2017年度宮崎大会報告

 2017年度宮崎大会は、あいにく台風21号接近の中、10月21日(土)~23日(月)の3日間、宮崎市の公立大学にて開催された。宮崎での大会はこれまで開催されたことがなく、遂に実現できたという意味で感慨深いものがあった。今回の宮崎大会は、県内の大学での考古学研究室がない情況で、宮崎県在住の協会員を中心に実行委員会が組織され、少数ながらきめ細かい大会運営をしていただいた。柳澤一男大会実行委員長をはじめとして大会実行委員会のかたがたのご苦労が察せられた。台風接近にもかかわらず約240名の参加と地方大会としては盛況であった。とともに、厚い資料集を得ることができた。
 10月21日午後には、谷川章雄会長挨拶の後、有馬晋作宮崎公立大学学長から挨拶があった。さらに柳澤一男大会実行委員長の挨拶が続いた。その後、2本の講演が行われた。「災害考古学の方法と展開」と題して、能登健会員(元群馬県教育委員会)による講演が行われた。群馬県黒井峯遺跡と同道遺跡の事例を中心に被災地の復元が行われ、被災社会の実態とそれを克服していった社会の実像が語られた。2本目の講演は、大会実行委員長の柳澤一男会員(宮崎大学名誉教授)が「韓国で発見された横穴墓・地下式横穴墓と九州」と題して話された。百済地域で発見された横穴墓や地下式横穴墓を概観し、その起源地を特定された。そして「遣筑紫国軍司士五百人」という日本書紀の内容から、筑紫に集められた日向の兵士が百済に派兵され、現地で亡くなった兵士の墓であると結論された。
 分科会は日向や南九州に特徴的なテーマが設定された。分科会Ⅰは桒畑光博会員がコーディネーターを務める「火山灰考古学の新展開-火山噴火罹災遺跡からの視点-」であり、全国の火山灰考古学の事例や成果を持ち寄り、内容を検討するものである。分科会Ⅱは、柳澤一男大会実行委員長のコーディネートによる「古墳時代中・後期における横穴系埋葬主体の多様性・地域性と階層性」である。南九州に特徴的な地下式横穴など特殊な横穴系墓制を全国に見られる横穴系墓制との比較から、その特殊性と普遍性を解明しようとするものである。二つの分科会は、ともに南九州に特徴的な考古学的資料を全国に敷衍する形で検討され、列島的な視点から南九州の考古学的な特性が検討された。
 その後、午後6時からは大学の福利厚生棟食堂に会場を移し、懇親会が開催された。谷川章雄会長の挨拶の後、田中茂宮崎県考古学会顧問の挨拶、柳澤一男大会実行委員長の乾杯で始まった。和気藹々の雰囲気で会場は盛り上がり、次回第84回総会開催地として石川日出志明治大学教授の歓迎の挨拶、秋期静岡大会の植松章八大会実行委員長と続いた。最後に、近藤英夫副会長の挨拶で締めとなった。
 10月22日は、台風が宮崎に最も接近する中、分科会Ⅰ・Ⅱが第1日以来継続し、さらに吉本正典会員のコーディネートによる分科会Ⅲ「九州南部における律令期社会の諸相」を加えて、三つの分科会が終日開催された。分科会Ⅰ「火山灰考古学の新展開」では、全国におよぶ火山灰考古学の研究事例が報告され、火山災害に伴う考古学的諸事例や学際的な研究成果が語られた。最後のシンポジウムでは、前日の講演者である能登会員から、災害における季節性や空間的な被災状況の差違などもっとミクロな分析がなされるべきとのコメントがあり、災害考古学の今後の課題が鮮明になった。分科会Ⅱ「古墳時代中・後期における横穴系埋葬主体の多様性・地域性と階層性」は、南九州を中心として展開する横穴系埋葬主体を列島レベルで比較検討し、その多様性と地域性さらにはその地域社会内での社会階層的な位置づけが試みられた。分科会Ⅲは南九州の律令期を土器、瓦の分析とともに集落や寺院造営に係わる諸問題を、文献史料や文字資料を交えて検討され、律令期の南九州の特殊性や地域性が語られた。
