2023年度宮城大会報告

 2023年度の宮城大会は、2023年10月28日(土)・29日(日)・30日(月)の3日間にわたり、宮城県仙台市の東北学院大学土樋キャンパスのホーイ記念館を会場に開催された。宮城県での大会開催は、1991年以来となった。開催方法は対面とオンライン配信の、ハイブリッド方式で開催された。今大会では、規模は限定されたが図書交換会も復活し、土曜日夜の懇親会が開催されなかった以外は、ほぼコロナ以前の大会に戻ることとなった。一時的に天候が崩れた時間もあったが、全体として天候に恵まれ、多数の対面参加者で盛況な大会となった。参加者は対面でのべ346名(会員 186名・一般160名)、オンラインでは公開講演会110名、各分科会の最多人数の合計270名であった。昨年度の福岡大会と比べると、対面参加者が増加した一方で、オンライン参加者は減少している。大会の統一テーマは「災害と境界の考古学」とされ、大会実行委員会によって450ページを超える発表資料集が刊行された。

 28日の開会行事と公開講演会は谷口榮理事の司会のもと進められた。最初に辻秀人日本考古学協会会長の挨拶、佐川正敏実行委員長の挨拶と続き、東北学院大学の大西晴樹学長より歓迎の挨拶をいただいた。

 公開講演会では、最初に文化庁文化財第二課主任文化財調査官の近江俊秀氏より、「東日本大震災と埋蔵文化財保護」との題で講演をいただいた。東日本大震災の復興事業に伴う埋蔵文化財調査を文化庁で推進してきた経験から、成果や課題を述べられた。地域住民への調査成果の発信が、理解を得ていく上で重要であったとの指摘は、とりわけ貴重な教訓となると思われた。つづいて、当協会会長で開催校の東北学院大学教授である辻秀人氏より、「古代東北研究のパラダイム」との題で、講演をいただいた。古代東北史の研究を振り返りつつ、研究の大きな枠組みについて、広い視点から論じられた。

 29日は、4会場に分かれて第1~第4分科会での研究発表が行われた。第3分科会以外は、午前と午後でサブテーマに分かれている。各分科会とサブテーマは以下のとおりで、研究発表の合計は42件と、充実した内容であった。

 第1分科会「地域ごとの復興調査成果、自然災害に関する研究成果」
  ・サブテーマ1:「復興調査から見た仙台湾沿岸」
  ・サブテーマ2:「自然災害から見た仙台湾沿岸」

 第2分科会「東北先史時代の越境と交流」
  ・サブテーマ1:「越境する人々とその生活」
  ・サブテーマ2:「東アジアの中の日本先史文化、先史時代の越境と交流」

 第3分科会「東辺地域の境界と律令国家の形成―古代城柵多賀城完成まで―」

 第4分科会「宮城県を通して考えるアジア、世界との交流の考古学」
  ・サブテーマ1:「貞観地震多賀城復旧に関与した新羅人を通して考える東アジアの交流」
  ・サブテーマ2:「大航海時代の世界とVouxu(奥州)」

 会場ではポスターセッションが開催され、宮城県内在住の研究者による研究、あるいは宮城県内の事例に関する研究が6件発表された。日本考古学協会からは、埋蔵文化財保護対策委員会と社会科・歴史教科書等検討委員会のポスターも掲示された。なおポスターは、2週間という期間限定ではあるが、ウェブ上でも公開された。またポスター会場では、宮城県教育委員会文化財課が作成した、前年度の主要発掘調査成果を紹介するパネルも掲示された。県庁1階ロビーなどの会場で行われている、「令和4年度宮城の発掘調査パネル展」のパネルを、同課のご協力のもと掲示したものである。

 29日午後には、埋蔵文化財保護対策委員会の情報交換会が、ハイブリッド形式で開催された。宮城県での特色ある取り組みとして、多賀城市埋蔵文化財調査センターの小原一成氏より「旧多賀城海軍工廠の調査」との報告をいただいた。近現代遺跡の取り扱いが各地で問題となっており、先駆的な取り組みを共有できた意義は大きい。各地からの情報も、対面参加者とオンライン参加者の双方から寄せていただき、活発な意見交換を行うことができた。

