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第8回日本考古学協会公開講座報告

 第8回を迎え恒例化した本協会の今年度の公開講座は、南国土佐を開催地として、高知大学人文学部第1会議室(所在地:高知県高知市曙町2−5−1)を会場に、2013年11月9日(土)午後1時から催された。テーマは「高知県南国市田村遺跡の世界−弥生・古代中世の田村遺跡 南国の大集落の意味を探る−」で、56人の参加者を数えた。田中良之会長、高知大学教授の清家章理事の挨拶から始まり、全国的にもよく知られた存在の田村遺跡に関する3本の最新の研究発表がグイグイとその魅力溢れる世界へと誘い、聴衆の市民からは的を射た質問も飛び交った。総合司会は、吉成承三氏((公財)高知県文化財団埋蔵文化財センター)が担った。

 出原恵三氏(同埋蔵文化財センター)の発表「弥生文化の成立と田村遺跡」は、弥生時代前期に焦点を当てつつも、巨大農耕集落跡の田村遺跡のこれまでの発掘調査成果を総括するものであり、田村の弥生像の特徴をよく示された有益な内容であった。田村遺跡は、1980〜2012年までに3度の大規模調査が実施されており、弥生時代のみでも480棟の竪穴建物が検出されている。初期農耕集落跡としても、盛期の農耕集落としても高知県内最大であり、事前調査範囲内に限ってもその集落構造がよく理解できるものである。前期集落に限定すれば、前期初頭段階のTa期に既に27,000uの広がりを有し、竪穴住居10、掘立柱建物16、墓が発掘され、広場を含め用途区分された空間構成が復元できる。大小一単位の展開も実に興味深く、また、遺物の極端な偏在がみられることも注目される(磨製石鏃・紡錘車など)。さらに、円形住居の起源としても検討されつつある松菊里型住居も当時としては初出に近いもので学史的にも貴重な存在であり、朝鮮半島系の土器・石器との関係などが推定される。前期前葉〜中葉のTb〜Td期には北400mの西見当地区に大きく移動し、100,000uの規模へと拡大する。600基以上の土坑群が遺構の主体を占める点が特異であり、チャート製ドリルの生産工房が検証されている。内壕・外壕の二条の環濠が見出され、36点にのぼる管状土錘の存在は注意されてよい。中間域で姿を現した弥生前期段階の小区画水田は、293筆約7,000uあり、畦越し灌漑水田の実態が判明している。高知県下では、縄文・弥生土器の共存関係として入田B式(縄文晩期土器)と入田1式(遠賀川式土器)の例が認められるが、田村遺跡では先行する土器が単純出土し、伝播の核となっていること、朝鮮無文土器の直接の影響を受けて成立している点など、瀬戸内の遠賀川式より古い可能性があり、検討の課題とする。石器では、前期最初頭から大型伐採斧や関門層群の石材の加工斧、北部九州系頁岩質砂岩製の石包丁が存在する。なぜかくも遠隔地の製品が入るのか。根刈り用石鎌約30点が既に前期中葉にみられることや前期初頭から100点を超える磨製石鏃が出土すること、さらに韓半島系の短冊形未製品を含め、きわめて大陸的要素の強い石器や九州系の石材もみられる現象をどう考えるか。田村遺跡は近年、南海道の遠賀川式土器の存在や時期的格差などから紀伊半島南部の弥生初期農耕集落との関係が考えられ、太平洋ルートによる水田稲作の伝播が想定される。多元的な列島農耕の広がりを考察する上で欠くことのできない遺跡であることが多くの人に周知された。

 池澤俊幸氏(同埋蔵文化財センター)による「古代中世の田村遺跡」は、喧伝されてきた弥生時代の田村像とはまた異なった世界の発掘成果を示したものである。8世紀〜9世紀前半では、地方官衙的様相の遺構・遺物に恵まれ、9世紀後半〜12世紀段階の集落も畿内産土器やグレードの高い陶磁器、京都近郊の緑釉陶器などを保有するもので、古代には全長17mに達する庇付建物など、主殿・脇殿・倉庫列ほか建物構成全体が坪単位を基本とするような傾向、条里との関係性がみられた。826年には神護寺領施入としてみえる「田村荘」があり、「古代景観そのものが巨大な文化財」との認識が披歴された。従来は伊予回りであったが、『続日本紀』養老2(718)年段階には阿波回りルートの出現が看取される点は、重大な基幹経路の変更を考えさせるもので注目されるが、その廃止を含めた紆余曲折に香長平野内での拠点の変化が反映されており、駅家の撤廃など南海道に係わる史料も順次紹介された。

