2025年度新潟大会報告
2025年度の新潟大会は、2025年10月25日(土)、26日(日)、27日(月)の3日間にわたって、新潟市民プラザホール(25日)、新潟医療福祉大学(26日)、佐渡島(27日)で開催された。新潟大会の開催は、32年前の1993年度大会以来である。開催方法は、対面とオンライン配信によるハイブリッド方式がとられた。期間中は一時しぐれることもあったが、概ね天候に恵まれ、盛況な大会となった。参加者数は対面でのべ359名(正会員1197名・賛助会員3名・一般159名)、オンラインでは公開講演会・第3分科会(1日目)152名、各分科会は第1:83名、第2:94名、第3:104名、第4:65名であった(複数の会場で参加された方は、各会場で人数に集計した)。会場参加者数は、会員の居住地からの距離の問題もあり、比較の対象にならないが、オンラインでの参加者数は、前年度に比べて増えている。
25日の会場である新潟市民プラザホールは、新潟の江戸時代の旧市街にあたる新潟島の中心部、古町に位置する。開会行事と公開講演会は藤沢敦理事の司会のもと進められた。最初に石川日出志日本考古学協会会長の挨拶、次いで小熊博史大会実行委員長、最後に26日の会場である新潟医療福祉大学を代表して医療福祉研究科保健学専攻人類学分野長の奈良貴史氏があいさつを行った。
公開講演会では、沢田敦新潟県考古学会副会長の講師紹介のあと、新潟県考古学会長小熊博史氏が、「新潟縄文研究事情-考古学史を振り返る-」と題して講演Ⅰを行った。江戸時代に始まり明治・大正・昭和・平成を経て令和の現在にまで続く、新潟県内の縄文時代に関わる調査研究のあゆみを、学会の動向とともに紹介された。次いで、森貴教実行委員会副委員長の講師紹介のもと奈良大学名誉教授で新潟市歴史博物館みなとぴあ館長の坂井秀弥氏が、「越後・佐渡の風土と古代史の展開」と題して講演Ⅱを行った。講演では越後と佐渡の人口・生産力を比較し、佐渡が越後より人口密度が高く多くの郷が設置されたこと、乙巳の変のあと渟足柵と磐舟柵が設けられた背景や存在の根拠は示されたがまだ未発見なことなどについて紹介された。講演会ののち、同じ会場で第3分科会が開始された。
1日目の夜には、旧市街地「古町」のホテルイタリア軒ゴンドリーナで情報交換会(懇親会)が開催された。多くの新潟県考古学会の会員を含む105名が一堂に会し和やかな宴が催された。会場には、新潟県考古学会の会員の方々が持ち寄った県内の日本酒の銘酒が10種類以上用意されていたのに加え、みなと町新潟が誇る伝統文化、「新潟古町芸妓」による日本舞踊や座敷遊びが披露された。
用意された分科会は、4つである。会場を新潟医療福祉大学に移して、2日目は9時スタートで、16時30分頃まで熱心に発表と討論が続いた。
第1分科会は、「ヒスイ原産地から見た縄文~古墳時代のヒスイの加熱処理と玉製作」で、新潟県糸魚川流域のヒスイ原産地から製品や素材がどのように消費地にもたらされたかについて、研究発表・討論が行われた。対象となる時期は縄文時代から古墳時代という長期に及んでいる。本研究は2022年から共同研究が開始されており、実験や分析、地域研究が積み重ねられていた。本分科会により、ヒスイに加熱処理が実施されていることが実証的に示され、今後の研究においては、加熱処理の存在を前提にした分析や考察が必要であることが提示された。
第2分科会は、「縄文時代に火葬があったのか?」で、石川日出志氏が1988年の「縄文・弥生時代の焼人骨」の論考で全国21遺跡と報告されて以来、現在全国で90遺跡の例が報告されている中で、あらためて焼人骨の意義、火葬があったのかについて、報告・議論が進められた。