 分科会とは別に地方大会であったが、協会主催の3本のポスターセッションが実施された。研究環境検討委員会「考古学研究における後継者育成の現状Ⅲ-まとめと展望-」、社会科・歴史教科書等検討委員会「現行小・中学校歴史教科書における中世以降の考古学資料の扱い」、埋蔵文化財保護対策委員会「東日本大震災復興事業に伴う埋蔵文化財調査の現状(Ⅴ)」である。
 10月23日には台風一過の快晴の中、見学会が行われた。Aコース・Bコースの2コースが用意されたが、参加人数の関係で都城市方面のBコースに限定された。そのため日向国府跡、西都原古墳群を加え、大島畠田遺跡、祝吉御所跡という充実した見学コースを用意いただき、宮崎大会実行委員会の方々のご協力により、スムーズに見学ができた。8時30分、25名が宮崎駅東口に集合し、吉本正典実行委員のご案内により、出発した。まず、9時10分に日向国府跡の発掘調査現場を西都市の津曲大祐実行委員の案内で見学した。低段丘上に国府を造営していることがよくわかった。次に、9時45分に宮崎県立西都原考古博物館を見学した。西都原古墳群はもとより、姶良カルデラから隼人の世界までの歴史を紹介していた。また、考古学研究所のコーナーを設け、考古学の基礎的調査の方法や研究の過程を、多くの人々が追体験・再検証できる場としているのが特徴的であった。さらに、国際交流展「台湾鉄器文化の粋 十三行遺跡と人びと」が開催されていて、十三行人の鉄器生産がよくわかった。その後、男狭穂塚・女狭穂塚を遠巻きに見学し、西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している鬼の窟古墳(206号墳)の墳丘・石室を見学し、ここで、集合写真を撮った。その後、高速道路を通って都城へ移動した。12時15分から霧島ファクトリーガーデンで昼食、そこでは、霧島の試飲コーナーがあり、占拠してしまう飲みっぷりの人や霧島裂罅水の泉の水をペットボトルに詰める人もいた。13時に出発し、大島畠田遺跡に到着、都城市の桒畑光博実行委員と加賀淳一実行委員にご案内をいただいた。9~10世紀の建物跡や池跡などが表示されており、壮大な建物であったことがわかった。青空のもと、遠くに霧島連山も望める、絶好のロケーションの遺跡であった。14時に祝吉御所跡を見学し、さらに、白山原遺跡の発掘現場を見学した。調査担当の原栄子氏の説明で、アカホヤ火山灰層の厚く堆積した様子や、落とし穴などの遺構も見学した。最後に、桒畑光博実行委員から専門分野の火山灰層と遺構の関係についてのレクチャーを受け、一同大満足の見学会であった。
 折からの台風21号の日本列島縦断のため、10月22日と23日は航空機の欠航や変更が相次ぎ、九州以外の研究者は大半が1日残留せざるを得ないおまけもついて、成功裏に宮崎大会は終了した。

