2015年度奈良大会は、晴天の中、10月17日(土)〜19日(月)の3日間、奈良県奈良市の奈良大学で開催された。今回の大会は、学校法人奈良大学創立90周年事業として行われたもので、坂井秀弥大会実行委員長のお骨折りもあって、2日間でのべ約700名もの参加者を得ることができた。
10月17日の午後には、倉洋彰会長がまず挨拶を行い、奈良県における大会開催が、1985年、1992年、2002年に次いで4回目であることを述べた上で、協会図書の寄贈をふまえて、奈良大学を日本における考古学文献のセンターにしていきたいと語られた。続いて、奈良大学文化財学科の坂井秀弥大会実行委員長から挨拶があり、文化財学科の創設が1979年に溯ることが述べられ、次に市川良哉理事長から挨拶があり、奈良大学が1925(大正14)年創設の南都正強中学に溯ることと日本考古学協会から受贈した図書63,000冊のうち、17,000冊の整理が終わっていることが述べられた。
記念講演は、2本の講演があり、最初の講演は、奈良県立橿原考古学研究所所長の菅谷文則会員による「7〜8世紀の国際交流−出土品個々の研究から制度の考古学研究の成果へ−」と題する講演であった。国際交流のもっとも大きな項目が、京都(けいと)の布置計画とその施工であるとし、藤原宮を例にだされ、その建設は、天智朝の遣唐使あるいは、天智・天武朝の遣新羅使からの情報に基づいたもので、その建築群は、律令を地上に具現するためのものであったとした。一方、もう一つの制度である仏教については、これまで伽藍建築のみが資料とされてきたが、近年、磚仏などの出土地が7世紀末の私宅における仏教供養を示す可能性があるものとして扱われるようになり、そこが小規模な伽藍寺院になってゆく傾向があることが指摘された。また、天平以降の奈良時代に創建された伽藍は多くないことを指摘した上で、屋根瓦を用いない檜皮葺などの小規模な寺院や山岳寺院の調査研究が喫聚の課題であるとした。
次の講演は、奈良大学学長である千田嘉博会員による「城郭考古学から歴史を考える」と題するものであった。従来、文献史学による研究分野と一般に認識されてきた戦国・織豊期の研究も遺跡としての城から多くのことを明らかにできるとし、信長の城に焦点をあて、その初期の居城である清須城(愛知県)と那古野城(愛知県)は、館型の城が横並びに連結してできた構造を持つ城で、その構造は、大名と家臣との連合・分立的な権力を反映したものであるのに対して、小牧山城(愛知県)→岐阜城(岐阜県)→安土城(滋賀県)と、居城を移転するにつれて、城内における信長と家臣の屋敷の隔絶性が深まっていったとした。そして、信長の最後の城である安土城の強力な求心的城郭構造は、まさに信長を頂点にした新たな社会構造を象徴するものであったとした。こうした点をふまえ、信長の城の歴史的意義と画期性は、単に天守や瓦、石垣を用いはじめたという近世城郭の表層の特色を規定しただけでなく、近世社会のあり方そのものを規定した点にあるとした。信長については、中世の枠組みをこえることはできなかったという評価もあるが、城郭から見た時、まさに近世の開拓者といえることがよくわかる講演であった。
講演会終了後、懇親会の前に協会寄贈図書が収められた大学図書館と「縄文から中世の秋篠・山陵」という展示が行われていた大学博物館の見学のための時間が設けられていた。
その後、午後5時半から奈良大学食堂で懇親会が開催された。倉洋彰会長の挨拶の後、千田嘉博学長の挨拶、坂井秀弥大会実行委員長の乾杯で始まった。和気藹々の雰囲気で会が進行し、途中奈良の銘酒白滴の樽酒がふるまわれ、会場は一段と盛り上がった。そして、次回青森大会開催地として弘前大学の関根達人教授の歓迎の挨拶と続いた。最後に宮本一夫総務の挨拶で締めとなった。
10月18日は、3つの分科会が平行して終日開催された。すなわち、古代を扱う「倭国から日本へ−考古学と文献史学による飛鳥・藤原京の再検討−」、中近世移行期を扱う「中近世移行期の城と都市」、現代の日本考古学が直面する問題を扱う「大学教育と文化財保護」の3つである。