 図書交換会は、会場の関係もあり規模は制限されたが、東北地方の地方学会を中心に参加があり、企業ブースも開設され賑わった。

 会場のホーイ記念館に近い東北学院大学博物館では、宮城県考古学会が主催する「復興と発掘調査」との展示も開催された。宮城県考古学会が、東日本大震災以降の復興調査等により明らかになった発掘調査成果を展示・紹介する企画で、県内4会場で7月から12月まで巡回して展示が行われている。東北学院大学での展示は、一連の巡回展の総合展示として行われたものである。29日の昼休みには、展示担当者による解説も行われた。

 30日には、青く抜けるような快晴のもと、エクスカーション(見学会)が23名の参加で行われた。午前は、来年に創建1300年を迎える特別史跡多賀城跡を、多賀城市・宮城県多賀城跡調査研究所の職員諸氏の案内で見学した。多賀城跡では、創建1300年に向けて史跡整備が進められており、南門から政庁南大路、城前官衙、政庁、東門へと、多賀城跡を縦断するように歩いて見学した。復元が進められている南門では、両側の築地塀の復元作業も特別に見学ができた。最後は、陸奥総社宮に参拝。多賀城創建1300年の南門復元記念絵馬をいただくというサプライズで、午前の見学は締めとなった。その後、仙台東部道路を海岸沿いに南下、昼食は宮城県南の亘理地方の郷土料理はらこ飯を堪能。午後は、宮城県沿岸部で最も南に位置する山元町へ向かい、震災遺構として保存・公開されている中浜小学校を、町職員と語り部の方の案内で見学した。海岸線から300mのところにあった中浜小学校では、2階天井まで津波が押し寄せる中、屋上の屋根裏倉庫に避難した生徒・教職員・地域住民90名が、命をつないだ場所である。次に、復興事業に伴う調査で発見され、切り取り保存された合戦原遺跡の線刻横穴墓などが展示されている山元町歴史民俗資料館を、担当調査員の案内で見学した。線刻絵画を題材とした、資料館公式キャラクター「せんこくん」のグッズを購入した参加者も多数であった。夕方に出発地の仙台駅へ戻って、無事に全行程を終えることができた。

 今回の宮城大会では、実行委員会の設立の段階から当日の運営に至るまで、宮城県考古学会の全面的な協力のもと、宮城県の考古学関係者の総力で開催することができた。宮城県内の多数の研究組織や自治体等からは、共催、協力、後援をいただいた。当日の運営では、東北学院大学、東北大学の多数の学生諸氏に尽力いただいた。これらの宮城大会開催に関わった全ての方々に感謝申し上げるとともに、会場に足を運んで参加された方々、オンラインで参加された方々に感謝いたします。                                                                                                                           (総務担当理事   藤沢   敦)

 

2023年度宮城大会の概要

第1分科会「地域ごとの復興調査成果、自然災害に関する研究成果」

 本分科会では、平成23(2011)年3月11日14時46分に発生した東日本大震災による甚大な被害からの復興に伴う発掘調査による調査成果、研究成果を伝えることを目的としていた。この取り組みは令和元年より宮城県考古学会の「東日本大震災復興調査成果活用実行委員会」(以下、委員会という)の活動と目的を同じくするものであり、委員会の宮城県内での復興調査成果の活用事業の中に位置付けて行われた。

 今回の日本考古学協会宮城大会での第1分科会でのサブテーマ1「復興調査から見た仙台湾沿岸」では、これまで携わってきた委員会のメンバーを中心に復興調査成果を4地区(沿岸北部北、沿岸北部南、県央、沿岸南部)に分け報告した。とりわけ大久保貝塚、台の下貝塚、波怒棄館遺跡(沿岸北部北)、中沢遺跡、羽黒下遺跡、内山遺跡(沿岸北部南)の発表では、縄文時代の豊かな文化を紹介できた。仙台城跡や荒井南遺跡、中在家南遺跡(県央)では地震や津波など災害に関わる遺跡、合戦原遺跡(沿岸南部)では横穴、松葉板碑群(沿岸北部南)では中世の板碑の報告が行われた。とりわけ沿岸南部の報告では復興調査自体の課題が述べられた。

