2015年5月20日発行 149p ISSN 1340-8488 ISBN 978-4-642-09343-9
論 文
原田 幹 「石犂」の使用痕分析 -良渚文化における石製農具の機能(5)-
- はじめに
- Ⅰ.形態と用途の諸説
- Ⅱ.使用痕分析
- Ⅲ.石犂の使用痕と機能
- Ⅳ.農学的視点からみた破土器と石犂
- おわりに
論文要旨
本研究は、実験使用痕研究に基づいた分析により、良渚文化の石器の機能を推定し、農耕技術の実態を明らかにしようとする一連の研究のひとつである。
長江下流域の新石器時代後期良渚文化の「石犂」と呼ばれる石器は、その形態から耕起具の犂としての機能・用途が想定されてきた。本稿では、金属顕微鏡を用いた高倍率観察によって、微小光沢面、線状痕などの使用痕を観察し、石器の使用部位、着柄・装着方法、操作方法、作業対象物を推定した。
分析の結果、①草本植物に関係する微小光沢面を主とすること、②先端部を中心に土による光沢面に類似する荒れた光沢面がみられること、③刃が付けられた面(a面)では刃部だけでなく主面全体に植物による光沢面が分布するのに対し、④平坦な面(b面)では刃縁の狭い範囲に分布が限定されること、⑤刃部の線状痕は刃縁と平行する、といった特徴が認められた。
石器は平坦な面(b面)が器具に接する構造で、先端部の方向に石器を動かし、左右の刃部を用いて対象を切断する使用法が考えられた。使用痕の一部には土との接触が想定される光沢面がみられるが、その分布は限定的であり、直接土を対象とした耕起具ではなく、草本植物の切断に用いられた石器だと考えられる。
前稿で検討した「破土器」と同じように、石犂の使用痕も草本植物との関係が想定され、従来の耕起具とは異なる解釈が必要である。この点について、農学的な視点からのアプローチとして、東南アジア島嶼部の低湿平野で行われている無耕起農耕にみられる除草作業に着目し、破土器、石犂は、草本植物を根元で刈り取り、低湿地を切り開くための農具であったとする仮説を提示した。
実験的な検討など課題は多いが、本分析の成果は、従来の良渚文化における稲作農耕技術に関する理解を大きく変える可能性がある。
キーワード
- 対象時代 新石器時代
- 対象地域 中国、長江下流域、浙江省、江蘇省、上海市
- 研究対象 良渚文化、石犂、石器使用痕分析
pp.1–16
論 文
山崎 健 農耕開始期における漁撈活動の変化 ―伊勢湾奥部を事例として―
- はじめに
- Ⅰ.分析資料
- Ⅱ.漁場の推定
- Ⅲ.漁期の推定
- Ⅳ.農耕開始期における漁撈活動の変化
- Ⅴ.漁撈活動に携わった集団の検討
- おわりに
論文要旨
伊勢湾奥部に所在する、縄文時代晩期から弥生時代中期までの各遺跡(玉ノ井遺跡、高蔵遺跡、朝日遺跡、西志賀・平手町遺跡、一色青海遺跡)から出土した魚類遺存体を分析して、農耕開始期における漁撈活動の様相を明らかにした。
弥生時代の各遺跡における漁撈活動には、遺跡立地の違いが反映されていた。濃尾平野に所在する朝日遺跡、西志賀・平手町遺跡、一色青海遺跡では、沿岸域(汽水~内湾域)だけでなく、淡水域も主要な漁場として利用していた。漁場の変化は、平野が形成されて遺跡が低地に進出したことを反映して、沿岸漁撈に加えて内水面漁撈がおこなわれるようになったと推測される。海岸部に位置し海水魚類が獲得可能な資源環境においても、淡水魚類を積極的に獲得していることが特徴といえる。
一方、熱田台地に立地する高蔵遺跡では、淡水域を漁場としてほとんど利用していなかった。ただし、隣接する縄文時代晩期の玉ノ井遺跡と海面漁撈の漁期を比較すると、その季節は「夏秋季」から「冬春季」に変化しており、漁撈に費やしていた時間や労働力を他の生業活動にあてる必要が生じたため、縄文時代晩期では夏秋季におこなわれていた漁撈活動が冬春季に移ったものと推測された。ただし、低湿地を生業の場として利用していないため、高蔵遺跡では水田稲作をおこなっておらず、陸稲や畠作、製塩といった夏秋季の生業活動が想定される。
また、弥生時代の生業研究において重要な論点となる漁撈活動に携わった集団について検討し、朝日遺跡や高蔵遺跡では漁撈に特化した専業的な漁撈集団を想定するのは難しく、農耕にも漁撈にも従事する多様な生業集団であった可能性が高いことを指摘した。
