2022年度福岡大会報告

 3年ぶりの対面開催となった2022年度福岡大会は、2022年10月8日(土)・9日(日)・10日(月)と3日間にわたり九州大学伊都キャンパスを会場にして、つつがなく開催することができた。コロナ禍で当初の予定より1年延期した開催であり、また開催方式は対面とオンライン配信というハイブリッド方式であったが、多くの対面参加者が来場し、大会は盛り上がった。参加者は対面では186名、オンラインでは公開講演会:244名、各分科会の最多人数として分科会1:248名、分科会2:332名、分科会3:129名であった。

 久々に来場された協会員の皆様が、各所で互いの近況報告をされており、やはり対面開催ならではの良さがあることが実感できた。来場していただいた協会員の皆様には、改めて御礼申し上げます。

 開会行事は、岩本崇理事の司会のもとに辻秀人日本考古学協会会長の挨拶、宮本一夫実行委員長のご挨拶が続き、最後に会場を提供していただいた石橋達朗九州大学総長より歓迎のご挨拶をいただいた。宮本一夫実行委員長のご挨拶の中には30年ぶりに九州大学で開催される大会への激励が込められており、これから開催される講演会や分科会への期待が高まった。

 開会行事後は、公開講演会に移行した。この公開講演会は本年度から協会が実施しているアウトリーチ活動「カフェde考古学」の一環として、一般視聴者にも配信され、約50名の方々に視聴していただいた。講演の1本目は実行委員長でもある宮本一夫先生が「弥生時代の始まりと実年代」と題して、近年の弥生時代開始時期の実年代論争に対して、ご自身の最新の研究成果を東アジアの視点で講演された。2本目は九州大学名誉教授の岩永省三先生による「展望:6・7世紀史の考古学的研究」と題したご講演で、これまでのご自身の発掘調査や研究に基づき、古代史に関する研究に関して国史学と考古学の学史を丹念にまとめられ、その成果と課題等を述べられた。その後、研究発表分科会が3つの会場で開始され趣旨説明と研究発表の一部がスタートした。以前であれば、この後に実行委員会主催の懇親会を開催するところであるが、コロナ禍では実施できず、1日目を終了した。

 2日目は初日に引き続き3つの研究発表分科会が行われた。分科会1は「海峡を挟んだ文化・社会の相似と相違」と題して、弥生時代を中心に日本列島と朝鮮半島との交流の実態と、その背景にあるそれぞれの社会の様相について、近年の成果に基づいた発表と討論がなされた。特に韓国から尹昊弼先生、李昌煕先生、鄭仁盛先生をお迎えしたので、研究発表やシンポジウムは日本語とハングルが混じる刺激的で国際的な分科会であった。

 分科会2は「古墳時代の親族関係と地域社会」と題して、故田中良之先生の親族構造モデルをたたき台とし、古墳時代の社会像や歴史像の理解には親族構造という視点が必要であるという方針のもと、威信財、儀礼、人骨、須恵器生産などのキーワードを中心に最新の研究成果が発表された。

 分科会3は「律令社会の変容と東アジアとの交流」と題して、中央政府とは異なる独自の動きを見せる九州のあり方を、東アジア視点と最新の発掘成果から議論された。大宰府の変容と博多における交易が、東アジアの国際情勢と密接に繋がる様を明らかにした。

 会場ではポスターの掲示が行われた。ポスターセッションでは従来の3委員会に加えて、今回の福岡大会の企画として、福岡県内の自治体による遺跡の調査研究や保存活用に関する取り組みが紹介され、多くの参加者がポスターの前に立ち止まり、市町村の担当者からの説明を熱心に聞いていた。市町村の担当者の多くは協会員ではないので、本協会との繋がりがこれまで希薄であったが、この発表を機に協会に関して興味をよせ、入会していただければと感じている。また、発表者である市町村同士がそれぞれの取り組みについて、互いに情報交換などを行っていた。なお、このポスターは協会のホームページに2週間という期間限定で公開しており、オンライン参加者も見ることができた。