「倭国から日本へ」の分科会では、木下正史会員による趣旨説明および総論としての「飛鳥・藤原京の時代−文明開化の時代−」という発表の後、各論として飛鳥・藤原宮都と墳墓や古代寺院との関係、藤原京の条坊制の成立過程、飛鳥・藤原京跡出土木簡から見た古代国家形成についての発表があり、また、古代朝鮮三国時代の都城と藤原京を比較した発表や飛鳥・藤原地域における近年の調査成果を紹介する発表があった。中でも藤原京の条坊制の成立過程についての発表は、時期ごとの建物や塀の造営方位に着目したもので、飛鳥宮の建物や塀の造営方位が第U期から真北を向くようになり、さらに第V-B期になると飛鳥宮周辺の建物や塀の造営方位も真北を向くようになるというように、真北を向いた建物の並びが徐々に広がって条坊制が成立する状況がわかり有り難かった。
「中近世移行期の城と都市」の分科会は、全国から中近世移行期の城郭の事例を集めて発表を行ったものである。すなわち、宮武正登会員による問題提議「『中近世移行期の城と都市の考古学』の目的と意図」の後、北から南東北の事例として会津若松城(福島県)と神指城(福島県)が、北関東の事例として唐沢山城(栃木県)と佐野城(栃木県)が、南関東の事例として小田原城(神奈川県)が、東海の事例として小牧山城(愛知県)が、北陸の事例として金沢城(石川県)が、近畿の事例として多聞城(奈良県)が、九州の事例として肥前名護屋城と移行期の九州諸城が取り上げられた。各地域の地域的様相が見えてくるとともに、特に肥前名護屋城(佐賀県)とその関連施設の築造が、全地方大名にとって新たな築造技術習得の絶好の場となり、結果として国内城郭の近世化促進と地域格差の縮小に繋がったと推定できるという指摘は重要であると思う。また、九州の移行期城郭の形態的特徴の類型化として提示された3類型:全面更新型(T類)、中心部更新型(U類)、要素別更新型(V類)が、他の地域ではどうなのかという点も今後興味ある点であると思う。
「大学教育と文化財保護」の分科会では、坂井秀弥会員による「大学教育と文化財保護における現状と課題」という発表の後、行政に所属する3氏と大学に所属する2人の会員の発表があり、最後に英国の大学に所属する会員から欧州と英国における考古学教育についての発表があった。行政側の課題として挙げられたのは、多くの職員が退職期を迎えているにもかかわらず、専門職を志望する者が減少していることである。一方、大学側の課題として出されたのは、出席と学業成績の管理の厳格化に伴って、学生時代に発掘現場を体験できる機会が激減し、即戦力の専門知識と技術を獲得することが難しくなっていることである。こうした問題の解決策の一つとして、高橋龍三郎会員によって報告された、早稲田大学が2014年度に公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団と協定を結び実施しているインターンシップが注目される。インターンシップは、大学の単位として認定される制度だからである。また、坂井秀弥会員によって指摘された、広範かつ多様に展開してきている市民・住民による文化財の保存・活用の潜在的担い手として専門職員にならない多くの考古学専攻生がいることに留意し、大学はその育成に努めなければならないと思う。
分科会とは別に4本のポスターセッションが2日間にわたり実施された。すなわち、研究環境検討委員会による「考古学研究における後継者育成の現状2−大学アンケートの集計結果の分析−」、社会科・歴史教科書等検討委員会による「小学校社会科(歴史)教科書における弥生・古墳時代について」、埋蔵文化財保護対策委員会による「東日本大震災復興事業に伴う埋蔵文化財調査の現状(V)」、協会図書に係る検討小委員会による「協会所蔵図書の奈良大学図書館への寄贈と活用について」が講堂2階で行われた。(ただし、「協会所蔵図書の奈良大学図書館への寄贈と活用について」は1日目は図書館1階で掲示された。)
10月19日には見学会が行われ、奈良市埋蔵文化財調査センター、藤原宮、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室、酒船石、明日香村埋蔵文化財展示室、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館を見学した。藤原宮は、分科会Tで扱った遺跡で、発掘中の所を見学することができ大変有意義であった。
また奈良県立橿原考古学研究所附属博物館は、休館日のところを特別な計らいで見学させて頂いた。