キーワード
- 対象時代 縄文時代、弥生時代
- 対象地域 東海地方、愛知県、伊勢湾奥部
- 研究対象 魚類遺存体
pp.17–30
論 文
岡安光彦 原始和弓の起源
- はじめに
- Ⅰ.弓の分類
- Ⅱ.弓の分布
- Ⅲ.考察
- おわりに
論文要旨
本論の目的は,和弓の原型となった背丈をはるかに越える長大な漆塗りの丸木弓、原始和弓が日本列島に出現した経緯を、グローバルな観点から考察することにある。
世界の弓は、いくつかの類型に分類できるが、それらの分布は第一義的には自然環境に規定され、次いで歴史的・文化的に二次的な変異を受けた。原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は、太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。とくに、太平洋周辺の長大な弓の分布は、オーストロネシア語族の拡散域と非常によく重なるので、その拡散に彼らが強く関与していたことは明白である。源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは、初期のイネやブタ、丸木舟とともに、世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており、原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。
中国南部から極東への伝播経路は未解明だが、朝鮮半島では紀元前1世紀に、跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。5世紀に入ると、日本列島でもそれを祖形とする原始和弓が普及し始めるが、同時に半島と列島で同じ型式の長頸鏃が共有されるようになる。対高句麗・新羅戦に備えて、両者の間で弓と矢が統一された結果と考えられる。
問題として残るのは、原始和弓の上下非対称の構造が、いつどこで成立したかである。先に出現し祖形となった半島南部の長大弓が、上下非対称の弓だったことは大いにありうる。倭人は短下長上の木弓を使うとした『魏志倭人伝』の解釈には、いずれ変更が求められる可能性がある。
キーワード
- 対象時代 弥生時代 古墳時代 原三国時代
- 対象地域 日本列島 朝鮮半島南部 環太平洋地域
- 研究対象 弓 オーストロネシア語族の拡散 文化伝播
pp.31–52
論 文
新納 泉 誉田御廟山古墳の設計原理
- はじめに
- Ⅰ.誉田御廟山古墳をめぐる墳丘研究の経緯
- Ⅱ.設計原理の検討
- Ⅲ.設計手順の復元
- Ⅳ.従来の学説との関係
- Ⅴ.設計原理の継承と知識・技術の水準
論文要旨
前方後円墳の墳形研究が新しい時代を迎えている。岡山市造山古墳の測量により墳形をコンピュータ上で三次元的に捉えることが可能になり、航空レーザー計測の導入で測量の迅速化が達成され、陵墓古墳の詳細な再計測も実施されることになった。本論では、大規模な前方後円墳のなかでも、最も整った墳形をとどめる誉田御廟山古墳を取り上げ、その設計原理を明らかにしようと試みる。
誉田御廟山古墳は三段築成であり、後円部の半径は90歩で、段築のテラスの幅である6歩(8.4m)を基本単位に、外側から2:1:2:1:6:3の計15単位でつくられている。段築の高さは下から1(5歩):1(5歩):3(15歩)であり、6歩に対し2.5歩あがる、1:2.4という比で傾斜が定められている。前方部は後円部とは基本単位が異なっている。前方部はテラス幅である7.5歩を基本単位に、前端から2:1:2:1:4:2の計12単位でつくられている。段築の高さは下から1(6歩):1(6歩):2(12歩)となり、傾斜として7.5歩に対し3歩あがる、1:2.5という、後円部よりやや緩い比が用いられている。
実際の墳丘の設計においては、こうして組み立てられる基本設計と、構築にあたって適用される実施設計との二者が存在していた。基本設計の段階では墳丘長が292.5歩とされたが、要請される墳丘長300歩に合わせ、実施設計で後円部の平面形を主軸方向に引き伸ばすという変形がなされた。