 サブテーマ2の「自然災害から見た仙台湾沿岸」では、4件の研究発表が行われた。

 考古学からは、斎野裕彦「災害・防災考古学と仙台平野の津波災害痕跡」と、相原淳一「869年貞観地震津波と仙台平野における遺跡」の2件の研究発表が行われた。災害痕跡を調査研究していく上では、地学研究者との連携・協力が不可欠であるため、東北大学災害科学国際研究所の菅原大助・石澤尭史両氏から「津波堆積物の研究と東北地方太平洋側の津波履歴」として、これまでの東北地方太平洋側の津波堆積物研究を、広く俯瞰する発表をいただいた。残る1件は、「丸森町における土石流痕跡の年代測定調査」として、国土交通省東北地方整備局宮城南部復興事務所から発表をいただいた。令和元(2019)年10月の台風19号による豪雨で土砂災害の多発した宮城県南部(丸森町)では、大規模な砂防工事が行われることとなったが、その過程で過去にも同様の土石流が発生していたことが明らかとなったことから、土層断面の観察と放射性炭素年代測定法による年代測定が行われた。大規模な災害復旧工事に際して、過去の災害履歴を把握し年代測定を試みた事例は、おそらく全国的に例がない重要な取り組みと考え、発表していただいた。   

 これらの発表を踏まえ、災害痕跡の調査・研究は、専門分野を越えた連携と、慎重な検討が必要なことがあらためて確認できた。

                             (宮城大会実行委員会   長島栄一・藤沢   敦)

 

第2分科会「東北先史時代の越境と交流」

 本分科会は「サブテーマ1:越境する人々とその生活」と「サブテーマ2:東アジアの中の日本先史文化、先史時代の越境と交流」の2つから構成されている。サブテーマ1では、東北地方の陸海の地形的障壁を越えて、地域内や周辺地域との人の移動や物資の流通の事例を具体的に取り上げた。そして、先史時代における沿岸部と内陸部の資源利用・生業活動のあり方、文化圏・地域性の実態、東北地方の特徴について論じた。斉藤慶吏による趣旨説明ではセッションの狙いと、各発表における注目ポイントが端的に示された。そして、青木要祐は、特に黒曜石原産地分析の成果から津軽海峡を越えた黒曜石の流通に画期を見出し、後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけての人類の一方向的な南下移住から、双方向的な交流への変化を把握した。松崎哲也と山田凛太郎は、東北地方太平洋沿岸域における縄文時代の動物資源利用について、特に水産資源の変遷を述べた。中でもマグロなどの外洋性魚類の時期的な変化が注目された。小野章太郎は、内陸湖沼地帯における縄文時代晩期の遺跡群について説明した。特に拠点集落と小規模集落における遺物組成や石材利用の変化を具体的に明示した。斉藤慶吏は東北北部の縄文集落に見る生業・交流の特質について具体的に解説した。特に動物遺存体に見られる地域差と時期差が明確に示された。菅野智則は、東北地方における縄文文化の地域性の枠組みを概説した。最後に、討論・質疑が斉藤の進行で進められ、細部の疑問点への回答が述べられ、さらに環境変動の影響や、円筒・大木文化圏のような枠組みの濃淡と共にそれに当てはまらないような交流・流通の実態への考察が述べられた。サブテーマ2では、日本列島の先史文化が東アジアとの交流の中で陸海の境界を越えて形成されてきた点が注目された。日本列島では、ホモ・サピエンスの日本列島への進出直後から、独自の旧石器文化が発達する一方、その後も断続的に東アジアとの文化的交流があったことが考古学的証拠から知られている。そこで、そのダイナミックな動態を具体的事例から紹介し、東アジアと日本の先史文化の交流史を概観することが目的となった。鹿又喜隆が趣旨説明として「縄文-バルディビア仮説」を例にして、移住や交流の証明に対する遺伝学、人類学、考古学的な分析法と確実性の関係について解説した。海部陽介は後期更新世の東部アジアにおけるホモ・サピエンスの拡散と海洋進出の研究現状を解説し、海上渡航の実験航海研究を踏まえた批判的考察を行った。佐野勝宏は琉球列島における後期旧石器時代初頭から縄文時代草創期にかけての考古資料から越境と交流について概説した。特に沖縄列島における地域圏・文化圏の形成と人口動態について推察している。崔笑宇と王晗は、中国の東北地方における旧石器時代と新石器時代の境界について詳細な事例紹介を踏まえて検討した。特に同地域の旧石器・新石器移行期の正確な年代を明示し、日本の時期区分と比較・批評した。小金渕佳江は、ゲノム学研究の基礎的知識を概説した上で、日本列島を中心としたヒト移住史を幾つかの視点から論説し、最新の情報を提供した。中村由克は、透閃石ネフライトを用いた玦状耳飾が日本列島で確認された意義を強調した。また、飯塚義之は、岩石学的な分析から北陸地方の縄文時代前期に白色ネフライト製石器が大陸からやってきたことを示した。この2つの発表は大陸と日本列島の縄文時代前期における繋がりを示しており、その背景や要因についての追加の議論が求められる内容であった。最後に、討論・質疑が鹿又の進行で行われた。個々の発表への質問もあったが、第2分科会全体としての疑問や課題が明らかになっていった。そして、東北地方の交流史は、日本列島や東アジアの人類活動の動向とも連動することが注目された。これを如何に理解するかが課題であるが、このような課題をあぶりだせたことが本分科会のひとつの成果であり、このテーマを発展できる余地を示している。                                                                                                                          (宮城大会実行委員会   鹿又喜隆)