このように約100名の学生のお手伝いもあり成功裏に奈良大会は終了した。 (総務担当理事 田中和彦)
分科会Tのテーマは『倭国から日本へ−考古学と文献史学による飛鳥・藤原京の再検討−』である。まず、コーディネーターを依頼した木下正史氏より、総論「飛鳥・藤原京の時代−文明開化の時代−」というテーマで全体像が示され、論点を明らかにした。つぎに今尾文昭氏による「大古墳群の終焉と『都市陵墓』の出現−『可視』から『認識』への変質−」(「『都市陵墓』としての飛鳥・藤原の墳墓」から変更)の発表があり、陵墓の計画的配置と都市の関係が論じられた。都城制については、林部均氏による「古代国家の形成と飛鳥宮、藤原宮・京」の発表があり、飛鳥宮から藤原宮に至る都市の変遷が示された。寺院については「飛鳥藤原の宮都と古代寺院」というテーマで花谷浩氏の発表があり、瓦から見た寺院の変遷、残された寺院研究の課題が論じられた。
続いて出土遺物に視点を移し、市大樹氏による「飛鳥・藤原京跡出土木簡から見た日本古代国家の形成」の発表があった。7世紀前半に使用され始めた木簡から、行政組織・制度の確立と変質を読み取るものであった。さらに、山田隆文氏から「東アジアにおける古代朝鮮と日本の都城」の発表があり、百済・新羅・高句麗の都城について、日本との比較検討がなされた。最後に、相原嘉之氏より「飛鳥・藤原地域における近年の調査成果」と題して、豊富な写真を用いて最新の調査成果が論じられた。
発表の終了後、発表者全員が壇上に上がり、木下氏による質疑応答と総括がなされた。会場には多くの研究者、学生が集い、第一線の研究者による最新の研究成果に聞き入った。 (奈良大会実行委員会 豊島直博)
中近世移行期の研究において、都市、城郭研究が重要であることは言を俟たないが、その中において近年、格段に重要性を増しているのが考古学的研究である。かつては「おらが町の城」顕彰が主であった城郭研究も、城郭構成パーツの型式論やその集合体としての城郭様式論など、精緻かつ横断的な研究が行われ、城郭と城下町の構造研究は都市史研究全体に大きな影響を与えるようになっている。こうした昨今の状況下、本分科会では中近世「移行期」の特徴的現象、あるいは「移行期」そのものの年代観の標識事象など、中近世転換点の具体的様相を「城」と「都市」を媒体に探ることを目的としてテーマ設定を行った。
分科会開催に当たっては、福島から佐賀まで、全国各地の主要城郭7か所を取り上げ、築城過程、基本構造、城下との関係、地域における意義をキーワードに分析を行った。近藤真佐夫は会津若松城と神指城、そして米沢城の形態比較を通じて、計画的城郭における築城者の一貫した設計規範の存在を明確化させるが、その形態は極めて特異な形状のものであり、宮武正登が明らかにする肥前名護屋城や、冨田和気夫が指摘する金沢城にみられる豊臣タイプの城郭とは大きく異なる。政権による城郭統制との関連で注目すべき差異が指摘された。また、同じ計画的城郭として小野友記子は織豊系城郭のルーツとも呼べる小牧山城の基本構造を明確化したが、討論においてはその年代論も含め、活発な議論が交わされた。
さて、こうした城郭構造と関連する城下町の形態については、計画的城郭である小牧山城において永禄年間においてやはり計画的な城下町形成がなされていたことが指摘され、佐々木健策により小田原城でも16世紀代に城下に55m単位の方形区画が存在したことが指摘される。これに対して15世紀以降段階的に発展していった唐沢山城の分析を行った出居博は、段階的に家臣団屋敷が集積されてゆく城下形成を指摘したほか、中世以来の都市奈良に入り込んだ多聞城を分析した佐藤亜聖も、永禄年間には都市規制を打ち破るに至っていなかった松永政権の性格を指摘するなど、天正以前の城下町形成についてその多様性が見え隠れする。
こうした発表をふまえ、討論では築城主体と城郭構造について、独立主体を保ち続けた上杉氏神指城と、築城主体であった在地勢力の家督を統一政権側が譲り受けた特異例である唐沢山城の比較を通じて検討したほか、近年調査された小田原城御用米曲輪や、壮麗な城郭構造が指摘される多聞城に見られる城郭の特異な視覚的効果の意味について議論が交わされた。そして、近世移行期の城郭に関して、中央型城郭の全国波及をめぐる問題を地方の視点から再検討すべき必要性が相互確認された点は重要である。