 2日目の午後には埋蔵文化財保護対策委員会の情報交換会が開催され、佐賀大学の重藤輝行先生から「佐賀市七ヶ瀬遺跡(弥生時代墓地遺跡)の保存について」、朝倉市の姫野健太郎氏から「平成29年7月九州北部豪雨災害の復旧にかかる朝倉市の埋蔵文化財保護行政について」と題した話題を提供していただいた。また各地からの情報も対面およびオンラインで寄せられ、盛況な会となった。

 3日目は糸島半島に所在する遺跡をバスで巡る見学会を実施した。21名の参加者に福岡市より大塚紀宜氏、糸島市より江崎靖隆氏の2名が添乗員として加わり、元寇防塁、九州大学石ケ原古墳跡展望展示室、元岡G-1・G-6号墳、志登支石墓群、伊都国歴史博物館、平原遺跡、今宿大塚古墳、山の鼻古墳を見学した。当日は曇り空で少し北風が吹いていたが、はじめに訪れた今津の元寇防塁では、松林と波の音が遺跡の雰囲気を高め、参加者は鎌倉武者の戦いの様相に思いを馳せていた。今回会場となった九州大学伊都キャンパス内には数多くの遺跡が所在しており、石ケ原古墳跡展望展示室では調査担当であった福岡市の大塚氏と、実行委員長の宮本先生には、予定時間を超え熱心に遺跡の紹介をしていただいた。その後は、志登支石墓群や平原遺跡などを見学し、夕方前に見学会を終えた。参加者からは九州、また福岡ならではの遺跡を堪能できたとの感想を聞くことができた。

 福岡大会は、九州大学、福岡大学、福岡県、福岡市、糸島市に所属しているメンバーを中心にオール福岡の体制で、協会の大会を3年ぶりに対面にて開催することができた。会場まで足を運んでいただいた皆様に感謝するとともに、オンラインで参加していただいた皆様には、是非、機会を見つけて福岡を訪ねていただければと思います。また、3名の韓国の先生方が来日され、コロナ禍で中断していた国際共同研究の再スタートが切られた大会でもあります。そのような意味で、福岡大会は日本考古学協会の活動がコロナ禍の次のステップに繋がる切っ掛けになったと思っています。最後に大会にご協力いただいた皆様と参加していただいた皆様に深く感謝申し上げます。

 学会は対面が良いですね。 

(総務担当理事 田尻義了)

2022年度福岡大会の概要

分科会1「海峡を挟んだ文化・社会の相似と相違」

 分科会1では弥生時代の九州と、それに併行する時期の韓半島の文化・社会の相似と相違について討論した。玄界灘をめぐる両地域では、弥生時代を通して交流が行われているが、「交流」と一言で呼ばれることの実態は、移住、交易、外交など各段階で内容や比重が相当に異なっている。この変化の背景には相互の社会の在り方が横たわっているため、相互の社会の共通点や差異点を再確認することとした。

 尹昊弼は青銅器時代を駅三洞・欣岩里類型までを前期、松菊里類型・検丹里類型・泉田里類型を後期と分離し、その社会相について述べた。前期では住居内の隅に貯蔵穴や大型壺が設置され、貯蔵施設は集落の共同貯蔵施設がなく、住居ごとに設置されることから家族中心の生産活動が行われたものとみられるのに対し、後期では集落の規模が大きくなるとともに環濠や貯蔵施設が集中的に設置されるなどの変化がみられる。墓も後期に階層化が進展するが、集落や農耕活動と関連性があると考えられるとする。

 端野晋平は墓地から弥生時代開始期の社会を考察した。弥生時代前期前葉までの墓地では一見「階層上位」表示にみえる「手の込んだ」属性と、そうでもない属性が組み合わさるというミスマッチな状況がうかがわれるため、この時期の墓地間の差異は階層差ではなく、職能や性別・年齢といった水平区分の表示であるとみなし、部族社会の範疇を超えるものではないとみた。また、交流の様相を二段階に分け第1段階の要因を寒冷化に伴う生産力の低下、第2段階の要因を温暖化に伴う洪水の頻発に求め、第1段階の人間関係のネットワークが第2段階の渡来の基盤となったものとみた。