 

第3分科会「東辺地域の境界と律令国家の形成―古代城柵多賀城完成まで―」

 東北の城柵は蝦夷の地に接する国家の東辺や北辺で、支配領域の拡大と統治を担った政治的・軍事的な拠点であり、立地や構造・施設構成には当時の政治的意図が直接反映した。第3分科会では、陸奥国における城柵の出現から多賀城創建までの過程について、その設置や維持に密接にかかわった特殊な集落(囲郭集落)や施設を含めて地域別の報告、辺境支配の基盤として人的・物的資源を担った陸奥国南部、墳墓、須恵器や鉄の生産と流通、文献史学の報告を合わせて討論し、律令国家の成立期の陸奥国における城柵と地域社会の実態を明らかにすることを目的とした。報告では、まず地域別の様相について報告された。管野和博・菅原祥夫は福島県域から宮城県南端の陸奥の国造域の様相について、坂東を介して7世紀にはヤマト王権の東辺政策である仙台平野の城柵域支配の拠点であったとした。川又隆央は近年発見された7世紀の囲郭集落を中心に仙台平野南部の柴田・刈田・名取地域の動向をまとめた。及川謙作は仙台平野中央部を対象に7世紀前半に関東からの移民を含む長町駅東遺跡、南小泉遺跡等の拠点集落が形成され、7世紀中葉に長町駅東遺跡は囲郭集落に変化し隣接地に郡山遺跡Ⅰ期官衙が造営され、7世紀末に初期国府郡山遺跡Ⅱ期官衙が城柵として成立することを述べる。村上裕次・村田晃一は仙台平野北部の多賀城周辺の様相について、7世紀前半に拠点集落として市川橋遺跡が成立し7世紀後半には囲郭集落に変化する連続性、8世紀前葉に隣接する丘陵端部に多賀城が造営される変化を報告した。佐藤敏幸・髙橋誠明は仙台平野よりも北の大崎・石巻平野の様相について6世紀代の遺跡が希薄な状況から7世紀前半に集落が再出現し始め、7世紀中葉以降坂東からの移民集落→囲郭集落→城柵官衙へ変化する複数の遺跡を紹介し、さらに北の栗原地域には8世紀前葉に囲郭施設を伴わない移民集落の登場も含めて王権の東辺政策の展開を報告した。以上の地域報告に加えて当該地域の文献史学・墳墓遺跡・生産遺跡の様相の報告が続く。永田英明は文献史学の立場から研究史を踏まえて、大化前後の「辺境」をめぐる問題として必ずしも面的支配である必要はなく点的支配の視点が必要であること、「柵」「評」と「囲郭集落」について「戸」を統率支配する拠点的施設の在り方について問題提起した。佐藤渉は仙台平野・大崎平野の終末期墳墓について首長墓の変遷、墳墓から見た地域性、墳墓築造再開の背景、横穴墓・群集墳の展開と変遷について地域区分図、遺構・遺物図を提示しながらまとめた。高橋透・鈴木貴生は当該地域の7世紀の須恵器・鉄生産の様相について、須恵器生産では6世紀末から7世紀前半に生産の再開、7世紀後半に低調ながら生産の継続、7世紀末~8世紀初頭に城柵域で生産が本格化、8世紀前葉に生産・供給体制の再編をまとめ、鉄生産では国家指導のもと国造域の浜通り北端の宇多・行方・曰理に拠点的な生産地が形成され維持されており須恵器生産の地域的拡大とは異なることも報告された。以上の各報告をふまえ、吉野武・村田晃一のコーディネートによる討論を行った。国家の東辺支配領域拡大に伴う 施設の変化・特徴として移民集落→囲郭集落→城柵(官衙)の変遷が捉えられる。仙台平野では7世紀前半の移民を含む拠点集落から始動し、北の大崎・石巻平野では7世紀中葉の移民から展開するなどその過程は地域や蝦夷との関係性によって異なる。また、材木塀と大溝によって広範囲を囲む囲郭集落は国家施設として捉えられるが、その内部構造は後の城柵とは異なる。城柵域の支配拡大には国家指導による国造域からの支援体制が伴う。墳墓は律令国家成立期の変化に明確にリンクするとはいえない。須恵器生産や鉄生産体制は支配拡大とともに確立していくがその広がりはそれぞれ異なることなどがまとめられた。