前日にスタートを切った第3分科会は、「弥生時代後期~古墳時代前期の土器の変化と各地の併行関係」で、1993年の新潟大会シンポジウム「東日本における古墳出現過程の再検討」の所謂「新潟シンポ編年」をもとにした土器の編年のその後の状況について前日の2本の基調講演に続いて東北南部から近畿中央部まで東北2地域、北陸2地域、関東2地域、東海地域、近畿3地域の編年について報告があった。討論では各地の併行関係を示す資料について意見交換はあったが、本来の目的である土器からみた社会の変化までは見えてこない。なお、編年案を記載した研究発表資料集とは別に、各地の編年に用いられる遺構等出土資料をまとめた土器編年基準資料集が刊行された。
第4分科会は「古代の越後と出羽-律令体制の浸透と地域社会-」で、7~9世紀を対象に、出羽3地域と越後5地域の須恵器の出現・窯と製鉄の関係、食膳具・北陸型煮炊具の定着、関東系・多条沈線文・畿内系土器の有無、終末期古墳、集落の増加、竪穴と竈など共通検討項目を基本に各地域で発表があった。討論では、建物が竪穴と掘立柱の併用、いずれかに主体があるのか、立地する地形的・機能的な歴史環境との関わり合い、必要とされる施設の役割などの要因があげられた。また、移民・計画集落から囲郭集落・城柵への変化など、今後の分析課題が提示された。
2日目の会場では、10時~15時の間、昼食時にコアタイムを設けてポスターセッションが行われた。新潟県内の個人・団体・大学等各機関での調査・研究と活用を連携させた取り組みが25件と、研究環境検討委員会、社会科・歴史教科書等検討委員会(日本人類学会・日本旧石器学会連携)、埋蔵文化財保護対策委員会が発表した。ポスターセッションの会場に接して行われた図書交換会は、会場の都合もあり、出版社等による参加はご遠慮いただき、協会正会員による9件の出店と測量会社等によるデモ4件により実施された。また、学内の自然人類学研究所が開放され、全国から出土した縄文時代から近世までの各人骨などが公開された。また、埋文委による情報交換会も実施された。
26日の大会閉会直後に大学駐車場に着いたバスに乗車して、エクスカーション「祝!世界遺産登録 佐渡島を巡る2日間」は始まった。参加者は案内人の沢田敦氏を入れて総勢18名である。まずは、市内の割烹内田で懐石料理のお弁当(箱膳)をいただき、その後佐渡汽船が運航する新潟港へ移動した。19時前に乗船場へ着いたものの、1000人ほどの乗船客ですでに長蛇の列だった。新潟港から佐渡島の両津港まで2時間半で結ぶ1500人乗りのカーフェリーの2等船室はほぼ満室で、一行はフェリー4階の雨をしのげる後部甲板に陣取ることができた。時折小雨が混じるものの意外と寒くなく、一行は少しのアルコールとともに海の夜景を楽しみながらの懇親を深めた。なお、明日は海が荒れるのでフォリーは欠航になるかもしれないとのアナウンスには道行の不安を感じた。22時に港に到着し、その後宿に入り初日は終了した。2日目は、朝からしぐれ模様の天気だった。佐渡金銀山ガイダンス施設きらりうむ佐渡で鉱山の概要を学習し、安土桃山時代から江戸時代まで栄えた鉱山集落上相川地区を訪れ多数のひな壇が残される現状を見学したのち、観光坑道として一部公開されている宗太夫坑を見学した。当時の様子を人形を使ってわかりやすく伝えていた。鉱山を後にして、日本海に吹き付ける嵐の中、夫婦岩の見える三浦海岸で昼食をとった。昼食後、新穂歴史民俗資料館(休館日なのに開けていただいた)で佐渡の鉄石英による玉作り資料を見学し、佐渡ではじめて前方後円墳が見つかったと話題の秋津城崎古墳群を見学した。全長30mに満たない2基の前方後円墳と直径25~10mの5基ほどの円墳の墳丘と周溝を視認できた。15時に両津港にもどり、帰路はジェットフォイルと呼ばれる高速船で1時間余りの船旅を経て新潟港に着き解散となった。荒天の中、運よく屋外では曇天に恵まれ、とても勉強になる小旅行を経験できたこと、終始丁寧に解説頂いた沢田氏をはじめ各施設の関係者の方には感謝に堪えない。