以上の設計原理は、複雑ではあるが十分に記憶することのできる、文字や設計図に頼らない、非文字社会に特有のものであった。また、新たに古墳を築造する際には、原理の原則的な部分は継承されるとしても、それぞれの古墳の規模などに応じて、基本的には古墳ごとに新たに設計原理が構想されたと考えられる。歩を基準とした基本単位で長さと傾斜を定め、前方後円墳の全体の外形を組み立てるというこのような総合的な構想力こそ、美しい前方後円墳の形態を生みだす背景であったと考えられる。
キーワード
- 対象時代 古墳時代
- 対象地域 日本
- 研究対象 前方後円墳、墳丘、設計原理
pp.53–68
論 文
太田宏明 古墳時代における親族的紐帯関係と集団組織原理 -畿内地域における古墳被葬者の構成と群集墳形成過程の分析によって-
- はじめに
- Ⅰ.研究の現状と課題
- Ⅱ.古墳被葬者の構成に関する分析と検討
- Ⅲ.群集墳形成過程の分析
- Ⅳ.考察
- まとめ
論文要旨
本稿は、古墳被葬者の構成における年代的・階層的・系統的推移と群集墳の形成過程を分析し、古墳時代の親族的紐帯関係の推移と集団組織原理を推論したものである。
このため、Ⅰでは、古墳被葬者の構成を対象とした既往の研究について整理を行い、課題の把握と本稿で踏まえる視点を示した。
Ⅱでは、畿内地域における群集墳中の資料を対象として、古墳被葬者の構成について類型化を行い、各類型の年代的・階層的・系統的偏在性について整理を行った。この際、副葬品組成を指標として古墳被葬者の類型化を行い、墳墓において見られる各類型の被葬者の組み合わさり方、埋葬間隔に基づいて古墳被葬者の構成に関する類型の設定を行った。この結果、単葬、短期型同類複葬、短期型異類複葬、長期型同類複葬、長期型異類複葬、単葬型薄葬、短期型薄葬、長期型薄葬の8類型が設定できた。この上で、各類型の年代的、階層的、系統的偏在性の有無を確認した。これらの整理によって、上位階層から次第に、単葬から短期型同類複葬や短期型異類複葬への変化が見られ、さらに長期型同類複葬、長期型異類複葬が加わる状況を明らかにした。
Ⅲでは、群集墳や支群の形成過程の分析から、これらが規則性を持って出現している事と墓域として機能するのは50~70年と比較的短期間である点を指摘した。また、一つの古墳が埋葬施設として利用されるのは長くても二世代程度である事を指摘した。
ⅣではⅡ・Ⅲでの分析結果から、古墳時代における親族的紐帯関係の推移と集団組織原理を推論する作業を行った。この結果、当時の集団とは不安定で継続性に乏しい泡沫的な集団であった事を指摘し、単系出自規則のように集団の範囲が明確で、常に新しい成員を補充する仕組みによって形成されたものではない事、親族的紐帯関係についても定位家族的紐帯から生殖家族的紐帯への移行によって次世代の親族との絆が重視されるようになるものの、経営体としての家の一括継承原理や永続性を持つ直系家族は未成立であった事を指摘した。
キーワード
- 対象時代 古墳時代
- 対象地域 畿内地域
- 研究対象 古墳被葬者の構成 親族的紐帯関係 集団組織原理 群集墳
pp.69–90
論 文
関根達人・佐藤里穂 蝦夷刀の成立と変遷
- はじめに
- Ⅰ.問題の所在
- Ⅱ.蝦夷刀の定義と調査方法
- Ⅲ.蝦夷刀の成立
- Ⅳ.蝦夷刀の変遷
- Ⅴ.蝦夷拵の材質
- Ⅵ.蝦夷刀と日本刀
- Ⅶ.まとめ
論文要旨
「蝦夷刀」はアイヌ民族にとって単なる武器ではなく、威信財でもあった。それは副葬品や宗教的儀礼等に積極的に用いられ、時として「ツクナイ」と呼ばれる賠償品や担保ともなった。蝦夷刀は古くから注目されてきたにも関わらず、今日まで蝦夷刀そのものに対する研究は低調であった。またアイヌ民族は金・銀を好み刀装具にも多用したとの記録もあるが、実態は不明であった。本稿では、蝦夷刀の成立・変遷と地域性について検討し、併せて蛍光X線分析装置による材質分析を行った。
13世紀には角棟・平造の弯刀である蝦夷刀と樹皮巻の鞘や合わせものを特徴とする蝦夷拵が出現し、エムシアッと呼ばれる刀掛け帯もその段階で存在していた可能性が高い。一方で、14世紀までは古代刀の系譜を引く木柄の直刀が蝦夷刀と共存する過渡的な様相が看取された。15~16世紀には蝦夷拵の装飾性が増し、刀身は弯刀のみとなることから、蝦夷刀の確立は15世紀頃と考えた。また14~15世紀の蝦夷地では日本刀も一定数出土していることが確認できた。
