2016年度弘前大会報告

 2016年度大会は、まずまずの天候の中、10月15日(土)~17日(月)の3日間、弘前大学を会場に開催された。今大会の実行委員会は、弘前大学(佐藤敬学長)と青森県考古学会(成田滋彦会長)よって組織され、実行委員長は弘前大学人文社会科学部の関根達人教授(当協会理事)が務めた。大会期間中の総参加者は約400名で、212名の会員と、非会員の研究者を含めた約200名の一般参加者の来場があった。関根実行委員長が、事前の理事会でも再三アピールされていた資料集は、3分冊(函入り)1,700頁におよぶもので、過去最大という宣伝どおりの大作であった。また、会期中には、会場内において、「弘前大学の考古学-弘大考古のあゆみとその成果-」と、「大五月女萢展」の二つの展覧会が開かれ、来場者の眼を楽しませてくれた。
 第1日目(15日)は、13時より総合教育棟において、開会式と公開講演会が開かれた。進行は宮本一夫理事が務めた。主催者挨拶に立った谷川章雄会長は、30年ぶりの青森開催であることの感慨と、今大会が充実した地域テーマのもとに行われることの意義などに触れた。また、熊本地震に伴う関連文化財の保護と復興にかかる「声明」を公表し、当協会のこの問題に対する積極的な取り組みについて述べた。同じく主催者として関根実行委員長からの挨拶があり、さらに来賓として、郡千寿子理事(学長代理)と西憲之弘前市長より丁重なる歓迎の挨拶をいただいた。
 公開講演会は、弘前大学にゆかりの深いお二方が登壇した。最初は、藤沼邦彦元人文学部教授が「亀ヶ岡文化の特質」と題して、亀ヶ岡文化は美しく工芸的な生活道具や祭祀道具を数多く保有するが、しかし基本的には食料採集民の文化であることを、スライドを交えて紹介した。次に登壇した小口雅史法政大学教授は、かつて弘前大学において教鞭を執られ、当協会の会員でもある。「10世紀北奥の蝦夷社会の実像-文献史学と考古学の融合を目指して-」と題する講演では、防御性集落の意義について、交易に伴う集団間の軋轢が、溝のある集落を築いたという自説を展開した。最後に、石川日出志副会長が謝辞を述べ閉会した。なお、講演会の会場は終始満席で、立ち見の出る盛況ぶりであった。
 公開講演会の後、分科会Ⅰ「津軽海峡圏の縄文文化-円筒・十腰内・亀ヶ岡そして砂沢文化-」のうちの第1部「縄文~弥生の技術と専業化1」が行われ、上條信彦氏の趣旨説明に続き、縄文の漆工芸、縄文のベンガラ、弥生のベンガラ、土器製塩についての興味深い発表がなされた。
 18時からは学生会館3階の大集会場に場所を移し懇親会が開かれた。進行は、弘前大学の片岡太郎講師が務めた。会場の雰囲気もあり(すでに随所で乾杯が行われていた)、まず福田友之青森県史考古学部会長の音頭で正式に乾杯し、頃合いをみての谷川会長、関根実行委員長の挨拶となった。圧巻は余興の三味線演奏会だった。地元の演奏家集団〈夢弦会〉6人による津軽三味線の演奏は、弘前大会を強く印象付けた。最後に、次回開催地の宮崎大会実行委員会を代表して桒畑光博氏が歓迎の挨拶を行い、近藤英夫副会長の締めの乾杯でお開きとなった。
 第2日目 (16日) は、9時から3つの分科会とポスターセッション、および図書交換会が行われた。分科会Ⅰでは、昨日に続き「専業化2」として、石棒の製作、磨製石斧の製作、土器による調理方法、骨角器の製作技術、土器の胎土についての問題点がそれぞれ活発に論じられた。第2部は「縄文~弥生の装身具と祭祀具」として、7名の発表者により、西目屋村川原平(1)・(4)遺跡や五月女萢遺跡などの遺物が紹介され議論された。分科会Ⅱは、「北東北9・10世紀社会の変動」と題するセッションで、宇部則保氏の「趣旨説明」に続き4回の休憩を挟んで16時まで8名の方の発表と質疑応答がなされた。ここでは、青森県だけでなく、馬淵川流域・三陸北部、米代川流域、雄物川流域、北上川中流域、さらには北海道も視野に入れ、集落や墓制を基軸として9・10世紀北東北地域における社会構造の変動が論じられ、熱気のこもったやり取りとなった。分科会Ⅲは、「北日本における近世城郭-築城から現代まで-」と題するセッションで、弘前城の天守曳家の話題もあってか、会場は多くの参加者で埋まった。馴染みのある仙台城や盛岡城、八戸城、大館城などが登場し、北日本における近世城郭の築城から修築、改築、そして廃城までの歴史的様相が様々な角度から議論された。最後に、金森安孝氏・北野博司氏をコーディネーターとしてパネルディスカッションが行われ、5人の発表者が白熱した議論を戦わせた。
 ポスターセッションは、当協会委員会による3件と、実行委員会による世界遺産推進関係の掲示があった。協会からは、埋蔵文化財保護対策委員会、研究環境検討委員会、社会科・歴史教科書等検討委員会の報告が掲示された。例年、大会会場では、ポスターの閲覧、アンケートへの記載が少ない嫌いがあったが、今会場では予想以上に反響があり、アンケートの回答数や口頭による質問数に驚かされた。なお2日目の午後には、埋蔵文化財保護対策委員会の情報交換会も開催された。
 第3日目(17日)のエクスカーションは、当初3コースが予定されていたが、津軽方面の大森勝山遺跡、亀ヶ岡遺跡、十三湊遺跡、大平山元遺跡の見学会だけが実施された。いずれの遺跡も大会分科会で発表、議論された東北を代表的する遺跡であり、津軽地方の自然ととともに見学できたことは大変有意義なものであった。また、天候にも恵まれ、特に十三湖周辺遺跡では山王坊遺跡・日枝神社の静寂と唐川城跡展望台からは岩木山が眺望でき、しじみラーメンも美味しく、無事にエクスカーションは終了した。なお、各遺跡の見学にあたっては、担当者の丁寧な解説をいただいた。見学者を代表して感謝の意を表したい。