今回の新潟大会では、新潟考古学会と新潟医療福祉大学の全面的な協力のもと、とても有意義な大会になった。関係者の努力に敬意を伝えるとともに、会場に足を運んでいただいた方々、オンラインで参加いただいた方々に感謝します。なお、本文の執筆にあたって各分科会に参加された理事の方々にご教示いただいた。
(総務担当理事 肥後弘幸)
2025年度新潟大会の概要
●第1分科会「ヒスイ原産地から見た縄文~古墳時代のヒスイの加熱処理と玉製作」
新潟県糸魚川市の小滝川硬玉産地および青海川硬玉原産地を原産とするヒスイが縄文時代前期から古墳時代にかけて全国に流通している。しかし、ヒスイ原産地である糸魚川地域(糸魚川市域に富山県朝日町周辺を含む)と消費地との間で製品や素材の供給方法に不明な点が多い。そこで、縄文時代から古墳時代におけるヒスイ原産地遺跡から見たヒスイ素材の流通に関する共同研究を行ってきた。研究を進めるなかで、ヒスイ原産地やヒスイ玉製作遺跡におけるヒスイ素材の製作工程段階と消費地出土のヒスイ玉及び未成品の状況が分かってきたと同時に、ヒスイの玉製作において加熱処理が行われた可能性が高まった。ヒスイの加熱処理については、既存の研究でも指摘自体はされてきたが、ヒスイ玉製作工程に加熱処理を具体的に位置づけた研究はなく、加熱処理を前提としたヒスイ玉製作の議論が必要と考えた。
本分科会では、ヒスイ原産地およびヒスイ玉製作遺跡のヒスイ玉製作において、加熱処理が用いられたことを明らかにする。あわせて、製作工程と加熱処理の関係を位置づけることで、ヒスイ原産地と原産地以外のヒスイ素材・製品およびヒスイ玉製作のあり方を検討することを目的とする。発表者は10名で、ヒスイの加熱処理について研究史と遺物の痕跡からの検討、自然科学分析による検討、縄文時代から古墳時代のヒスイ原産地周辺などの玉製作遺跡及び消費地での玉製作の検討などを行った。発表の詳細については、発表要旨及び資料集を確認いただきたい。
各発表の内容を受けて、ヒスイ玉製作における加熱処理、縄文時代のヒスイ玉製作、縄文時代から弥生時代のヒスイ玉製作の主に3つのテーマについて討論を行った。加熱処理については、3つに分類した被熱の可能性がある痕跡のうち、分類A(黒色のスス付着)・分類C(表面褐色化)については、SEM分析によって炭素が付着している点と、各時代の玉製作時の痕跡分析から加熱処理の結果の痕跡と評価した。分類B(白色風化)については、SEM分析では炭素の付着は確認できず、直接的に被熱痕跡と評価できないものの、加熱処理により表面が劣化した結果の可能性が指摘された。以上から、ヒスイ玉製作では加熱処理が行われた可能性が高いことが共通の認識として確認された。ヒスイ玉製作時に加熱処理が行われた理由としては、ヒスイ加熱実験試料のXRD分析の結果から、加熱によってヒスイが方沸石に組成変化することで軟弱化し、ヒスイの加工を簡易化することが目的と判断された。しかし、ヒスイの被熱痕跡は誤認される類似の痕跡が存在するため、加熱処理の判断にはXRD分析の実施や詳細な遺物観察などが必要であることが指摘された。また、出土資料を対象としたXRD分析数が少ない点や、方沸石が生成される温度などの条件は不明なため、今後さらなる資料の観察・分析や実験が必要であることが課題として挙げられた。ヒスイ玉製作工程における加熱処理は、縄文時代では打割段階・敲打段階・研磨段階で、弥生・古墳時代では打割段階・研磨段階に確認でき、縄文時代から古墳時代にかけて共通の技術として引き継がれてきた可能性を確認した。また、SEM分析や縄文時代の玉製作資料の観察から、穿孔時にも加熱処理の可能性が指摘された。各段階の加熱処理は目的によって加熱の度合いに違いがあることも指摘されており、今後さらなる資料の観察や実験により検討していく必要がある。会場の参加者から、ヒスイを加熱する行為は国際的にも日本特有の現象である点や、今後も各方面で多くの資料の調査・観察が続けられていくべきなどのコメントをいただいた。