 最後に、会場から討論を踏まえて、東北学院大学名誉教授熊谷公男氏から7世紀後半の城柵の多様なあり方、初期の柵は柵戸を統治する拠点的支配の場という視点の有効性についてコメントをいただいた。本分科会の内容は、現時点での7世紀の東辺城柵の総括と位置付けられる。                                                                                                                      (宮城大会実行委員会   佐藤敏幸)

 

第4分科会「宮城県を通して考えるアジア、世界との交流の考古学」

サブテーマ1:「貞観地震多賀城復旧に関与した新羅人を通して考える東アジアの交流」

 2021年11月に佐々木和博氏と協議し、宮城県の考古学のネタでアジアや世界との交流を考える分科会を設置した。

 さて、陸奥国分寺出土の宝相華文軒丸瓦が、統一新羅と大宰府安楽寺等の軒丸瓦の例に類似することから、『日本三代実録』所載の貞観地震復旧瓦の製作に関与した新羅人が伝授したという工藤雅樹説、彼我の宝相華文軒丸瓦の年代観、及び宝相華文系軒瓦・鬼瓦の宮城県周辺分布の背景等について、日韓の研究者で共有し、再検討することを目的とした。発表者は2022年6月~2023年1月に8回リモート方式で開催した研究会で発表し、討論を積み重ねた。

 サブテーマ1は、10月29日(日)9~12時に行われ、50名余の対面参加者があった。発表内容は、日本考古学協会 2023年度宮城大会実行委員会が刊行した『研究発表資料集』と日本考古学協会刊行の『研究発表要旨』に掲載された通りであるが、とくに重要な点を以下に列挙する。初鹿野博之・矢内雅之は、多賀城跡軒瓦編年第Ⅳ期瓦について、『多賀城跡 政庁跡』刊行後40年間分の軒瓦を笵傷進行も含めて検討し、貞観地震復旧・復興の実態を窯跡も含めてかなり明らかにした。熊谷公男は、潤清等新羅人3名は逮捕時に交易を生業としていたことを強調し、潤清等に係る『日本三代実録』における「府」、「料」、「預」のより適切な読み方を提示した。佐川正敏は、新羅人が与兵衛沼窯跡の平窯で製作を主導した棟平瓦と鬼瓦、及び宝相華文伝授段階に作画・彫刻を主導した獅子文・鹿文塼が、ともに多賀城政庁専用であった点を重視した。藤木海は、福島県の寺院跡に分布する渡来系瓦の文様と技術の多様な系譜を読み解き、貞観地震復旧に加えて、植松廃寺等は定額寺の新造と推定した。舘内魁生・小川淳一は、地震復旧期に新造された中屋敷前遺跡では、軒丸瓦が多賀城422系統で、軒平瓦が植松廃寺系と周辺地域の要素を取捨選択した結果であるとし、また後者の接合式技法が新羅人の関与の結果であるとしながらも、その実態は今後の課題とした。網伸也は、与兵衛沼窯跡の平窯と平安京官窯をはじめて詳細に比較し、木工寮のような中央官司の直接的な支援ではないこと、瓦製作には組織的に関与していないことを指摘した。齋部麻矢は、大宰府安楽寺瓦の出現背景、文様と技術の詳細な分析を踏まえて、大宰府周辺に在住していた新羅人とは異なる潤清等が介在して多賀城瓦へ伝授したとはいえないと指摘した。ヤン・ジョンヒョンは、統一新羅の軒丸瓦で宝相華文が盛行したのは前期であるので、安楽寺例や多賀城例は工芸品に存続した宝相華文が伝授された可能性が高いことを指摘した。したがって、潤清等の新羅人3名は、交易を生業とする以前に瓦塼の作画や彫刻に係るデザイナー的職種であった可能性が高いことが考えられる。また、渡来系瓦や連珠文系軒平瓦の宮城・福島・岩手県での分布は、貞観地震の被害と復旧・復興の広域性を示すものである。

