政庁跡の3期にわたる遺構変遷を確認した上で、近年の蔵司地区の調査成果を紹介した。蔵司地区では、大型礎石建物の性格と大量の被熱鉄製遺物が注目される。鉄製遺物は同じく被熱した瓦の年代から、8世紀後半頃のものと推定される。文献史料からも考えられていた大宰府の武器生産を考古学的に検討できる資料である。

 鉄生産と関連して、続く村上恭通報告では、6世紀に吉備で成立し、7世紀に近江で完成した長方形箱形製鉄炉が、7世紀後半から「国家標準型」製鉄炉として東北や九州に移植されることを指摘。一方、北部九州では6世紀以来、送風管1本を備えた在来の製鉄炉で製鉄を行っていたが、7世紀後半には「国家標準型」製鉄炉を受容する。しかし、独自に製鉄を行っていた北部九州は中央の製鉄炉の発展にとらわれず、在来化した箱形炉で鉄生産を続けるとした。さらに怡土城造営・経営と元岡・桑原製鉄遺跡群をはじめとする糸島地域の鉄・鉄器生産が密接な関係を持っていたことも指摘する。また韓半島の山城や国内の鬼ノ城、永納山城で鍛冶が行われており、大野城では年代不明なものの、製錬滓と思われるものが出土しており、製鉄までもが行われていた可能性も示唆された。

 小澤佳憲報告では、朝鮮式山城と神籠石系山城の石塁構築工法を詳しく検討した。横目地布積や、もたせかけ積、重箱積といった工法を見出し、朝鮮式山城(Ⅰ型)と瀬戸内の神籠石系山城(Ⅲ型)、瀬戸内の神籠石系山城と北部九州の神籠石式山城(Ⅱ型)がそれぞれ近い関係にあるとして、Ⅰ型→Ⅲ型→Ⅱ型という築城年代の変遷も推定した。

 最後に、加藤隆也報告では、鍛冶道具を副葬した古墳の例にもとづき、6世紀から7世紀にかけて糸島地域に製鉄工人集団が存在していたことを指摘。元岡・桑原遺跡群の発掘調査成果を紹介しつつ、従来からの製鉄工人集団の存在が、大宰府管轄の官営工房であった可能性を持つ元岡・桑原遺跡群を成立させたとする。さらに、早良平野南奥部に位置する金武青木遺跡の大型建物群の調査成果をふまえ、この遺跡が、怡土城築城や経営を含め、早良平野から日向峠を越えて糸島平野に至る人や物資を供給する後方支援を行う大宰府関連の公的施設であることを指摘した。

 シンポジウムでは、赤司氏・酒井の司会により、討論が進められた。最初は、古代山城が築城された目的について議論された。まず、唐津市・中原遺跡の成果もふまえ、山城を護るのは防人ではなく軍団兵士であることを確認した。その後、古代山城の築城目的について、小澤氏が朝鮮式山城と瀬戸内の神籠石系山城は唐・新羅、北部九州の神籠石式山城は南九州の勢力を意識しているのではないかとの意見を示した。一方、向井一雄氏から7世紀は唐を8世紀には新羅を意識していたとの見解も示された。岡寺氏は水城・大野城築城の背景には、やはり大宰府の防衛という意味があったとした。

次に韓半島からの土器搬入の問題に移り、寺井氏から7世紀前半には難波に外交機能があったが、7世紀後半の難波宮造営から飛鳥還都以降、飛鳥に外交機能が集約されること、また、7世紀には福岡西部で百済の土器が少し出ており、外国との交流を那津や大宰府に独占できていない可能性が指摘された。さらに、村上氏に山城での鍛冶生産についての事実確認が行われ、小澤氏には山城内部での日常生活について司会から質問があり、貯水を意識していることに留意する必要があるという回答があった。

 続いて早良地域の鉄生産の問題に立ち帰り、加藤氏は、この地域は6世紀以来の工人が存在し、鉄生産に特化した地域であるとした。また、村上氏から在来の鉄生産がさかんに行われていた地域であること、茨城県・鹿の子C遺跡のように軍団に鉄器生産集団が付随する例があることとの関連が指摘された。大宰府の蔵司については、岡寺氏から8世紀における大宰府の武器集積の可能性が十分にあることが述べられた。

 以上、議論は多岐にわたったが、6世紀から8世紀まで続く糸島・早良地域における鉄生産、また同地域が7世紀前半には対外交流の拠点でもあったこと、律令国家の成立にともない、この地域の鉄生産機能と対外交流機能が大宰府に掌握されていくことが浮き彫りになった。さらに、8世紀以降においては、大宰府自体が大きな鉄生産能力を保有し、また従来からの糸島・早良地域の鉄生産機能を生かしながら怡土城も造営された。怡土城は仲麻呂政権による新羅征討計画とも密接に関わる山城であり、糸島地域が前代以来の外交上の重要な位置づけをなお失っていないことも印象付けられた。