次に、縄文時代の最も古いヒスイ利用の事例は、糸魚川市大角地遺跡で出土した前期前葉の敲石であり、これ以降ヒスイが道具として利用されたと考えられている。一方、玉としてのヒスイ利用は、原産地周辺では縄文時代中期前葉~中葉の糸魚川市六反田南遺跡でヒスイ玉製作を行った可能性があるものの、安定的なヒスイ玉製作は朝日町境A遺跡や糸魚川市長者ケ原遺跡など原産地周辺で中期中葉からである。一方、消費地では縄文時代前期後葉の玉が確認されており、原産地周辺より古い状況である。この点については、近年、六反田南遺跡などが沖積地から見つかっており、今後の調査によって沖積地の深いところから時期の古い遺跡が発見される可能性が指摘された。また、加熱処理が行われることでヒスイ玉製作の簡易化が可能であれば、原産地周辺以外の遠隔地でも玉製作が可能になると考えられ、消費地において縄文時代中期中葉以前のヒスイ玉製作遺跡が見つかる可能性もある。このことはヒスイ研究における視点の大きな変換となる。縄文時代中期前葉~中葉のヒスイ原産地周辺と東北や関東の消費地との関係についての議論では、原産地周辺では道具としての敲石のほかに、玉が製作可能な敲打段階の素材も複数存在するのに対し、消費地である関東では敲打段階から研磨段階の資料があることが示された。先述の加熱処理による遠隔地での玉製作が可能であれば、敲打段階の資料が原産地周辺から消費地へ供給され、消費地で研磨されて、玉製品となる可能性が確認された。今後は、玉製作を行っていたか不明確な六反田南遺跡についても敲石とは異なる敲打段階の資料が確認できることから、玉製作を行ったかの視点で資料も検討していく必要があると課題が示された。青森県三内丸山遺跡においても、原産地周辺遺跡から出土する多面体敲石と同形状のものが根付形大珠として製作された可能性が発表等でも指摘され、会場からも同意するコメントが得られた。また、遠隔地で加熱処理による玉製作が各地で行われたならば、その技術はどのようなネットワークによって伝わったのかという質問があった。ヒスイの加熱処理は原産地周辺で生み出された可能性もあるが、現状では消費地の方がヒスイの加工が先行する可能性もあるため、今後検討を進める必要があることが確認された。
弥生時代の管玉製作技術と共通する施溝分割は、目的により直線的に割る技術としてヒスイ勾玉製作技術の大きな画期として共通して評価できる一方で、縄文時代からの加熱処理を用いた打割や研磨は継続して利用されている。原産地周辺と消費地の生産体制や製作技術については、様々な考えがあり、古墳時代も含めて、各時代の状況についてさらに検討していく必要があることが確認された。
今回の研究発表によって、ヒスイの加熱処理を用いた玉製作は、製作技術だけでなく、玉製作遺跡の評価や各時代の玉生産体制にも影響する議論であることが確認された。そして、ヒスイ出土遺跡については、加熱処理を用いた玉製作という視点から分析を進め、ヒスイ玉を製作していたか、どの時期に行っていたか再評価する必要があることが、課題として複数挙げられた。今後はこの視点で各時代のヒスイ出土遺跡を検討していくことで、ヒスイの供給と玉製作、そして玉の需要との関係が分かり、時代ごとのヒスイ原産地周辺遺跡と消費地の玉生産と流通の状況と変化がより解明されていく可能性がある。
(新潟大会実行委員 金田拓也)