論点は多岐にわたったが、城郭・城下町の考古学的研究について、その多岐にわたる観察視点が提示されたこと、考古学的事象の解釈について、年代論を含め課題の提示が成された点は大きな成果であった。 (奈良大会実行委員会 佐藤亜聖)
本分科会のテーマは、これまで考古学会ではほとんど取り上げられたことがないものである。大学と文化財保護を担う行政は密接に関係し、その発展・展開のためには考古学の人材育成がきわめて重要な課題であるとの認識と、相互の連携の必要性について共有することをめざした。
まず坂井が趣旨説明もかねて現状と課題を述べた。行政の専門職員の人材育成は大学が唯一の機関であること、専門職員の採用増の一方での応募者減少、現在の大学についての大きな変化、大学の実習だけでは発掘技術の修得は十分できないこと、行政の現場がかつては実質的に大学教育を補完していたことなどを指摘した。この分科会に合わせて大学の実態把握がなされ、専攻生の数の減少は男子に顕著であること、専門職への就職数は採用に左右される傾向がみられることなどを報告した。また、奈良大学の特徴でもある文化財学科の教育についても紹介した。
大学側からの報告は2本である。熊本大学の杉井氏は、研究室・学生・教育内容の近年の変化を分析するとともに、これまで専門職員の育成を大きな目的にして、毎年度、夏休みの発掘実習から報告書作成まで実施してきた実績を紹介した。また、考古学の楽しさを伝えるための大学教育や行政の果たす役割の重要性を強調した。早稲田大学の高橋氏は、考古調査士養成プログラムについての内容とこれまで10年の就職実績を紹介し、実効性ある資格制度の構築、学生の進路確保、行政機関の理解などの課題について述べた。また、最近始めた埼玉県の財団と提携したインターンシップについて紹介した。
文化財保護行政側からの報告は3本である。文化庁の水ノ江氏は、現在の専門職員は若手が少ないこと、学生が埋蔵文化財行政にあまり関心がないこと、その要因として現場の発掘経験が少ないことをあげ、現場を実施する行政側と参加する学生側の双方において環境の大きな変化がみられることを指摘し、今後の展望として、埋蔵文化財行政の学生向け説明会の開催、インターンシップによる現場参加、大学と行政による合同調査の実施などの事例を紹介した。京都府の肥後氏は、自らの経験をふり返りつつ、現在ベテラン職員の退職にあたり、これまで蓄積してきた調査のノウハウと市町職員と協働した文化財保護の継承が大きな課題であるとし、府の財団では人材養成のためにも学生の補助員を積極的に受け入れていることなどを報告した。神奈川県伊勢原市の立花氏は急な公務のため欠席となったが、資料により司会から要点を紹介した。市町村は規模等により行政の体制も多様であるが、埋蔵文化財以外の文化財も扱うことが多く、埋蔵文化財に関わる若い人材の不足は、考古学だけではなく日本の文化財保護全般にとっても由々しき事態だとする。
こうした日本の状況を相対化するために、松田氏による欧州・英国の考古学教育について報告をうけた。欧州の大学教育は、近年の傾向としてイギリスを中心とした非フンボルト・システムに統一されつつあること、学部は専門性の高い教育から社会一般に通用する能力の養成に向かっていることなど、日本とも共通したあり方が指摘され、大学環境のグローバル化が認識された。
報告に続いて福永氏と坂井の司会で、現在の大学・学生、教育内容の現状、文化財保護と大学の関係などについて討論をおこなった。最近の大学制度改革や厳しい財政状況のなかでの教育などについて、大学の変貌ぶりが浮き彫りとなった。時間の制約もあり今後のあり方については、あまり具体的な議論ができなかったが、大学と行政が互いに協力し合い、連携することの必要性については共有できたと考える。大学と行政が同じ土俵に立って人材育成について正面から議論した意義は大きい。折しも協会研究環境検討委員会が同様の課題を検討していることは、このテーマが時宜を得たものであることを示唆している。また、人口減少・財政難、社会構造の大きな変化のなかで、文化財保護において一般市民が果たす役割が今後さらに大きくなることが予想され、大学教育が考古学ファンやサポーターの育成において、重要な役割を担っていることが認識できたことも付言しておきたい。 (奈良大会実行委員会 坂井秀弥)