 李昌熙は粘土帯土器文化が韓半島に流入する際の在地民と移住民の接触について論じた。松菊里類型と円形粘土帯文化は200~300年程度重複しており、錦江・万頃江流域では松菊里類型と円形粘土帯土器文化の集落は排他的な分布を示すという。この時期の細形銅剣文化に代表される木棺墓葬送儀礼では祭祀長や司祭の役割を担った最高位の人物が生前着装していたものを副葬する「着装用儀器の質的表出」とみて、前の時代の農業経済の派生物とみられる労働と協業が重要視された墓域支石墓や、後の時代の原三国時代の「実用利器の量的表出」とは異なるものとみた。

 山崎賴人は日本列島における粘土帯土器や変容土器の在り方を通して日韓交流と社会の関係について述べた。円形粘土帯土器と三角形粘土帯土器ではやや分布を異にするが、これと弥生中期後半における各平野での大規模集落形成に代表される社会の再編・複雑化を関連付けた。北部九州内でも玄界灘沿岸では円形粘土帯土器と三角形粘土帯土器の出土様相は連続しないため対外交流の整備・序列化が進行したものとみた一方、有明海沿岸では出土様相が連続するため、伝統的な対外交渉ルートを保持しつつ東アジア世界での新たな位置を模索していたと指摘した。

 鄭仁盛は原三国時代の地域間交流について主に中国との関係を中心に論じた。近年の漢江流域における金製耳飾や銅柄鉄長剣など夫余系遺物の出土は、山東地域で生産された白陶の分布との関連がみられるとし、白陶を流通させた交易勢力の活動によって夫余系遺物が搬入されたと考えた。鋳造鉄鋤には龍淵洞式と亀基村式の2種があるが、弁辰韓における龍淵洞式は衛満朝鮮との関係がみられ、亀基村式は山東地域との関係が考えられるので三韓地域における鉄器国産化は多層的であったと指摘した。

 高久健二は楽浪郡、三韓、倭の交易と社会変化の関係について論じた。大楽浪郡が成立すると長距離交易により前漢鏡など特定の漢式遺物が交易品として北部九州に流入するが弁・辰韓が中継地点となった。このとき互市において東夷の特産物と銅鏡の交換財として五銖銭が用いられたと推定した。後漢に入ると辰韓や倭が正式な冊封体制に組み込まれたことにより長距離交易に強い統制が加えられ銅鏡の流通が変化したので、倭は陸路に加え海路も利用して銅鏡を直接的な朝貢で入手するようになったと指摘した。

 討論では端野が示した北部九州での事例のように、嶺南地域の支石墓でも墓自体の規模と副葬品の質や量が連動しないという共通性が指摘された。また弥生時代開始期の移住の要因として尹昊弼より松菊里文化の領域拡大化との関連も示された。松菊里文化と粘土帯土器文化の重複については会場からも注目された事項であったが、李昌熙により遺構内共伴が複数例確認されることが示された。

 原三国時代については鄭仁盛、高久の両氏とも海路の発達について取り上げていた。このような航海路は、山崎が指摘した粘土帯土器出土遺跡と海路との関係に示されるように、その原型が粘土帯土器の段階には遡るものと考えられるが、支石墓社会の段階では日韓間で安定的な航路があったとは考え難い。李昌熙は流入した粘土帯土器人は内陸志向であったと指摘している。そうであれば、粘土帯土器人は在地民と交わる中で、ある時点に海洋に進出し、安定的な航路を構築したものと思われるが、その成立過程は時期的に見て国の成立と関わるのではないかと予測される。今回の分科会では時間の都合で、弥生時代前期末・中期初頭頃の国の成立と韓半島との関係について十分に討論できなかったことが大変残念であったが、今後の検討の深化に期待したいと思う。 

(福岡大会実行委員会 古澤義久)

 

分科会2「古墳時代の親族関係と地域社会」

 本分科会は、古墳時代の社会像・時代像・歴史像を考える上で、親族関係と地域社会という観点が有効であるという立場から議論を行うものである。7名の報告者により、古墳時代の広域的秩序の実態について、親族関係および地域社会という観点を共有しながら、多角的に読み解く試みであった。