●第2分科会「縄文時代に火葬があったのか?」
第2分科会では「縄文時代に火葬があったのか?」と題して、日本人類学会骨考古学分科会・日本動物考古学会と共催で実施した。縄文時代の焼けた人骨については出土人骨の鑑定によって軟部組織が付着した状態で焼かれた可能性が指摘されてきたが、考古学では骨そのものを焼いたとの見方が優勢な状況であった。新潟県の焼人骨については糸魚川市寺地遺跡で出土し、その後も出土事例が増えていた。近年、新潟県阿賀野市土橋遺跡では単独の焼人骨、村上市上野遺跡では集積した焼人骨が出土し、理化学的な分析や詳細な観察・実験がなされ、これまでの研究から進展がみられるようになった。このような新潟県の動向を踏まえて、群馬県長野原町居家以岩陰遺跡の出土人骨のあり方や焼獣骨との関係を巡る研究を加えた内容を企画し、開催した。
奈良貴史氏が趣旨説明をした後に、谷口康浩氏が遺体の取り扱いに関する居家以岩陰遺跡の出土人骨や最近の研究、状況について述べた。縄文時代の焼人骨が出土した遺跡の事例として、土橋遺跡について村上章久氏、上野遺跡については加藤元康氏が遺跡の概要や出土焼人骨等について紹介した。古澤妥史氏は土橋遺跡C316焼人骨の詳細な観察による所見を述べた。米田穣氏は700℃以上で焼かれた焼人骨(煆焼骨)の放射性炭素年代の精度化に向けた取組みや分析結果について報告し、逢坂暖氏が骨組織のダメージ(バイオエロ―ジョン)を電子顕微鏡で観察することによって腐敗の有無を鑑定する方法について、土橋遺跡や上野遺跡の出土焼骨の分析を例に発表した。焼人骨が増加する同時期に見られる焼獣骨との関係について、阿部友寿氏が焼人骨と焼獣骨の共伴事例や出土状況の関係性から状況を述べ、今後の課題が整理された。
時間の都合上で打ち切ることとなった発表について内容を補足し、会場から受けた質問に回答し、奈良貴史氏・宮尾亨氏を司会に討論を実施した。焼人骨に関わる用語の定義や被熱骨の色調の変化等の追加説明を行い、討論の土台となる基礎的な確認作業を行った。縄文時代の遺体の取り扱いの多様化や焼獣骨について骨組織の観察から得られる情報などその可能性について話題となり、上野遺跡の年代測定結果に関する上野遺跡の今後の課題などを議論した。最後に石川日出志氏から総括コメントを頂き、閉会した。
縄文時代の焼人骨については、研究課題の中心として、考古学と人類学が集ってまとまった議論がなされずに進められてきた研究動向のなかで、両方の学問の面から本課題に接近した有意義な分科会であった。
(新潟大会実行委員会)
●第3分科会「弥生時代後期~古墳時代前期の土器の変化と各地の併行」
1993年日本考古学協会新潟大会で甘粕 健氏を代表とする実行委員会のもとに開催された「東日本における古墳出現課程の再検討」で、集落、墳墓の変遷から標題の検討にあたり、共通の時間軸となるよう北陸南西部の漆町編年と東海・尾張の廻間編年という土器編年を基軸に設定されたのが、いわゆる「新潟シンポ編年」であった。そのインパクトは大きく、その後に開催された東日本における古墳出現期のシンポジウムでは、前方後円墳集成編年とともに各地域の併行関係で微妙なズレを含みつつ併用される期間が続いた。
新潟シンポ編年の設定から30年余りが経過し、その間の発掘調査によって資料は着実に累積されていくが、新たな資料を踏まえた地域での編年や各地域との併行関係の追求は、特に東日本では活発とは言い難い。一方で、1990年代から蓄積された甕形土器(土鍋)(以下、「形土器」を省略)のスス・コゲの観察や、飲食器と想定される高杯や鉢の形態や大きさの変化に基づく土器の機能を追求する研究が進んでいるが、十分な広がりを見せていない。