      (宮城大会実行委員会  佐川正敏)

サブテーマ2:「大航海時代の世界とVouxu」

 大航海時代における東北地方・奥州の様相を、考古学を中心に据えつつ、文献史学の研究成果も踏まえて探った。平川新は文献史学の立場から大航海時代の日本・奥州を論じた。南蛮貿易は西日本を中心に展開していたが、東国の 徳川家康と伊達政宗はメキシコ貿易を共同事業として行った。また政宗の慶長遣欧使節派遣は最後の「戦国大名型外交」と位置付けられるとした。その後、幕府は長崎を幕府管理下に置き、外交・貿易権を一手に掌握することになる。関根章義は仙台城跡・瑞鳳殿出土の舶載品の分析を通して、政宗治世期の対外関係を検討した。舶載品は仙台城跡本丸・二の丸・東丸から出土するが、質・量とも本丸からの出土が圧倒する。これは本丸で舶載品を管理し、ハレの場で使用したことの反映であろう。また仙台城跡から出土する数多くのガラス製容器は政宗が複数ルートから積極的に入手したことを窺わせる。これらの舶載品は政宗や仙台藩の海外交流の一端を明らかにするものである。

 佐々木徹は文献史学の立場から慶長遣欧使節の目的と背景を考察した。慶長遣欧使節の派遣は①早期の仙台・メキシコ貿易実現と②スペイン国王との布教・貿易協定の締結の「2段構え」で進められた。通説では②によって失敗と評価されているが、①では使節船等の往来で数度の貿易が行われた。①を加えた評価の必要性を指摘した。

 佐々木和博は国宝「慶長遣欧使節関係資料」47点の系譜と年代の検討結果、将来品と非将来品が混在していることを明らかにし、藩政期の保管主体―伊達家と仙台藩切支丹所―にも注目すべきことを指摘した。伊達家保管の教皇肖像画と短剣2振は教皇庁とスペイン王室からの贈品と考えられ、切支丹所保管品のうちの使節将来品は支倉常長の教皇への私的誓願に対応するものであることが窺えるとした。

 後藤晃一はキリスト教布教の様相を特に信心メダルの分析を通して考察した。信心メダルは1590年頃を境に様相が変化する。1590年以前は鉛・錫製の日本製であるが、以降は日本以外のアジア製・西洋製で真鍮製が増える。特にアジア製がかなり見られることが注目される。この点で17世紀初頭の岩手県出土・伝来の信心メダルが注目される。

 遠藤栄一はキリシタン武士後藤寿庵の知行地である奥州市水沢地内で発見・伝世された信心メダルを中心に報告・考察した。知行地内の遺跡から出土したメダル等の遺物、さらに伝世されたメダルなど、その数は多くはないが17世紀初頭から始まる布教と対応するキリシタン遺物であることを指摘し、今後の東北地方におけるキリシタン研究の足掛かりを与えた。

       (宮城大会実行委員会   佐々木和博)