(総務担当理事 宮本一夫、企画担当理事 岡山真知子)

2017年度宮崎大会の概要

分科会Ⅰ「火山灰考古学の新展開-火山噴火罹災遺跡からの視点-」

 火山灰(テフラ)考古学という研究分野が提唱されるようになって四半世紀が経過しようとしている。テフラによってパックされた通常の遺跡では得られないような格段に情報量の多い調査事例は、同時面から復元できる当時の集落の景観、住居をはじめとする施設の具体的な構造、生産地の形態、人間の姿、そこから見えてくる社会構造などに肉薄できる可能性をもっている。また、火山災害の考古学的研究からは、テフラ堆積前後の遺跡、遺構と遺物の比較を通じて、各時代・各地域におけるさまざまなパターンの社会対応を読み取ることができる。日本列島の火山が活動期に入ったと言われるいま、各地で新たな発掘調査事例が蓄積されつつある。本分科会は、これらの事例や研究にかかわる考古学研究者らを地域や時代を問わず一堂に会して議論することを目的とした。発表は、日本列島の北から十和田火山、榛名山、富士山、三瓶山、開聞岳の各噴火罹災遺跡の調査研究の発表が行われ、海外の中央アメリカのイロパンゴ火山の噴火罹災遺跡の事例発表もなされた。
 テフラによってパックされた調査事例として、村上義直氏から十和田平安噴火に伴う火山泥流で埋没した片貝家ノ下遺跡の確認調査成果が報告され、竪穴建物の屋根構造を保存した同火山泥流はエネルギーの低い流れによるものであったことや米代川流域における初めての平安時代水田跡の発見成果などが披露された。杉山秀宏氏からは、古墳時代の金井東裏・下新田遺跡の調査報告が行われ、榛名山二ツ岳噴火に伴う火砕流の直撃を受けた甲を着たままの状態の被災者の来歴等に関する情報をはじめ、調査報告書作成途中の最新の多角的な分析結果を含めた発表がなされた。中摩浩太郎氏は、開聞岳貞観噴火の災害プロセスの詳細化と災害エリアの区分を行い、噴火災害後に居住地域の中心が移動した可能性を指摘した。
 テフラ堆積前後の遺跡動態に関しては、旧石器時代から縄文時代にかけて繰り返し三瓶火山噴火に見舞われた山陰地方の事例を角田徳幸氏が発表した。江戸時代の爆発的噴火以降、活動を休止している富士山の噴火災害に関して、篠原武氏が縄文時代中期の曽利スコリア前後の遺跡発掘調査事例を詳報し、藤村翔氏が富士山の噴火の影響について、古墳時代と平安時代の地域動向ともからめた発表を行った。十和田平安噴火前後の東北地方北部の遺跡動態を検討した丸山浩治氏は、火山災害後に集落が増加した地域には、当時の住民がとった避難行動によるものと政治的な背景による移住によるものもあったと推定した。市川彰氏からは、メソアメリカ文明史最大規模のイロパンゴ火山噴火前後の状況について、サン・アンドレス遺跡の発掘調査成果を中心に報告がなされた。
 以上の発表の後、総合討論が進められ、火山災害因子とその影響と火山災害後の復旧・復興について各発表者から補足説明や会場からのコメントが行われた。討論の最後には、1日目の公開講演会において災害考古学の話をされた能登健氏から、テフラの年代や季節の比定について、定説を鵜呑みにするのではなく、総合的に検証を重ねていくべきだということと、被災範囲に関して、考古資料を評価しながら正確な範囲認定を行っていくべきだという指摘がなされた。
 今回の日本考古学協会2017年度宮崎大会を通じて、私たち考古学者がこの分野において今後どのような視点・問題意識をもって研究を進めるべきか指針が得られた分科会であった。

(宮崎大会実行委員会 桒畑光博)

 

分科会Ⅱ「古墳時代中・後期における横穴系埋葬主体の多様性・地域性と階層性」

 古墳時代後半、横穴系埋葬施設が各地に展開する過程で、地下式横穴墓・横穴墓のほか、横口系土壙墓・横穴式木室墓などの多様な形態・形式が生みだされ、様々な階層の墳墓として採用された。横穴式石室は多少の濃淡はあるとしても古墳分布域の広域に展開するのに対して、地下式横穴墓・横穴式木室墓・横口系土壙墓はきわめて限定的な分布である。横穴墓は、多少の偏在性はあるものの九州から東北地方まで広域に分布する。一般的にランクの低い墳墓とされることもあるが、地域によっては横穴式石室を採用した高塚系群集墳に代わって横穴墓群を形成するところも少なくなく、後背墳丘の形態・規模、墓室規模や副葬品内容から首長墳に遜色ないものもみられる。本分科会ではその地域性と階層性という視点を設定して、多様な横穴系埋葬施設の混在する地域を取り上げて、今後の研究方向を探ることとした。
 趣旨説明に引き続き、多数の地下式横穴墓が調査された鹿児島県町田堀遺跡・立小野堀遺跡を中心に鹿児島県大隅地域の横穴系墓制を中村耕治氏が報告した。山田隆博氏は東日本大震災の復興事業に伴い横穴墓群が発掘調査された宮城県山元町合戦原遺跡の調査を報告し、東北地方の横穴墓を概観した。その後、和田理啓氏が南九州、松浦宇哲氏が北部九州、大谷晃二氏が出雲を中心とした山陰・北陸、花田勝広氏が畿内、鈴木一有氏が東海、柏木善治氏が関東・東北を分担して、多様な横穴系埋葬施設の混在する様相を報告し、地域性と階層性とその成立過程、背景にある文化・社会を論じた。
 発表後の討論では、1)横穴式石室を採用した高塚系群集墳に代わって横穴墓群を形成する地域や後背墳丘の規模・形態、墓室規模や副葬品内容から横穴式石室墳に遜色ない横穴墓、さらには南九州の地下式横穴墓をどのように理解するか、2)横穴式石室の型式の多様性と複雑な構成を地域性、階層性からどのように理解するか、3)多様な横穴系埋葬施設の背景にある古墳時代の地域間交渉をどのように理解するか、を柱に発表者間で意見交換を行った。討論を通じて、各地域の特殊性がさらに浮き彫りになるとともに、地域間の交流、共通性・類似性の存在も確認することができた。
 今後のさらなる詳細な研究によって解決しなければならない課題も多いが、横穴系埋葬施設の多様性、地域性、階層性の検討から、5世紀後半~7世紀の文化・社会の実態に迫る研究への発展の方向性を示す分科会であったといえよう。