(広報担当理事 大島直行、常務理事 長瀬 衛)

2016年度弘前大会の概要

分科会「津軽海峡圏の縄文文化-円筒・十腰内・亀ヶ岡そして砂沢文化-」

 発表は「第1部 縄文~弥生の技術と専業化」と「第2部 縄文~弥生の装身具と祭祀具」の2部体制で第1部10名、第2部7名の発表者で構成された。
 近年、北海道では館野(2)遺跡・新道4遺跡などの大規模遺跡の調査、青森県では五月女遺跡や津軽ダム建設に伴う遺跡群の調査、岩手県では東日本大震災復興関連事業に伴う発掘調査によりこれまで調査例の少なかった地域での調査が相次ぎ、まとまった資料が蓄積されてきた。また史跡整備に伴う調査が推進されており、縄文時代中期~晩期を中心とする北海道南部~東北北部の実態が包括的に検討され始めている。
 縄文~弥生時代の北海道南部~東北北部では、中緯度地帯における落葉広葉樹林帯のもとで、ブラキストン線を挟みつつも、拡大・融合・分断を繰り返しながら円筒、十腰内、亀ヶ岡、砂沢、田舎舘に代表される独特な文化圏が成立、展開していた。独特な文化圏が維持されてきた背景には、狩猟・漁労・採集などの食料獲得技術だけでなく、地域色の強い多様な技術を獲得してきた点にある。従来、黒曜石やヒスイ製品で指摘されてきたような、海峡や山脈を跨いだ広範囲な流通網が生まれていただけでなく、文化圏内における各物質の加工に関わる技術的な拠点地域があった可能性がある。近年、これら技術の獲得と受容について、議論が進展している遺物として、漆製品、赤色顔料・ヒスイ・黒曜石・石斧に用いられる緑色岩・アスファルト・刀剣形石製品の素材である粘板岩など鉱物資源、貝製品、製塩土器が挙げられる。そこで、今回、北海道南部~東北北部の技術と流通について、採集から製作、流通、消費までの過程を示す資料を集成するとともに、現在的な視点からその技術論・流通論を考え直し、弥生時代に至る変容の実態について検討することを第1の柱とした。
 漆工製品については、片岡太郎氏がX線CTを用いた内部構造の観察により製作技法に地域的・時期的共通性がみられる点、ベンガラについては、児玉大成氏が津軽半島赤根沢産赤鉄鉱の煮沸を用いた加工法について述べた。根岸洋氏は弥生時代におけるベンガラ利用のあり方を述べられた。菅原弘樹氏からはこれまで実態が不明瞭であった東北北部の土器製塩について、松島湾の事例との比較において説明された。熊谷常正氏からは粘板岩製刀剣形石製品について、長年氏が調査されている北上山地南部の事例をもとに製作技法と消費地の実態が発表された。髙橋哲氏からは磨製石斧の製作工程の復元から、青森県域における製作の地域性と北海道産の緑色岩との関連について発表された。小林正史氏からは土器使用痕の分析から遠賀川系深鍋の特徴と西日本との違いについて、米品種の違いに基づく炊飯法の違いが背景にあることが発表された。斉藤慶吏氏からは三内丸山遺跡、東道ノ上(3)遺跡の骨角器素材・製作工程が明らかにされ、資料の少なかった円筒土器文化における骨角器製作の実態が明らかにされた。松本建速氏からは土器胎土の成分分析法についての基本的な知識と検討モデルについて発表され、弥生時代の精製土器の中に津軽から八戸地域に搬入されているものがある可能性が示唆された。
 続いて、「第2部 縄文~弥生の装身具と祭祀具」の背景として、上記の資料増加のほか、北海道南部~東北北部では、多彩な資料が見出され、これまで個々に検討されている。複合的な器種群で彩られている世界がこの地域の特色でもある。しかし、一遺跡からの出土数が少ないため、器種単位・県単位に注目した集成研究が中心であり、資料の有機的結びつきと重層性を検討する機会は少なかった。そこで本大会を機に、北海道から東北北部の土製品・石製品を集成し、研究者の便宜を図るとともに、型式論・分布論を通じて、総合的な時空間的な位置づけを行うことを第2の柱とした。
 まず、研究発表に先立ち、問題提起として、最上法聖氏より「西目屋村川原平(1)・(4)遺跡出土の玉類について」、原滋高氏より「五月女遺跡-縄文時代後晩期の集団墓地と祭祀施設-」の報告があった。いずれも墓域より墓の配置とその構造、副葬品について規則性がみられることが報告された。続いて福田友之氏よりヒスイ、コハク、サメの歯、南海産貝製品といった流通圏が広域とみられる装身具について消長の地域的な違いと、ベンケイガイ・メダカラガイといった地元産の貝製品の存在が述べられた。金子昭彦氏からは耳飾りと意匠型/普及型装身具と称される資料の型式的変遷が示された。永瀬史人氏、成田滋彦氏、市川健夫氏からはそれぞれ縄文前期~中期、縄文時代後期、縄文晩期~弥生の土製品・石製品のバリエーションと組成が変化する地域的・時期的画期が示された。
 以上はこれまで資料別に検討、発表され、他地域の研究者からみると百家争鳴の様相だった本地域の論考に対し、本大会において初めて総合的に検討が加えられたという点で意義をもつ。また資料集は要旨集の拡大版ではなく、地方大会を生かし利用者が研究・調査を目的として必要な情報・資料などを検索・提供・回答するレファレンス的機能をもつべきという考えをもつ。本大会を通じて本地域の研究方法や対象の奥深さだけでなく、円筒~田舎館に至る各文化の地域的な差と土器型式レベルの画期が明らかになったといえよう。