 辻田報告は、古墳時代における威信財授受について、双系的親族関係を基礎とする3・4世紀代から父系化が進展する5・6世紀代にかけて、地域集団への授受から古墳被葬者個人への授受へという変遷が認められる点について検討し、古代国家形成過程における意義について考察した。岩永報告は、初日の記念講演に続いて、古墳時代の親族関係の通時的変遷と古代国家形成過程に関する包括的な理論的整理を行った上で、九州南部地域や東北南部地域といった近畿からの遠隔地同士の比較検討を行うことで、古墳時代における各地の発展様相の地域的偏差について明らかにした。舟橋報告は、古墳時代の親族関係と葬送儀礼について、出土人骨を用いた考古学的・人類学的成果と課題について整理した。親族関係の復元については方法論上の課題、また葬送儀礼に関しては、服喪抜歯・断体儀礼・改葬といった問題について、特に古墳時代後期以降の地域社会の変容といった観点から具体的な展望を示した。高椋・米元報告は、九州の資料を中心として、各地の古墳時代人骨の頭蓋形質について検討を行い、弥生時代以来の高顔・高眼窩傾向が強い北部九州と、それ以外の地域で縄文時代集団と同様の偏差パターンを示すあり方の違いなどを明らかにしつつ、地域間の人的・物的交流のあり方に関する考古学的研究の成果との接続を行った。吉村報告は九州南部で盛行した地下式横穴墓の出土人骨および副葬品に関する検討から、田中良之氏のいう基本モデルⅠが継続するあり方や、女性被葬者の位置づけについて考察した。菱田報告では、主に古墳時代後期の須恵器生産を対象として検討を行った。須恵器生産にみられる生産関係が親族関係および氏族認識を基礎としており、ミヤケ制・部民制の展開と重なりながら古代国家形成の基盤をなしたことを論ずるとともに、考古学的成果と文献史学の成果の接合・統合により、地域社会と古代国家形成の実態が示された。

 以上のような各報告をふまえ、討論においては、各報告の内容を横断した総括的な議論が行われた。具体的には、①古墳時代の親族関係の復元と方法論として、田中氏のモデルとその後、また歯冠計測値やDNA分析の現状などについて、②古墳時代の親族関係と儀礼に関して、人骨の出土状況と儀礼認定の方法論など、③古墳文化・人骨形質の地域性発現の要因・背景および九州南部と関東・東北との対比、④親族関係と諸生産として、主に6世紀代以降生産集団が父系に編成されることの意義やミヤケ制・国造制・部民制の施行地域と非施行地域の違いなどが議論された。多岐にわたる論点や課題とともに、古代国家形成を論ずる上での親族関係や地域社会の観点の有効性について、理論的・方法論的・実践的な展望が示されたことが成果といえよう。

(福岡大会実行委員会 辻田淳一郎・舟橋京子)

 

分科会3「律令社会の変容と東アジアとの交流」

 分科会3では考古学から律令社会の変容をどう読みとれるのか、特に大陸・半島に近接し、地理的な影響を受ける西海道において、大宰府・鴻臚館の存在する福岡平野は日本とアジアとの関係、律令社会の変容を読み取る上での重要モデルとなることから、考古学視点からのモデルの構築に向けた試行的取組となった。対象時期は律令制転換期、新たな東アジア世界の成立期、9・10世紀を中心とした。

 大宰府は、東アジアを中心とする対外情勢や国内の政治動向にも密接に関わりながら推移した。だが、あらためて大宰府の歴史的位置を確認する時、大宰府政庁におけるⅡ期とⅢ期の間、つまり律令制成立から藤原純友の乱による焼失までの2世紀を超える時間の経過は、その政治機能や施設の在り方を変容させるには十分であった。特に平安時代の9世紀以降、激動の東アジア情勢を背景とする新たな国際社会の成立は、大宰府の政治機能に直接関わる命題となって管内諸国にも影響を与えていったことは確かである。では、その間、大宰府あるいは諸国において、政治機能を具現化した官衙施設はどのように推移し、地域社会はどのように変容したのであろうか。