 中世段階には、田村城館跡と屋敷群(家臣団居住域)が確認されており、「市場」「船戸」などの存在が想定されるなど、300m四方規模の居館は土佐細川氏(守護代)と関わる。出土札中には、15世紀前半の「大永」年間の紀年がみられる。物部川を射程に入れた立地や市場との関係は水運と通じた背景としての畿内があり、激動の中世後期を連想する。16世紀中頃を迎え、長宗我部氏覇権の頃はこの田村遺跡の活動は後退するようであり、戦国期後半には様相の急変がみられると言う。

 菊池直樹氏(同埋蔵文化財センター)の報告「田村遺跡の地質」は、通常拝聴し難い地質学・堆積学からのアプローチであり、理化学的なデータや地層解析からみた田村遺跡の立地条件は、初期農耕集落の地形選択がかなり意図的なものであることがよく理解された。北縁部における地質調査が全体構造究明への契機をなしており、物部川西部の新期扇状地は完新世の縄文海進に伴って形成されたもので、西側の平坦低地と東側の網状河川の縦列州の対比は興味深い。扇状地生成の高調期と低調期は把握すべき現象であり、鍵層的な微粒炭を含む黒色土の広がりは重要である。砂層には斜交層理から判読可能な古流向が二方向存在することに津波堆積物としてのイベントを読み取っている点は、近年の災害検証とも不可分な沿岸部地層研究の動向を反映したものと言える。田村遺跡は、凹線文土器の最大拡大期にこの灰色砂層上に営まれたものであり、津波氾濫後の盛行である点が気になった。テクトニクスが弥生遺跡に与える影響に踏み込んだ点は大変新鮮と言え、さらなる実証に期したい。ジオアーケーオロジーの立場からの田村遺跡研究はおそらく初めての試みと思われた。

 以上3つの報告を拝聴した後、司会に宮里修氏(同埋蔵文化財センター)を立て、座談会を行った。専ら田村遺跡の複合性や盛衰を各期の政治動向、交通事情、物流拠点の変動など様々な観点から地域史として、あるいは日本史や東アジア史の立場から検討を深化させた。国津と田村や土佐国衙、国分寺との関係、鎌倉時代後期の活動が落ち込むことの事由など、田村遺跡の動態に迫った。

 田村遺跡は、これまで空港拡張ジェット化段階の第1次調査(80年代)、延長化に伴う第2次調査(90年代)、北部域の高知南国自動車道建設に伴う調査、田村城館の範囲確定を目的とした南国市教育委員会による試掘確認調査など、目的や面積の異なる多くの発掘調査が実施されているが、系統的な報告を見聞したのは初めてのことであり、最後の挨拶で高倉洋彰副会長が「様々な遺構がセットで揃っている中世田村城館はまさしく『田村パターン』を訴えるものであり、この遺跡は通時的にみても高知の田村ではなく、四国の田村、西日本の田村である」と遺跡の重要性を締め括られたのが印象に残った。また、出原氏も縄文時代後期から近代戦争遺構(耐弾式通信施設、高知大学物部キャンパス内)に及ぶ田村遺跡周辺の文化遺産としての重要性を強調された。遺跡は研究者にとっては貴重な学術資料であるが、一方において一般市民が国民的な文化財として親しみ、歴史財産としての価値を享受すべき側面を持っており、研究・保存・活用の柱が地域の中で常々活性化される必要がある。改めてこうした催しを学会の事業として積極的に進めていく意義を感じ取った。考古学は、現代社会と地域を抜きにしては研究自体を前進できない。社会への開かれた還元活動はより正確で活用を含めた調査・研究の邁進力になるはずである。日本考古学協会が全国各地の地域に根ざした活動を幅広く行っていくには、こうした地域住民に開放された公開講座の占める役割は大変大きい。

 開催に向けてこの公開講座を主坦、全体を運営された大竹憲昭理事、会場をお世話され、進行にも気遣われた高知大学人文学部と清家章理事並びに関係者、講演や座談の主役を担われた高知県の埋蔵文化財センターの専門職員のみなさまには、厚くお礼申し上げたい。

(理事 森岡秀人)