(弘前大会実行委員会 上條信彦)

分科会「北東北9・10世紀社会の変動」

 北東北の古代蝦夷社会の研究を進めるうえで、古代集落が急激に増加する9・10世紀の地域の特質を把握することは大変重要である。特に青森県津軽地方においては、集落活動の高揚とともに五所川原窯の構築による列島最北の須恵器生産や、岩木山麓周辺の大規模な鉄生産などが行われ、生産活動に伴う交易、交流の動きが、かつてない規模であらわれてきたことがこれまでに指摘されてきた。
 分科会は、律令社会と北海道擦文社会の間に位置する北東北のこのような状況が在地社会内部の変遷や、他地域との関わりの中でどのように生まれ、展開していたかについての議論を深めることを目的とした。2014年に船木義勝氏を代表とする北東北古代集落遺跡研究会により北東北の9世紀から11世紀の集落、竪穴建物数の分析が行われており、分科会ではこの成果を基本に、北東北・北海道の研究者が在地の画期、背景、他地域交流の状況などについて8本の研究報告が行われた。
 趣旨説明に引き続き、青森県の日本海側を木村淳一氏、太平洋側を加藤隆則氏が報告した後、岩手県北部の馬淵川流域~三陸北部を井上雅孝氏、秋田県北部の米代川流域の状況を嶋影壮憲氏が発表し、これらの地域に接する律令支配地域の北縁の動態ということで高橋学氏が出羽側の雄物川流域、福島正和氏が陸奥側の北上川中流域をとりあげ城柵支配と在地社会の係わり方の変化などに焦点を当てた。
 また、鈴木琢也氏が8~11世紀の擦文文化と北東北との交流の状況について、小谷地 肇氏が古代の墓制の展開と終焉の状況を末期古墳の変質という視点から報告した。
 全員の報告後、質疑討論が行われ、菅原祥夫氏が福島県など南東北の同時期の状況について、八木光則氏が報告全体についてコメントした。
 9世紀末の元慶の乱などによる出羽北部の住民逃亡、あるいは10世紀初頭の十和田火山噴火による影響など、律令支配と在地社会の軋轢、環境変化への対応を考古学的にどう確認していくかという問題、そして10世紀後半~11世紀代の防御性集落の成立を問い直す議論につなげていくためにも、北東北の9・10世紀社会の再編や統合の状況を遺跡から検討する必要があり、今後の研究につながる課題や問題点が提示されたことは大きな成果であった。