蝦夷拵は14~15世紀には銅単体の刀装具が多く、16世紀以降、銀を用いた刀装具の割合が増加する。17世紀以降、蝦夷拵の装飾性は益々高くなり、18世紀にピークを迎える。
14世紀代の蝦夷拵は装飾性が低く日本刀も多く見られることから、刀は武器であったと考える。しかし16世紀以降、蝦夷刀は銀製刀装具による加飾が進み、儀礼用の「切れない刀」へと変化する。また北海道島における刀の出土本数は14~15世紀に最も多く、それ以降減り続ける。とりわけ日本刀は16世紀以降出土が激減している。コシャマインの戦い以後、アイヌの人々が日本刀を入手する機会は極端に減り、最終的にはシャクシャインの戦いの戦後処理として行われたと推測される武装解除により、アイヌの人々は利器(武器)としての刀を完全に失ったと言えよう。
18世紀以降、場所請負制の浸透によりアイヌ社会は次第に日本国内経済圏に組み込まれ、19世紀には蝦夷地の内国化とアイヌ民族に対する国民化政策が進められた。このような変化の中で儀礼刀化した蝦夷刀は、和人とアイヌあるいはアイヌ同士の社会的関係性を構築・修復する重要な役目を担っていたと言える。出土した蝦夷刀を通して、社会の様々な問題の解決法が、武器としての刀を用いた戦から、宝物たる刀による賠償・保証へと変わったことが確認できた。
キーワード
- 対象時代 中世・近世
- 対象地域 北海道
- 研究対象 刀、刀装具、アイヌ文化
pp.91–111
遺跡報告
油利 崇 高知海軍航空隊関連遺跡の調査
- はじめに
- Ⅰ.前浜掩体群の調査
- Ⅱ.耐弾通信所跡の調査
- おわりに
要 旨
高知県南国市には、アジア太平洋戦争中、高知海軍航空隊が置かれていた。高知海軍航空隊は、1944年3月に偵察搭乗員を養成する練習航空隊として開隊し、翌年3月には特攻基地へと移行した。戦後、航空隊の跡地は高知空港や高知大学農学部、高知工業高等専門学校などに変貌をとげたが、随所に当時の施設やその痕跡が戦争遺跡として残っている。なかでも田園に残る7基の掩体と農学部構内の耐弾通信所跡は代表的な存在である。
南国市教育委員会では、2006年に7基の掩体を市の史跡に指定、その後2012年には5号掩体の保存整備を進めるために事前の確認調査を実施した。2013年には、高知大学農学部キャンパス駐車場整備に先行して耐弾通信所跡の内容確認調査を行った。
掩体は敵の攻撃から航空機を守るための格納施設で、当時は中型15基、小型9基、W型17基の計41基が設置されていたとされる。その中で鉄筋コンクリート製の中型1基と小型6基が現存している。これまで外側からの観察が行われていたが、発掘調査によって内部の胴体部分が半地下式構造であったことやコンクリート基礎の形状が部位ごとに異なっていることなど、掩体の構造や構築手順の詳細が明らかとなった。併せて掩体建設の技術指導を行った富田高明氏の証言も得る機会に恵まれ、当時の状況についてより具体的に迫ることができた。
耐弾通信所跡は、農学部キャンパス北東隅に位置する。一辺65mの範囲に約1mの盛土がなされ、その中に4基の地下通信所が造られていたことが確認された。各通信所は非常に強固な鉄筋コンクリート造りで、基本的に規格が統一されているが、部屋割り等に差異が認められる。また、「引渡目録」との照合により、施設の用途についても具体像が得られつつある。
戦争体験者が減少し、人による継承が困難になりつつある中、モノによって戦争の実相を伝えていくことの重要性が増している。発掘調査によって、新たな事実が明らかになったことの意義は大きい。
キーワード
- 対象時代 アジア太平洋戦争末期
- 対象地域 高知県
- 研究対象 海軍航空隊、掩体、耐弾通信所跡
pp.113–124
書評
土生田純之 高田貫太著『古墳時代の日朝関係-新羅・百済・大加耶と倭の交渉史-』
pp.125–130
書 評
桃﨑祐輔 諫早直人著『東北アジアにおける騎馬文化の考古学的研究』
pp.131–138
書 評
高橋照彦 松本太郎著『東国の土器と官衙遺跡』
pp.139–144