土器の編年や画期と地域性、機能の変化から当時の社会の変化を語ることはできないのか。未だ東日本の一部で共通言語となっている新潟シンポ編年を蓄積した資料から改めて問い直し、東北~畿内までの広域編年を確立するとともに、土器から社会の変化を読み取れるか。改めて土器研究の可能性を考えるため、当分科会のみ2日間の開催とさせていただき、発表と討論を行った。
初日は滝沢による趣旨説明ののち、小林正史氏の「食器の使い分けにみられる弥生時代~古墳時代前期への変化」として、大枠での変遷を提示いただいた。2日目には、野田豊文氏「新潟県北部における弥生時代後期の東北系土器群」に続き、青山博樹氏・神林幸太郎氏「東北南部の会津」、相田泰臣氏「北陸北東部・越後平野」、中江隆英氏・安中哲徳氏「北陸南西部・加賀」、深澤敦仁氏「関東北部・上野」、小橋健司氏「東京湾東岸」、早野浩二氏「東海・濃尾平野」、中居和志氏「近江」、桐井理揮氏「近畿北部」、市村慎太郎氏「中河内」の計10本の報告をいただいた。報告にあたり、新潟シンポ編年から一度離れ、各地域における土器の変遷を検討し、その成果を発表いただいた。報告にあたり、細別器種の変遷を示した編年図に加え、高杯と甕の法量図の提示、編年基準資料と共伴する他地域の土器・外来系土器から他地域との併行関係の提示をお願いした。また、土器変遷図のみからでは読み取れない細かな議論ができるよう、本分科会有志で報告地域の『東北南部から近畿における古墳出現前後の土器編年基準資料』を作成した(以下、「資料集」という)。討論では、各地域の併行関係と甕(土鍋)と土器の変化の方向性を確認し、田嶋明人氏が提唱する「土器の推移にみる「社会史」との関連」の昇華に向け、進行は森岡秀人氏にお願いし、滝沢が加わった。
討論では、開催会場の画面に各地域の土器編年併行関係案(以下、「当日の併行関係案」という。)を示し、新「新潟シンポ編年」の提示に努めた。限られた時間内で広範囲かつ時期幅が広い時期の詳細を詰めるには至らなかった。このため、参加いただいた方々は多分に消化不良であったと私考するが、以下では当日の議論を通じて得られた成果と、検討課題等をピックアップして記述する。多分に未消化部分を含むが、時期は新・新潟シンポ編年に準じる。
弥生時代後期前半から古墳時代早期頃にあたる1期~6期あたりでは、改めて東京湾東岸で提示された併行関係として北陸地域の南中台式の併行関係が議論の対象となろう。豊富な資料から蓄積された詳細な当地域の編年は、関東地域では極めて細分が進んでおり、特に3期併行の山田橋式、4~6期併行の南中台式は4細分されており、特に南中台1-2式、同2-2式の併行関係について、引き続き議論を続けたい。関東北部・上野では資料集で編年検討の群馬地域に加え、それ以外の地域の併行関係資料が提示されるなど充実した内容である。深澤氏の土器変遷におけるフェーズの表現は学ぶところが多い一方、古墳時代前期古段階に時期幅が議論の対象となる。同じく深澤氏の古墳前期新段階、青山・神林両氏による会津地域の稲荷塚2c期・樋渡台畑1段階と9・10期あたりの併行関係が、資料集の充実に伴い古くて新しい課題として浮かび上がる。畿内以上に広域編年の核となる、東海・濃尾平野の早野氏の報告は、北陸南西部の漆町編年と共に神格化された廻間編年の多大な成果と課題を浮き彫りにしており、今後の併行関係の追及には不可欠な編年と考えている。時期呼称についても廻間編年からの変換時期とも思われる。