(弘前大会実行委員会 宇部則保)

分科会「北日本における近世城郭-築城から現代まで-」

 分科会Ⅲのテーマは「北日本における近世城郭-築城から現代まで-」である。現在、全国各地の近世城郭では、石垣修理等の保存修理から御殿建築等の復元整備に至るまで、文化財の保存と活用を目的とする様々な整備が実施されている。しかし、近世城郭が城郭として機能していた近世においても、各地の城郭では石垣や建物の修築、城内施設の改変・撤去等の改築など、多くの「整備」が実施されており、それは廃城後の近代においても継続的に行われた。その意味では、現在実施されている整備もまた、その延長線上に位置付けられるものであり、近世城郭を将来的に保護する上でも、築城から現代に至る経歴を振り返る意義は大きい。
 このことから、本分科会ではまず、北海道から新潟県北部に至る「北日本」に所在する31の近世城郭について、所在する地方自治体の担当者を中心に調査票作成を依頼、各城郭の築城から、修築・改築を経て、廃城、そして近代以降に至るまで、その経歴の資料化を行った。この調査票を各城跡における「縦軸」とするならば、各研究報告における「築城」・「修築」・「改築」・「廃城」・「近代以降」は、各変遷段階における比較検討を目的とした「横軸」といえるものである。本分科会は、この二つの軸線に基づき、当該地域の近世城郭の様相を把握することを目的とした。
 当日の研究報告では、まず「築城の様相」として岩井が、本分科会の趣旨説明並びに調査票集成状況とともに、中世以来の「土の城」を基礎としつつも多様性を示す当該地域の特徴に言及するとともに、特に北東北における移封を伴わない大名による築城の特徴について、津軽氏をケーススタディとして報告を行った。続く「修築の様相」では渡部紀氏が、仙台城本丸北側の石垣修理に伴う発掘調査から得られた知見を報告するとともに、改築を中心とする17世紀代から、18世紀以降は維持管理(修築)が中心となる状況について言及した。次の「改築の様相」では五十嵐貴久氏が、17世紀初頭と後半における改築集中期について、「本城と支城」・「城主の移封」の観点から分析、17世紀後半の改築を、文禄・慶長期で受容しきれなかった石垣・建物・屋根瓦への志向性の結果と推定するとともに、その検証としての今後の瓦研究の重要性を指摘した。「廃城の様相」では三浦陽一氏が、近世期と近代期の廃城の様相について分析した上で、仙台城や弘前城等のように廃城後、軍用地として活用された城跡に城内建物や縄張りが良好に残存する事例が多いことから、近代以降における軍事施設としての城郭機能の存続性に言及した。最後となる「近代以降の様相」では鈴木功氏が、小峰城について近代以降の公園としての活用から文化財としての保護に至る過程を整理し、記録の残らない近代の整備の様相把握や、「まちの象徴」としての城郭の正しい理解のためには、考古学的調査が不可欠である旨、報告した。
 各研究報告の終了後、コーディネーターとして金森安孝氏と北野博司氏を迎え、パネルディスカッションが開催された。パネルディスカッションでは全国各地から参集した出席者から、蝦夷地の様相、在来の「土の城」と「織豊系城郭」との関係性、家臣団統制としての城下研究の重要性、「公儀の城」としての城郭統制、出土遺物の時代性・地域性、現代の城跡の持つ社会的役割などについて、多くコメントが寄せられ、活発な意見交換の場となった。この各コメントが示す多様性こそ、まさに近世城郭が有する多面的な特性を端的に示すものとなったといえよう。最後にコメントを寄せた関根達人氏からは、本分科会を通じて改めて近世城郭が「特別」な遺跡であること、また、「私」から「公儀」の城として変遷した近世城郭が「憩い」の城となった現代において、整備・管理を担う行政が「市民へ奉仕」する立場から負うべき責務について、言及がなされた。
 本分科会の研究成果については、多忙な職務の中、協力いただいた担当者による各城跡の調査票に依るところが極めて大きい。末筆ながら、各研究報告者、並びに司会及びコーディネーターの重責を担っていただいた金森・北野両氏と併せて、深く感謝申し上げる次第である。

(弘前大会実行委員会 岩井浩介)