 桃﨑祐輔氏による趣旨説明では、律令崩壊期とされる9・10世紀の大宰府政庁・筑後国府・鴻臚館の大規模再建と国際情勢の関係解明が提言された後、菅波正人氏より「国際貿易都市の成立―鴻臚館から博多へ―」と題し、対外関係の変化と律令体制の転換期とされる9~10世紀における、外交・貿易の最前線であった鴻臚館の変容と貿易の様相を整理し、地域社会への影響について検討された。また、鴻臚館から博多への貿易の拠点の移行期の様相にも触れ、古代大宰府の終焉、国際貿易都市博多の成立について論じられた。

 杉原敏之氏より「大宰府管内における官衙の構造変容」と題し、律令制の転換期と認識される9世紀から10世紀の大宰府管内において、比較的情報が集積されている、大宰府を中心とする九州北部の官衙遺跡を対象として、官衙の空間構成と時期変遷から構造的検討が行われた。そして、大宰府管内における官衙の動態と藤原純友の乱後の10世紀の大宰府政庁再整備の歴史的背景について論じられた。

 桃﨑祐輔氏より「考古資料からみた9・10世紀地域社会の変容」と題し、特に藤原純友の乱後の状況に着目し、摂関政治・国風文化は九州に適用できず、相島沖海底の「警固」銘瓦に代表される筑紫の平安期瓦は新羅末・高麗初期の特異な円筒桶技法と高麗風瓦当文、文字銘・格子目混合文の導入、周防・平安京への搬入、高麗陶磁との連動、呉越・銭弘俶の天台山国清寺の逸失経典収集と天台僧日延・大浦寺の通行と呉越・北宋越磁の舶載、新来の天台教義と山岳寺院での異国的な木彫仏の展開、後三国後百済の大宰府遣使と筥崎宮創建、大宰府官人を二分する大蔵(原田)氏と筥崎秦氏、海の中道遺跡漁撈具中の対馬対州鉱山の鉛を使用した鉛錘や新羅土器が示唆する対馬銀鉱との関係、平安京で牽牛として珍重された壱岐筑紫牛や肥前宇野御厨牛と、刀伊入寇時に活躍する萌芽期の武士等々、多岐にわたる史資料を検討し、これらを包摂した総論の必要性が論じられた。

 田中史生氏より「9~10世紀日本の東アジアとの交流」と題し、日本が9~10世紀の東アジア情勢にどう向き合ったかを、特に8世紀からの展開・変化に着目し、その時代的特質が論じられた。9世紀の日本は新たな対外的論理や海商がもたらした新たな国際交流環境に支えられていたこと、特に海商活動は国際交易の地域的・階層的拡大ももたらし、律令国家が対外政策のなかで体系化した中心・周縁関係は相対化の波にさらされていたことが指摘された。

 討論では大庭康時氏が加わり、地域社会の変化と画期をどう捉えることができるのかを検討した。これまで、先学によって様々な考古学的痕跡が取り上げられてきたが、官衙総体としての議論は少なかった。大宰府管内の官衙の動態としてみると、9世紀後半から10世紀は、官衙の建物構造をはじめとする施設の空間構成の解体・再編が行われたことが確認された。対外関係については、9世紀には外交使節の行き来が停滞し、鴻臚館、大宰府客館とも外交の場としての役割は低下し、9世紀後半以降、鴻臚館は中国系海商の活動の場に変容する様相が貿易陶磁器類の状況から確認された。特に福岡平野における初期貿易陶磁を多量に出土する官衙遺跡の出現もこうした流れの中で理解できる。また、近年注目されている長崎県大村市竹松遺跡を取り上げて、交易に関わる島嶼部の施設等の様々な動きなどについても検討された。これらの諸要素の検討から、10世紀後半以降、大宰府政庁の再建や筑後国府の移転継続など、官衙の象徴的空間が維持されていく、大宰府を中心とする西海道社会の特質について、管内支配と府官、受領の実態、交易との関わりなどについて、改めて考古学的視点から問い直した意義は大きい。また近年、気候変動から古代社会の動向を探る研究が注目され、特に9世紀の遺跡の動態に関する検討も進められているが、今回の議論では課題として残っており、それらも包摂した総論の必要性を実感している。

(福岡大会実行委員会 菅波正人)