(宮崎大会分科会Ⅱ討論会司会 重藤輝行)

 

分科会Ⅲ「九州南部における律令期社会の諸相」

 分科会Ⅲは、九州南部(令制国の日向・薩摩・大隅に相当する地域)における律令期関連の考古資料、あるいは文献資料を扱った調査・研究発表と、その後の討論によって、南九州における国郡制の形成過程や地域的な特質を検討し、現状と課題を整理することを目的としたものである。
 最初に、「隼人」をキーワードに据えて当該地域の古代社会の研究を進める永山修一氏より「文献からみた南九州における律令制の展開」と題する概説的な発表があり、ついで、近年、定型化国庁の成立状況や下層遺構群の存在が明らかとなった日向国庁跡の発掘調査概要と、そこから派生する問題点について津曲大祐氏による報告があった。また、近年、資料の蓄積が進む集落遺跡と土器の様相に関して、日向地域(主に宮崎県域)について今塩屋毅行氏より、薩摩・大隅地域(鹿児島県域)について上床真氏より発表があった。
 午後からは、柴田博子氏の「九州南部の出土文字資料」と、早川和賀子氏の「南九州における律令期の寺院造営-国分寺を中心に-」という特論的な2本の研究成果発表があった。
 その後の討論では、1)官衙遺跡のあり方、2)南九州三国における国分寺の創建、3)集落の動向という、大きくは3つの柱を設定して意見の交換がなされた。1)では、遅くとも8世紀中葉には成立し、建物の配置から初期の国府か、あるいは郡衙であるのか見解の分かれる日向国庁跡下層の遺構群について、双方の可能性を補強する物的証拠が提示された。この点に関しては、国府所在郡である児湯郡内の他遺跡の調査成果や全国的な研究動向も併せみる必要があり、今回はいずれかに決することはなかったが、今後も論争が続くテーマである。また、その点とも絡むが、総柱建物の倉庫群を有する遺跡の調査例が少数にとどまる点についての指摘もあり、郡衙の探究も課題として残った。2)では、国分寺の建立が定説より遡る可能性と、国分寺以前の寺院の存在について議論がなされた。早川和賀子氏発表での軒丸瓦・軒平瓦の製作技法の検討結果や白鳳期の瓦の分布から、考古学的には否定的、ないしは保留とする意見が強いが、文献の面からは可能性がつとに指摘される説であり、今後の調査・研究の進展が待たれる。3)の関連では、8世紀代の成川式(笹貫式)の終末をどう捉えるか、という点と、9世紀後半に集落遺跡が増加する現象について意見が交わされた。前者については、必ずしもドラスティックに様式としての成川式から変換するのではなく、器種や地域によって変化の状況が異なることを示す個別事例が紹介された。後者に関しては、有力者の居館の出現、墨書土器の増加といった現象と当地域における開発の進行との関連性が指摘されたが、いずれについても、議論の前提として小地域単位の土器編年の細緻化が不可欠であることは言をまたない。
 もとより、上述の問題は容易に結論が出る性格のものではなく、古代官道、生産遺跡の問題、南島地域の情勢など、論じられなかった項目も多い。テーマ自体が広い検討範囲を包括しており、ややもすれば散漫な内容になりかねなかったが、永山修一氏による的確な総括・結びがあり、分科会を終えることができた。今後に向けての議論の出発点を再確認できた点で意義深い分科会であった。

 (宮崎大会実行委員会 吉本正典)