(福岡大会実行委員会 酒井芳司)

●第4分科会「解明されてきたキリシタンの実像−キリシタン考古学の可能性−」

 キリシタン考古学では、キリシタン信仰が行われた16世紀中頃から17世紀中頃にかけてと、考古学の中では比較的新しい時代を対象としている。キリシタン信仰については内外に多くの文献資料も残っており、これまで専ら文献を中心に研究が進められてきた。他方、キリシタンの信仰形態を継承するかくれキリシタン信仰に関する資料の中にも、キリシタン時代まで遡る様々な信仰遺物が継承されている。だがその一方で、明確な由来が確認できないにも拘わらず、キリシタンやかくれキリシタン信仰と結びつけて解釈されている「虚構の」資料も数多く存在し、その峻別も課題となっている。髙倉洋彰は公開講演会で紙踏絵を例に、考古学的な研究手法を用いて資料の真偽を検証する方向性を示した。発掘によって得られたキリシタンの遺構や遺物の知見が、一方向からの主観的な記述に偏る部分もある文献資料の解釈の限界を、補完する可能性をもつ点も重要だろう。

 こんにちキリシタン考古学が重視する対象として、遺物的側面ではメダイ・コンタツ等の聖具があり、遺構的側面では地下の棺・墓壙と地上の墓碑等からなるキリシタン墓(墓地)がある。後藤晃一は、1587年に島津氏の侵攻によって焼亡した豊後府内においては、焼土より下層から府内型メダイやヴェロニカのメダイが出土し、それらにタイのソントー鉱山から産出された鉛が使われている事を鉛同位体比分析によって突き止めた。一方、各地で出土ないし伝世する1600年以降のメダルについては多くがヨーロッパ伝来の真鍮製品で、その渡来にスペイン系托鉢修道会が関与した可能性を指摘した。井藤暁子は、茨木市北部の千提寺、下音羽地区のかくれキリシタン信者の家々で継承されてきたメダイや絵画、教義書など、キリシタン信仰に由来する資料の構成を分析した結果、千提寺の方には16世紀後期の、下音羽の方には教義書を含む17世紀の信仰具が継承されている事を明らかにした。また千提寺に伝存するコンタツ(ロザリオ)について、紙やメダイの挟み方が祈りの数の年代変遷に対応する点についても言及している。会場の松本慎二、神田高士からも、原城などから出土した鉛クルスとその製作法についての説明があった。

 キリシタン墓(墓地)については下川達彌、田中裕介、大石一久が報告したが、田中はキリシタン墓地の配置について言及し、高槻城下や野津下藤で発掘された墓地では、聖なる施設(教会・十字架)とそれに向かう参道が存在し、参道に沿って左右に墓列が並ぶ(墓軸は道と直交する)スタイルを取る事を明らかにした。また高槻城下墓地には成人と小児の墓列が別個に存在するが、高槻や府内では大人(おそらくは母親)の棺の傍らに小児棺を配した例もあるという。なお17〜18世紀にイエズス会が造営した北京の柵欄、正福寺の宣教師墓地や、19世紀後期以降、外海系の復活カトリック信者が造営した久賀島細石流、田平瀬戸山の墓地でも、聖なる施設と参道を基軸とした墓地の配置が認められるが、墓軸は参道と並行する(死体が起きた時、聖なる施設と対面する)形を取る事を示した。翻って日本のキリシタン時代の墓の向きを規定するものが何なのか検討する必要があるが、会場の神田高士からは、下藤墓地の墓の向きは寺小路磨崖クルス碑を意識している可能性が指摘されている。大石は、全国のキリシタン墓碑を立碑と伏碑(柱状、板状)に分類し、1604(慶長9)年を初見とする柱状伏碑については、大村に残る半円状の板状立碑や、かつて長崎市内にあったと記録に残る1589年建立のやや奥行きがある半円状板状立碑のポルトガル人墓の形状などが影響して成立した可能性を示唆している。下川は、ヨーロッパ各地の墓地を観察した知見から、ヨーロッパの墓地でも半円柱形の地上構造は見られるものの、日本のような墓碑ではなく内部に遺体を納める場合もあり、遺体自体それ程長く墓に留まっていないなど、日本人の葬墓観念との違いを論じ、ヨーロッパから日本に伝来する途上での変容の可能性を示唆した。

 イエズス会における布教方針の変化やスペイン系托鉢修道会の影響など、キリシタン遺構・遺物の時期差・地域差を生じさせた原因の追求も、今後の課題となるだろう。

(福岡大会実行委員会 中園成生)