東日本が検討の中心ながら、畿内の中河内、近畿北部、近江の3地域で土器の変遷が示されたことから、改めて東日本では異例の地域となる北陸南西部・加賀における7期の畿内系への志向は、丹後地域はやや判然としないが、近畿北部と共通する部分の大きいことが確認された。市村氏による中河内編年の精度の高さ、桐井氏による近畿北部での丹後の高杯の製作技法、中居氏による東海・畿内・北陸を念頭においた編年の提示など、様々な点で今後の議論に向けた論点が盛り込まれた。これらの視点を踏まえ、あえて地元と表現する北陸(北東部・南西部)と新潟県北部の重要性を再認識して作業を続けたい。今回、時間の都合で発表・報告をお願いできなかった地域の検討を加え、北海道から畿内までの土器の併行関係の追及と社会性の抽出が各地域において活性化することが期待される。
田嶋明人氏による土器の推移にみる「社会史」との関連については、これまで注目度が高くなかった食膳具と考えられる高杯・鉢の形態・大きさの推移、やや難解な甕(土鍋)の使用痕跡が困難な場合は形態変化を追及することで、畿内・布留式とされる様式内で大きな変化の可能性が垣間見られ、最初に着手すべき論点と考える。
(新潟大会実行委員 滝沢規朗)
●第4分科会「古代の越後と出羽-律令体制の浸透と地域社会-」
第4分科会は「古代の越後と出羽-律令体制の浸透と地域社会-」をテーマに開催した。
出羽国は越後国の北に接する国で、和銅元年(708)に越後国内に設置された出羽郡を母体とし、和銅五年(712)に建国され、直後に最上郡・置賜郡が陸奥国から出羽国に分割された。その後、出羽国は東山道に属する国となったが、両国には共通する考古資料が多い。また、両国とも城柵が設置された日本海側の国である。本分科会では、主に7~9世紀を対象とし、両国の土器、集落・建物の様相、須恵器・鉄・塩の生産などの異同を検討し、両国の交流や各地の開発・地域経営の一端を明らかにするために、越後5地域、出羽3地域における地域様相の報告、地域の枠に捉われない考古学的事象についての報告を行った。
春日真実氏による趣旨説明の後、越後・頸城地域の様相を今井晃氏、越後・魚沼地域の様相を山崎忠良氏、越後・古志地域の様相を丸山一昭氏、越後・蒲原地域の様相を伊藤秀和氏、越後・阿賀北地域の様相を石垣義則氏、出羽・庄内平野の様相を渡部裕司氏、出羽・横手盆地の様相を島田祐悦氏、出羽・秋田平野の様相を神田和彦氏がそれぞれ報告を行った。各地域報告では、食膳具の須恵器化、煮炊具への須恵器技法の出現・定着のタイミング、集落消長や手工業生産の具体等について、最新の調査研究状況を踏まえて詳細が明らかにされた。その後、関東系譜の土器を田中祐樹氏、北陸型煮炊具の使用痕について小野本敦氏、文字資料からみた越後と出羽について相澤央氏が報告を行った。前述の地域報告を横糸に、各地域を跨いで認められる考古学的事象を縦糸とすることによって、テーマで掲げた越後・出羽における「律令体制の浸透」と「地域社会のあり方」を、より鮮明に描写することができたものと認識する。
討論では、春日真実氏・田中祐樹氏を司会に、基調講演をいただいた坂井秀弥氏にもパネラーとして参加いただき実施した。まず、日本海側城柵設置地域である越後、出羽が北陸型煮炊具、食膳具の須恵器化、建物形態等の考古学的な事象について、共通点が非常に多いことを改めて確認したうえで、研究が進む太平洋側城柵設置地域との相違について、福島県の菅原祥夫氏にコメントをいただいた。また、「北からの視点」として青山学院大学の岩井浩人氏や八戸市の宇部則保氏から津軽平野や八戸市周辺の様相についてコメントをいただいたことで、北陸型煮炊具の日本海側への普及を糸口に越後、出羽、北日本というより広域な地域をフィールドとする研究の必要性を再認識することとなったことは大きな成果といえる。
最後に、本分科会による取り組みはこれまで研究者間の交流が比較的希薄であった、佐渡・越後(新潟県)と出羽(山形県・秋田県)において、各地の交流や地域開発・地域経営などをテーマに共同研究を行う機会となり、大変意義深いものと考えている。
(新潟大会実行委員 田中祐樹)